日比谷公園、新宿御苑、上野恩賜公園の桜を撮りに来たが、満開は来週でしょう。
日比谷公園
園内のレストラン「松本楼」前の色付いたイチョウの木など、秋の景色が絵になる日比谷公園だが、春も「鶴の噴水」がある池周囲に桜の木が植えられていて満開の時期には多くの人が訪れます。
第一花壇に一本だけある桜、まだ五分咲き
丸の内のビル群を背景にした桜の木 「鶴の噴水」がある池周辺の桜はまだ2分咲き
新宿御苑
江戸時代、信濃高藤藩内藤家の下屋敷があった敷地跡が現在「新宿御苑」になっている、日本橋を起点とした甲州街道最初の宿場だが、後から出来た「宿」という事で(内藤藩の新しい宿)「内藤新宿」と呼ばれていた。
蛇足ながら、現在も伊勢丹本店近くにある「追分」と言う地名は甲州街道と青梅街道の分岐を言う。
園内にはソメイウヨシノ、ヤマザクラ、エドヒガン、オオシマザクラなど多くの種類の桜が植えられていたが、有名は枝垂れ桜はまだ蕾。
大木戸門から入り大木戸休憩所から見える内藤家の日本庭園「玉川屋」の面影を残す玉藻池、桜が満開でした
イギリス風景的庭園
オオシマザクラが満開
背景のビルはNTTの」アンテナ塔
ヒマラヤヒザクラ
新宿門
上野公園
花見の習慣は享保期八代将軍吉宗が庶民の憩いの場として飛鳥山、墨堤(隅田川)、上野に桜の木を植えさせたのが起源と言われますが、上野だけは徳川家菩提寺の為、音曲や飲酒は厳禁でした、
現在では飲酒OKの花見の名所となっています。
公園入口の「枝垂れ桜」は満開
園内の桜はまだ3分咲き 和服姿はもちろん、中国からの観光客です
桜に種類によっては満開の木も 清水堂前の枝垂れはまだ蕾
宴会中のグループも所どころに見受けられる
花が無いが気分は花見 このグループは花見席の準備中、仕事が終わってから盛り上がるのでしょう
外国人のグループも見受けられた、日本の花見を満喫してください
坂川の花桃
利根川と手賀川の合流地点から手賀沼に流れ込んだ水は、地下に埋められた通水管を通って流山で地表に出て、江戸川に注ぐ人工河川の「坂川」、この時期になると私の住む街を流れる川沿いに篤志家が植えた花桃が見ごろになります。
川の右岸に植えられた花桃に堤下に植えられた菜の花と水仙がアクセントを添えます
菜の花の中に望遠レンズを構える女性
花を愛でる人々 東京スカイツリー遠望
六義園の枝垂れ桜 http://teien.tokyo-park.or.jp/contents/info031.html
「大名庭園の枝垂れ桜」として有名な六義園、3月16日からライトアップが始まったと聞き出かけてきました。
徳川幕府第五代将軍綱吉の「側用人」から「老中」になった柳沢吉保の下屋敷跡の2万7千坪と言う広大な敷地は「回遊式築山泉水庭園」として、現在東京都の庭園として開放されています。
残念ながら「枝垂れ桜」はまだ蕾で、開花は1週間後位か?
満開となると桜の木の周囲は見物客で大混雑します 「枝垂れ桜」の蕾
玉藻の磯から見た「吹上茶屋」
渡月橋
吹上茶屋 吹上茶屋前の桜の古木
吟花亭跡前の枝垂れ桜 ツツジ茶屋
瀧見の茶屋
昨年の「枝垂れ桜のライトアップ」です 、3月30日に行きました
http://blog.goo.ne.jp/attaboy1019/e/a6314d16ab5fd309193898622e15bd0a
松戸宿河津桜まつり
江戸時代、松戸宿は日本橋を起点とした水戸街道(脇街道)で千住、新宿(にいじゅく)に次いで3番目の宿場町(本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠28軒)で、江戸への物資の集積地として賑わったが、江戸川には橋は架かっておらず対岸の金町との往来は船で渡る必要があった(矢切の渡しとは別)、現在、市内には往時と同じく運河「坂川」が流れており、河岸に植えられた河津桜が咲く時期になると「松戸宿坂川河津桜まつり」が開催されます。
今年は3月11、12日に開催され、地元の写真仲間と出かけてきました。
旧水戸街道に並行して流れる坂川右岸が会場
割った竹の中に地域の婦人会が作ったお雛さまが飾られいた
地理的に江戸川を超えると東京の為、外国人の住民も多い
夜はライトアップされるそうだが、それまで待てません
河岸には出店が並んでいた
近くのある松戸神社の赤い神橋が川面に映る 市内矢切地区は葱の産地、炭で焼いて販売中
写真仲間と 穏やかな天気のもと、人出も多い
戸定歴史館
徳川15代将軍慶喜の弟である昭武(水戸徳川家最後の藩主)の屋敷跡が戸定歴史館として松戸市の施設として残されており、梅の名所になっています。
同日、「河津桜まつり」会場に向かう前に行ってきました。
戸定邸の入口にて 明治17年に建てられた戸定邸(重文)、庭は国指定名勝になっている
開花前の桜の花の蜜を吸う鳥(鳥の名前は?) いつもは梅園に紅白の梅が咲く時期なのだが今年は変
阿夫利神社下社から大山寺へ
阿夫利神社上社から下社まで女坂を下り、大山寺を経てバス停に向かう。
我が家から見た丹沢山系と富士山、左端が今回登った大山
阿夫利神社下社(標高730m)から女坂を下って大山寺に向かいます
階段を下ると茶店が1軒あった
時代を感じさせる石積みの階段
下る途中、ケーブルカーが登ってきた
雨降山大山寺
創建は天平勝宝7年(755)、真言宗大覚寺派の寺院にして阿夫利神社の別当寺、社伝によると慶長9年(1604)、徳川第二代将軍秀忠の時代、三代将軍をめぐる抗争の中で、家光の乳母(春日局)が大山寺にこもり家光が世継ぎになる様に寺の本尊である不動明王に祈願してから駿府に隠居していた家康に直訴したと伝わっている、その後、三代将軍になった家光の庇護の下で大山寺は造営改修が行われた(寛永の大修理)、それ以降、江戸庶民の大山詣でが全盛を迎えたと言われる。
大山寺の裏手にある神橋
ひなびた雰囲気の大山寺
寛政7年(1795)に建立の青銅の宝篋印塔
これからバス停に向かいます
下る途中にあった無人の寺院
大山ケーブル駅
下る途中には野仏が並んでいた
バス停から大山ケーブル駅までの階段状の参道(382段)にお土産や飲食店が並ぶ「こま参道」
とうふ祭りのポスター、参道には豆腐料理の店が多くあった 伊勢崎行バスに乗ります
丹沢大山ハイク
3月4日、月2回の山行を行っている山仲間の集まり「R隊」に今年初めて参加、天気が良いと自宅からも見える富士山、その手前に連なる丹沢山系の端の「大山」に登ってきました。
午前5時26分新松戸発の千代田線に乗車、代々木上原で小田急線に乗り換えて午前7時27分に秦野着、時間があったので駅前の「箱根そば」で朝食、8時18分発「ヤビツ峠」行バスに乗るため停留所に向かうとすでに長蛇の列、満員バスに乗り丹沢山系中腹のヤビツ峠(761m)まで立ちずくめの1時間でした。
標高1252mの大山は、古くから庶民の山岳信仰の対象とされ頂上に上社(阿夫利神社本社)、中腹に下社、大山寺があり、別名「雨降(あふり)山」とも呼ばれて「雨乞い」の神とされ、農民の信仰を集めたと言われます。
阿夫利神社の起源は不明ですが、「万葉集」にも詠われていて平安時代には建立されていた様です。
江戸時代になると富士山と並んで大山は庶民の山岳信仰の対象となり、山を降りた修験道の信者が「御師」として各地を廻り「大山講」を布教をした結果、宝暦期(1751-1764)には各地から大山に通じる道が整備されて「大山往還」、「大山街道」と呼ばれる様になり最盛期には年間20万人が大山詣でを行ったと伝わっています。
江戸から大山に詣でる人は、隅田川両国橋際の禊ぎ場所で身を清め無事を祈念して出かけたと言われますが、時代が経るにつれて「大山詣」はレジャー的色合いを強くして「大山詣」を済ませた人々が山を降りてから江の島、鎌倉見物して江戸に戻る2泊3日の小旅行のコースが定着したと言われます。
我が家から見た丹沢山系と富士山、左端の山が今回登った大山
二代歌川豊国(1769-1825)「名勝八景大山夜雨 従前不動頂上図」
秦野駅前のバス停はすで長蛇の列、ヤビツ峠行は8時18分、55分の2便のみ 約1時間で到着、我々が乗った便の後ですぐ増便があった様で、待てば座れた?
ヤビツ峠は三ノ塔、塔ノ岳 への登山口にもなっていた
今回の参加者は4名、私以外の仲間は大山に数回登った経験者、特に小田急沿線に住むM氏は7回目のハイク、大山まで2.3㎞、3時間のハイクです
遠くに見える湘南の海、江の島がうっすらと望める クサリ場もあった
登り始めて1時間40分で中間地点に到着、このルートは尾根歩きの為、直登は無い このルートは登山者もあまり多くない
高度を上げるに連れて霜柱や残雪の登山道に変わる、アイゼンを持って来たが、その必要は無さそう
頂上間近
下宮からのルート(左)との合流地点(25丁目ヤビツ分岐) 頂上近くの鳥居
最長齢のM氏、7回目の登頂 R隊隊長のH氏 I氏 T
天気が良ければ富士山も見えたはず 丹沢山系の山々
頂上にはレーダーアンテナや放送塔が建つ
風を避けて各々バーナーでお湯を沸かしてカップ麺等でランチ、なんとM氏はビール持参、私も一杯頂く 私のランチです
陽当たりの悪い場所にはまだ残雪が 頂上にて
雪解けでぬかるんだ頂上 奥の院・阿夫利神社本社(上社)
阿夫利神社本社(上社)から下社に下る
江戸時代は魚市場関係者、職人達の信仰をあつめたそうです
上社と下社との中間点 享保1年(1716)・徳川8代将軍吉宗の時代に建てられた十六町目追分の石碑、地元から強力が担いで来たそうです、信仰の深さが判ります
天気が良ければ東京スカイツリーも見えるそうです
往時の登山道? 途中にあった夫婦杉
大山修験が崇拝した加賀・白山の碑、大山開山(752)に建てられたと言われる
間もなく下社に到着
この階段を下りると阿夫利神社下社
下社着
華麗な造りの拝殿正面
下社拝殿 拝殿脇の地下道を入ると「神水・大山名水」と言う旨い水が湧いています
江戸時代になると「大山詣」が盛んになったが、女性の参詣は下社までで、上社には登る事が出来ませんでした。