碓氷峠アプトの路
旅行会社の日帰りバスツアー「碓氷峠アプトの路を歩こう」に参加しました。
午前8時に出発、東京外環・関越高速道を経て2時間後に信越線横川に到着、バスは「おぎのや」の昼食用弁当を積み込んでウォーキングの起点であります第6トンネルへ、弁当の支給を受けボランティアガイドの説明を聞きいた後、終着点(横川)までの5kmを歩きました。
横川に午後2時集合、それまではフリーとなります。
また列車の推進力を考慮して、トンネルは鋼材では無くレンガを使用しています。
アプト式とは2本のレールの真ん中に歯車レール(ラックレール)を敷き、それにアプト式電気機関車の床下に設けられた歯車(ラックギア)を噛み合わせ、急こう配の線路を登り降りする鉄道のことです。
なお、廃線跡は国の近代遺産として重要文化財に指定されているそうです。
バスは橋梁下に停車、観光客は左手にある木の階段を登ります 旧信越本線の橋梁が残されていました
廃線後,、トンネルは遊歩道として解放されています、トンネルの天井、側面のレンガは一個一個、人の手で積み重ねたのでしょう
遊歩道には道標が立っていました
めがね橋から横川に向かう途中にある人工湖「碓氷湖」湖畔で昼食、お茶の提供がありました 支給された弁当はおにぎりとおかずで十分満足な量です
旧中山道の脇に北原原白秋の碑がありました 途中に峠の湯と言う保養施設があり、トロッコ列車の起点となっています
廃線となった信越本線のレールが残されています、ここからが廃線跡ウォークです 観光用トロッコ列車が旧信越線下り線路を走っていました
遊歩道途中には見事な藤の花が咲き乱れていました
旧丸山変電所
遊歩道の左手に煉瓦造りの建物が見えてきました。
横川ー軽井沢間が電化されるに伴い明治45年に設置された丸山変電所です。
重厚な煉瓦造り建物2棟建っています、朽ちるに任せていた建物を平成12年に改修、現状復帰させました。
一棟は機械室、もう一棟が蓄電池室で列車が上り勾配にかかるときに必要な電力を補うための蓄電池三百十二個が整然とならんでいたそうです。
建物は現在、国の重要文化財に指定されています。
碓氷峠鉄道文化むら
信越本線の廃止後、横川電車区跡に造られた施設です。
1999年に開園、信越本線で活躍した車輛等が保存されています、信越本線の廃線を利用しEF63形電気機関車の運転やトロッコ列車が観光客相手に運行されていました。
今回は時間が無く中に入ることができませんでしたが、D51等の蒸気機関車も保存されている様です。
キハ形気動車が懐かし
信越線横川駅
第6トンネル(通称めがね橋)
明治時代に建設された橋梁は現在でもその威容を誇っており、その存在感を失っていません
筑波山写真行
小貝川ふれあい公園
5月14日、写真仲間のO君と茨木県下妻市の小貝川河畔にある「ふれあい公園」越しに望む筑波山を撮りに行って来ました。
深夜に出発して午前3時前に小貝川河畔着、車中で夜明けを待ちました。
明け方に小貝川から流れ出る朝もや越しの筑波山を期待しましたが残念ながらこの日は気温が高く朝もやは出ませんでした。
しかしながら花畑越しに見る筑波山も絵になっていました、残念ながら山麓の化学工場から立ち昇る白煙が目ざわりでしたが。
夜明けは4時過ぎ、花畑越しに筑波山を望みます。
矢車草 ポピー
筑波山から日が出てきました 筑波山中腹にもやが流れてています つぼみが多いポーピー、盛りはこれからの様です
筑波山のツツジ
小貝川ふれあい公園から筑波山に移動しました。
つつじが丘駐車場に着いたのが午前7時30分、広い駐車場には登山者が2〰3人いるのみ、備え付けのテーブルでコーヒーを沸かししばし休息した後、カメラを担ぎツツジの写真撮影開始、時間が早かった事もあって人影もまばらで自由なアングルで写真を撮れましたが、8時を過ぎる頃から大型バスが相次いで駐車場に入ってきて小学生の集団が集まり始めました、1校では無いようです、だんだん大集団になってきました。
頂上まで登るのでしょう。
山麓からツツジの群落が続きます
中腹から霞ヶ浦が見えました
ロープウエイが動き始めました 元気なちびっこ軍団が登山開始 全員集合
ちびっ子達が一斉に山を登り始めしました
霞ヶ浦
午前10時、登山客が増えて来たので下山、車に戻りました。
時間に余裕があったので霞ヶ浦を見て帰路につくことにしました、途中の蕎麦屋さんで朝食兼昼食、限定5食の10割蕎麦が美味でした。
湖面積が琵琶湖に次いで国内2位の霞ヶ浦は湖面に浮かぶ帆引舟のイメージが強かったのですが、現在は観光用に曜日を決めて運行しておりこの日は見る事が出来ませんでした。
他に見る物が無い為、湖畔にある霞ヶ浦ふれあいランドの虹の塔に昇りました。
塔から見た筑波山
湖面を渡る橋 田園風景が続いています 虹の塔
近くある航空自衛隊百里基地から発進した戦闘機
この日は同館所蔵の尾形光琳作「国宝「燕子花図屏風」が公開されている事もあってか多くの鑑賞者が訪れていました。
21,000㎡の敷地には美術館と回廊式の広い庭園、また庭園内には4棟の茶室が点在していて春夏秋冬、様々な風情を見せます、この日は茶室弘仁亭の燕子花(カキツバタ)が見頃を迎えておりました。
地下鉄表参道駅から徒歩10分程で美術館に着きます
特別展の案内 館内から庭園をのぞめます
庭園から見た本館
池の右奥にある井筒から地下水が湧き出いるそうです
吹上の井筒 弘仁亭の燕子花①
弘仁亭の燕子花②
弘仁亭の燕子花③
弘仁亭の燕子花④
尾形光琳作「国宝「燕子花図屏風」
春の一日、亀戸天神社の藤を見た後、「鬼平犯科帳」、「剣客商売」などの時代小説で作家としての不動の地位を確立した池波正太郎が小説の舞台として描き、よく歩いたと言われる浅草橋から浅草雷門までをカメラを提げてたどりました。
亀戸天神の藤
江戸時代から藤の名所として名高かった亀戸天神です、今年は天候不順が影響してか例年に比べて開花が遅く4月末に満開となりました。
赤い太鼓橋と藤の紫のコントラストが鮮やかです
天神様に向かう参道は人の波で埋められていました 境内は紫色一色です
建設中の東京スカイツリーが藤棚越しに見えます 歌川広重「名所江戸百景」亀戸天神の藤
浅草橋から浅草を歩く
浅草御蔵
江戸時代、幕府直轄地(天領)から送られた年貢米はこの地にあった米蔵に集められました。
集められた米は幕臣である旗本、御家人に給米用として年3回配られましたが、幕府からの俸給が米であった為、旗本、御家人は「札差」と言われる仲介業者に蔵米を担保として現金を借りるシステムでした。
札差は、江戸に109人と決められており高利で金を貸した為に莫大な利益を得ていた様です。
しかしながら高利に苦しむ旗本、御家人は慢性的な財政難にありました、老中松平定信は「寛政の改革」の一環として、彼らを救済する手段として札差に対し債権放棄、債務繰り延べの武士救済法令(棄捐令)を発しました。
結果として札差は大損害をこうむる事となりましたが、一方で旗本、御家人に対して金を貸さなくなり双方共に困難を極めた時代が続きました。
御蔵跡は現在、テラスとして整備され区民の憩いの場所となっていました 江戸時代、尾張屋が発行した切絵図(クシ形となっている所が御蔵)
首尾の松
墨田河畔に面する浅草御蔵の4番堀と5番堀の間に1本の松の木があり「首尾の松」と言われていたそうです。
いわくにについては諸説ありますが、隅田川を舟で吉原に向かう遊び人達がその日の首尾をこの松の木に祈願したと言うのがありますが、一夜の夢を買いに舟に揺られて山谷堀に向かう遊び人の心情を思うとこの説に説得力がありそうに思われてきます
浅草御蔵跡のテラスには歌川広重の「名所江戸百景」に描かれたプレートがありました
再び江戸通りに戻り駒形から雷門方向に向かいました。
途中には1801年創業の「駒形どぜう」、蕎麦の名店「並木藪」があります、他にも古色蒼然とした御蔵前書房、レトロ調の厩橋ワインホール、一時期を風靡した「たまごっち」のバンダイがありました。
浅草寺駒形堂
駒形橋脇には浅草寺の本尊が隅田川から引き揚げられて安置されたと言われる駒形堂があります
金龍山浅草寺雷門
雷門に到着しました。
浅草も人の往来は銀座、新宿や渋谷と同じですが、なぜかのんびりとした空気が流れています、仲見世を抜けて一歩裏手に入ると雰囲気が変わり下町の風情を色濃く残した顔を見せます、特に昔、奥山と言われていた辺りや伝法院通り界隈は他の繁華街には無い独特の賑わいを見せています。
現在、近くに建設中の東京スカイツリータワー目当ての観光客が増える事も予想されており、その存在感が一層顕著になってきています。
雷門前でキャラクターバスに出合いました、近くにある遊園地「花やしき」の送迎バスだそうです
浅草寺駒形堂
駒形橋脇には浅草寺の本尊が隅田川から引き揚げられて安置されたと言われる駒形堂があります
金龍山浅草寺雷門
雷門に到着しました。
浅草も人の往来は銀座、新宿や渋谷と同じですが、なぜかのんびりとした空気が流れています、仲見世を抜けて一歩裏手に入ると雰囲気が変わり下町の風情を色濃く残した顔を見せます、特に昔、奥山と言われていた辺りや伝法院通り界隈は他の繁華街には無い独特の賑わいを見せています。
現在、近くに建設中の東京スカイツリータワー目当ての観光客が増える事も予想されており、その存在感が一層顕著になってきています。
雷門前でキャラクターバスに出合いました、近くにある遊園地「花やしき」の送迎バスだそうです