午前10時に西武線高麗駅に集合、徒歩15分ほどの巾着田を目指しました、今回の参加者は7名です。
いつも静かな高麗駅はこの時期だけは、曼珠沙華を見に来る人で賑わいます
高麗川沿いの巾着田に植えられた曼珠沙華の本数は500万本とか、300円の入園料を払って中に入りました
白い蕎麦の花をバックにした曼珠沙華
誰が置いたのか、モエ系の人形が置かれていました
自慢のカメラで風景を切り取る仲間たち
巾着田の脇にある広場には飲食の屋台や土産物屋が並んでいます
参加者集合 地元有志による尺八の演奏会
巾着田を出るとコスモス畑が広がっていたが、まだ五分咲きでした
コスモス畑脇には蕎麦の畑があり白い花が満開です
収穫が終わった田には沢山のカラフルな案山子がまだ並んでいた
昼食は撮影会終了後に蕎麦屋に行く事にして、その前に会場で軽く腹ごしらえ
高麗駅近くにあった十割蕎麦の店で昼食、左は味噌田楽+蕎麦湯割り焼酎
東叡山寛永寺
寛永2年(1625)、徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍の帰依をうけた天海僧上が幕府の安泰を祈願する為、江戸城の鬼門(東北)に当たる上野の地に寛永寺を建立しました、天台宗宗祖最澄が京都御所の鬼門となる比叡山に延暦寺を開き朝廷の安穏を祈った事にならったもので、東の比叡山と言う事で山号を東叡山とし、創建時の元号を使うことを勅許され寛永寺と命名されました。
不忍池を琵琶湖に、中の島を琵琶湖の竹生島に見立て、島にある宝厳寺を模して辯天堂を建立しています。
幕末の寛永寺(東都下谷絵図)より
葛飾北斎の東叡山中堂之図(1)
葛飾北斎の東叡山中堂之図(2)
辯天堂
不忍池の中に造られた中の島に建てられている、本尊は琵琶湖の竹生島にある宝厳寺から勧請された「八臂大辯財天」です
不忍池碑 大黒天堂
辯天堂(昭和33年に再建)
辯天堂正面 辯天堂舞台から見た参道
辯天堂は一直線に清水観音堂につながっていた
辯天堂参道から見た清水観音堂
不忍池は、この時期は蓮の葉で覆われていた 裏から見た辯天堂
清水観音堂
京都東山にある清水寺と同じ舞台づくりで建てられている、寛永8年(1631)建立(重文)
江戸の名所を描いた歌川広重の「名所江戸八景」に「上野清水堂不忍ノ池」として描かれてた「月の松」は明治初期の台風で消失しているが、150年振りに観光用として復活しました。
「上野清水堂不忍ノ池」 「月の松」二世
「時の鐘」
芭蕉が「花の雲 鐘は上野か浅草か」と詠んだのがこの鐘です、江戸時代初期は江戸城内で鐘をついていたが、町が拡大するのに伴って日本橋石町(現在の小伝馬町)に移された「時の鐘」は、その後、上野、浅草、市谷八幡など数か所に増設され、江戸の町に時を告げました。
上野精養軒の入口にある「時の鐘」
佐久間大膳寄贈した高さ6.8mのお化け灯篭 輪王殿
天海僧上と、その師の慈恵大師良源大僧正を祀る開山堂
上野東照宮
徳川幕府の基礎を築き、秀忠に将軍職を譲って駿府に隠居していた家康が、末期を迎えた際に病床に信任の厚かった天海僧上と伊勢津藩主藤堂高虎を招き、「自分の魂が末永く鎮まる所を造って欲しい」と遺言、寛永4年(1627)に藤堂家の敷地があった上野に社を造営、寛永23年(1646)に家康を神格化した「東照宮」の称号が朝廷から与えられています、現在の建物は三代将軍家光が慶安4年(1651)に華麗な建物に建て替えて東叡山寛永寺の一部となりました。
東照宮はその後も震災、戦災による被害を受けることなく、江戸時代の姿を現在に残しています。
備前の御影石で造った大石鳥居、酒井忠世が奉納(重文) 水舎門
参道、左右に200基以上の石灯篭が並ぶ
参拝客(観光客)には意外と外人の姿が多い
唐門、奥が社殿
1651年に造られた唐門(重文)
菱格子の塀で中が見える透塀、1651年建築(重文)
唐門
総金箔の門、両側上部にある透彫は室町桃山時代の粋の集大成と言われる、柱の内側四額面には日光東照宮の「眠り猫」で有名な左甚五郎の「昇り龍・降り龍」の彫刻がある
社殿
拝殿、弊殿、本殿から構成されている権現造りの社殿、1651年に建築(重文)
大楠
樹齢600年以上と言われるご神木、幹の太さは8m以上あるそうです
寛永16年(1639)に建てられた寛永寺五重塔(重文)
根本中堂
元禄11年(1698)、現在の上野公園大噴水の辺りに建立された寛永寺の核となる建造物であったが、慶応4年(1868)の官軍と彰義隊による上野の戦いの際に焼失しています、現在の根本中堂は明治12年に川越喜多院の本地堂を移築、再建したものです。
鐘楼
寛永寺は芝の増上寺と共に徳川将軍家の菩提寺です、四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定の各公の廟がありましたが、戦災によりほとんどが焼失しており、現在な勅使門と水盤舎が現存するのみです。
家綱霊廟勅使門(重文)
綱吉霊廟勅使門(重文)
十三代将軍家定の正室天璋院篤姫の墓所もありました
国立博物館脇に因州池田家上屋敷の表門が移築されていました(重文)
神代植物公園(http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index045.html)
武蔵野の台地47万6千㎡に広がる都立の植物園です、吉祥寺からバスで20分、正門で降りて園内を歩き、深大寺門から外に出ました。
正門を近くにあるガーデンビューロー、売店等があります
芝生広場にあった公園のランドマーク、パンパスグラス
パンパスグラスは2種類ありました、姿は巨大なススキを思わせる、南米に分布するイネ科の多年草で明治中期に日本に渡来したそうです
昼食時、老夫婦が弁当を広げていました
はぎ園
10種類、約110株が植えられていて、この日はどの種類も満開でした
曼珠沙華(彼岸花)
本園から離れた水生植物園には群生していた様ですが、今回は本園内の数少ない曼珠沙華を撮りました。
園内には様々な秋の草花が植えられています
深大寺門に近づくと武蔵野の面影を残した雑木林が広がっていました
一部の木は早くも色づく
深大寺門を出ると深大寺の裏手に出ます
深大寺(http://www.jindaiji.or.jp/)
天平5年(733)に建立された天台宗の別格本山
深大寺の名称は仏法を求めて天竺を旅した玄奘三蔵を守護したとされる「神深沙大王」に因むと伝えられる、天平5年(733)に満功上人が法相宗の寺院として建立したが、859年に天台宗に改宗して現在に至っています。
1646年と1865年に火災にあって堂宇の大半を焼失しており現在の本堂は大正年間に再建です。(Wipipediaより)
深大寺乾門 元三大師堂
本堂
幕末期に再建された本坊旧庫裡
旧庫裡内部
鐘楼 内側から見た山門
茅葺の山門は数度の火災を免れた山内で一番古い建物です、元禄8年(1695)に普請が行われたと言う記録があります
山門
大黒天、恵比寿尊 深沙堂
深大寺境内脇にあった水車
参道
深大寺蕎麦(http://chofu.com/web/jindaiji_soba/)
境内周辺には複数の湧水源があった為、蕎麦の栽培から水車による製粉、蕎麦打ちまで豊富な水が利用され「深大寺蕎麦」としてこの地の名物となっています、深大寺の参道には蕎麦屋が並び、それぞれの味を競っていました。
携帯で撮ったので色が違うが、さるすべりの花が満開でした ゲゲゲの「鬼太郎茶屋」
嶋田屋の店の前には沢山の「ざる」が天日に干されていました
午後1時30分、山門前にあった文久年間(1860年代)創業の嶋田屋で天婦羅蕎麦+味噌おでん+ビールで昼食
江戸川サイクリングロード
自宅から自転車で江戸川堤まで10分、きれいに整備されたサイクリングロードは東京湾まで続いており、朝夕、ジョギング、サイクリングの愛好者が走っています。
一定の間隔で海(東京湾)からの表示がありました
この日は敬老の日で休日、河川敷ではサッカーの試合が行われていました、遠方に見えるのは松戸市中心部
古ヶ崎河川敷スポーツ広場近くにある江戸川松戸フラワーライン、この時期はコスモスが咲き乱れます、ロケーションが悪い為か訪れ人が少ないのがもったない。(市も積極的にPRしておらず、知る人ぞ知る穴場です)
東京スカイツリーが遠望できました
スポーツ広場に隣接しています
サイクリングロード右手がコスモス畑
一輪だけ曼珠沙華が咲いていた
江戸時代、北関東からの荷は江戸川を経て江戸に送られました、特に野田から運ばれた醤油は「江戸前の寿司」の発展に大きく寄与
対岸は埼玉県三郷市、更にしばらく走ると東京都葛飾区金町
河川敷にあった水位の表示
新葛飾橋を渡り、金町を経由して柴又駅に到着しました、家を出てから1時間30分(コスモス畑で20分撮影時間浪費)
京成柴又駅前に建つ「フ-テンの寅さん」像
駅前から続く帝釈天参道
敬老の日でシニア世代が多いと思っていたが、意外、若者が多かった(寅さん人気がまだ続いている?)
帝釈天に続く参道には飲食店、お土産屋さんが軒を並べています 寅さん土産健在
参道は下町風情が満タン、外国人の姿が見えないのは寅さんはローカルカラーが強すぎた為か?
チャリで1時間30分、水分を摂らずに走ったのでのどがカラカラ、ビール付きランチは参道にある蕎麦処「亀家やぶ忠」で
寅さん定食もありましたがさくら定食を注文、蕎麦は手打ちで美味、ヱビスビールが最高! 店内は寅さんの世界が満載
「男はつらいよ」シリーズ初期に撮影で使われた「とらや」
柴又帝釈天(経栄山題経寺)
寛永6年(1629)に建立された日蓮宗寺院
18世紀末、9世住職日敬の頃から寺内の帝釈天が信仰を集める様になり、「柴又帝釈天」として知名度が上がり、帝釈天の縁日の日は「庚申の日」とされ、庚申信仰とも相まって多くの参詣者を集めるようになったそうですが、帝釈天が一躍有名になったのは映画「男はつらいよ」シリーズで車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られる様になってからでしょう、何と言っても笠智衆の「御前様」が知名度アップに一役買ったのは間違いありません。
帝釈天二天門
帝釈堂 境内には喜見城、本堂、釈迦堂、大客殿があり意外と広い
映画で佐藤蛾次郎が鐘を打った鐘楼
僧侶が広島の豪雨による災害の救援募金中でした
本堂に続く渡り廊下
彫刻ギャラリー
本殿の裏手にある帝釈堂の内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、中でも胴羽目板の法華経説話の浮彫10面が有名、法華経に説かれる代表的な説話10話を選び彫刻で視覚化したもので、大正11年~昭和9年にかけて加藤寅之助等10名の彫刻師が一面ずつ分担して制作しています、内殿は建物ごとガラスで覆われ、周囲に見学者用の通路が設けられ「彫刻ギャラリー」として有料で公開されていました。(Wikipediaより)
帝釈堂彫刻ギャラリーはガラスで覆われていて外からは見えない
庭園
帝釈堂の裏手にある庭園は有料ですが、この日は閉鎖されて入ることが出来ませんでした。
帝釈天は江戸川近くにあります、野球場の奥が「矢切の渡し」 川縁を走り帰路につきました、川向うが私が住む松戸市
夕刻、橋を渡る自転車と東京スカイツリー