令和元年の三社祭
5月15日の本社神輿神霊入れの儀式に始まり、19日の本社神輿の宮出し~宮入まで、浅草界隈には150万人の人が集まって祭りを盛り上げます、三社祭と言えば以前は各町内神輿連合会をヤクザが仕切り、荒っぽいく、危険な祭りのイメージがあったが、自治会、警察の浄化運動によって下町の賑わいを楽しめる祭りとなった。
期間中は町神輿100基が各町内を練り歩き、最終日の19日には午前6時に浅草神社の3基の「本社神輿」が宮出しを行い、午後7時の宮入まで各町内を分担して渡御、浅草地区を盛り上げます。
私は最終日の19日午後1時から裏浅草の象潟地区を練る「二の宮」神輿を追いました。
浅草神社(三社様)
社伝によると推古天皇36年(628)に地元の漁師の檜前浜成・檜前竹成の兄弟が隅田川から引き揚げられた「人形像」を土地の物知りだった土師真中知に相談した所、これは聖観音菩薩像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりと言われる。土師真中知の没後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・竹成を神として祀ったのが三社の起源と言われるが、平安末期から鎌倉時代の創建が実体と言われます。
徳川三代将軍家光が寄進した社殿は350年間、焼失を免れて現在は国の重文となって残されています。
花川戸の町神輿
二天門を入ると浅草神社(三社)
浅草寺脇に鎮座する浅草神社
江戸時代・寛永期に建てられた社殿
3基の本社神輿は町内渡御中、午後7時に戻ります
馬二町会の神輿
特別御朱印はトラブルが多く今年は中止、一般の御朱印には長蛇の列が出来ていた
裏浅草の象潟町神輿
若い女性の担ぎ手の記念写真を横からパチリ
浅草見番
象潟町神輿3基
「本社二の宮神輿」
馬道ー猿若町を巡った神輿は機動隊の車両が先導して浅草六丁目の交差点で象潟で担ぎ手が引き継がれました、なお神輿の重量は約1トンあります。
神輿を先導
各町内を練り歩く神輿を機動隊の車両が先導
浅草六丁目交差点で二の宮神輿の町内引継ぎが行われます、象潟町会の担ぎ手が神輿を待っています
神輿が到着
二の宮本社神輿の引継ぎ、双方口上を述べて担ぎ手が代わりました
駅に戻る途中で出会った子供神輿
王子の狐
徳川幕府開府以前は一寒村であったが王子村は、歴代将軍が日光社参の為の「御成街道」が通ったことで江戸市中とつながり、加えて八代将軍吉宗によって隅田川堤(墨堤)、品川・御殿山と共に飛鳥山に桜が植えられ江戸町民の憩いの場となって以降、庶民の行楽の地として賑わう様になった。
また王子には古くから狐伝説が伝わり、東国33国の「稲荷社」の頭領として「王子稲荷神社」があり、毎年大晦日になると近くの大きな木の下に関八州から狐が集まって装束を改めて「王子稲荷神社」に詣でたと伝えられ、地元の農民が「狐火」の多さによって、その年の農作物の豊凶を占ったと言われる、江戸時代に書かれた地誌「江戸砂子」には「狐火おびただし、この火にしたがひて、田畑のよしあしを所の民うらなふことありといふ」と記されています。
現在も大晦日になると地元の行事として装束稲荷ー王子稲荷神社」まで「王子狐行列」が行われています。
歌川広重の名所江戸百景「王子装束ゑの木大晦日の狐火」
王子装束稲荷神社
JR王子駅からスマホのナビを見ながら探しました、駅から徒歩10分、メインの通りから一歩入った榎の木の跡に建てられてと言われる場所にひっそりと佇んでいました。
訪れる人も少なくひっそりと佇む「装束稲荷神社」
毎年大晦日になると行われる「狐の行列」ルート
王子稲荷神社
社伝によると創建年代は不詳だが、康平年間(1058~65)には源頼義が深く信仰して「関東稲荷惣司」として崇めたと伝えられる。
江戸時代になると近くにある王子神社と共に徳川将軍家の祈願所とされたと言われる、門前にはお茶屋や料理屋があって遠方からの参拝者で賑わったと言われる。
歌川広重が描いた江戸名所図会「王子稲荷社」
音無親水公園から王子神社を過ぎて坂を上がり、しばらく行くと「王子稲荷神社」に到着
拝殿、若い女性が何事か祈念中
御石様
拝殿の裏手にある本宮
狐の住みかとされる「御穴様」社殿
名主の滝
石神井川は王子付近から滝野川と名前を変えて隅田川に流れ込んでいますが、江戸時代には流れがきつく、王子周辺には「王子七滝」と呼ばれる滝がありました、現在はそのうちの一つが「名主の滝公園」として名残を残していました。
王子稲荷神社から数分の距離にある都立「名主の滝公園」
江戸時代の七滝の二つ「男滝と女滝」 名所江戸絵図「王子不動の瀧」
現在はポンプで水をくみ上げている「名主の滝」
4月14日、浅草観音うら一葉まつり「江戸吉原おいらん道中」が地元町内会、まつり実行委員会主催で開催されました。
浅草寺裏の一葉小松橋通りの2ブロックが会場です。
当日午前中は地元小学校の吹奏楽演奏、ステージシショー等が行われ、メインイベントの「おいらん道中」は午後1時から往路の「見世→引手茶屋」道中、ステージショーの後、復路の「引手茶屋→見世」道中が行われました、道中が行われた約3時間、道路両側は見物客でいっぱい、特に外国人の姿が多く見受けられました。
江戸の歴史・文化に興味を持つ者として、午前中は「花魁」に所縁のある、「吉原神社弁財天」、「吉原神社」を訪れました、元和3年(1617)に日本橋葦屋町(現在の人形町)に造られた公許の遊郭「吉原」は明暦3年(1657)の大火で焼失、再建の地として幕府から浅草寺裏の浅草田圃に移転を命じられ、以降1945年の太平洋戦争敗戦により GHQから公娼廃止の指令が出るまで「新吉原」は遊郭として存続し、その後廃止となったが、1958年の売春防止法施行まで新吉原は「赤線」として存続していた、なお江戸時代に造られた新吉原の街並みは今日でも、そのまま風俗街として残されています。
吉原神社は遊郭内にお祀りされた稲荷神社と吉原弁財天を合祀した神社で、約3,000人いたと言われる遊女達の篤い信仰を集めたと言われます。
午前10時から行われたオープニングセレモニー、台東区長、区議会議長等があいさつ
浅草寺の裏手にある町、割烹等、昔からの店も多くあります、この日は一年で一度の晴れの祭りを開催
地元も小学校の子供達が造花の桜の花を持ってパレード(残念ながら今年は桜の開花が早く、この日は葉桜)
全国吹奏楽コンテストで金賞をとったと言う地元、富士小学校の吹奏楽パレード
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午後1時近くなると「おいらん道中」が通る一葉小松通り2ブロックの沿道は見物客でいっぱい
道中の先導は遊里の女性の哀しい人生を唄い上げる三味の「新内節」
吉原では古くから狐が信仰されていた為、「狐舞」が12月31日や年始に行われた、舞うのは「吉原狐社中」
前座として大神楽曲芸協会の獅子舞と曲芸が雰囲気を盛り上げます
「おいらん道中」
見世ー引手茶屋(往復)の道中を先導するのが「金棒引き・露払い」、金輪がついた金属製の棒を鳴らしながらゆっくりと歩きます、その後ろに続くのが手古舞と言われる女性陣たち
花魁の衣装代は大夫一名で¥10,000,000・-と言われます、当地の「おいらん道中」の衣装と歌舞伎で使われる衣装のみが実物で、各地で行われる「おいらん道中」の衣装はイミテーションだそうです。
吉原神社の提灯が先導
藤波太夫
象潟太夫
先頭を歩くのが花魁見習いの「禿(かむろ)」と言われる幼女
花魁は左の「肩貸しの男衆」の肩に手を置いて歩く、花魁の後ろで傘を持つのは「傘持ちの男衆」
花魁の歩き方は元吉原時代は内八文字、明暦の大火後の新吉原以降は外八文字にかわったと言われる
手古舞の女性
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花魁の象潟太夫 禿(かむろ)が成長して花魁一歩前の「振袖新造」になります
禿、手に持つのは花魁の煙草盆
江戸時代後期、吉原の町内で繰り返された「おいらん道中」、最高位の花魁と遊ぶには最低3回通うのが条件で最低10両(100万円)が必要と言われた
この日は花魁道中は見世から引手茶屋模したステージで「江戸吉原粋花街乃舞」などを行い、午後2時45分から見世に戻る「おいらん道中」復路が行わました
新吉原遊郭
明暦の大火以降、隅田川沿いの田んぼだった日本堤(浅草田圃)に造られた「新吉原」、四方を「おはぐろどぶ」で囲まれ、入り口は大門一か所と言う隔離された歓楽街がつくられ、最盛期には3,000人を超える遊女を抱えていたと言われる、吉原の遊女には格付けがあって最高位が太夫と言う花魁、美貌だけでなく教養、芸事の才が求められ、花魁を身受けするには現在の価値で数千万円が必要と言われた。
妓楼は通りに面して張見世と呼ばれる座敷があり、一般的には居並んだ遊女を格子越しに見て相手を決めることが出来た、揚げ代はピンキリで金一分から一両一分(¥25,000~¥125,000)
吉原に居る女性達は自分から希望して遊女になった者はおらず、①農村・漁村などの貧しい家庭の親が、生活難のため娘を売る、②貧しい下級武士の家の親が生活難のため娘を売る、③不況や事業の失敗などで没落した商家の親が借金のカタに娘を売る、④悪い男にダマされて若い娘が売られる等、様々な哀しい条件下で、女衒(ぜげん)と呼ばれる“人買い”に親や親類、時には夫が娘や妻を売り渡したと言われる。
身売りの金額はピンキリだが農村部で3~5両(30万~50万円)で幼女を女衒が買ったという記録があるが、いずれにしても、本人の意思に関係なく、半強制的に身売りさせられた哀しい境遇下の女性達でした。
吉原の遊女は年齢27歳まで、年季は10年が原則だが、年季を待たずに亡くなった遊女の数は2万人とも言われ、その多くは国元には返されず、遊郭近くの浄閑寺の門内ににコモに包まれて投げ込まれたと言われ、「生まれて苦界、死して浄閑寺」と言う言葉が残されています。
新吉原は「おはぐろどぶ」と言う堀に囲まれた2万坪の広大な土地に京町1、2丁目、江戸町1、2丁目、仲之町、揚屋町、角町造られ、北町奉行所が管轄しており、当時、江戸で一日千両落ちる場所として「芝居の猿若町」、「魚河岸の日本橋」と並んで「新吉原」があげられました。。
一方で、多くの下級遊女たちの悲惨な境遇にもかかわらず、新吉原遊郭は女性のファッションや髪型等の発信地となって江戸の女性に影響を与えたのも事実です。
吉原神社弁財天
吉原神社弁財天(奥宮)、こじんまりとした佇まいながら荘厳な雰囲気、遊女たちの慰霊碑が建っている
慰霊碑 花吉原名残の碑
吉原神社、奥宮から少し離れたところにに鎮座
吉原遊郭の妓楼(幕末期)
『今戸箕輪浅草絵図』(嘉永六年)に見る新吉原周辺
江戸切絵図に見る新吉原、四隅に「稲荷」が祀られている
吉原神社及び吉原氏子全図(時代は不詳)
金龍山浅草寺
今から1400年前に創建された都内最古の古刹、天正18年(1590)に徳川家康が江戸に入府以降、徳川家の祈願所に定められ幕府の篤い庇護を受けました。
特に境内の奥山地区は見世物小屋や大道芸等で賑わい、庶民が集う江戸屈指の盛り場でした。
現在も都内屈指の盛り場として国内外から多くの人が訪れています。
1月5日、赤坂山王神社、神田明神の初詣風景を撮ってから午後3時、浅草寺に到着しました。
雷門の前に出来た浅草文化観光センター8Fの展望テラスから撮ったスカイツリーと浅草寺仲見世
雷門、いつ来ても外国人の姿がが目立ちます 仲見世
仲見世の正月飾り
戦災で焼失する前は本堂の左にあった五重塔、現在は本堂の右手に移築された 五重塔と宝蔵門
正月も5日になると本堂での参拝は行列も無くスムーズ
本堂
今年の干支は犬、SoftBankが提供したお馴染みの「カイ君」が本堂脇でお出迎え
浅草寺の横にある浅草神社(三社権現)、毎年5月に例大祭(三社祭)が開催される
御朱印をもらう長蛇の列が順番を待っていた
三社祭の際に町内を練り歩く神輿三体が鎮座
五重塔と東京スカイツリー
神田神社(明神社)
社殿によると天平2年(730)に現在の千代田区大手町の将門塚周辺に創建されたが、その後、その周辺で天変地異が頻発した為、神田神社に神として合祀されたと言われ、戦国時代に入ると武蔵国を治める太田道灌、北条氏綱等の庇護を受ける様になりました。
天正18年(1590)に江戸に入府した徳川家康は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに臨むに際し、神田神社に戦勝祈願を行い出陣して神田祭の日(9月15日)に西軍を破り東軍勝利となった事で、徳川将軍家から「江戸の総鎮守」として厚い崇敬を受け、神田祭は山王祭と共に神輿(山車)が江戸城に入り吹上上覧所で将軍の拝謁を受けています。
1月5日に山王日枝神社の初詣を撮ってから御茶ノ水で電車を降り、歩いて神田神社(明神社)を目指しました。
JR御茶ノ水駅脇に掲げられた案内 聖橋から神田川を渡るJR中央線(上)、地下鉄丸ノ内線(下)
聖橋を渡り湯島聖堂脇を歩いて5分、神田明神入口着
神田明神は東京ー神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内など108町々の総氏神、特に「商売の神様」として会社関係者から厚い崇敬を集めております
神田神社、神田明神が並んでいる
隋神門
神殿、この日も一般の参拝者に加え、スーツ姿のサラリーマンの集団が多く見られて境内は参拝客で一杯
境内から見た色彩豊かな随神門 狛犬と神殿
神殿横から見た礼拝を待つ参拝客 横から見た礼拝殿
神馬
合祀殿 水神社(魚河岸水神社)
末廣稲荷神社 三宿・金毘羅神社
だいこく様尊像
裏参道入口、江戸時代に神田山は削られて日比谷入江の埋立てに使われたが、神田明神がある地はそのまま残された 神田明神わきにあった旧中山道の案内
山王日枝神社の初詣
古くは江戸山王大権現と称され、徳川家康が江戸に入府した天正18年(1590)に「江戸の鎮守」として徳川幕府の庇護を受けて以降、265年に及んだ江戸時代、将軍家の産土神として崇敬をあつめた。
特に例年6月15日に行われる「山王祭」(神幸祭)は神田明神と並んで天下祭りと言われ神輿が江戸城に入り三代将軍家光の上覧が許され、その後神輿の江戸城渡御は106回を数えました。
山王祭りは京都の「祇園祭」、大阪天満宮の「天神祭」と並んで日本の三大祭と言われる。
山王鳥居 赤坂・山王の小高い丘にある山王日枝神社 山王男坂
神門 神門に「皇城の鎮」とあった
1月5日に訪れたが、参拝する人が途切れる事がなく、正月の雰囲気を残していた
社殿
神様の使いと言われる猿の像 山車庫 山車庫ある葵の紋
社殿裏にある末社
稲荷参道
御文庫脇の参道
社殿前の銅製灯籠 日枝あかさか 赤坂の街に続く山王橋
山王橋はエスカレーター付き 山王鳥居
松戸宿
松戸宿は日本橋から千住・新宿(にいじゅく)に次いで3番目の水戸街道の宿場町、御三家の一つ、水戸藩は参勤交代が無かったが、家臣が水戸と江戸を頻繁に往復しており、五街道に次ぐ脇街道として松戸宿までが道中奉行の管轄でした。
市内にある松龍寺は元和元年(1615年)に北小金宿にある古刹「東漸寺」の末寺として小山に創建された浄土宗の寺院で、慶安3年(1650年)松戸へ移転して再興された古寺院、江戸時代に徳川歴代将軍家による鹿狩りの際の休息所として使われた為、葵の紋の使用を許されたと言われます、また毎年夏になると寺内の「すくも塚観音」の縁日(四萬六千日)には境内に「とうもろこし市」が立ち、感謝の献灯が行われたと伝えられ、近年、町おこしの一環として旧宿場脇を流れる坂川沿いにおいて「献灯まつり」が復活し、今年も8月9、10日に第12回目が開催されました。
会場はJR松戸駅から歩いて10分程の距離にある為、多くの人が訪れていました
坂川は利根川から印旛沼を経て江戸川に流れ込む運河で、松戸宿は江戸時代に水運で栄えました 特設ステージ 寛永3年(1626)建立の松戸神社
坂川沿いに「とうもろこし」市が立っていた おばちゃん達がとうもろこしの皮むき中
「焼きとうもろこし」は1本¥400.-也
焼き上がりを待つ長い行列ができていた
松龍寺
観音堂は火災で焼失、再建されましたが、この山門は江戸時代に創建されたままの姿を残している
国の史跡・戸定邸(徳川慶喜の弟である昭武の屋敷跡)が創建時、松龍寺の敷地だった為か、戸定邸(松戸市)が献灯を支援
観音堂には「葵の紋」の提灯に灯が入った 境内で「四萬六千日献灯」が行われます、「ろうそく」が並べられて灯が入るの待ちます
境内に浴衣姿の美女(?)が並び、縁日を練り歩いてから着こなし等の優劣を競います
献灯
幻想的な催事です
松龍寺参道にある地蔵様と屋台
とうろう流し
坂川に仮設の桟橋を造って「とうろう流し」が始まり、各々、願い事を書いた灯籠を流します
風が無い為、流したとうろうが滞留して団子状態に
特設会場で「ゆかたコンテスト」が開催中でした
三社祭
江戸時代には神田明神の「神田祭」、日枝神社の「山王祭」、富岡八幡の「深川祭」が徳川幕府を鎮守する「天下祭り」として幕府の庇護を受けて江戸の三大祭りとして賑わいましたが、浅草寺・観音の祭りとして正和元年(1312)に始まった「三社祭」の歴史は更に古く 「観音祭」、「浅草祭」呼ばれて、地元に密着した祭りとして 現在まで連綿として続いています。
「三社祭」とは浅草寺の観音像を隅田川から発見し、この地にお祀りした土師真仲知命、檜前竹成命、檜前浜成命の三人を祭神とする浅草神社の祭礼です。
毎年、四十四ケ町の氏子等が浅草神社奉賛会をつくり5月に祭りを開催しています、浅草神社の三基の神輿に加えて約100基の町神輿が浅草地区を巡り、毎年3日間の期間中に約150万人の見物客を集める大祭です。
浅草寺脇にある浅草神社(廃仏毀釈以前は浅草寺と浅草神社は一体だった)
三基の本社神輿、今年は5月21日早朝に宮出、町内を巡って夜に宮入しました
鳳凰の飾りがついた一之宮 擬宝珠がついた二ノ宮・三ノ宮
神楽殿で演じられた奉納舞踊
巫女舞奉奏
広くない浅草神社境内はお参りの人に加えてイベント開催で大混雑
二ノ宮神輿の町内巡り
伝法院通りに入る二ノ宮神輿
馬道の神輿
浅草公会堂近くに設けられたお囃子舞台
子供神輿
人の波で一杯の仲見世を廻る神輿
お疲れ様 吾妻橋は交通規制が敷かれていた
浅草観光案内所2Fから見た雷門前の神輿
雷門に入る神輿
雷門をくぐったが仲見世には入らず、引き返してきた神輿
神田祭
元和時代(1615~1623)、徳川幕府第二代将軍秀忠により日枝神社と共に神田明神が江戸の総鎮守として崇められ、その例大祭である「神田祭」、「山王祭」が天下祭として江戸城の内曲輪に神輿、山車。附祭などの祭礼行列の練込みが許されて将軍・御台所の上覧が許されました、その後、富岡八幡宮の「深川祭」を加えて江戸の三大祭りと言われ、往時の姿を現在まで連綿と引き継がれています
なお、神田祭と山王祭は隔年で開催されます、今年が神田で、来年は山王祭が開催されます。
神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場、築地魚市場など108か町会の総氏神となており、2年に一度の祭りは歴史を引き継ぐ「下町の祭り」として氏子総出で最大級の盛り上がりを見せていました。
祭りは5月11日の鳳輩神輿遷座祭に始まり、12日の氏子町会も腰神霊入れ、13日に氏子町108町を巡る神幸祭、14日に神輿宮入、その後、明神能(金剛流薪能)、献茶式、17日の例大祭で
終幕となります。
写真仲間のK君と秋葉原で待ち合わせて14日の宮入を撮りに出かけてました、江戸時代の歴史・文化を学んでいる者として「幕府の権威と庶民の生活を唯一繋ぐ」天下祭りは見逃せません。
午後1時過ぎ、すでに秋葉原の町は祭り一色
鍛治町1丁目の神輿
松枝町の神輿と山車
神田祭には三基の鳳輩の他に大人神輿、子供神輿を併せて氏子町会から約200基の神輿が町に繰り出します
江戸時代、神田、日本橋界隈は商業・町人の町として栄え、「江戸っ子」の心意気が強い地域でもありました
秋葉原駅前に鎮座していた「神田市場」の大神輿、最後に宮入します
偶然出会った「旅籠町」の神輿、外神田1丁目1番はかって旅籠が数多く旅籠町と呼ばれていた、現在も祭りには往時の名前で出ているのは嬉しい
若い女性と子どもが乗る神輿は絵になりました
祭礼中の人出は200万人とか
疲れた? 機動隊を含めて徹底した警備体制が敷かれていました
秋葉原から神田明神に続く神田明神通りは全面的な通行止め
女性ポリスも少々お疲れ気味 女性だけの神輿「獅子頭」
外国人観光客を乗せた観光バスと神輿が遭遇、お互いにエール交換
一番大きな「神田市場」神輿、宮入のとりをとります
神田須田町の神輿を差配する長老
宮入
前日、神幸祭で氏子の108町会を回った神輿は、この日、神田明神に「宮入」、お払いを受けて町内に戻ります
午後、町内を巡った神輿が続々と宮入をするが、順番待ちで明神前は大混雑
向かいは湯島聖堂
女性だけの「獅子頭」神輿が到着したが、順番待ちで宮入まで30分程待機
神田明神前は「宮入」する神輿を観る人で身動きできず
神輿に続いて神田明神に入ることが出来る、タイミングをずらすと入れません
宮入りした神輿がお払いを受けてから町内に戻ります
お払いを受けて町内に戻る旭町の神輿、2年後にまた会いましょう
お払いを受けています
本殿脇の神楽殿では「お囃子」を演奏中
神田明神脇の公園では「神田祭太鼓フェスティバル」開催中 出番を待つ高校生(?)
公園にあった牛若丸の山車 明神境内の囃子
女性神輿「獅子頭」がお払いを受けて地元の町内に戻ります
この日のメインイベント「神田市場」の大神輿の宮入
最後に宮入する「神田市場大神輿」に備えて警備陣により通路がつくられた 神輿の先導役の囃子陣が到着
神田明神の髄神門を迂回して明神会館を通り境内に入る大神輿
大迫力!
明神御社殿でお払いを受けています
神田市場大神輿が到着して、この日のイベントは終了しました 神輿の担ぎ手が帰路につきます、お疲れさまでした
午後4時半過ぎ、歩き回って、のどが渇いたのでK君と「万世」でのどを潤す、散会後、私はしつこく最後の宮入を追いました
伝法院
雷門から仲見世を歩き浅草寺に向かう途中、左手に普段は閉鎖されている広大な敷地があるが、これが浅草寺本坊である伝法院です、原則として一般公開は行っていないが、今年は3月9日から5月8日まで公開されていました。
伝法院通りから外観だけ見えて、通る度に気になっていたが、今回初めて中に入ることが出来ました。
伝法院は江戸時代(安永年6年)に創建されました、上野にある東叡山寛永寺が山主に皇族を迎え、朝廷から称号として輪王寺宮を下賜されて門跡寺院となり、その支配下にあった浅草寺も輪王寺宮が別当職を兼務していました。
浅草寺の総面積25,568.㎡中、伝法院は庭園を中心に12,216㎡とほぼ半分近い敷地面積を占めています。
普段はと閉じられている本坊正門(重文) 右は浅草寺、五重塔裏手伝法院
庭園公開の案内が各所に出ており多くの人が訪れていたが有料の為か、一般の観光客は少ない つつじ・鯉のぼり・浅草寺
五重塔が改装工事中、上部だけが顔をみせた 伝法院入口、次回の一般公開を聞くと不明とのことでした
今回は庭園と浅草寺所有の「大絵馬寺宝展」が開催されており江戸時代から伝わる絵馬等が展示されていたが、写真撮影は庭園のみでした
大絵馬寺宝展を見てから庭園に向かう
寛永年間に造られた回遊式庭園で作庭家として名高い小堀遠州作といわれます(元禄時代には輪王寺宮家直轄となり明治まで秘園とされたそうです)
雑踏から離れて庭園に入ると浅草の騒音が聞こえてこない 天明年間に愛知の茶人・牧野作兵衛作の茶室「天祐庵」(都内最古の茶室)
明治35年に建てられた大書院
大書院隣の建物の前にあった藤棚
庭園は中央に大池泉を配置して回遊する日本庭園、随所に石灯籠などが置かれ景観に趣を添えている
大書院の先に東京スカイツリーをのぞむ
現在改修工事中の五重塔の上部が見える 樹齢300年と言われる枝垂れ桜の木が右に見える
左右に新旧の塔を従えた大書院
伝法院庭園を出ると浅草の喧騒が戻ってきた
ランチは大黒屋の天丼、色黒で濃いめの味だが、くせになる味です
金龍山浅草寺
徳川家康が江戸に入府した天正18年(1590)、家康が祈願所と定めて以降、同寺は歴代将軍によって庇護されると共に、「観音霊場」として庶民の篤い信仰を集めました、また境内の奥にあった「奥山」という地域は大道芸、見世物小屋や芝居小屋などが集まる江戸有数の娯楽の地となりました。
現在でも、下町風情が残る浅草エリアは多くの観光客を集める一大観光地となっています。
雷門前に建つ「台東文化観光センター」 8階は展望テラス(入場無料)
展望テラスから見た隅田川左岸にある東京スカイツリー
Nikon 1 V3に300㎜の望遠レンズを装着(810㎜相当)して撮ったスカイツリーの第一展望台 第二展望台
展望テラスから見た雷門、浅草寺に続く仲見世通りは参詣客で一杯
外国人を含めて多くの観光客が集まる風雷神門(雷門)前
松下幸之助(パナソニック創業者)が寄進した大提灯、風が強い日は畳まれます
大提灯の下部の彫り物
宝蔵門(仁王門)
初期の門は三代将軍徳川家光が寄進したが、その後は天災、火災による焼失・再建を繰り返し、現在の門は昭和36年(1961)に再建された
本堂(観音堂)
本尊は慈覚大師作と言われる聖観音菩薩、毎年12月13日に開扉されるそうです、徳川三代将軍徳川家光が建立した本堂は昭和20年の戦災で焼失しており、現在の本堂は昭和33年に再建されたものです
改修工事中の五重塔、現在は本堂の左にあるが、天慶5年(942)の建立時は右にありました
奥山跡
江戸時代、職人や人足が持ち上げて力比べをしたと言う力石 浅草は映画文化が花開いた地、映画弁士塚がありました
奥山跡は小さな公園となっていた
奥山跡から見た東京スカイツリー
和服姿の中国人女性、言葉を聞かなければ日本人と区別がつかず
左が浅草寺、右が浅草神社
浅草神社(三社権現)
由来によると推古天皇36年(628)の創建、現在の社殿は徳川家光の寄進によるもので慶安2年(1649)に建立されており国の重文に指定されている、毎年5月に行われる例大祭は三社祭と言われる、明治に入るまでは浅草寺と一体の祭事であったが神仏分離により、以降は浅草神社単独の祭りとなっています
二天門 三社祭で引き回される神輿3基
境内には恒例の猿まわしが出ていた
江戸城
天正18年(1590)に徳川家康の居城となった、当時の江戸城は簡素な造りであったが慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で東軍が勝利して以降、家康は同8年に後陽成天皇から武家の棟梁である「征夷大将軍」に任ぜられ、名実共に支配者としての地位を確立した。
この年に家康は江戸城の大改修に着手して、築城の名手である伊予今治城主の藤堂高虎に縄張りを命じ、全国の大名を総動員した天下普請が開始された、神田の高台の土地を切り崩して日比谷入江の埋め立て、道三堀の削掘を始め縦堀、横堀を掘って水運路を開き市街地の造成が進められた、併せて神田・玉川上水を江戸市中に引き込み、都市としての機能を拡充、三代将軍家光の時代に都市機能を完成させた。
当時は城の象徴として五重の天守閣がそびえていたが、明暦3年(1657)の大火で焼失した、家光の異母弟の保科正之の「戦争の無くなった時代には天守閣は不要」との助言もあり再建はされることはなかった。
現在、天皇家がお住いの御所は江戸時代に次期将軍や隠居した元将軍が移り住んだ「西の丸」と言われるエリア、本丸は幕府の政務を司る区画(表)、将軍の居住区画(中奥)そして女性1,000人が住んだと言われる将軍の私邸的区画(大奥)で構成される、二の丸は御殿や庭園があり将軍の別荘的なエリアと言える、なお本丸・二の丸跡は東御苑として一般開放(無料)されている。
大手門 昭和20年の戦災で焼失した大手門渡櫓の上にあった鯱(明暦3丁酉とある)
丸の内のビル群を背景にした大手門渡櫓 皇宮警察の建物
幕閣(大名)の登城
登城する幕閣(大名)の多くは大手門を入った同心番所前の大手三之門(下馬門)で駕籠を下り、徒歩で中雀門を通って本丸御殿に入る、登城時間は朝四ツ(午前10時)に登城、昼八ツ(午後2時)下城が勤務時間は4時間前後が通常でと言われます、なお登城時に従ってきた家臣たちは下城まで下馬門前で待機することになり、その間に他藩の人間と情報交換を行ったとされ「下馬評」と言う言葉はその時に生まれたと言われている。
大手門から入った最初の番所、下級武士である同心が詰めており、登城する大名の家臣の監視を行った
百人番所、甲賀・伊賀・根来の忍び4組(100人)が常駐して警護・監視の役割を担っていた
大手三之門 百人番所
大手三之門と中雀門の間にある中之門跡 大番所前の松の木の剪定が行われていた
大番所
中之門から見た百人番所・丸の内ビル群
登城する大名は大手門をくぐり同心番所、百人番所、大番所を通って徒歩で中雀門を通ると本丸に至る
富士見櫓、現存する唯一の三重櫓で明暦の大火で天守閣が焼失後、天守閣の代用された時代もあった
松の大廊下
本丸大広間から将軍との接見所の白書院をつなぐ全長50mの廊下、廊下に沿った襖に狩野派による浜の松と千鳥が乱舞する絵が描かれていたことから「松の廊下」と呼ばれた、中奥には「竹の大廊下」という長い廊下がある
本丸跡(表・中奥・大奥と続いていた)
宮内庁楽部桃華楽堂
天守台
天守閣は寛永14年(1637)、第三代将軍家光の代に完成、地上58m、石積みは44㎡、高さ18m、天守閣には金色の鯱を頂く外観五層、内部六階の天守があったが、明暦の大火により焼失、現在は基礎石の石垣(約10m)が残されています。
天守台に登るスロープが造られていた
見事な天守台の石積
天守台に一番近い北桔橋門、ここからも入れます
想像以上に広かった天守台
天守台の石積、その先には本丸御殿跡の芝生、そして丸の内ビル街
大奥
敷地面積は6,000坪と本丸の56%を占める、二代将軍秀忠が造り、三代将軍家光が完成させた「将軍の跡継ぎ」を残す為に造られた将軍のプライベートゾーン、大奥には250人の奥女中、部屋方と呼ばれる下働き、あわせて1,000人が住んでいたと言われる。
大奥の入口に当たる広敷には事務方の男性役人が常駐していたため、大奥御殿との間の錠口、長局との間の7ツ口により仕切られていた、なお将軍が大奥に出入りする通路は、将軍の居住区画「中奥」から大奥に通じる将軍の専用廊下にある紐を引いて鈴を鳴らして合図を送り、出入り口の「御錠口」の開錠させたことから「お鈴廊下」と言われる。
天守台を下ると広大な面積を占める「大奥」があった場所です
本丸と二の丸を結ぶ汐見坂
汐見坂下の白鳥堀 二の丸庭園を警邏中の皇宮警察
吹上御所にあった諏訪の茶屋、明治45年に再建されていた
二の丸庭園は藤が終わり、この時期は特に見るものが無い、これからショウブが咲きだす
池に「コウホネ」の花が咲いていた
都心の一等地・丸の内にある二の丸庭園、ここまでは騒音も聞こえてこない、贅沢な空間だ
奥浅草
浅草寺・浅草(奥山)は江戸時代、両国広小路、下谷広小路(上野広小路)と並んで江戸の三大繁華街と言われ、参拝客や見世物小屋、大道芸等を見る人で賑わいを見せたが、その裏手に位置した奥浅草は歴史的な寺社や明暦3年(1657)の大火で焼けた遊郭吉原(日本橋人形町)が幕府から移転を命ぜられ、浅草寺裏の日本堤の田圃の中に新たに新吉原として営業を再開した地でもあります、享保期(1716~1732)には周囲を「おはぐろどぶ」と高い塀に囲まれた新吉原遊郭の人口は8,000人を超え、木挽町(現在の東銀座)の芝居小屋、日本橋の魚市場と並んで一日千両が動く場所として繁栄を極めていました。
歌川広重「東都名所 浅草金龍山」 昭和20年(1945)の戦災で焼失するまで五重塔は本堂の右にあったが、再建後は左に移されました
歌川広重「東都名所図絵 隅田の渡し」 奥に見える山は筑波山
奥浅草マップ
本龍院待乳山聖天 http://members2.jcom.home.ne.jp/matuti/
奥浅草の小高い丘(待乳山)にある浅草寺の子院、推古天皇3年(595)にこの丘が出現して龍が守護したと伝えられ、浅草寺の山号(金龍山)の由来と言われる古刹。
歌川広重「東都名所の図 隅田川八景真乳山晴嵐」
広重「東都三十六景今戸橋真乳山」 広重「名所江戸百景真乳山山谷堀夜景」 広重「江戸名勝図絵真乳山」
浅草の繁華街から少し離れている為か、訪れる人が少ない(知名度が低い為かも)
本堂
出世観音
昔は神社から続く天狗坂を下ると隅田川を渡る「竹屋の渡し」があった 元禄時代の歌人戸田茂睡の歌碑
百度石 稲荷尊
江戸時代に造られた45.5mの築地塀、歌川広重の浮世絵にも描かれているそうです
聖天町は池波正太郎の生誕の地でもあります
今戸焼
天正年間(1573~1592)に素焼き陶器の生産が始まったと言われています、日用品、人形、火鉢、植木鉢、瓦などが造られました。
江戸名所図会「今戸焼」
今戸焼の招き猫
今戸神社 http://members2.jcom.home.ne.jp/imadojinja/T1.htm
康平6年(1063)、源頼義、義家親子が奥州討伐の際、京都・石清水八幡宮を当地に勧進、祈願したのが始まりと言われる、昭和12年(1937)に隣接していた白山神社を合祀し、旧名の今戸八幡から今戸神社社と名前が替わりました、なお関東大震災や戦災で焼失した社殿は昭和46年(1971)に再建されています。
この神社は「招き猫」発祥の地と言われ、近年は縁結びと結び付けてパワースポットとして若者の人気を集めている様です。
待乳山聖天から徒歩10分で到着する今戸神社
悲劇の新撰組隊士、沖田総司の終焉の地でもあります
浅草から人力車でお参りに来る人もいました
縁結びグッズ販売中
江戸時代は陶器の産地でもありました
本殿には招き猫が
ガイドブックに載っていたのか外国人の女性グループも見受けられました 今戸神社の絵馬は円と縁を語呂合わせて「円形」の形をしています
文政5年(1822)に今戸焼職人が寄進した狛犬、側面に多くの職人の名前が彫られていました
山谷堀
江戸時代には新吉原遊郭への水上路として隅田川ー山谷堀ー新吉原入口である日本堤まで猪牙舟で乗りつけるのが粋とされ、吉原通いを「山谷通い」と言った、堀に沿って船宿や料理屋などが建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すくらいに有名な場所だった様ですが、明治になり遊興の場が吉原から新橋や柳橋などの花街に移るにつれて堀界隈は次第に寂れ、昭和に入ると肥料船の溜まり場となった様です、現在は隅田川から山谷堀への水路は埋め立てられて往時の面影を留めておらず、名残としては堀に架かっていた今戸橋の遺構が残され、堀は「山谷堀公園」として残されていました。
歌川広重「今戸橋之図」
堀の跡は公園として整備されていました
堀の跡から見たスカイツリー かって山谷堀を跨いでいた今戸橋
墨田川が山谷堀に通じていた入水口跡
隅田川テラスの柵の屋形船とスカイツリー 言問橋とスカイツリー 隅田川テラスにあった岩とスカイツリー
三社祭
http://www.sanja.jp/
三社祭が行われる浅草神社は浅草寺と一体だったが明治政府の神仏分離令によって神社単体の祭りとなりました、伝承によると祭りの歴史は古く推古天皇36年(628年)に桧前浜成、竹成の漁師兄弟が隅田川で漁を行った際、魚の代わりに人の形をした像が網にかかり、駒形から陸に上がって、土地の知識人である土師真中知に像を見せたところ像は「聖観世音菩薩」であることが判りました、その後、土師真中知は僧侶となり自宅に観音像を祀りましたが、土師真中知が亡くなった後、跡継ぎの子が夢で観世音のお告げを受け、桧前浜成、竹成の漁師兄弟と土師真中知の三人を神として祀り三社権現と称したのが三社祭の起源と言われます。
江戸時代、徳川幕府の庇護を受けた「神田祭」や「山王祭」の天下祭りと違って「江戸の粋」を伝える下町の祭りとして今日に至っていますが、三社祭を暴力団が仕切った時期があり、神輿に「入れ墨」をしたやくざが乗り社会問題化しましたが、その後暴力団は一掃され、今は町内会が主導していました。
浅草寺の隣にある浅草神社 町内囃子
伝通院通りで行われていた獅子舞
太鼓を打つ手に力が入る
神楽殿で行われた巫女舞
浅草公会堂前から出発した町内神輿
拍子木を打って出陣式(?)
後姿も絵になります
観光客で溢れる仲見世行く神輿
神輿の担ぎ手、前は大変だが中程は(?)
仲見世こども神輿が到着、みんな疲れた顔
労働(?)した後の一杯は美味い 小休止中?
こども神輿も本格的な造り
お囃子
神輿を担いだ子供たちには飲み物とお土産が出た
浅草神社前で出番待ちする和太鼓の打ち手
神楽殿で行われた奉納舞踊
綺麗どころが勢ぞろい
町内神輿の宮入
いなせな後姿が絵になる
浅草神社祭殿前で奉納
浅草寺境内は人で一杯、外国人の姿が目立つ、特に中国人観光客が多い
粋な造りの三味線道場 浅草寺裏、左が浅草神社
江戸時代に大道芸が行われた奥山前の屋台と観光客
神田明神の例祭「神田祭」
http://www.kandamyoujin.or.jp/profile/
慶長5年(1600)、会津の上杉攻めの際に神田明神に合戦勝利を祈念した徳川家康が、関ヶ原の合戦に勝利して天下統一を果たした後、神田明神は家康が深く崇拝する様になり、その祭礼である神田祭は赤坂山王神社と共に江戸城を守護する神社として山車が江戸城に入り将軍に拝謁することを許された「天下祭り」となり、以降、祭りは盛大に執り行われる様になりました。
なお、祭礼は神田と山王が隔年で行われています。
6日間に渡り開催される「神田祭」は神田、日本橋、大手町、丸の内、秋葉原を巡行する「神幸祭」と100其の氏子神輿が神田明神に入り参拝する「神輿宮入」が二大イベントとして行われ多くの人が見に訪れます。
この日は「神輿宮入」の日でした。
JR秋葉原駅を出ると、電気街はすでに「神田祭」の会場になっていた
粋を凝らした神輿、2年に1度の出番です
明神前には各町内の神輿が揃い、宮入を待ちます
100基の神輿が1其づつ神田明神に入り祭殿前で拝礼して出るため、周辺は宮入をまつ神輿が順番待ちで大渋滞
神田明神前は人で身動きできず
永く引き継がれてきた豪華な神輿が担ぎ手により宮入です
秋葉原駅から引手により明神様に到着した山車 各町内の特色を出した法被が「いなせ」な江戸を伝える
神田明神と湯島聖堂の間の本郷通りは身動きできず
いなせな法被のお姉さん達、絵になりました
屋上庭園からみた神田明神の境内
一味違う「子供神輿」も宮入?
宮入した後、境内を出る神輿
神輿は祭殿脇から出て町に戻ります 神田明神脇には多くの屋台が並んでいた
神田明神神殿 隋神門 門下では万世橋署の警官が警備中、神輿はこの門から宮入
祭殿前、多くの人が宮入する神輿を待つ
神田明神境内で神田祭太鼓フェスティバルが行われおり、会場脇で若い子が練習中
秋葉原から明神に向かう途中では順番待ちで待機する神輿
神田祭を主催する祭礼の役員が待機中