千葉道場(玄武館)跡
http://www.hokushin-ittoryu.com/history/index.html
JR、東京メトロ秋葉原、都営線岩本町から歩いて神田川を渡り雑居ビルが立ち並ぶ一角に「玄武館」跡がありました。
幕末期、斉藤弥九郎の練兵館(神道無念流)、桃井春蔵の志学館(鏡新明智流)と並んで江戸三大剣術道場と言われた千葉周作が開いた北辰一刀流の道場です、「力の斉藤」、「位の桃井」、「技の千葉」と称されたそうです。
幕末の志士である坂本竜馬、清川八郎、新撰組の藤堂平助、山南敬助等が学んだと伝えられています。
道場跡地には碑が立っていて千代田区が管理していました。
注意して歩かないと見過ごしてします この案内が唯一の手がかりです、門扉を開いて中に入ると碑と案内板がありました
柳原土手
江戸時代、神田川下流の浅草御門(現在の浅草橋付近)から筋違御門(現在の万世橋と昌平橋の中間付近)までの南岸に築かれた土手で、柳の木が植えられていました。
神田川南岸に沿って築かれた土手は総延長15kmあり土手を背にして古着市場が開かれていました、江戸時代は庶民の着る衣服は古着が当たり前で売買も盛んに行われており富沢町と、この柳原土手が2大市場でしたが富沢町の取り扱い商品が高級化するにつれて古着市場は柳原土手が主となり数百件の古着屋があったと言われています。
一方、夜鷹が現れる場所として時代小説にはしばしば登場しています、繁華で人通りが多ければ様々な商売が現れるのは古今を問わないと言うことでしょう。
神田川に架かる橋際に「柳原土手跡」の標示があります 昔は柳の並木があった柳原通りの標示 大岡越前の父親の屋敷跡がありました
柳森神社
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/01_chiyoda/1010.html
長禄2年(1458)太田道灌が江戸の鎮守として創建した神社で京都伏見稲荷の分社です、今は神田川沿いのビルの谷間にひっそりとたたずんでいますが、境内には五代将軍綱吉の生母桂昌院が江戸城内に屋敷神として祀っていた木製のタヌキが鎮座していていました、町人出身から高位に登りつめた桂昌院にあやかろうと江戸庶民の信仰を集めたと言われています。
柳原通り、この先が柳森神社 神社正面、神社は階段を下りて左手にありました
本殿 境内
桂昌院が信仰した「おたぬきさま」
神田川、奥の橋は万世橋 万世橋際には旧交通博物館がありました
筋違門
江戸時代、万世橋はまだ無く上流に筋違橋と言う橋が架かっていました、橋際に寛永13年に加賀藩主前田利常により建てられた「筋違門」がありました、枡型に石垣が築かれ堂々とした構の門は江戸城の外郭を守る外曲輪11門の一つでした。
神田、日本橋から上野方面に通じた重要な道で、歴代将軍が上野寛永寺を訪ねる時、日光行幸の際に通る御成門でもありましたが明治5年に新政府によって取り壊されています。
なお「筋違」とは日本橋から本郷への道と内神田から入谷への道が筋違いに交差していることから名づけられたそうです。
現在、門の跡は無く、JR中央線高架下に「御成道」の標示板があるだけでした。
筋違門解体の際に不要となった石垣を利用して造られたのが万世橋です
万世橋、奥は和泉橋 中央線高架下に「中山道」の案内が 「御成道」の標示板
御成道の標示板
中央線の高架に沿って御茶ノ水方面に歩きました。
間もなく昌平橋です、神田川を渡ると江戸時代に林羅山が開いた昌平坂学問所跡、湯島聖堂があります。
神田川 昌平橋
ハリスト正教会(ニコライ堂)http://www.orthodoxjapan.jp/
ギリシャ正教(日本ハリスト正教会)の聖堂、ロシア人ニコライにより計画され1891年に竣工された煉瓦、石造りの大聖堂、中央に八角型ドームがあります。
国の重要文化財に指定されています。
御茶ノ水駅から徒歩5分のところにあります