写真紀行

日々の風景と将来に残したい風景を求めて

秋葉原-御茶ノ水散歩

2011-08-31 21:22:32 | 歴史散歩

千葉道場(玄武館)跡
http://www.hokushin-ittoryu.com/history/index.html

JR、東京メトロ秋葉原、都営線岩本町から歩いて神田川を渡り雑居ビルが立ち並ぶ一角に「玄武館」跡がありました。
幕末期、斉藤弥九郎の練兵館(神道無念流)、桃井春蔵の志学館(鏡新明智流)と並んで江戸三大剣術道場と言われた千葉周作が開いた北辰一刀流の道場です、「力の斉藤」、「位の桃井」、「技の千葉」と称されたそうです。
幕末の志士である坂本竜馬、清川八郎、新撰組の藤堂平助、山南敬助等が学んだと伝えられています。

道場跡地には碑が立っていて千代田区が管理していました。

       
    注意して歩かないと見過ごしてします          この案内が唯一の手がかりです、門扉を開いて中に入ると碑と案内板がありました          

      

柳原土手
江戸時代、神田川下流の浅草御門(現在の浅草橋付近)から筋違御門(現在の万世橋と昌平橋の中間付近)までの南岸に築かれた土手で、柳の木が植えられていました。
神田川南岸に沿って築かれた土手は総延長15kmあり土手を背にして古着市場が開かれていました、江戸時代は庶民の着る衣服は古着が当たり前で売買も盛んに行われており富沢町と、この柳原土手が2大市場でしたが富沢町の取り扱い商品が高級化するにつれて古着市場は柳原土手が主となり数百件の古着屋があったと言われています。
一方、夜鷹が現れる場所として時代小説にはしばしば登場しています、繁華で人通りが多ければ様々な商売が現れるのは古今を問わないと言うことでしょう


       
     神田川に架かる橋際に「柳原土手跡」の標示があります     昔は柳の並木があった柳原通りの標示 大岡越前の父親の屋敷跡がありました

柳森神社
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/01_chiyoda/1010.html
長禄2年(1458)太田道灌が江戸の鎮守として創建した神社で京都伏見稲荷の分社です、今は神田川沿いのビルの谷間にひっそりとたたずんでいますが、境内には五代将軍綱吉の生母桂昌院が江戸城内に屋敷神として祀っていた木製のタヌキが鎮座していていました、町人出身から高位に登りつめた桂昌院にあやかろうと江戸庶民の信仰を集めたと言われています。

       
     柳原通り、この先が柳森神社                        神社正面、神社は階段を下りて左手にありました    

       
       本殿                                                    境内 
    

                 
                                    桂昌院が信仰した「おたぬきさま」

       
     神田川、奥の橋は万世橋                           万世橋際には旧交通博物館がありました

筋違門
江戸時代、万世橋はまだ無く上流に筋違橋と言う橋が架かっていました、橋際に寛永13年に加賀藩主前田利常により建てられた「筋違門」がありました、枡型に石垣が築かれ堂々とした構の門は江戸城の外郭を守る外曲輪11門の一つでした。
神田、日本橋から上野方面に通じた重要な道で、歴代将軍が上野寛永寺を訪ねる時、日光行幸の際に通る御成門でもありましたが明治5年に新政府によって取り壊されています。
なお「筋違」と
は日本橋から本郷への道と内神田から入谷への道が筋違いに交差していることから名づけられたそうです。
現在、門の跡は無く、JR中央線高架下に「御成道」の標示板があるだけでした。

         
                        筋違門解体の際に不要となった石垣を利用して造られたのが万世橋です
  
      
    万世橋、奥は和泉橋                        中央線高架下に「中山道」の案内が         「御成道」の標示板


                              
                                 御成道の標示板                        
  
中央線の高架に沿って御茶ノ水方面に歩きました。
間もなく昌平橋です、神田川を渡ると江戸時代に林羅山が開いた昌平坂学問所跡、湯島聖堂があります。

              
      神田川                                                  昌平橋

ハリスト正教会(ニコライ堂)http://www.orthodoxjapan.jp/
ギリシャ正教(日本ハリスト正教会)の聖堂、ロシア人ニコライにより計画され1891年に竣工された煉瓦、石造りの大聖堂、中央に八角型ドームがあります。
国の重要文化財に指定されています。

             
          御茶ノ水駅から徒歩5分のところにあります              

       











 

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東海道 品川宿散歩

2011-08-28 13:21:23 | 歴史散歩

品川宿

江戸時代、東海道五十三次の第一の宿場、中山道の板橋、甲州街道の内藤新宿、日光・奥州街道の千住と併せて江戸四宿と称されていました。
慶長6年(1601)に品川湊近くに置かれ目黒川を挟んだ北宿、南宿、享保期に出来た歩行新宿の三宿で構成され、現在の京急北品川~青物横丁周辺に広がっていました。
最盛期には家屋数1600軒、人口7,000人が住んでいて四宿の中でも最も栄えた宿場で幕府からは非公認ではありましたが吉原の遊郭に並ぶ遊興の町でもありました。


                          

京急品川駅から一つ目の北品川駅で下車、踏切を渡り直進すると北品川商店街(旧東海道)に出ます。

「土蔵相模」
歩行新宿の中あった旅籠「相模屋」、外壁が土蔵のような海鼠壁だったため通称「土蔵相模」と呼ばれたそうです、旅籠というより妓楼として有名でありました、文久2年(1862)品川御殿山のイギリス公使館の建設に際し、攘夷派の高杉晋作や久坂玄瑞達は、ここに集結して公使館に放火し全焼させました、相模屋跡にはマンションが建っていました。

                   
             品川宿入口の標示                  土蔵相模跡の標示               跡地にはマンションが建っていました

問答河岸碑
三代将軍家光の「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」に対し沢庵和尚の「大軍を率いても将(少)軍と言うが如し」と言う故事に因んだ問答河岸碑が
あるはずでしたが見当たらず、工事現場のガードマンに聞いたところ、この工事現場に碑があったが、今はどこかで保管されているとの話でした。
      

                 
            碑が立っていた場所、今は工事現場       旧東海道、道幅は往時と同じ         東海道の裏にあった歩行新宿字裏町の標示

善福寺
鎌倉時代後期創建の寺院、名工と言われた左官職人入江長八が漆喰とコテで描いた龍が土蔵造りの本堂入口に残されていました、現在は廃寺になっている様です。

        
            山門                         本堂入口

         
       寺院正面に装飾がほどこされています            壁半分が剥がれていましたが龍の漆喰は残されています

本陣跡
品川三宿の中央に位置していました、江戸の入り口に当たる為に大名達が宿泊する事はほとんど無く、参勤交代などの休憩場所として使われていた様です、現在は公園になっていました。
       
   台場横丁、ペリー来航後に砲台建設が始まり、台場への通路に案内がありました       本陣跡の碑
  

                 
                     本陣に通じる道路に本陣のレイアウトが埋め込まれていました

             
           聖蹟公園にあった表示                                         跡地は公園になっています

荏原神社(http://ebarajinja.org/top.html
品川宿の元総鎮守、和銅2年(709)大和の丹生川上神社から龍神を勧請して創建と伝えられています、源氏、上杉、徳川など武家の信仰も篤かった様です。       
          

          
                                                   荏原神社の鳥居と本殿          

                   
         入口にある恵比寿像                  舞殿                       目黒川に架かる橋の先が荏原神社


東海寺
寛永15年(1638)に三代将軍徳川家光が沢庵宗彭(沢庵和尚)を招聘して開山した臨済宗大徳寺派の寺院、寺領5000石、約5万坪の敷地を有し上野寛永寺、芝増上寺と並ぶ江戸の名所でありました。
沢庵は天正元年(1573)に但馬国(兵庫)の生まれ、書画、詩文に通じ、茶道にも親しみ、多くの墨跡を残しています、一説によると「沢庵漬け」の考案者と言われています。(真偽のほどは不明)
沢庵は幕府が定めた「禁中並公家諸法度」をめぐる「紫衣事件」に連坐して出羽国(山形)に流罪となるが、その後、秀忠死去に伴う特赦により許されて京都大徳寺に戻りましたが、家光の武道指南役兼総目付の柳生但馬守宗矩、天海僧正の勧めによって幕府の相談役として招聘されて品川の地に萬松山東海寺を創建・開山しています、家光は当時の知識人であった沢庵に深く帰依し、政事についても相談していたと伝えられています。


         
      京急新馬場駅近くに東海寺がありました                  萬松山東海寺の山門     

         
    客殿と庫裡                              今風に言うとインターフォン            古学殿の銘板    
    
           
                                                            元禄期の梵鐘

           
        梵鐘と古学殿                                        年代を感じさせる古学殿①
     

     
     古学殿②                                              古学殿③



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御岳山散策(2)

2011-08-21 16:51:05 | 四季の彩り

七代の滝

急坂を降りるとロックガーデンの入り口となる「七代の滝」です、大瀑布ではありませんが女性的な優しい滝でした。
  


          
     滝の流れはそのまま御岳沢となり養沢川にそそいでいます                       滝は岩場の影にかくれていました

        
                                    滝の流れをシャッタースピードをかえて撮りました

                                                                  
                                             岩場と滝の流れ


      
                  滝から流れた水が養沢川となり流れています、これもシャッタースピードをかえて撮ってみました

             
                  高速シャッターで撮った踊る水

       
      水の流れ①シャッター速度  1/1000                           水の流れ②シャッター速度  1/100
                   

御岳山ロックガーデン

都心から2時間弱で出会える自然、規模的には「奥入瀬渓谷」とは比較出来ませんが清流、深緑、苔の生えた岩が気持ちを癒してくれます。
気温も下界に比べると数度低く感じました。


                         



                     

                
       苔むした岩と水の流れ                            渓流沿いに上流に向かいます

                    
                                                                
          

                      


綾広の滝

ロックガーデンの終点にある滝、御嶽神社の神主のみそぎ修行の場だそうです。

                
                     流れが穏やかな滝でした
          


       
                                       鳥居の先に滝があります
     
        

 レンゲショウマの花

 日本随一のレンゲショウマ群生地と言われていますが、この日はあまり見ることができませんでした。 

        


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御岳山散策(1)

2011-08-21 10:33:56 | 四季の彩り

御岳山

写真仲間6名が午前9時にJR青梅線御嶽駅に集合、御岳山中腹を結ぶケーブルカー滝本駅にバスで向かいました。
ケーブルカーで急斜面を6分登ると御嶽山駅です。

         
   JR御嶽駅舎                             駅とケーブルカー滝本駅を結ぶバス         駅前、橋の下が御嶽渓谷、秋の紅葉が見事

               
    ケーブルカー滝本駅                         急斜面を6分で登り切ります              中間地点で下り車両とすれ違い                     

              
       山ガール限定のイベント案内が車内に貼ってありました                          御嶽山駅

         
   駅前は広場となっていました                   天気が良ければ都心部が見えるそうです      ベンチでしばしの休息

             
       御嶽神社を中心とした案内図                                          歩き始めはなだらかな道が続きます  

  
      前方に神社に続く町並みが見えてきました                        間もなく御嶽神社です         途中にあった土産物屋兼旅籠?

       
         レトロ風で漫画チックな看板が人目を惹きました                         なぜかお面が売られています                                  
         

                       
            神代ケヤキ                       レンゲショウマが咲いていました            神社下の商店街
 
                  
               土産物屋や食堂が並んでいます                       宿坊                    

             
                        御嶽神社髄身門                                 長尾平分岐、ロークガーデンに向かう前に小休止

ロックガーデン(ブログ2参照)   

長尾平分岐から足場の悪いジグザグな急な階段や坂を100m近く下ると沢の音が徐々に大きくなり「七代の滝」が見えてきました。
ここでメンバーは様々なアングルで滝を撮影、小一時間居てからロックガーデンを進む事にして滝脇の急な鉄ハシゴ80段を登ると「天狗岩」です(岩を登るクサリがありました)。
「天狗岩」を後にして左に下って行くと沢に出ました、
大小さまざまな苔むした岩の間をゆるやかに川が流れる「ロックガーデン」です、深緑、苔むした岩、そして水の流れが暑さを忘れさせてくれます。


        
      天狗岩のクサリ場                                               岩を見上げると天狗像がありました
 
     

          
     分岐                         ロックガーデン中間の休憩所で各自携帯ストーブでお湯を沸かしてカップめん等で昼食

                 
           ロックガーデン                                           メンバーの集合写真

撮影隊(?)はロックガーデンを歩き二番目の滝「綾広の滝」を撮り御嶽山駅に戻りました、約7時間のハイクでした。
皆さんお疲れ様。

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下町散歩 薬研堀~浅草橋~浅草

2011-08-15 12:34:27 | 歴史散歩

薬研堀不動院

江戸時代、隅田川に沿って米蔵が置かれていました、薬研堀は隅田川から米蔵がある矢ノ倉に至るL字型の入堀として開削されたましたが元禄11年(1698)米蔵が火災にあって築地に移転、明和8年(1771)に堀は大半が埋められて薬研堀埋立地と称され町屋が建つようになりました、特に医者が多く住んだことから医者町と通称されたと言われています。
又、この地は七味唐辛子の発祥地でもあります。
堀は無くなりましたが薬研堀と言う地名はその後も残されていましたが、昭和46年に住居表示が東日本橋に変更されました、現在は不動院にその名前を残すのみとなっています。

                              
        隅田川から元柳橋下を流れるのが薬研堀(「江戸名所絵図より)         薬研堀不動院(川崎大師東京別院)


            
   
    狭い境内には「梵字の碑」、「納めの歳の市の碑」、「順天堂発祥之地」、「講談発祥記念之碑」、「遍路大師の像」がありました   

              
   梵字の碑        納めの歳の市の碑                      納めの歳の市の碑には往時の繁栄振りが書かれていました
  
     
                                                    講談発祥記念之碑              不動尊入口に七味唐辛子が     しばらく歩くと神田川に架かる浅草橋です

             
           昔は花柳界があった柳橋、現在は屋形船の溜りになっていました               文久2年創業の佃煮屋「鮒佐」

須賀神社
牛頭天王・須佐之男命を祭神とする祇園信仰の神社

              
                        江戸時代には病気平癒の伝承が残されています

鳥越神社
http://www.tesshow.jp/taito/shrine_torigoe_torigoe.html

白雉2年(651)日本武尊を祀って白鳥神社と称したのが始まりとされ源義家がこの地を訪れた際に鳥越大明神と改めたと伝えられています。
例大祭に出る千貫神輿は都内最大級を誇ります。

以下は鳥越神社のHPです
「当神社は、白雉2年(651)の創建。日本武尊、天児屋根命、徳川家康を合祀している。社伝によると、日本武尊が、東国平定の道すがら、当時白鳥村といったこの地に滞在したが、その威徳を偲び、村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とする。後、永承年間(1046-52)欧州の安部貞任らの乱(前九年の役)鎮定のため、この地を通った源頼義・義家父子は、名も知らぬ鳥が越えるのを見て、浅瀬を知り、大川(隅田川)を渡ったということから鳥越大明神と名づけた。以後、神社名には鳥越の名を用いるようになり、この辺りは鳥越の里と呼ばれるようになった。天児屋根命は、武蔵の国司になった藤原氏がその祖神として祀ったものとされる。また、徳川家康を祀っていた松平神社(現、蔵前4-16附近)は、関東大震災で焼失したため大正14年に当社に合祀された。
例大祭は、毎年6月9日前後の日曜。千貫神輿といわれる大神輿の渡御する「鳥越の夜祭」は盛大に賑わい、また正月6日に正月の片付け物を燃やす行事「とんど焼き」も有名である。」
        
                                                 本殿
           
    東北大震災の復興祈願ののぼりが並んでいました      
        

         
         江戸通りと隅田川に架かる厩橋                        江戸通りを進むと間もなく浅草です、駒形橋交差点、スカイツリーも完成間近

          
          金龍山浅草寺「雷門」、相変わらず観光客で混雑していました         観光人力車が客待ち、空き車が目立ちます

 

         

   

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横尾山ハイク

2011-08-12 20:32:09 | 登山



メンバー6名が車2台に分かれて調布ICと国立府中ICから中央道に乗り談合坂SAで待ち合わせましたが途中で事故があり中央道は大渋滞、予定より1時間以上遅れて談合坂SAに到着、2台合流して山に向けて出発しました、なお帰路も自然渋滞と事故で大渋滞でした。

        
      横尾山登山の為の駐車場 2台が我々の車です   登山口の信州峠は長野県です                     

                               
                      登山道が岩場に変わりました                                            向かいの山に雷雲が
 
        
      なだらかな熊笹の中の登山道を歩き、岩場の急斜面を登り切ると「カヤトの原」、ここから頂上まで45分です   
                 
             
        中腹から見る山梨側の山並み               前方の山が雨で霞んで見えます            花崗岩の山、瑞牆山(2230m)が眼前に見えました

        
     ハクサンシャジン                                                       タカネナデシコ

          天気が良ければ眼下に清里の町、八ヶ岳、鋸岳、甲斐駒、鳳凰三山そして富士山が望めるはずでした。

          
                        横尾山山頂は岩場でした、遠雷を聞きながら小一時間の昼食タイム

        
                今回のハイク参加者の面々です、現役2名、リタイア組4名ですが体力差は?              
 
             
                                

          
    食後のリラックスタイム                   集合写真                           雷の音が近づいてきた為、下山を開始

             
          八ヶ岳方面で雨が降っているのがはっきりと判ります                       雷の音が大きくなってきました 

                 
       近くにも雲が湧いてきました、雨が降りそう       予定1時間半を1時間で下山、駐車場まで5分のところで雨が降り出しました
     

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小石川後楽園~伝通院を歩く

2011-08-03 20:33:50 | 歴史散歩

小石川後楽園
飯田橋から徒歩10分程のところに位置しており国の特別史跡、特別名勝として広大な敷地が庭園として開放されています、水戸藩上屋敷として二代藩主光圀(黄門)の時代に完成した回遊式築山泉水庭です。

           

                    
                    外堀跡から出土した石を使い江戸時代の「打ち込みハギ」という石積み方法で作られた塀



       
     入園は有料です(¥300.-)                庭園に入ると東京ドームの屋根が見えます   昔の雰囲気を出すあずまや「丸屋」

           
                                         蓮池に咲くハスの花

              
               江戸時代の高級な酒亭を再現しているそうです                          一本松

        
  神田上水から引き込んだ水を造った大堰川        屏風岩                            西湖堤(中国の景勝地西湖を模しています)

                             
                                          しだれ桜が有名です  

         
   塀の石垣には動員された大名の名が残されています、備中成羽藩主山崎家の「山」の刻印          塀の瓦に徳川水戸藩の家紋

北野神社
元暦元年(1184)、
源頼朝公が当地にあった岩に腰掛け休息したとき、夢に牛に乗った菅原道真公が現れ「二つの喜びがある」と告げられた。翌年その喜びがあり、頼朝公がこの岩を祀り牛天神を創建。以来、境内にある牛の形をした岩(ねがい牛)を撫でると願いが叶うと言われています。(北野神社のHPより)

           
               牛天神下交差点から安藤坂に向かって坂を上がると民家の中に神社がありました、階段を登ると神社です

         
        本殿                                                        牛が鎮座しています

         
         源頼朝が腰を掛けたと言われる石                                  本殿の狛犬

        
  地元の鎮守様として守られていました            牛天神の提灯                          路上の案内

                      
伝通院に向かい安藤坂を右折するところを間違えて直進してしまいましたが途中に仏教大学大学院があって、その入口に15代将軍慶喜が大政奉還後に住んだ屋敷跡の碑がありました

            
    江戸時代初期に井の頭池からこの辺りの地下を通り神田、日本橋に水を供給していました      春日二丁目の旧町名は「金富町」


伝通院(浄土宗の寺院)
創建は応永2年(1415)、徳川家康の生母「於大の方」の菩提を弔らってっています、慶長7年(1602)以来徳川家の菩提寺とされました、於大の方の他に二代将軍秀忠の娘で豊臣秀頼に嫁いだ千姫、尊王攘夷急進派の清川八郎、作家の柴田錬三郎等の墓がありました、於大の方の墓石は大きな五輪の大塔でした。
幕府の親衛隊であった新撰組の前身である浪士組はこの境内で結成式を行いました。

                 
        安藤坂を直進すると伝通院です                    現在、伝通院の正門となる楼が建設中でした
  

                 
        本堂                                                                徳川家の葵の紋

                 
          伝通院の概要                                                        正門脇の提灯
     







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