以前勤めていた会社で所属部署、勤務地、年齢がバラバラなリタイアした親父達が集まって月一回、都内・近郊を歩いています。
1月22日は「江戸の歴史巡り」で門前仲町からスタート、累計12回目の遠足です。
富岡八幡宮
寛永4年(1627)に創建され、徳川将軍家からも庇護をうけて江戸庶民からも「深川の八幡さま」と親しまれてきたが、一昨年の不祥事により大幅なイメージダウンで正月の参拝客が激減しているそうです。
江戸時代初期の貞享元年(1684)に始まった勧進相撲は富岡八幡宮の境内が発祥の地であり、以降100年間に渡って春と秋に本場所が開催され、その後両国の回向院に開催地が移っています。
現在でも境内では横綱になった力士の奉納が行われていて、境内には相撲関係の碑が建てられています。
また、毎年8月に行われる例大祭「深川八幡まつり」は120基の街神輿(そのうち54基の大神輿)が勢揃する連合渡御は赤坂・日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭と共に「江戸の三大祭」として現在まで引き継がれています。
近くに住んだ伊能忠敬は測量の旅に出る際に八幡宮にお参りしてから旅立ったと言われる
大関力士碑
本殿
本殿裏手にある横綱力士碑、初代からの横綱の名前が刻まれた石碑がたっており、今回引退した「稀勢の里」も刻まれている
「稀勢の里」の次はブランク
右の石碑には江戸時代の初代「明石滋賀之助」から始まり歴代の横綱名が並んでいた
深川不動尊(成田山新勝寺東京別院)
元禄16年(1703)に創建され、成田山新勝寺の本尊の出開帳により「深川の不動様」として江戸庶民の篤い信仰を集めた。
新たに建てられた本堂は回廊となっていて外壁には数えきれないクリスタルのお不動様が並んだ荘厳な空間となっています
毎日行わる「護摩修行」 本堂前の大草鞋
寛永6年(1629)に創建された法乗院ゑんま堂(深川閻魔堂)、日本最大のゑんま大王坐像があります
途中にあった里見八犬伝の著者滝沢馬琴誕生の地の碑 清澄庭園の向かいにある「深川江戸資料館」の案内
資料館に向かう途中にある古刹「霊巌寺」、江戸時代田沼意次失脚後「寛政の改革」を断行した白川藩主で老中松平定信(徳川吉宗の孫)の菩提寺
深川江戸資料館
館内には江戸時時代末期(天保期)の深川佐賀町の町屋(表店と裏店)を実物大で再現しています
夜明け前の町屋の設定
木戸、表店、裏店(九尺二間の長屋)、火除け地、屋台、共同スペース(井戸・トイレ・ごみ溜め・稲荷)等がコンパクトにまとめられて江戸時代のエコ生活がしのばれる
長屋になじむ親父5名 資料館近くにあった江戸みやげ屋
「古池や蛙飛び込む水の音」
近くにある芭蕉記念館分館屋上の「芭蕉庵史跡展望庭園」と芭蕉稲荷大明神
旧宅後に建つ芭蕉庵跡の碑 討ち入りを終えた赤穂浪士が近くの堅川一の橋を渡り泉岳寺に向かったと言われる
名木川脇にある庭園にある芭蕉像
庭園から見た隅田川
ランチは大正13年創業の森下の老舗割烹「みゃ古」で、深川めしの名店です
あさりがたっぷりの「深川めし」セット
近くに池波正太郎の鬼平犯科帳に出てくる軍鶏鍋屋「五鉄」の店があったという設定
森下駅近くにあるベーカリー「カトレア」カレーパンの元祖です 両国・時津風部屋
赤穂浪士が討ち入った高家肝煎吉良上野介の屋敷、通称「本所松坂町の吉良邸」跡が小さな公園として残されていた
回向院
明暦3年(1657)に江戸の大半を焼いた「明暦の大火」で亡くなった10万人や安政の大地震等の震災で亡くなった無縁仏を幕命により葬り、回向している、一方で富岡八幡宮で行われていた勧進相撲が明和5年(1768)からこの地に移され、現在の両国国技館に歴史が引き継がれている。
鼠小僧の墓、墓石を削ると「勝ち運」がつくという言い伝えがあり、墓の前に削り石が置かれていた
日本相撲協会が建てた力石 遠足終了後は両国駅近くのマックで休憩