写真紀行

日々の風景と将来に残したい風景を求めて

東御苑(江戸城本丸跡)を歩く

2013-05-17 19:53:15 | 歴史散歩

江戸城(千代田城)
平安~鎌倉期、豪族であった江戸重継氏が武蔵国を支配しており、その館が本丸、二の丸辺りにあったと言われている、江戸氏没落後、武蔵国は扇谷上杉氏の家臣太田道灌の支配下となり長禄元年(1457)に小規模な平山城が築かれました、19世紀に編纂された江戸幕府の公式記録『徳川実紀』よると、この城が江戸城のはじめとされています。

家康入府前の江戸は、まだ葦が生い茂る一寒村に過ぎなかった様ですが、入府後は城郭の整備がすすめられ、慶長8年(1603)になると全国の大名を総動員した「天下普請」によって城域を拡張、幕府の政庁として巨大な城郭が築かれ、併せて神田山を崩して日比谷入江を埋め立てる等、江戸の町づくりに本格的に着手しています。

慶長11年(1606)に始まった普請においては、諸大名に石材を運搬させると共に以下の全国の大名に普請を分担させています。

外郭石壁普請:細川忠興、前田利常、池田輝政、加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政、田中吉政、鍋島勝茂、堀尾吉晴、山内忠義、毛利秀就、有馬豊氏、生駒一正、寺沢広高、蜂須賀至鎮、藤堂高虎、京極高知、中村一忠、加藤嘉明

天守台築造:黒田長政

石垣普請:山内一豊、藤堂高虎、木下延俊

本丸の普請:吉川広正、毛利秀蹴

城廻の普請:遠藤慶隆

その後も数度に渡って増改築、修理を行いましたが、万治3年(1660)の神田川の拡幅工事で天下普請が終了しています。

完成した江戸城は本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし20基の櫓、五層の天守を持ち、現在の千代田区と港区、新宿区に至る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川を総構えとする大城郭となりました、なお天守は明暦3年(1657)の大火により焼失しましたが、再建される事がありませんでした。

大奥
徳川家康が入府当時から「奥」と呼ばれる区画は存在していたが、当時は政務を行う「表」と、城主と家族が生活する私的な場である「奥」の境界が必ずしも明確ではなかった様です、2代将軍秀忠の代になってから本丸は幕府の政治を司どる「表」、将軍が政務を執る「中奥」、将軍の私邸「大奥」に区分される様になったと言われています、3代将軍徳川家光の時代に入って、家光の乳母であった春日局により「大奥」が組織的に整備されます。
大奥は
御台所の住居である御殿、奥女中の生活する長局、事務方の役所である広敷と3区画に明確に区別されました。
大奥は一部の場所と人間を除き原則として男子禁制です、大奥には時代により増減しましたが女中の数は200~500人、下働きが、その数倍居たと言われていますので1,000~3,000人もの女性が住んでいたと推測されます。
従って幕府の総支出に占める大奥の経費も莫大で、町奉行所の年間経費が2,000両(約3~4億円)の時代に、御台様(将軍の正室)の合力金(衣装代など)だけで年間支出額が6,000両(約9~12億円)で不足すると追加されたそうです、なお大奥全体で掛かる経費は別に計上されています。(ちなみに江戸時代には予算と言う概念は無かった様です) 

                                           
                                                      
                                                                          江戸城のレイアウト


                                                 
                                                       江戸城本丸寛永絵図、図の上半分が大奥、その下が中奥、表
                                

                         
         馬場先壕に架かる和田倉門から入りました               江戸城の正門である大手門、東御苑の入口でもあります 
         

  
                        
       旧大手門の渡櫓の鯱、明暦の大火後に造られていました             昭和43年に再建された大手渡櫓門


                          
             同心番所                                 皇宮警察の建物から見た丸の内のビル群


                         
          百人番所                                  
           

                        
          百人番所の甍と丸の内のビル群                   本丸に現存する最古の櫓「富士見櫓」、江戸時代の姿をとどめています      

 
                          
      大奥に火災が起きた際に貴重品を避難させる石室               浅野内匠頭が吉良上野介に切り付けた「松の大廊下」跡

 
                        
                                                     本丸跡、現在は公園になっています

 
                        
        黒田長政が造営を担当した天守台                       天守台、往時この石垣の上に五層の天守がありました
                        


                         
            明暦の大火後、家光の異母弟である保科正之の「平時に天守は不要」と言う助言を受けて天守閣は造られませんでした


                          
                         天守台跡から見た本丸跡、手前から芝生部分が大奥があった場所です


                          
                     丸の内のビジネス街を走る車の騒音もここまでは届かず、静寂が支配していました

                   
                         
      昭和皇后の還暦を記念して建てられた桃華楽堂            天守台から見た本丸跡、奥に丸の内ビル群が見えます
        

                         
         緻密に積み上げられた天守の石積み                              大奥跡

 

                        
      吹上御苑から二の丸庭園に移された諏訪の茶屋              二の丸庭園、この時期は見るべき花が少ない

                        
                             


                        


                        
                                                   本丸から二の丸庭園を巡り大手門に戻りました

                        
                                                     皇宮警察のパトカーが巡視中

 

                       
          二の丸庭園全景                            数トンもありそうな石もあって機械の無い時代の苦労が偲ばれます


                    
     汐見坂を下った所にあった皇居正門前の電燈                    見事な石積みの中雀門跡 

 

                         
        石は主に伊豆から舟で運ばれたそうです              大手門はこの高麗門と手前の大手渡櫓門で構成されています                 



コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2013 神田祭り

2013-05-13 10:02:33 | 歴史散歩

神田明神
神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内、江戸神社奉賛会(旧神田市場)、築地魚河岸会と東京の中心部の108町を氏子とする「神田明神」は創建が天平2年(730)と古く、江戸時代には将軍家の篤い庇護を受けて「江戸の総鎮守」とされていて、2年に一度行われる「神田祭」は深川の富岡八幡、山王神社の祭礼と共に「天下祭り」と呼ばれ祭礼行列が江戸城内に入る事を許され、将軍や御台所の前で神輿が担がれたそうです。
 
今年、四年ぶりに行われた祭礼は以下の日程で盛大に開催されました。
5月09日 鳳輩神輿遷座祭
5月10日 氏子町会神輿神霊入れ
5月11日 神幸祭
5付12日 神輿宮入
5月14日 表千家家元奉仕献茶式・明神能「幽玄の花」(金剛流薪能)
5月15日 例大祭(里神楽奉納)

神田明神の祭礼である「神田祭」は江戸の下町を氏子としたことも手伝ってか、歴史の重みも加えて他の祭りには無い独特の雰囲気がある様です。


                
                 
                                                    江戸時代の神田祭(神田明神のHPより)

                             
                    JR御茶ノ水駅から聖橋を渡り湯島聖堂前から神田明神までの通りは交通規制で混雑していました


         
                 宮入は町内会毎に時間が決められていて終日をかけて行われました

          
               湯島聖堂前で宮入の順番待ち
      
     
            
       高張提灯を持つのは全員女性                                       イナセナふんどし姿が何とも風流(?)

  
               
                                神田中央連合の神輿
                
   
            
                               出番を待つ神田東紺町会の神輿   


              
    神田明神に入る順番待ち、一基が大体30分程で移動、この日90基が入りました         家族で参加、坊やの今後が楽しみ  


              
                  参道を通り明神の随神門を入る神輿                          神田明神の大鳥居


             
         神輿の周囲は熱気 に包まれています、宮入の厳粛さと4年振りの祭りの為か、どの神輿の担ぎ手にも高揚感を感じました

    
          
            明神内で神輿を奉能                                            きれいどころが華を添えます 


            
               室町一丁目会の加茂能人形山車が社殿脇出ています                       社殿前で奉納中の神輿
        


            
                       随神門の内部                              奉納を終えた神輿は次の神輿に場を譲ります  


          
                            神前で奉納を終えた神輿が各町内会に戻ります   
           
        
     
            
                担ぎ手がちびっ子達の中央連合の神輿  

         
   

               
            奉納を終えて明神を出る中央連合「魚河岸」の神輿


              
                   奉納を終えて明神様を出る神田中央連合の神輿、担ぎ手はほとんどが女性でした
                      
              
             

              
                          奉納を終えて明神境内を出る「魚河岸」神輿、女子力に脱帽
                         

    
           神田岩本町の高張提灯                                            明神をでる「魚河岸」神輿
               

          
        終日、境内は人で一杯
                 


      
          祭務所横の神楽殿                                                       境内は人で一杯です
 

          
         明神様の境内には昔ながらの屋台が並んでいます、寅さんが居てもおかしくない雰囲気でした


           
    テレビカメラが境内に入ってくる神輿を追っています       午後2時、大手・丸の内町会(将門塚保存会)の神輿があ出番を待っていました


           
             間もなく出番です


           
                                                             大手・丸の内の神輿が明神様に入ります                                                                            

   

          
                                                                待機中の担ぎ手の二人、お疲れ様 
   

           
      明神から御茶ノ水に向かう途中、猿楽町の神輿が町会に戻る途中でした、地元に戻ってから4基の神輿で町内を巡るそうです


             
                                   鳴り物と神輿がセット

             
                       暫し休憩の後、また神輿が担がれて動き出しました 
  

          



        

午前11時に御茶ノ水に着き、神輿と一緒に神田明神に向かい数基の神輿を撮った後、御茶ノ水の戻りました、時間は午後2時、昼食は「肉の万世」でボリュームのあるコンボセット+ビールをオーダー。

           
     向かの席に祭りの担ぎ手がやはり昼食中、その中の3名は外国人、絵になる景色の為、写真を撮らせて貰いました


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸東京たてもの園内ウォーク

2013-05-07 19:14:46 | 歴史散歩

 江戸東京たてもの園 
平成5年、江戸東京博物館の分館として小金井公園内に建てられた都立の施設、園内はセンターゾーン、東ゾーン、西ゾーンに分かれています。

       
       都立小金井公園                         ビジターセンター
  

        
    ビジターセンターにはその日のイベントが表示されていました      入園料は大人¥400.-

センターゾーン
 
          
         園内に入るとボンネットバスが展示されていました


          
              明治4年から旧江戸城本丸跡に設置され、正午に空砲を撃って時報を知らせた「午砲」


           
    尾張藩主光友の正室が母(三代将軍家光の側室)の供養の為に建てた霊屋(慶安5年建立)        上野寛永寺の灯籠


高橋是清邸
「だるま蔵相」と呼ばれ8度の大蔵大臣を経験し第20代総理大臣も務めた高橋是清邸が赤坂から移築され、内部も公開されていました、なお高橋は昭和11年に起きた2.26事件で軍部の若手将校の凶弾に倒れています。


          
            二階の和室が是清の寝室、ここで暗殺されたそうです

          
       港区白金から移築された旧宇和島藩伊達家の表門、、建設されたのは大正時代

東ゾーン
          
      旧下谷消防署望楼の三脚四層式の望楼部分、昭和45年まで使用されていたそうです   皇居正門石橋飾電燈、明治20年代に建造


          
           明治末期に造られた万世橋交番                           都電7500形が鎮座

 
          
            往時のカラーで保存されてる7500形                          新橋―渋谷間を走っていた様です


         
     台東区池之端にあった小間物屋「村上精華堂」 昭和3年築


       
       港区白金台にあった乾物屋「大和屋本店」 昭和3年築


       
      (左)「花市生花店」 (右)荒物屋「丸二商店」いずれも昭和初期築             花市生花店の側面


ホウロウ製の懐かしい看板が時代を感じさせます

       



          


         

 

            
       路地も造られて入ました                                         手押しポンプも現役


           
      江戸川区小岩にあった和傘問屋「川野商店」 大正15年築
         

          
         港区白金にあった「小寺醤油店」  昭和8年築
  

         
      青梅市の旅籠「万徳旅館」 江戸末期から明治初期築


         
       文京区向丘の町屋、内部は仕立て屋を再現 明治12年築


         
      足立区千住元町にあった唐破風の銭湯「子宝湯」 昭和4年築


          
         昭和28年の入浴料金                          東ゾーンの全景
                

             
                          子宝湯のれん越しに見た風景

          
           台東区下谷にあった居酒屋「鍵屋」 安政3年(1856)築                   


          
          大田区鵜の木にあった名主屋敷 築は江戸時代後期

西ゾーン
三井八郎右衛門邸(三井財閥総領家)
港区西麻布にあった三井家11当主高公が昭和27年に建てた邸宅と蔵が移築されていました。


          
         
 

           
       母屋と蔵内部が公開されていました                                  廊下のシャンデリア
 

       
    引き戸にも装飾がほどこされ、室内の調度品なども贅をつくした高級品とお見受けしました   

      


       
                                            蔵の内部
      
    デ・ラランデ邸

明治43年、新宿区信濃町にドイツ人建築家デ・ラランデが自宅として建設した洋館、そのごカルピス創業者(三島海雲)達が住居としていたそうですが今月、復元・移築されました。
なお、1階はコーヒーラウンジとして営業中

           
                      外観                                      1Fはコーヒーラウンジになっています

       
                                      

八王子千人同心組頭の家                   
八王子千人同心は徳川幕府の職制の一つで武州八王子に配属された郷士身分の幕臣集団です、八王子は武蔵野国と甲斐国の境界にあり、有事の際に小仏峠方面を守備させる事を目的に編成されました。
千人同心の配置された多摩郡は徳川の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったと言われています、この地で興った天然理心流の家元近藤家も千人同心で、近藤勇、土方歳三等、この地から新撰組に参加する者が多く出ています。
100名編成が10組、各組には組頭が置かれ、旗本身分の八王子千人頭により統率され、槍奉行の支配下にありました。
なお、千人同心は警備を主任務とする軍事組織でありましたが、平時は農耕に従事し、年貢を納める半士半農といった立場であった。


           
                         組頭屋敷                                入口を入ると浴室(湯あみ用桶)がありました


      
             竃


         
    世田谷区岡本から移築された江戸時代中期に建てられた豪農の家「綱島家」


         
    三鷹市野崎から移築された名主の家「吉野家」、江戸時代後期築




コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする