江戸城(千代田城)
平安~鎌倉期、豪族であった江戸重継氏が武蔵国を支配しており、その館が本丸、二の丸辺りにあったと言われている、江戸氏没落後、武蔵国は扇谷上杉氏の家臣太田道灌の支配下となり長禄元年(1457)に小規模な平山城が築かれました、19世紀に編纂された江戸幕府の公式記録『徳川実紀』よると、この城が江戸城のはじめとされています。
家康入府前の江戸は、まだ葦が生い茂る一寒村に過ぎなかった様ですが、入府後は城郭の整備がすすめられ、慶長8年(1603)になると全国の大名を総動員した「天下普請」によって城域を拡張、幕府の政庁として巨大な城郭が築かれ、併せて神田山を崩して日比谷入江を埋め立てる等、江戸の町づくりに本格的に着手しています。
慶長11年(1606)に始まった普請においては、諸大名に石材を運搬させると共に以下の全国の大名に普請を分担させています。
外郭石壁普請:細川忠興、前田利常、池田輝政、加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政、田中吉政、鍋島勝茂、堀尾吉晴、山内忠義、毛利秀就、有馬豊氏、生駒一正、寺沢広高、蜂須賀至鎮、藤堂高虎、京極高知、中村一忠、加藤嘉明
天守台築造:黒田長政
石垣普請:山内一豊、藤堂高虎、木下延俊
本丸の普請:吉川広正、毛利秀蹴
城廻の普請:遠藤慶隆
その後も数度に渡って増改築、修理を行いましたが、万治3年(1660)の神田川の拡幅工事で天下普請が終了しています。
完成した江戸城は本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし20基の櫓、五層の天守を持ち、現在の千代田区と港区、新宿区に至る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川を総構えとする大城郭となりました、なお天守は明暦3年(1657)の大火により焼失しましたが、再建される事がありませんでした。
大奥
徳川家康が入府当時から「奥」と呼ばれる区画は存在していたが、当時は政務を行う「表」と、城主と家族が生活する私的な場である「奥」の境界が必ずしも明確ではなかった様です、2代将軍秀忠の代になってから本丸は幕府の政治を司どる「表」、将軍が政務を執る「中奥」、将軍の私邸「大奥」に区分される様になったと言われています、3代将軍徳川家光の時代に入って、家光の乳母であった春日局により「大奥」が組織的に整備されます。
大奥は御台所の住居である御殿、奥女中の生活する長局、事務方の役所である広敷と3区画に明確に区別されました。
大奥は一部の場所と人間を除き原則として男子禁制です、大奥には時代により増減しましたが女中の数は200~500人、下働きが、その数倍居たと言われていますので1,000~3,000人もの女性が住んでいたと推測されます。
従って幕府の総支出に占める大奥の経費も莫大で、町奉行所の年間経費が2,000両(約3~4億円)の時代に、御台様(将軍の正室)の合力金(衣装代など)だけで年間支出額が6,000両(約9~12億円)で不足すると追加されたそうです、なお大奥全体で掛かる経費は別に計上されています。(ちなみに江戸時代には予算と言う概念は無かった様です)
江戸城のレイアウト
江戸城本丸寛永絵図、図の上半分が大奥、その下が中奥、表
馬場先壕に架かる和田倉門から入りました 江戸城の正門である大手門、東御苑の入口でもあります
旧大手門の渡櫓の鯱、明暦の大火後に造られていました 昭和43年に再建された大手渡櫓門
同心番所 皇宮警察の建物から見た丸の内のビル群
百人番所
百人番所の甍と丸の内のビル群 本丸に現存する最古の櫓「富士見櫓」、江戸時代の姿をとどめています
大奥に火災が起きた際に貴重品を避難させる石室 浅野内匠頭が吉良上野介に切り付けた「松の大廊下」跡
本丸跡、現在は公園になっています
黒田長政が造営を担当した天守台 天守台、往時この石垣の上に五層の天守がありました
明暦の大火後、家光の異母弟である保科正之の「平時に天守は不要」と言う助言を受けて天守閣は造られませんでした
天守台跡から見た本丸跡、手前から芝生部分が大奥があった場所です
丸の内のビジネス街を走る車の騒音もここまでは届かず、静寂が支配していました
昭和皇后の還暦を記念して建てられた桃華楽堂 天守台から見た本丸跡、奥に丸の内ビル群が見えます
緻密に積み上げられた天守の石積み 大奥跡
吹上御苑から二の丸庭園に移された諏訪の茶屋 二の丸庭園、この時期は見るべき花が少ない
本丸から二の丸庭園を巡り大手門に戻りました
皇宮警察のパトカーが巡視中
二の丸庭園全景 数トンもありそうな石もあって機械の無い時代の苦労が偲ばれます
汐見坂を下った所にあった皇居正門前の電燈 見事な石積みの中雀門跡
石は主に伊豆から舟で運ばれたそうです 大手門はこの高麗門と手前の大手渡櫓門で構成されています