写真紀行

日々の風景と将来に残したい風景を求めて

木曽路3宿

2009-12-15 12:04:08 | 古跡

木曽路3宿(奈良井・妻籠・馬籠)

江戸時代、日本橋から武蔵・上野・信濃・美濃を経て近江・草津で東海道と合流して京都に至る中山道は東海道とともに江戸と京都を結ぶ街道でした。
しかしながら東海道の53宿(126里)に比べて67宿(139里)と距離が長い上に山道や峠道も多くあって人馬の往来、継立が困難であった事から東海道に比べて利用度は低かったと言われています。

名古屋在勤中、中山道のうちで往時の姿を残していると言われる南木曽道11宿のうち3宿を歩きました。

〝木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。"

藤村の名作「夜明け前」の冒頭です、中山道は信濃路の平坦な道が木曽に入ると山間を貫く嶮しい路となります。

奈良井宿
街道の難関である鳥居峠をひかえて「奈良井千軒」と言われ、木曽路一番の賑わいを見せた町並みは妻籠、馬篭ほど人気度が高くない為か、あまり俗化されておらず往時の面影を色濃く残していました。
奈良井川に沿って続く中山道の両側に町並みが続きます。

JR中央本線奈良井駅脇の表示板                      宿場案内図                                                 落ち着いた佇いの町並みです                       

町中には国指定の重要伝統的建物が並んでおり、町並みは「美しい歴史風土100選」に選定されています
   

 


妻籠宿

JR中央本線南木曽駅で下車しました、妻籠宿まではバスの路線がありますが、ハイキングコース(山道)を歩くことにしました。
木曽川に架かる桃介橋(国の重文)を渡りしばらく歩くと細い山道に出ます、その道を歩くこと30分ほどで関西電力読書発電所(国の重文)の脇に出て国道19号線を歩くこと20分程で妻籠宿の大標識が見えました。
国道を逸れて10分程で妻籠宿です。
電線は地下に埋められていて電柱は無く、奈良井宿と共に国の「重要伝統的建物群保存地域」に指定された宿場です。
宿場の佇まいは往時そのままを残していて時代劇のセットと見まごうほどで過去に「座頭市」の撮影にも使われているそうです。

                               千本格子、連子格子の建物が目立ちます
     
                              松代屋は創業180年の旅籠です
   

妻籠から馬籠へ

妻籠宿から馬籠宿までは9km、路線バスに乗らずに旧道を歩くと3時間かかります、途中に大妻籠、男滝/女滝、馬籠峠と変化に富んだ山道が続きます。

道路脇には道祖神がありました           アップした夫婦です                    石畳が残っていました
       

   妻籠宿と馬籠宿の間に建つ道しるべ、脇には昔の道標と道祖神が残されています
 

両宿場の間にあった旅籠


馬籠宿

木曽11宿の最南端に位置しており美濃との国境にあります。
妻籠から旧道を歩くこと約2.5時間、馬籠峠の茶屋で一休みしてから先を目指しました、峠を少し下り国道を渡ってアップダウンの旧道をしばらく行くと馬籠です、宿場の手前に展望台が設けられており深田久弥が選んだ日本百名山のひとつ恵那山(2191m)の全容が望めます。
宿場の入口には高札場があり、馬の背の様な山の斜面に沿った細長い宿場が眼下に見えてきます。
この宿場は敵に対する防備の為、道を直角に曲げた桝形という町造りがされております、また馬籠は島崎藤村の生誕の地としても有名で、宿中には藤村記念館(島崎家本家跡)や本陣、脇本陣が残っていましたが、残念ながら観光地化しており観光客相手の土産物屋や飲食店が並んでいて奈良井、妻籠の様な昔の佇まいは望むべくもありません、この日も観光バスが何台も観光客を送り込んでいました。
帰路はJR中央本線中津川までの路線バスに乗りました。

宿場は坂道の両側に細長く続いています、前方に恵那山が見えます
       

                          
飲食店、民芸品店が目立ちました         右手に藤村記念館がありました
            
   
                              
道は直角に曲がって(桝形)急な階段となります
     

宿場を裏側から撮りました                              秋空の下のコスモスの花                稲の収穫が終わっていました
   

 

 

  

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京都の秋と竜馬

2009-11-24 10:31:28 | 古跡

京都の秋と竜馬

なぜ日本人は紅葉に心魅かれるのでしょうか。
春から夏にかけて人の目を和ませた鮮やかな緑の衣が徐々に色ずいて落葉する様が禅の「わび、さび」の心にも通るからなのでしょうか。
日本には紅葉の名所と言われる所が沢山あります、多くは大自然の中の景色ですが、その中にあって寺院、庭園を背景とした京都の紅葉の風情は別格です。
この時期になると、京都の寺社、仏閣には各地からの紅葉観賞の観光客がドット押し寄せ、名所と言われる寺院などは人波であふれます、かく言う私もその風情に魅せられた一人です。


東福寺  京都五山の一つ、通天橋より臥雲橋を望む、2,000本の楓が見事です

                                                             
                                                    

嵯峨野
常寂光寺 小倉山山麓に建つ日蓮宗の寺。
祇王寺   真言宗の尼寺、正しくは「往生院祇王寺」です。
            

                                                                                                   


                                         落柿舎(芭蕉の弟子向井去来の庵)の庭にある柿の木

                                                        


南禅寺  臨済宗南禅寺派の大本山(  歌舞伎「桜門五三桐」で石川五右衛門が登り「絶景かな、絶景かな」と見得を切った巨大な三門からの紅葉も見ごたえがあります)

                 


坂本竜馬
維新に大きな影響を与え幕末の動乱の中を駆け抜けた竜馬。
慶応3年11月15日、京都河原町の醤油商近江屋の二階にいたところを何者かに急襲され中岡慎太郎と一緒にその生涯を閉じました、実行者は京都所司代見回組、薩摩藩、新撰組など諸説がありますが特定されていません。

                   霊山護国神社にある坂本竜馬・中岡慎太郎の墓
        

河原町にある龍馬寓居跡(木材商酢屋跡酢屋)                                            
     

伏見寺田屋
竜馬が伏見奉行所に捕縛されそうになった寺田屋、現在の建物は当時の建物ではなく、その後、再建されたと言う説もあります。
伏見は日本酒の生産地としても有名で、寺田屋の前を流れる運河沿いには酒蔵が建っていました。

          
 

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中山道(細久手宿ー大湫宿)

2009-11-17 15:27:51 | 古跡

中山道を歩く

 江戸・日本橋から近江(滋賀)・草津宿(距離:129里 69宿)を結ぶ中山道は、草津宿で東海道と合流して京・三条大橋に至る江戸時代の大動脈でした。
中山道と言えば妻籠宿(中山道42番宿)、馬篭宿(43番宿)が宿場町の風情で有名ですが、秋晴れの一日、48番目の宿場である細久手から47宿の大湫を歩いてきました。

木曽路から続く2宿も山間にある宿場でした、街道の途中には琵琶峠など急な登山道もありましたが一日10里を歩いた昔の人の足には大きな負担とならなかったのではと思いを巡らせながら歩きました。
街道の途中には「一里塚」が往時のまま残されており、貴重な文化遺産として現在も岐阜県が保護しておりました、これからも残したい貴重な歴史遺産です。

中山道と言えば文久元年(1861)、「公武合体」により仁孝天皇第8皇女の和宮が14代将軍家茂に降嫁する際に通った道でもあります、10月20日に京を立ち、9日目の28日に大湫宿に宿泊、11月15日に江戸に到着しています。
降嫁の行列は総勢5,000人と言われ、大湫宿での継立には、人員28,000人、馬820頭が招集されたと記録に残されている様です。
大湫宿本陣に宿泊した皇女和宮はこの地で
遠ざかる都と知れば旅衣 一夜の宿も立ちうかりけり
 思いきや雲井の袂 ぬぎかえて うき旅衣袖しぼるとは
と心を交わした男性と離別させられて将軍に嫁ぐ不遇と寂しさ、心細さを詠っており読む者の心に迫ります。
なお、この道は別名「姫街道」とも言われています。
 
  
細久手にあった中山道宿場案内              道路脇にあった皇女和宮行列の絵                    道案内                    農家の縁側に柿が干されていた
     

往時の石畳が残されていた                                                               一里塚
            
    
小坂馬頭塚                              琵琶峠の馬頭塚、脇に和宮の歌碑                街道に建つ北野神社                                                      
    

街道脇にあった広重の絵の案内                 大湫宿入口の高札場                       本陣跡に建てられている和宮の歌碑                      

  

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比叡山延暦寺の門前町・坂本

2009-10-02 15:10:13 | 古跡

比叡山延暦寺の門前町・坂本

琵琶湖を右手に見て比叡山麓を走る京阪電車で比叡山の入り口である坂本に向かいました。
この町の歴史は古く、元亀二年(1571)の織田信長の比叡山焼き打ちで町が廃墟となっています、その後、明智光秀が湖畔に坂本城を築城(現在は碑だけが残されています)するなど歴史の裏舞台で様々な変遷を経てきています。
坂本駅を出て国道316号線をしばらく歩くと右手に日吉大社入口、左に比叡山に登る登山道、さらに左に進むと比叡山に登るケーブルカーの駅です。
比叡山で修業を終えた高僧が隠居後に生活を送った里坊が今でも50余り残されていて静かなたたずまいを見せています。
また町並みを歩くと穴太衆積み(あのうしゅうづみ)という独特の石垣が続いています、自然石を巧みに組み合わせ城などの石垣を造った石工集団が出た地とのことです。
観光案内所
向かいの通りを入ったところに創業270年と言う老舗の蕎麦屋「本家鶴喜そば」があります、蕎麦も美味でしたが、酒のつまみに食べた鰊棒煮が最高でした。

観光案内所にある案内

    

比叡山に向かう道                 右手は日吉大社、左が比叡山に向かう道        叡山への道
    

穴太衆積みの石垣                創業270年の老舗「鶴喜そば」本店
  

西教寺
坂本駅から徒歩で20分、比叡山の南東山麓に大きな寺域を有しており、全国に450以上の末寺を持つ天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山です。寺伝では、聖徳太子(574-622)が創建ししたと伝えられています。
戦国時代、織田信長による延暦寺焼き討ちで焼失したとき、明智光秀が総門・庫裏(くり)などを寄進するなど同寺の再建に尽力したこともあって境内には、光秀一族の墓があり、明智家の菩提寺となっています。

        

本堂                         徳川家康が寄進したと言われる井戸       寺院から見た琵琶湖
     

参考
本家鶴喜そば 
http://www.tsurukisoba.com/honten.html

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長谷寺

2009-09-30 21:35:09 | 古跡

長谷寺(豊山)
http://www.hasedera.or.jp/

近鉄奈良線長谷寺駅下車、急な坂を下って伊勢と大和を結ぶ初瀬街道を渡り徒歩20分程で初瀬山中腹の長谷寺参道に到着します。
長谷寺は、真言宗豊山派の総本山であり、西国三十三観音霊場第八番札所で全国に末寺三千余ヶ寺、 檀信徒はおよそ三百万人といわれております。
また7,000株と言われるのボタンや四季折々に
花が咲き「花の寺」とも言われております、秋は全山が紅葉して伽藍や五重塔とのコントラストが見事です、私自身、春1度、秋2度訪れてこのお寺の風情に魅せられた一人ですが、雪の景色も素晴らしいと言われます。
創建は不明だそうですが奈良時代の8世紀前半と推定されています、「枕草子」、「源氏物語」、「更級日記」などの古典文学にも登場する名刹です。
仁王門から本堂までは屋根がついた階段(登廊)が5棟(下登廊、繁屋、中登廊、蔵王堂、上登廊)399段続きます。

仁王門(重文)
                
 

登廊(重文)                      秋の登廊                       春の登廊                            
    

仁王門から続く登廊                本堂からの眺め                    鐘楼(重文)と本堂(国宝)
   

登廊途中から五重塔に向かう階段が続きます                       舞台と本堂からの眺め
      

本堂内(相の間)                  本堂相の間ではお琴の演奏が行われていました、奥が正堂です
   

本堂(国宝)は本尊は十一面観音(重文)、をまつる正堂、相の間、礼堂からなる広大なもので、全面は京都の清水寺本堂と同じく、舞台造りとなっています。
広い舞台からは全山が望め、特に紅葉時の五重塔はこの寺ならではの景色でした。

                             

       

本坊(根本道場、大講堂、書院、寺務所があります)から見た本堂
           
     

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石山寺と瀬田川

2009-09-29 18:18:36 | 古跡

石山寺(石光山)

京阪電車石山坂本線の終点の石山寺で下車、瀬田川沿いに歩くこと10分で石山寺山門(東大門)に到着します。
天平19年(747年)に創建された名刹で清水寺(京都)、長谷寺(奈良)と並ぶ観音霊場と言われ西国三十三箇所観音霊場第13番札所となっています。
山内は広大な敷地を有しており豊浄殿、庭園(無憂園)など見所が多くありました。
紫式部が「源氏物語」を着想をしたのがこのお寺と伝えられており、本堂に「紫式部の間」が現存していました、また和泉式部もこの寺に籠っており、清少納言の「枕草子」に同山が出てくるなど古典文学に縁の深いお寺です。

建久元年(1190年)に源頼朝の寄進により建てられたとされる東大門(重文)
       

境内にある公風園白耳亭の紅葉           国の天然記念物「石山寺硅灰岩」と紅葉、新緑時期の「多宝塔」(国宝)
                                              

     本堂(紫式部の間が見えます)
     

     「紫式部の間」                 境内裏の庭園にある紫式部の像                      庭園にある藤棚
    

瀬田川
琵琶湖から流れ出る川はこの瀬田川のみだそうです、その昔、東から京に向かうには琵琶湖を舟で渡るか瀬田川に架かる橋(唐橋)を渡るかしかなかった様です。
「唐橋を制するものは天下を制する」といわれるほど、京都の喉もとを握る交通・軍事の要衝であり、何度も戦乱の舞台となっています。
また、この橋は日本三古橋とも言われ広重の「近江百景」中、「瀬田夕照」はこの橋の風景を描いたものです。

橋を渡る道(旧東海道)は、現在でも日本道百選のひとつに選ばれています。

山寺山内から瀬田川を望む                    川辺にある名所案内と「唐橋」  
         

  橋の脇には「
日本の道百選」のプレート
  
  
広重の「近江百景」の中にある「瀬田夕照」 

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談山神社

2009-09-27 17:05:19 | 古跡

大和多武峰・談山神社(やまととうのみね・たんざんじんじゃ)
http://www.tanzan.or.jp/

昨年秋、紅葉の名所である談山神社をたずねました。
近鉄奈良線桜井駅で下車、バスに乗り換えて約50分、紅葉を見に行く車列が続く中、やっと多武峰山中の神社に到着しました。

大化元年(645)藤原鎌足と中大兄皇子が「大化の改新」の談合をこの多武峰において行い、後に「談い山」と呼んだことからその名がついたと言われていますが、神仏分離以前は多武峰寺と言う寺院であったそうです。
創建は天武7年(678)、主祭神は藤原鎌足公。
本殿は三間社隅木入春日造り、社殿全体は極彩色、模様や花鳥などの彫刻により装飾されており江戸時代に日光東照宮造営の際の見本とされたと伝えられています。

       

蹴鞠の庭から権堂、十三重塔を望む
        

十三重塔は678年に藤原鎌足の長男、次男が父を偲ぶために建立したとされ、現存の塔は1532年に再建されており、唐の清涼山宝池院にあった塔を模したと言われており屋根は檜皮葺です。                             
                  

十三重塔を背景とした紅葉

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室生寺

2009-09-11 14:09:21 | 古跡

室生寺(女人高野)

近鉄奈良線で室生口下車、バスに乗り換え室生寺を目指しました。
室生寺は深山幽谷に囲まれた名刹で、奈良時代末期(770 - 781年)に建てられたと言われています。
正式には真言宗室生寺派大本山、女人禁制の「高野山」に対し女性の参拝が認められていたことから「女人高野」の別称があります。
金堂、本堂、金堂の本尊である釈迦如来立像など多くの国宝、重文財が見所ですが、その中でも国宝の五重塔は、日本で一番小さく、法隆寺の五重塔に次いで古いものと言われていますが、平成10年の台風で樹木が塔を直撃して大きな被害を受けましたが、平成12年10月に修復されました。
同寺境内には3,000本の「シャクナゲ」が植えられており、春先には可憐な花を咲かせます。

                                         

                                

                     

  国宝 五重塔     
                           奥の院に登る石段
                                   

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関宿と江戸川

2009-08-10 14:53:37 | 古跡

関宿城

某大学のオープンカレッジで幕末期の江戸社会を勉強しています。
先日の講義で江戸周辺(甲州、上州、総州)の社会状況の説明の中でで利根川と江戸川河岸の話がありました。
利根川と江戸川が分岐している関宿には譜代大名が藩主であった関宿城がありました、今はどのようになっているのか車で行ってみました。

関宿城は500年前にこの地を支配していた足利成氏の家臣であった簗田成助が建てたと言われていますが、江戸時代には川越、忍、佐倉藩と並んで江戸城を守る重要な要所であった様です。
江戸川堤わきにあった城跡には「関宿城址」の石碑が建っており、木立に囲まれた本丸曲輪跡は一面に草が茂る野原でしたが、周囲は畑と化している中で唯一、往時を偲ばせる名残となっていました。
安土桃山後期、豊臣秀吉に関東支配を任された徳川家康は弟である松平康元に関宿を治めさせたのが藩の始まりと言われています。

以降23代藩主が代わっていますが、10代に渡り藩主であった久世氏は幕府の老中を4代務めた幕格の重臣であったと資料にありました。
禄高は5万8千石。
                                 
 
関宿城博物館

城址から数百メートルのところに城を模した千葉県立関宿城博物館が建っています。
1階は利根川・江戸川の洪水と治水の歴史が資料と共に展示されています。
2階は関宿藩の資料展示、3階は絵画の展示スペース、4階は四方がガラス窓の展望室となっておりました。
窓からは天気が良ければ富士山や筑波山などが望める様ですが、この日は曇り空で筑波山の形がうっすらと見えました、眼下には利根川本流と江戸川に分岐する流れが見えました。


       

江戸川分岐

東京湾から59.5kmさかのぼると江戸川の起点となります。
この関宿で利根川本流は銚子河口に流れる利根川と、東京湾に注ぐ江戸川に分岐しています。
両河川共に近世以降、江戸と地方を結ぶ水上交通の中心的な役割を果たしてきました。
銚子から利根川をさかのぼり、江戸川に出て江戸に物資を運ぶ大動脈であった様です。
博物館から歩いて10分位で水門がありました、利根川から分流した水は水門を通り東京湾に向かっていましたが、水質はかなり汚れていました。

       






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