両国周辺
正月の一日、奥さんに同行して江戸東京博物館で開催されている今注目の人形作家高橋まゆみさんの人形展を見に出かけました、博物館入口を入るとすでに観賞する人が長蛇の列をなしていて会場に入るまでに2時間と言われて残念ながら見るのを断念、下町散策に目的を変更しました。
国技館が博物館に隣接していて今週末から興行が行われる大相撲初場所の櫓がすでに出来ており、各力士のぼりが樹立していました。
櫓がNTT Docomoビルと張り合っています
両国は江戸時代から下町として栄えたところで史跡も数多くある土地、JR両国駅から歩くこと数分で旧本所松坂町です。
赤穂浪士が主君の仇打ちに押し入った吉良上野介邸跡が公園として残されていました。
焼死者十万人と言われる明暦の大火(振袖火事)の後、第四代将軍徳川家綱の命により回向院に慰霊碑が建てられました。
同院には他に著名な人として江戸時代の黄表紙作家の山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉等の墓がありました、なお隅田川に架かる両国橋は同院への参拝客の為に架けられたそうです。
一方、天明元年(1781)以降、同院境内で勧進相撲が催される様になりましたが、それが今日の大相撲の起源となり現在に至っています。
両国には時津風、二所ノ関、花籠、春日野など多くの相撲部屋が集まっており往時を偲ばせます。
葛飾北斎の養父、幕府の御用鏡師中島伊勢住居後 隅田川護岸の為の杭後で江戸時代の風情として有名
戊辰戦争の際、江戸に迫った官軍が幕府の本拠地である江戸を決戦の場所としている事を知り、時の官軍大総督府参謀西郷隆盛に談判、江戸城無血開城を実現させた幕臣勝海舟は文政6年(1823)この地に生まれています。
両国公園にある勝海舟生誕の碑
両国国技館の近くに隅田川遊覧船(水上バス)の乗り場がありました、東京都営と民間会社の2社が運航しているそうです。
今回は時間的に短い両国〰桜橋の水上バスに乗ることにしました、乗船時間は20分、料金は200円です。
発着場脇の案内板 乗船した水上バス まもなく吾妻橋をくぐります
桜橋・浅草周辺
本龍院待乳山聖天
この寺は隅田川べりの小高い丘(待乳山)にあるが、この丘は595年に出現して龍が守護したと伝えられ、浅草寺の山号(金龍山)の由来となったと伝えられる。601年この地方が旱魃に見舞われたとき、歓喜天と十一面観音が安置されたと伝えられる。待乳山は、かつては周囲が見渡せる山であり、江戸時代には文人墨客がこの地を訪れています。例年1月に行われる『大根まつり』でも知られる。(wikipediaから抜粋)
東京タワーに代わって建設中の放送塔(東京スカイツリータワー) 待乳山聖天本堂
「鬼平犯科帳」、「剣客商売」など時代小説の代表作家池波正太郎は待乳山聖天のそばで生まれています、聖天脇に生誕地の記念碑がありました
桜橋から歩いて20分位で金龍山浅草寺、浅草神社に到着します、仲見世は正月飾りが掲げられており華やかさを演出していました。
浅草神社社伝によれば、推古天皇36年(628年)、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。
実際には、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。ご神体として一般の人間(漁師と僧侶)を祀っている為、神社の格としては江戸一低いといわれている。(Wikipediaから抜粋)
三社まつりは真中知・浜成・武成の三社を祀った事に由来する浅草神社の例大祭です。
第三代将軍徳川家光により建立寄進された社殿は 戦争、震災などの被害を免れ当時の面影をそのままに残していました。
浅草寺の横にある浅草神社
浅草寺内にある伝法院(浅草寺の本坊)