薄い雲はあまりに薄過ぎて、海月のような雲である。
通り過ぎた家の前に気になる “ 物件 ” があったから、また戻って撮った蔵のような建物。背景の空の青さと浮ぶ雲がこの蔵にはとても似合っている。アンリ・ルソー ( 1844-1910 ) の描くあまり技巧的上手さではないけど存在感がある、素朴な絵画のように。背景に空の青が塗られ、浮ぶ雲の白さえあれば、描かれているものがある程度稚拙であっても、一枚の絵が完成するように思う。それにしても、青い空はいつでも二つの瞳を透明にし、ゆっくり流れる白い雲は縮まろうとする心を遥かなものにしてくれる。
まだまだ灼熱する太陽 Warehouse
「 ランボオの三年間の詩作とは、彼の太陽の様な放浪性に対する、すばらしい知性の血戦に過ぎなかつた。かなぐり捨てられた戦の残骸が彼の歌であつた。芸術といふ愚かな過失を、未練気もなくふり捨てて旅立つた彼の魂の無垢を私が今何としよう。彼の過失は、充分に私の心を撹拌した。そして、彼は私に何を明かしてくれたのか。たゞ 、夢をみるみじめさだ。だが、このみじめさは、如何にも鮮やかに明かしてくれた。 」 ( 『 小林秀雄全集 第1巻 』 から 「 ランボオⅡ 」 を引用する )
小林秀雄は芸術のことを 「 愚かな過失 」 と言う。また西脇順三郎は芸術のことを 「 俗 」 と言った。全面板張りの古い倉庫の先端には秋の雲が流れているが、今日もまた、灼熱する太陽にヒマワリさえもグッタリしている。ランボーのように太陽もまた、夏の自分自身を痛烈に惜しんでいるのだろうか、かつての過失のように …。
『 福永武彦全小説 第9巻 ( 愛蔵版 ) 』 ( 1974年新潮社刊 ) を台座にして早4年が過ぎました。その間、何事もなく時間ばかりが通り過ぎて行きました。碍子は出雲崎だったかの海岸で拾ったもの。いい具合に穴があいているのが良かったし、白いボディーには相当波に洗われた削られた清潔感があります。 『 第9巻 』 には 「 風のかたみ 」 と 「 鬼 」 が掲載されている。この “ ガイシドール ” も、いつかの 「 波のかたみ 」 だろうか。
たまたま木山捷平 ( 1904-1968 ) の詩を読んでいたら、その言葉使いも方言的で面白いが、独立している詩篇を勝手に連結して見ると、これは一つの叙事詩 「 女の一生 」 のように思えるのである。
① 「 蝶蝶 」 は10代の夢見る頃、② 「 白いシヤツ 」 は人を愛すること、③ 「 たうもろこしのひげ 」 は結婚、④ 「 おしのの腰巻 」 は生活のために一生懸命働いた時代、⑤ 「 六十年 」 は気づいたら … 誰も居ないのであった。それでは、ホントに勝手ながら具体的に詩をつないでみようか …。
① 麦畑の中で憩 ( やす ) んでゐたら お咲は つい ねむたくなつてねてしまうた。
とろとろしてゐると 何を思うてか お腹の上に 黄色い蝶蝶がとまりに来た。
蝶蝶もとろとろと ― お咲は なんだか むずむずと 昨夜 ( ゆうべ ) のことを思ひ出して
ゐるのであつた
② 旅でよごれた私のシヤツを 朝早く あのひとは洗つてくれた あのひとの家の軒につるした。
山から朝日がさして来て 「 何かうれしい。」 あの人は一言さう言つた。
③ 秋になると たうもろこしの実にかはいいひげが生えた。
あのひげのうひうひしさ。
僕はとみちやんと もろこし畑の中で よくそのひげを股にぶら下げてあそんだ。
歳月はめぐつた。
とみちやんは はづかしそうに、十八の春 汽車にのつて町へ嫁入りして行つた。
そして とみちやんのゐない村のもろこし畑に 今日も秋風が吹き出した。
④ おしのの腰巻嗅いで見たら おしのの腰巻くさかった。おしのの腰巻何故くさい?田の草とっ
て 田の草とって汗でよごれた。汗でよごれりや 腰巻だってくさくなら! 糞ツ! くさい腰巻
竹の棒につけて えつさ えつさ 東京の真中駆けちやろか。 「サア コラ ミンナ コノ コシ
マキ ニ 敬礼ダ! 」
⑤ 尋ねて来たのに主人は不在である。 主婦も不在である。 開けひろげた新緑の縁側に
茶碗が二つ置いてある 座蒲団も二つ置いてある。
( 1988年小学館刊 『 昭和文学全集 第14巻 』 より 引用 )