分類:村
画境と政治を両立させた 荒川忠治(雅号・華関) 享年72歳 明治3年(1870)1月11日~昭和16年(1941)8月31日 いわき市鹿島町御代
《荒川華関の名で著名な画人》
荒川家に長男として生まれた。長じて吉田敦和や清水保から漢詩を学び、明治17年には住吉小学校の教師として迎えられ、1年ほど在職したが辞めている。 岡倉天心らが日本美術学校を開校するといった時代的背景のもとで、忠治は絵を志向し國井雲嶂や小林寒林に学んだ。
勿論、美術学校に入校する憧れは強かったのだが、当時の営農家庭では経済的にも、農業継承の意味でも難しい面があった。しかし、忠治にとって絵は生き甲斐であり、ついに家郷を後に上京(大正5年)する。 松林桂月に師事して作品を出品したが病にかかり、止む無く帰郷。それでも絵筆を捨てきれず農閑期には茨城の渡辺小華の高弟、野沢 白華に教えを受け翠山から華関を名乗った。
華関の名は、 勿来の関の桜花を例えて付けられたと云われている。大正15年(1926)、55歳の時に推されて鹿島村長となり、その村治の功が認められ、自治功労者として県知事表彰を受けている。 画家と政治を両立させた人であった。