分類 : 歴
いわき市鹿島町を歩こう 83
くうじ山 所在地 : いわき市常磐上矢田町 (鹿島街道の郷ケ丘信号一帯)
くうじ山は、本来、軍事山(又は軍次山)というが長い間の口伝によって変化したものです。地元の人たちは喜びにつれ、悲しみにつれ、日常生活と密着した山だったので愛着心からごく自然に今でもくうじ山と呼んでいます。。 鹿島街道を平方面に向かって行くと、郷ケ丘のNTT東日本福島いわき支店前を通過するが、その辺りが通称、くうじ山です。 かつては頂上が左に見える山の高さと同じ位の場所にあって、約50mの洞門(トンネル)を利用して山越えをする道だったといいます。 明治の中頃には、洞門の中に「追い剥ぎ」が巣くっていて暗闇が訪れると、数人の男たちが洞門の中へ寄り集まり、男根丸出しで焚き火に手あぶりしながら、通行人を脅して金品を巻き上げる悪さをしたというエピソードが残っています。 《現在、この辺りが一番高い所になるが実際には頂上はもっと高く、険しいものだった》 くうじ山の由来は、戊辰戦争の時に列藩側が軍事上の作戦拠点としたことから軍事山と呼ぶようになったもので、官軍が平方面へ北上してくるのを阻止するために上荒川村と上矢田村の境に当たる、この山に壕を掘り応戦しまた。 《戊辰の役で列藩兵が使用した壕跡で、郷ケ丘団地の造成と共に姿を消した》
平=小名浜間の道路(旧、鹿島街道)の県道に指定されたのは、官選知事三島通庸(みちやす)が在任した明治15年頃と言われており、明治17年12月に内務省へ転任するまでの僅かの間に、会津三方道路をはじめ、県内に大規模土木工事を起こして、その実績は高く評価されています。 当時は、県道指定による道路改良とはいってもせいぜい荷馬車が通行できる程度のもので、鹿島の村落は平側に 「くうじ山」 があり、小名浜側に 「御代坂」 があって、双方共に洞門を利用して山越えをしなければならなかったようです。 しかも、土壁の洞門はたびたび落土し通行人を悩ませたと言われています。