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毎日バッハをきいていこう!

一日一バッハ




クリストフ・ヴォルフとマルクス・ツェプフ共著の『The Organs of J.S.Bach A Handbook』。同書は、2006年にライプツィヒで刊行(第2版は2008年)されたもので、手もとにあるのは、リン・エドワーズ・バトラーの訳本(2012年)のほうです。これはバッハのオルガン作品を楽しむための、じつによい手引書。バッハが関係するオルガンが網羅され、解説がなされてます。いまきいているステファノ・モラルディが弾く、ヴァルタースハウゼン市教会オルガンも、「おそらく、1732年のカッセルへの旅中、あるいは、1735年、ミュールハウゼンへの旅中に立ち寄った」として、同書128頁に掲載されています。なお、ピーター・ウィリアムズ著『The Organ Music of J.S.Bach』は、表題がにていますが、まったくことなる本です。にたような表題なので、購入あたっては注意が必要です。

The Organs of J.S.Bach A Handbook

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ニコラウス・アーノンクール著の『古楽とは何か』。原著(Musikalische als Klangrede)の出版は1982年で、日本では1997年、樋口隆一、許光俊の訳で音楽之友社から刊行されました。帯には「ヨーロッパ・クラシック界を代表する巨匠の本格評伝」とあるのですが、じっさいは、アーノンクールの論文や、講演、講義の原稿から、みずから選んでまとめた本です。ちなみに、第1章の「音楽と解釈への基本的考察」は、エラスムス賞を受賞(1980年)したさいの講演原稿だということ。訳者あとがきにあるように、アーノンクールは、古楽(思想をふくめた)への無理解と「戦う人」であったため、著書には「随所に時として攻撃的ないしは挑戦的な口調がみられ」ます。アーノンクールのさまざまな録音からも、そうした「攻撃的」あるいは「挑戦的」なところをかいまみることができ、それが批判のもとになることも多々でした。なお、アーノンクールには、『音楽は対話である』という、同趣旨の姉妹書もあります。

古楽とは何か

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ステファーノ・カトゥッチ著、畑舜一郎訳の『バッハとバロック音楽』(ヤマハミュージックメディア)は、A4変型判の見開きをひとつのテーマとし、イラストで図解されているバッハ本。「絵本で読む音楽の歴史」シリーズの第2巻にあたり、手もとにあるのは1997年の初版本です。図解も、資料をもとに、それなりにしっかり作成されており、「音楽の捧げもの」は、フリードリヒ大王がフォルテピアノで主題を弾いている情景がイラストになっています。わずか64頁の本なので、詳細な情報はあるわけではなく、ながめて楽しむ本といえるでしょう。なお、「バッハ」と「バロック音楽」なので、バッハのほかにも、モンテヴェルディ、ヘンデルなどの作曲家についての説明もあります。

絵本で読む音楽の歴史 Vol.2 バッハとバロック音楽

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『クラシック音楽と女性たち』(青弓社)は、これまでのクラシック音楽史から欠落していた女性たちの音楽活動について、「女性たちが楽の音を紡ぐ場」という視点を導入して論じられた本。教会における女性歌手についての興味から派生して入手した本です。とりあげられた「場」は、劇場、家庭、公開演奏会、協会、学校、家庭で、そこには教会という「場」はないのですが、おもしろく読むことができます。コラムも充実しており、小林緑「平和と平等を願う女性作曲家たち」では、さまざまな困難を切り開いて活動した、1841年生まれのスウェーデンのオルガン奏者、作曲家、指揮者のエルフリーダ・アンドレも紹介されています。

クラシック音楽と女性たち

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『バッハ万華鏡 時代の激流に生きた教会音楽家』(日本キリスト教団出版局)は、著者川端純四郎の遺作のバッハ論集。教会音楽家としてのバッハにしぼった論集で、季刊誌「礼拝と音楽」(日本キリスト教団出版局)に連載されていた「バッハこぼれ話」をまとめたものです。執筆当時の最新の研究成果にもとづき、また、著者ならではの視座による論考の、とても興味深いテーマが並んでいます。「トマス教会がカルヴァン派だった時」とか、「バッハと検閲」というようなテーマは、じつにおもしろく読むことができます。そうしたテーマと並んで、ロ短調ミサ曲についての問題も掲載される可能性もあったようです。著者夫人の「あとがき」によると、「バッハこぼれ話」の最終回のテーマは、ロ短調ミサ曲だったようですから。しかし、著者が亡くなられため、残念ながら、それは完成されることはありませんでした。

バッハ万華鏡 時代の激流に生きた教会音楽家

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川端純四郎著『J.S.バッハ 時代を超えたカント-ル』(日本キリスト教団出版局)は、じつにおもしろいバッハ評伝です。著者(故人)の「あとがき」によると、「バッハ伝を書くことができると考えた理由」を、クリストフ・ヴォルフとマルティン・ゲックの「大著をもってしてもまだバッハについては語り尽くしていない」ため、と説明しています。ほかにも理由をあげていますが、やはり、根源的には「語り尽くし」えないバッハゆえ、ということになるのでしょう。著者がバッハ研究の専門家でないことが、ヴォルフやゲックとの視点のちがいを鮮明にし、それがこの本最大の魅力になっています(「ヨハネ受難曲」と「反ユダヤ主義」の問題など)。執筆時におけるバッハ研究の新しい成果もとりいれられています。

J.S.バッハ 時代を超えたカント-ル

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カール・ハインリヒ・ビーリッツ著、松山與志雄訳の『教会暦 祝祭日の歴史と現在』(教文館)は、「キリスト教祝祭暦の成立と解釈、現在の形態と礼拝の守り方について、最小限度のしかし詳細な情報を得たいと望んでいる読者のために」書かれた本です。もうしばらくすると降誕節となり、あらたな教会暦がはじまるわけですが、「非キリスト教徒」にとっては、教会暦と日常生活は乖離しており、なかなかり理解しづらいものです。祝祭日の名称、聖書的背景、歴史、意義、祝祭礼拝、慣習について詳述されており、バッハをふくめたキリスト教音楽をきくさいに、じつに有益な参考書といえると思います。すでに紹介した『説教者としてのJ.S.バッハ』と同じで、表をのぞけば図版のたぐいはなく、多少の予備知識がないと、通読するにはつらいかもしれません。なお、引用はすべて著者の序文からです。

教会暦 祝祭日の歴史と現在

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ロビン・A・リーヴァー著、荒井章三訳の『説教者としてのJ.S.バッハ』(教文館)は、2012年に出版された、バッハの受難曲を中心とする神学的研究の啓蒙書です。もともとは、アンドルー・パロットによる受難曲の「演奏会プログラムに書いたノート」と、BBCで放送された「説教者としてのバッハ」に、「大幅な加筆をしてできたもの」とのこと。104頁中、譜例以外に図版はなく、先日紹介した『バッハ 神はわが王なり』とは好対照の本といえます。原書は1984年の出版ということもあり、古い研究成果によっている部分もあります(マタイ受難曲の初演年を1729年としているところなど)。しかし、古くなったとはいえ、ふだんコンサートホールできく受難曲とはちがう、礼拝の文脈の中での受難曲(とバッハ)を、読者に意識させる好著だと思います。

説教者としてのJ.S.バッハ

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ポール・デュ・ブーシェ著の『バッハ 神はわが王なり』(創元社)は、初版1996年のコンパクトなバッハ本。同書180頁中、138頁までが原書「Magnificat Jean Sébastian Bach le cantor」(1988年)の訳、のこりが樋口隆一監修による「バッハ、その人と音楽」と題された資料編となっています。創元社の「知の再発見」双書の一冊で、情報がぎゅうぎゅうにつめ込まれたレイアウト。文字そのものは大きめなのですが、ちょっと雑然としています。原書訳の部分は、すべての頁に図版があるのも、それを助長しているのかもしれません。しかし、図版の多さがこの本の売りだともいえ、図版だけながめていても、けっこう楽しめます。資料編には、グレン・グールドのインタビュー記事も掲載されるなど、新奇さはないものの、多彩な内容となっています。

バッハ 神はわが王なり

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アドルフ・フォン・メンツェルの「フリードリヒ大王のフルート・コンサート」(1852年)は、バッハ好きなら一度は目にしたことがある絵画だと思います。ここで紹介する、ヨスト・ヘルマント著、神林恒道・三浦信一郎訳の『メンツェル 《サンスーシのフルート・コンサート》 美術に見る歴史問題』(三元社)は、ドイツ近代史における、その絵の受容をテーマにした本で、115頁にしては(というのも変ですが)ややお堅いといえるかもしれません。購入のきっかけはもっとお手軽で、絵画に描かれた人物だとかの解説にあったのですが、「メンツェル《フルート・コンサート》で鳴り響く音楽について」など、訳者の解説も15頁という紙幅がとられていて、読みごたえがありました。

メンツェル 《サンスーシのフルート・コンサート》 美術に見る歴史問題

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秋といえば「スポーツの秋」、あるいは「食欲の秋」なのでしょうが、「読書の秋」ともいうので、今夜は本の紹介です。紹介するのは『教養としてのバッハ 生涯・時代・音楽を学ぶ14講』(アルテスパブリッシング)。最近紹介した『アンナ・マグダレーナ・バッハ 資料が語る生涯』や『チェンバロ・フォルテピアノ』ほど専門的ではなく、「国立音楽大学での講義『バッハとその時代』の内容を集約したもの」(同書「おわりに」)です。200頁ほどの本に14講をつめ込んでいるため、ひとつの講義の紙幅は少なくなっています。講義もあくまで教養科目としてだったようなので、概説的なのはいたしかたないかもしれません。

個人的におもしろく読めたのは、「第13講 19世紀におけるバッハ」(吉成順)です。19世紀におけるバッハ受容が簡潔にまとめられ、「表1 ゲヴァントハウス(1781-1881)におけるバッロック作曲家の作品演奏回数」は、ゲヴァントハウス(ライプツィヒ)での公開演奏会におけるバッハの断絶を、データとして明快に示しています。なお、同書は、バッハ伝などに精通されているかたには、その内容に不満を感じることもあるでしょう。しかし、あまり扱われない領域の、政治、言語など、バッハをとりまくさまざまな状況をコンパクトに学ぶことができ、概説本として内容が薄すぎるということはないと思います。

教養としてのバッハ 生涯・時代・音楽を学ぶ14講

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『アンナ・マグダレーナ・バッハ 資料が語る生涯』(春秋社)は、マリーア・ヒューブナーによるバッハの妻アンナ・マグダレーナの伝記です。伝記といっても、「資料が語る」とあるとおり、出典と文献を示しながら、生涯(娘たちについても)をおったもので、著者の主観的な記述は排されています。例外は、ハンス・ヨアヒム・シュルツェの伝記的エッセイぐらい。年表のようにじつに淡々としているのですが、人生は山あり谷ありで、読んでいて飽きることはありません。

ところで、この本でちょっと気になるのは、本文(説明)中の引用のわかりにくさです。資料からの引用は本文中にくみ込まれていて、太字になっているのが引用文だと思うのですが、これと本文の区別があまり明瞭ではありません。印刷のムラといわれれば、そうなのかと思ってしまうくらいです。ひょっとすると原著がそうなっていたのかもしれませんが、せめて「 」(括弧)でくくるとか、改善の余地がありそうです。太字=引用、という凡例もないようです。

アンナ・マグダレーナ・バッハ 資料が語る生涯

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渡邊順生著の『チェンバロ・フォルテピアノ』(東京書籍)は、英語での表題「Early Keyboard Instruments 1400-1800」が示しているように、1400年から1800年にかけての、チェンバロ、フォルテピアノ、さらにクラヴィコードについて詳述した大著です。このブログでも、とっくに紹介していてもよかった本なのですが、今日まで未紹介でした。ちょうどいま、ヤロスラフ・トゥーマがクラヴィコードを弾き録音した「平均律クラヴィーア曲集 第1巻」をきいているところなので、この機会をとらえ紹介しておくことにします。出版は2000年なので、すでに15年が経過。研究がそのあいだ、さらに進展しているところもありますが、演奏家としての経験をふまえた本ゆえに、実例などもあって興味深く読むことができます。また、クラヴィコードについてのまとまった日本語文献はこれぐらいしかないと思います。欠点といえば、868頁という大部さゆえにずっしり重いところ。寝ころがって読むには手が疲れます。

チェンバロ・フォルテピアノ

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本日入手した寺西肇著の『古楽再入門』(春秋社)。まだ目次をみて、興味のあるところを読んだだけですが、ジャーナリストらしい切り口のおもしろそうな本です。ちょっと目をとおした「第3章 古楽器とは何か」では、復興楽器であるヴィオロンチェッロ・ダ・スパラ(ヴィオロンチェロ・ダスパラ)も、3頁ばかりとりあげられていますね。ただ、同章では楽器によって、記述に濃淡があるように感じました。ヴァイオリンでは、構えの問題をふくめ、紙幅をかなりとっていますが、ホルンでは、とりあげてほしかったコルノ・ダ・ティラルシ(スライド・ホルン)についての記述はありません。問題になるのがバッハぐらいなので、割愛ということなのかもしれません。また、得手不得手もあるので、くわしいことは参考文献でということなのでしょう。

寺西肇『古楽再入門』

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『「音楽の捧げもの」が生まれた晩―バッハとフリードリヒ大王』は、アメリカのジャーナリスト、ジェイムズ・R・ゲインズ(訳は松村哲哉)による刺激的な著作(白水社から2014年に刊行)です。同書は、「バッハとフリードリヒ大王というふたりの歴史上の巨人の生涯にからめて、バッハの『音楽の捧げもの』の解釈をめぐるエッセイをしたためるという試み」(同書ゲインズによる「謝辞」)だということですが、四六判で382頁で、「エッセイ」ということばのイメージからくる軽さというものは、まったくありません。

全13章からなる同書は、クライマックスである第12章の「音楽が捧げられた夜」にむけ、バッハと大王、そしてバッハと子カール・フィーリップ・エマーヌエル、大王と父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の関係を中心に章が進められます。父子、時代の相克がえがかれていて、じつにおもしろく、これを二重螺旋的な伝記とみなすこともできるでしょう。バッハと大王の出会いの背景など、読者によってはショッキングな説も展開されます。なお、原題は「Evening in the Palace of Reason: Bach Meets Frederick the Great in the Age of Enlightenment」(2005年刊)です。

「音楽の捧げもの」が生まれた晩

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