アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

20221127 内灘闘争前史(砂丘地の700町歩)

2022年11月27日 | 内灘闘争
内灘闘争前史(砂丘地の700町歩)…中間報告

 内灘闘争については、1952年米軍接収以降について注目されてきたが、ここではその前史として、明治期以降の内灘砂丘と第九師団・演習場について、中山又次郎著『内灘郷土史』(1963年)、『内灘町史』(1982年)、『内灘闘争資料集』(1989年)などから整理する。

砂丘地の所有権(戦前)
 明治期には、内灘砂丘は官有地であり、1901(M34)年5月に、内灘村が石川県にたいして、向粟崎から室までの11筆合計765町0(反)6(畝)15歩9合の「官有地無償払下」を願いでたが、同年6月12日に「拒否」された。

 1902(M35)年11月27日には内灘村に「有償売買(2147円97銭)」を示されたが、内灘村の財政は厳しく、村として買い受けることができず、1903(M36)年1月20日に、内灘村を経由して、「山林中164町3反2畝歩に造林」という条件で、松島清秀(羽咋郡の農民)に売却が決まった。

 そのいきさつは、『内灘郷土史』によれば、「 明治36(1903)年700町歩の沙漠地帯が政府から払下げになった当時の価格が2300円。払下げ自体が村民の意思ではなく、全く利権屋の思惑で、九師団の設置のための演習場として売り込み、一儲けしようというのであった」(686頁)が、「九師団は、この土地が演習場として狭いので、不採用になり、富山県の立野原を演習地に決定した」(686頁)ということで、松島清秀の思惑が外れた。

 その後、砂丘地は1908(M41)年山口四郎(東京)→1917(T6)年北村捨吉(大津市)→1936(S11)年下田清右衛門(福井県)→1937(S12)年西田義一郎(金沢市・報国土地KK)→1944(S194)年陸軍省へと所有権が移転し、敗戦を迎えた。

 

内灘砂丘を陸軍演習場として使用
 内灘砂丘地が、明治のいつから陸軍の演習地として使われてきたのかは不明であるが、『内灘郷土史』によれば、1910(M43)年5月3日に、内灘村が歩兵七連隊に「5月8・9日の実弾射撃演習(粟崎~向粟崎)の延期」を申し入れており(585頁)、山口四郎は内灘砂丘地を買受後、農商務大臣へ「右山林(715町歩)は…買受後…大部分は第九師団に於て銃砲の実弾射撃又は諸兵の演習に使用せられ、誠に迷惑」(587頁)と農商務大臣に請願書を出している。

 1911(M44)年4月17日の内灘村議会から農林大臣、第九師団などへの「陳情書」には、「万一陸軍省所属の地と為り、従って第九師団の銃砲演習地とならば、通行を禁止せられ、加ふるに日々日本海に出漁する幾千の漁夫行くに道なく、一面本村(注:内灘村)の一大危害たる砂防の途(みち)杜絶し、延(ひい)て生産力を増進するの目的を失ふ等、本村(注:内灘村)の命脈に関すること甚だ大なり。故に本村(注:内灘村)は現下の場合に於てすら、尚毎年漁業季節に諸兵来浜に会せば、第七聯隊第三五連隊へ、別紙外写の如く嘆願書を提出すること再三に止まらず。以上事実たるや確実にして、要は該七百十五町歩を本村(注:内灘村)へ買戻し、村営以て專漁風林を為し、圃地(畑)を作り産業発展を期するにあれば」と懇願している(589頁)。

 1943(S18)年には、「実弾射撃のため漁止めが頻繁になる。第九師団参謀長に面談して、時限、日時等生業関係重大なるものであり、実施変更方」(596頁)を申し入れている。このように、内灘住民は内灘砂丘地が生活の生命線であり、陸軍演習がその生命線を絶っていることに、強く反発し、戦時下にもかかわらず、お上(軍)にもの申しているのである。

 1944年に前田美千雄さんは「1月15日に石川県金沢市粟崎に設営された部隊に入隊せよ」という召集令状を受け取った。戦争の影響で、1941年に閉園になった粟崎遊園を「軍の兵舎」として使っていたのである。ここで、前田さんは粟崎海岸のスケッチをいくつも残し(『戦場からの絵手紙』)、戦地に送られ、ついに戻らぬ人となった。

 

1946年、たたかいが始まった
 戦後になって、「1946年春早々、村ではこの土地を今こそ払下げを受けねばならぬ、村の生命線だというので、…大デモを起こし、県へ筵(むしろ)旗を押し樹てて陳情し、…買い戻しの期成同盟会も結成された」(『内灘郷土史』687頁)、「村では、…翌21年(1946年)軍用地払下期成同盟会を結成し、3月19日には村民約600名が『700町歩は内灘村へ』『働く者に土地を返せ』などのムシロ旗をかかげて、金沢市中をデモ行進し、代表が県知事・報国土地会社社長と交渉した」(『内灘町史』235頁)と書かれているように、内灘砂丘をめぐって、村民はたたかい始めていたのである。

 「戦時補償特別措置法第60条の規定によりまして、報国土地KKに返還せられた。これが昭和24(1949)年の6月8日であります。…6月22日には…登記を済ましてあるのであります」(『内灘闘争資料集』306頁)と、内灘砂丘は報国土地KKに戻されたが、1949年6月15日の石川県の農地委員会で、アメリカ軍政部の将校レッチャラーが「これ(内灘砂丘地)は未墾地として解放されるべきものだ、…農地委員会で買収計画を立てて取り上げて、内灘村の村民に均分に分配すべきと説明」(『内灘闘争資料集』306頁)し、これを受けて、石川県農地委員会は、自作農創設特別措置法に基づいて、買収した。

 しかし、「村民待望の開拓事業には農林省からの着工許可がなく、昭和25(1950)年の朝鮮戦争を機として警察予備隊が作られ、翌年春(注:1950年12月)に同隊金沢部隊が創設されると、またもや内灘砂丘が演習地に使用され始めた」(『内灘町史』235頁)のである。

 このように、明治期以降、砂丘地の内灘村有権を確立できず、1944年陸軍省、1949年農林省に移ること(国有地化)によって、内灘砂丘地が陸軍演習場として使われ、1952年米軍接収方針に堪忍袋の緒が切れて、内灘村民は激しくたたかいを開始したのである。


【資料】1946/3/20『北国新聞』
土地をかへせ 内灘村民が筵旗交渉
 「われらに土地を返せ」「七百町歩●下期成同盟」と大書した幟を立てた河北郡内灘村民約六百名は十九日雨の金沢市中に長蛇の列をつくり、午前十時頃小将町中丁四ノ一番地報国土地株式会社社長西田儀一郎氏邸門前に押しかけた。同村の四分の三を占める七百十五町歩の土地が飢餓に瀕する村民を尻目に「報国土地」の手に使用権を掌握されてゐる窮状を打破せんとする村民決起の姿である。
 もともとこの七百町歩の所有権は同村に属してゐたが、明治三六年村財政の窮乏から個人に移り、その後数度の変遷を経て、西田氏を社長とする「報国土地」の所有に帰したのは、昭和十二年のこと。沙漠地帯だけに開墾に先立ち、植林事業が同社の手で営まれてきたところ、十九年六月旧金沢師団の軍用地として買収され、ロケット砲弾の実験地として戦争の要求に応へてゐたのだが、終戦で大蔵省名古屋財務局の管理下に置かれた同土地の使用権が、ふたたび昨年十一月「報国土地」に与へられ、終戦とともに財務局へ開始した村民の賃下げ運動も水泡と化した。
 これに対し、「報国土地」の使用権が終止する四月三十日を前に、七千名村民の死活を握るものとして、新たに「七百町歩払下げ運動」を挙村展開することとなり、二月初旬同村長出山長太郎氏を会長に期成同盟を結成、第一回交渉をこのほど西田社長と行ったところ、交渉成立せず、つひにきのふ午前七時からの村民大会の決起となって、あくまで目的完遂のため第二回交渉に出たもので、同日同盟委員側は西田社長と対談の結果、「あくまで該地は報国土地が使用を続行する」との最終回答に接し、ここに交渉は再び決裂、ただちに一同は同盟歌を合唱して、県庁へ押しかけた。
 かくして代表委員は伊藤知事に面接し、善処方を要望したが、伊藤知事は「私の権限内では最善の努力をつくし、それで駄目なら、私が皆さんの先頭に立って、大蔵省と話を進めませう」と快諾を与へたので、正門前に待機した村民六百名は「期成同盟会」の万歳を唱へ、午後二時過ぎ解散した。
 なほ県では近く特殊物件処理委員会を開き、同問題を俎上にのせることとなったが、その帰趨が注目される(写真は十九日西田邸に押寄せた内灘村民)。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 内灘のたたかいはいまも生き... | トップ | 20221130 金沢城公園のシタ... »
最新の画像もっと見る

内灘闘争」カテゴリの最新記事