goo blog サービス終了のお知らせ 

OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

追悼・ランディ・マイズナー

2023-07-28 15:41:37 | 追悼

Take It To The Limit / Eagles (Asylum / ワーナーパイオニア)

ポコイーグルスというアメリカ西海岸ロックの偉大なるバンドに在籍し、大活躍したランディ・マイズナー(vo,b,g) の訃報に接しました。

基本的にアメリカ西海岸ロックが大好きで、学生時代には、そんなこんなのコピーもやっていたバンドに入れてもらっていたサイケおやじとしては、あのハイトーンボイスによる故人のコーラスワークや節回しが大好きでしたねぇ……。

さて、そこで掲載したのは、故人の代表的な名唱が強い印象を残したイーグルスの「Take It To The Limit」をA面に入れたシングル盤で、これは皆様ご存じのとおり、1975年に発売されたイーグルスの傑作アルバム「呪われた夜 / One of These Nights」からシングルカットされ、同年晩秋から大ヒットした人気曲であり、同バンドの中心的ソングライターコンビのドン・ヘンリー&グレン・フライとの共作者として、ランディ・マイズナーの名前がクレジットされているところから、しっかりとリードも歌った哀切のロックワルツ♪♪~♪

その歌詞は、失ってしまった恋愛への未練と高速道路の制限速度を結び付けたとしか、サイケおやじには理解出来ない世界ではありますが、せつないメロディ展開と陰陽が絶妙のコーラスワークを活かしきった故人の歌いっぷりは、正に最終パートでのファルセット&ハイトーンボイスが大団円の素晴らしさ ♪♪~♪

これぞっ! イーグルスならではのサウンドの妙を堪能させてくれる名曲にして、大名唱でありましたですねぇ~~♪

しかし……、これは以前にも拙ブログで書きましたが、この「Take It To The Limit」が大ヒットしている頃からイーグルスは内部で紛糾が続き、まずはバーニー・レドンが脱退、ドン・ヘンリーとグレン・フライの権力闘争、そして……、ついにはランディ・マイズナーも辞めてしまうという流れの中で、発売されたベストアルバムはバカ売れし、畢生のロックアルバム「ホテル・カリフォルニア」が制作されていったのですから、この世は儘なりません……。

つまり、そ~した大成功の最中に、それを捨て去るが如き行動をやってしまった故人は、一般的感覚では理解不能な人物かもしれませんが、しかし、ランディ・マイズナーというロックミュージシャンは、なかなかの苦労人であり、1960年代中頃に高校を中退してまでもバンドマンとしての生き様を選択し、ローカルバンドを転々としながらも結婚して妻子を養い、時には悪いクスリの売人までやっていたと云われるほどでしたが、ついに冒頭で述べたとおり、ポコのスタート時のレギュラーメンバーに決定した事から、後の成功への足掛かりは出来たはずなんですが……。

なんとっ!?

ここで最初のアルバムをレコーディング中にバンドの方針に反旗を翻したというか、件のデビュー作が発売された時にはポコを辞めてしまっていたという頑固者の本領を既に発揮!?

もちろん、忽ち路頭に迷ったところで様々なバイトをやっていたそうですが、ここでカントリーロックに転身していたスタアシンガーのリック・ネルソンのツアーバンド結成に参画し、そのストーン・キャニオン・バンドのリーダー格に収まったところから、再び業界の第一線へ復帰、ついにはイーグルスの結成へと歩みを進めたわけですが、そんなキャリアの持ち主なればこそ、大成功していたイーグルスにさえも納得出来ないものを感じれば、自らの信じる道を選んだのでしょう。

ですから、以降のランディ・マイズナーは些か地味な活動ばかりで、時折にポコの再結成やロック界のレジェンドツアーに参加する他は、それほど表舞台に登場する事も少なくなっていた中で、確か……、20年ほど前から心臓病やアル中で逼塞状態……。

まあ……、故人の様な浮き沈みの激しいスタア芸能人は少なくありませんが、一徹な人生を送ったのだとしたら、それもまたロックな生き様だったのでしょうか……。

サイケおやじは、ランディ・マイズナーを忘れません。

今……、胸中には「Take It To The Limit」を熱唱する故人の歌声が去来しています。

衷心より、合掌。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼:アストラッド・ジルベルト

2023-06-08 17:34:39 | 追悼

■The Essential Astrud Gilberto (Verve / Polydor)

   A-1 The Girl From Ipanema
   A-2 Meditation
   A-3 O Morro Nao Tem Vez
   A-4 Corcovado
   A-5 A Certain Smile
   A-6 Beach Samba (Bossa Na Praia)
   A-7 Agua De Beber
   A-8 Goodbye Sadness
   B-1 Take Me To Aruanda
   B-2 Bim-Bom
   B-3 So Nice (Summer Samba)
   B-4 One Note Samba
   B-5 O Ganso
   B-6 Tristeza
   B-7 Fly Me To The Moon
   B-8 It Might As Well Be Spring
   B-9 Manha De Carnival

ボサノバの歌姫として世界中で人気を集めたアストラッド・ジルベルトの訃報に接しました。

良く知られているとおり、彼女はブラジルのモダンジャズとも云うべきボサノバを創成したジョアン・ジルベルトの妻として、1963年にアメリカでモダンジャズの巨匠たるスタン・ゲッツと共演レコーディングした「イパネマの娘 / The Girl From Ipanema」が翌年に大ヒットとなり、忽ち世界を席巻するスタアになったわけですが、もちろん彼女はドイツ系ブラジル人でありながら、英語の歌詞で件のヒット曲を歌っていた所為もあり、本国では大きな人気は集められなかったのは歴史的事実でありましょう。

しかし、「ボサノバ」という素敵な音楽が世界に伝播していった大きな要因のひとつに彼女のクールでアンニュイな歌声があった事は確かだと思いますし、人妻でありながら、そのキュートなルックスと佇まいが、これまた人気を集めていたと思うのは、決してサイケおやじの独断と偏見ではないと思うんですが、いかがなものでしょう。

さて、そこで本日掲載したのは、1984年頃にイギリスで発売された彼女のベストアルバムなんですが、これが最高に魅力的なのは、やっぱり一目瞭然!

このジャケ写の程好くエロっぽく、愛くるしい佇まいを見せてくれるアストラッド・ジルベルトの魅力を活かしきったデザインなんですよねぇ~~ (^^♪

肝心の収録曲は上記したとおり、彼女の代表的ヒット曲や人気曲を普通にコンパイルしたものですので、マニアからはスルーされて当然と思いきや、当時の我が国の輸入盤屋における隠れベストセラーとなっていたのは嘘偽りの無い話で、不肖サイケおやじも速攻でゲットしたのは、前述したとおり、このジャケットのニクイばかりの魅力があればこそっ!?!

一応、レコード本体には針を落としたものの、2回ほど聴いた後は例によって自室の壁に鎮座させ、日々の和みの源の1枚になっておりました (^^)

また、彼女は日本でも大人気でしたから、当然ながら日本語歌詞によるレコーディングも残しておりますし、来日公演時におけるテレビ出演もありましたから、追悼企画として、そんな諸々の映像も纏めての復刻を願っております。

これからの季節、アストラッド・ジルベルトの歌声は必須となりますが、今年は殊更胸キュンの鑑賞になりますねぇ……。

合掌。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼:坂本龍一 ~ 前川清の雪列車を聴きながら

2023-04-03 19:28:57 | 追悼

雪列車 / 前川清 (Another / RVC)

坂本龍一の訃報に接し、あらためて故人の偉業をあれやこれやと回想しております……。

もちろん、それについては説明不要とは思いますが、坂本龍一と云えば、とにかくも細野晴臣と高橋幸宏と共に結成活動したイエロー・マジック・オーケストラ=YMOとしての世界的な大成功に続き、映画音楽の分野でも「戦場のメリークリスマス」ゃ「ラストエンペラー」等々の他にも夥しい作品を発表し、また自らのリーダー作品も現代音楽 ~ ジャズフュージョン ~ ポップミュージック等々の範疇に留まらない、非常に広範囲な創作力は、正に天才の証明でありました。

そして皆様ご存じのとおり、故人は主義主張にも自らの思想を旗幟鮮明にしており、時には哲学的な解釈を求められる場合も少なからずあったとは思いますが、それとは逆に大衆文化を軽んずるなんてこたぁ~、決して無かった事は、お笑い系バラエティ番組との関わりや様々なCM関連の仕事、さらには童謡や歌謡曲への楽曲提供も含めて、これまた常に先端先鋭でありながら、親しみ易さを忘れないという姿勢が、サイケおやじには心底尊敬の念を抱かされるところです。

実は、サイケおやじは幸運にも、1980年代のある日、坂本龍一と僅かばかりではありましたが知己を得る機会に恵まれ、それまでの個人的なイメージであった「気難しさ」よりは、とても「気さく」な人柄に驚かされた想い出があります。

また、その時の坂本龍一の体格の良さにも、意表を突かれたというか、これまた驚きでありました。

さて、そこで本日ご紹介するのは、内山田洋とクール・ファイブのリードボーカリストたる前川清が本格的なソロ活動に入った昭和57(1982)年10月に発売した掲載シングル盤のA面曲「雪列車」でありまして、これが作詞:糸井重里&作編曲:坂本龍一が手掛けたエレクトリックポップなAOR歌謡曲の大傑作 (^^♪

そのミディアムテンポで繰り広げられるサウンドの幻想性とキャッチーな曲メロは、これまた糸井重里の恣意的なウケ狙いとも思える歌詞の世界共々に前川清が持ち前の個性てある、あの「しつっこい」節回しと歌心にはジャストミートの仕上りですよ (^^♪

いゃ~~、当時の坂本龍一と云えば、とにかくYMOでの大ブレイクから各方面で多忙を極めていながら、同年2月には、これまた当時絶頂期だったRCサクセションの忌野清志郎とコラボしたシングル曲「い・け・な・いルージュマジック」を出し、これは某化粧品メーカーのCMソングでしたから、忽ち爆発的なヒットとなった勢いは、この前川清の「雪列車」の話題性にも直結していたんですねぇ~~♪

ところが……、現実的には従来の演歌 ~ 正統派歌謡曲を求めていた根強いファンには受け入れられず、また、このシングル盤の1ヶ月後に出された前川清のソロアルバム「Kiyoshe」も、これまた無視されてしまったのはリアルタイムでの厳しい仕打ち……。

しかし、サイケおやじは基本、テクノポップはNGでありながら、このシングル曲「雪列車」や件のアルバム「Kiyoshe」が好きになってしまいましたし、現在のシティポップのブーム、つまりニューミュージックの再発見・再認識という流行の観点からしても、坂本龍一と前川清のコラボ作品は、お楽しみいただとうございます。

ちなみに齢九十を過ぎているサイケおやじの母も、この「雪列車」が大好きなんですよ (^^♪

ということで、故・坂本龍一については、まだまだ書き足りないのが本音ではありますが、果たしてサイケおやじに何が分かるんだぁ~~、という気持ちも強いです……。

謹んで、故人のご冥福を祈るばかりでございます <(_ _)>

合掌。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼:団次郎 ~ 永遠のダンディズム

2023-03-24 18:13:50 | 追悼

甘い予感 / 団次郎 (日本コロムビア)

俳優、そしてトップモデルとして活躍した団次郎=現・団時朗の訃報に接しました。

故人のキャリアの中では、もちろん男性化粧品「MG5」のイメージモデルとして、その日米ハーフならではの長身と堀の深い面立ち、さらには私生活でも抜群のファッションセンスを見せていただけに忽ち大ブレイク!

当然ながら、商品そのものもバカ売れしていた事は、例えばベタベタしないヘアトニック等々、サイケおやじも一時期使っていたという、その長髪向けの仕様も良かったわけですが、そんなこんなを実践的にリードしていたのが、団次郎のカッコイイ佇まいと振舞いでありましたから、そ~ゆ~スタアが映画やテレビドラマに多数出演していくのも自然の成り行きでありましょう。

それが昭和43(1968)年頃からの故人の本格的芸能活動のスタートだったのかもしれませんし、特に昭和46(1971)年から放送開始となった「帰ってきたウルトラマン(TBS)」における主人公・郷秀樹としての活躍は、歴代シリーズの中でも最高にダンディな当たり役だったわけですし、番組そのものが所謂「第二次怪獣ブーム」を牽引していたという歴史認識共々、忘れがたい印象を残したんですが、故人のキャリアは決してそれだけではなく、前述したとおり、テレビドラマや映画演劇への夥しい出演作に加え、歌手として残してくれたレコーディングにも素敵なレコードが幾枚かあります。

本日掲載したのは、その中の1枚として、昭和45(1970)年に発売された人気作で、とにかく作詞:山上路夫&作曲:村井邦彦、そして編曲:東海林修という、和製ソフトロックをリードした制作陣から提供されたA面曲「甘い予感」はボサノバ歌謡の大傑作 (^^♪

それはジャジーなアレンジが附されたミディアムテンポのオシャレな歌謡世界であり、曲タイトルどおりに甘い声質で抑揚に拘らない節回しを披露する団次郎は、決して素晴らしい歌唱力とは申しませんが、雰囲気の作り方も含めて、「団次郎」そのものを表現している感じでしょうか、正にジャケ写ポートレートのムードがそのまんま♪♪~♪

CD化されているかは不明ですが、未聴のポップス歌謡ファンの皆々様には、ぜひともお楽しみいただきとうございますし、そんな願いも故人への供養としたく思います。

合掌。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼:ディヴィッド・クロスビー

2023-01-20 18:10:59 | 追悼

If I Could Only Remember My Name / David Crosby (Atlantic)

本日未明、ディヴィッド・クロスビーの訃報に接し、ど~にも気持ちの整理が……。

皆様ご存じのとおり、故人はザ・バーズが大ブレイク時からのメンバーであり、そこを脱退して後は、クロスビー・スティルス&ナッシュ=CS&Nからクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング=CSN&Yでの活動で間違いなく、ロックの歴史に名を刻んだ偉大なるミュージシャンなんですが、その音楽性はジャズや民族音楽等々の要素を含んでいると思われる摩訶不思議にして難解、それでいて心地良いメロディとハーモニーで彩られた独特な世界が広がっており、だからこそ時代に先んじていた事もあったらしく、前述のザ・バーズでは居場所を失ったかの様にグループを去り、またCS&Nの集合離散においては、キーマンともなっていたと云われていますが、全く同感です。

以前にも書きましたが、少年時代のサイケおやじはビートルズよりもザ・バーズが好きだった時期もあり、その魅了されていたフワフワしたボーカル&ハーモニーコーラスとハードなロックサウンドの要が、後にディヴィッド・クロスビーだったんじゃ~なかろうか?

そんなふうに思い込んでみると、強い響きと余韻を残す変則チューニングを用いたギターワークや天才的なハーモニー感覚等々は、正に唯一無二!?

実際、故人が作った楽曲をコピーしようとしても、コードが全く分からず、またメロディ展開のシンコペイトするビート感が掴めずに、挫折した前科も……。

さて、そこで本日掲載したのは、1971年に発表された故人ソロ名義による最初のアルバムなんですが、画像は裏ジャケでございます。

   A-1 Music Is Love
   A-2 Cowboy Movie
   A-3 Tamalpais High 
   A-4 Laughing
   B-1 What Are Their Names
   B-2 Traction In The Rain
   B-3 Song With No Words 
   B-4 Orleans
   B-5 I'd Swear There Was Somebody Here

上記の収録曲は既に述べたとおりの音楽性に満ちているので、当時流行していたアメリカ西海岸系のロックサウンドとは一味異なる、フォークロックやジャズをベースにしたサイケデリックロックの進化系として聴ける魅力があり、だからこそ、決してシングルヒット向けのトラックは入っていません。

ですから、一聴すれば、特に初めてディヴィッド・クロスビーに接するリスナーにすれば、ネクラで地味な音楽と受け取られるかもしれませんが、そこに仕込まれている不思議な心地良さに覚醒すれば、もう……、これ無くしては……!?!

そんな麻薬的な魅力に溢れているはずで、これはサイケおやじの実体験に基づくところでもあります。

例えば、ザ・バーズ在籍時に書き上げていながら、バンドメンバーからは拒絶されていたらしい「Laughing」、ミョウチキリンな和声を積み重ねた「Tamalpais High」や「Song With No Words」「Orleans」「I'd Swear There Was Somebody Here」と続く後半3曲の流れの素晴らしい構成美は、独壇場でしょうか。

聴いているうちに何となく、心身が浮き上がっては沈んでいく、そんなループに陥ってしまう自分を感じてしまいますし、そんな感覚に衝かれてしまえば、「If I Could Only Remember My Name / 名前しか思い出せないなら」というアルバムタイトルにも説得力がある気がしております。

ちなみにレコーディングセッションに参加したミュージシャンというか、親しい仲間達なんでしょうが、とにかくCSN&Yのグラハム・ナッシュとニール・ヤング、ジョニ・ミッチェルグレイトフル・デッドからはじェリー・ガルシア、ビル・クルーツマン、ミッキー・ハート、さらにはジェファーソン・エアプレインからはグレース・スリック、ヨーマ・カウコネン、ジャック・キャサディ等々、当時の西海岸ロックを活性化させていたメンツが大集合!

そのあたりにも故人の人脈や人望が想像出来るというものです。

最後になりましたが、ちょっぴり捉えどころが曖昧なアルバム内容であるが故でしょうか、表ジャケットの画像を掲載させていただきますが、重ね焼きされたアルバムデザインは、落ち着きと過激の二面性を持っていたかもしれないディヴィッド・クロスビーという偉人には相応しかったという思いが、今は強いです。

どうか、安らかにお休みください。

合掌。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼・ジェフ・ベック

2023-01-12 18:04:43 | 追悼

ニュー・ロック・ベスト4 / Jeff Beck (Odeon / 東芝)

サイケおやじも心底尊敬するギタリストのジェフ・ベックが天に召されました。

享年78……、ですから天寿を全うしたと思いたいですし、ギタリストとしての偉大な業績、その天才性は言わずもがな、サイケおやじが殊更凄いと思うのは、その外見的なイメージを最後まで保っていた精神力です。

平たく言えば、スタアに昇り上がった若い頃から高齢者となっても、故人のルックスは正にジェフ・ベックそのまんま!

鋭い眼光にシャープな肉体という佇まいは、何やら古の剣豪を想わせるものがありました。

そして故人のギタリストとしての偉大過ぎる存在感は、とてもサイケおやじの稚拙な筆では書き尽くせぬのは必然、しかし、正直……、言葉が出ないというか……。

さて、そこで本日掲載したのは、1970年に我が国独自で発売された7吋の33回転、4曲入りの所謂コンパクト盤で、収録されているのはジェフ・ベックが自らのグループとして結成したジェフ・ベック・グループが1968年に出した最初のアルバム「トゥルース ~ 驚異のブルースギター」からカットされた以下の4曲 ――

   A-1 You Shook Me
   A-2 Blues De Luxe
   B-1 Let Me Love You
   B-2 Rock My Plimsoul

―― 何れもステレオバージョンになっております。

もちろん、既に皆様ご推察のとおり、サイケおやじが掲載盤をゲットしたのは、件のLPが買えなかったという経済的な理由からなんですが、実は本日、これが自分の手元にあるのは先日、借りているトランクルームにネタの入れ替えに赴いた時、何故か……、急に聴きたくなって、自宅に持ち帰ったのは、ムシの知らせだったのでしょうか……。

何とも……、胸が潰れそうな気持です……。

あぁ……、ジェフ・ベック……、永遠なれっ!

合掌。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼・高見知佳

2022-12-21 17:28:40 | 追悼

シルエット / 高見知佳 (日本コロムビア)

昨日の……、あき竹城に続いて、本日は、なんとっ!

高見知佳の訃報に接しました……。

確か、彼女は今年夏の参議院選挙に立憲民主党のバックアップで立候補していたのですから、とても健康に不安があるなんて、ど~しても思えないわけですが、それでも死因が肺がん!?

―― というんですから、絶句です……。

ご存じのとおり、故人は昭和53(1978)年にアイドルシンガーとしてデビューしながらも、なかなかレコードが売れず、結果的にテレビのバラエティやトーク番組において、その天真爛漫というか、破天荒寸前のキャラクターで人気を獲得しながら、それでも歌手としての活動を続け、昭和60(1985)年頃まで、コンスタントにレコードを出しており、なかなか秀逸な作品も少なくありません。

で、本日掲載したのは、昭和54(1979)年2月に発売された、おそらくは高見知佳にとっての2作目であろうシングル盤なんですが、ここに収録のA面曲「シルエット」は作詞:橋本淳&作曲:筒美京平、そして編曲:船山基紀という黄金のヒットメーカートリオからの提供ですから、悪かろうはずもありません。

実際、アップテンポでディスコ歌謡っぽいアイドルポップスに仕上がっており、リズムの「間」が難しいサビのパートも難なく節回している高見知佳のボーカルは、なかなかにイケていると思います。

ただ……、気になるのは楽曲全体の雰囲気が初期の岩崎宏美、例えば「二重唱」等々の諸作を思い起こさせてしまうのところで、それゆえ幾分低音域が曖昧な高見知佳の歌唱は「分が悪い」というか……。

既に述べたとおり、結果的に空振りしたのは残念だったんですが、彼女が残してくれた公式音源としては、上位に置いてしまうのが、サイケおやじの偽りのない心境です。

ちなみに、後年の彼女は自分のレコードが売れない事を自虐ネタしていましたが、そ~だとしても、この「シルエット」が好きなファンは大勢存在している気がしております。

ということで、高見知佳のレコードは、掲載盤も含めて3枚しか持っておりませんが、中古屋ではアルバムも幾枚か見た事がありますので、そっちを狙ってみるつもりです。

また、故人は女優としても、強い印象を残した演技が幾つもありますので、要注意でしようか。

う~ん、それにしても、享年60……。

衷心より、ご冥福をお祈りいたします。

合掌。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼・水木一郎

2022-12-12 19:29:55 | 追悼

バビル2世 / 水木一郎&コロムビアゆりかご会 (日本コロムビア)

世界で一番有名な日本人歌手・水木一郎の訃報に接しました。

この「世界で一番有名」とサイケおやじが思っているのは、故人が夥しい日本制作のアニメや特撮ドラマのテーマ&挿入歌をレコーディングしているからで、それゆえに海外でも需要の多い件の作品群が世界中で人気を集めるに伴い、水木一郎のボーカルも認知されている事実に拠るものです。

説明不要かと思いますが、水木一郎はアニメ&特撮ドラマソングの他、歌手としての駆出し時代には歌謡曲や和製ポップスのレコーディングも残しているんですが、結果的に昭和46(1971)年頃からは所謂アニソン歌手専業みたいな活動となり、夥しい作品に関わり、レコードセールスも侮れないほどの実績を残しながら、なかなか表舞台に登場出来なかった時期があったのは確かです。

しかし、それが好転したというか、現在に繋がる水木一郎としての存在感が急速に認められたのは、おそらく時代が「平成」に移り変わった頃だったんじゃ~ないでしょうか?

サイケおやじが知るところでは、ヘビメタ系の外タレバンドのメンバーが往年の日本製アニメに幼少期から夢中になっていたオタクだった事で、そんなこんなのテーマ曲をステージで演じていたという逸話に加え、来日時には水木一郎が歌っている主題歌集のレコードやCDを買い漁ったとか!?

その真偽は別にしても、諸外国には同様のファンが大勢、確実に存在しているという現実から、我が国でも水木一郎フリークを公言する有名人が続出する社会現象に!?

いゃ~~、ですから水木一郎は潜在的なファンに加えて、オンタイムの子供達にも強い影響力を与え続けたレジェンドシンガーとして、芸能界に屹立したのでしょう。

さて、そこで本日掲載したのは、横山光輝が昭和46(1971)年に久々の本格的SF作品として週刊少年チャンピオンに連載を開始した「バビル2世」をアニメ化した昭和48(1973)年のNET=現・テレビ朝日放映作品に用いられた主題歌を収録のシングル盤なんですが、ジャケットスリーブが縦長の長方形なのは、これが見開きの絵本仕様になっているからで、そのあたりからも、これは明らかに子供向けの商品でありました。

そして、作詞:東映二&作編曲:菊池俊輔が提供したオープニングテーマ「バビル2世」は力強いアップテンポの歌謡ポップスであり、物語の展開内容をシンプルに入れ込んだ歌詞を分かり易く節回す水木一郎のボーカルは、ソフト&パワフルという、後々までのスタイルが既に完成されていますよねぇ~~♪

合唱パートを担当する子供達とのコラボにも違和感がありません (^^)

もちろん、こ~ゆ~フィーリングと個性は、同時期に制作されていた故人の他のレコーディングにも明確に聴けるわけですので、これ以上、サイケおやじが拙い筆を弄するまでないでしょう。

ちなみにサイケおやじが中古ながら掲載盤をゲットしたのは、全く絵本仕様のジャケットが欲しかったからでして、決して水木一郎を聴きたかったからでは無い事を告白させていただきます <(_ _)>

それでも、機会がある度に耳に入る故人の歌唱には、自然に聴き入ってしまう魅力がある事に気がついたのは、何時だったでしょう。

そのハッとさせられる感覚の心地良さこそが、サイケおやじの故人に対する尊崇の念であります。

水木一郎、永遠なれっ!

合掌。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼・アントニオ猪木

2022-10-01 17:57:22 | 追悼

炎のファイター ~ アントニオ猪木のテーマ (Inoki Bom-Ba-Ye)
                      / アントニオ猪木とザ・ファイターズ (東芝)

稀代の天才プロレスラーにして、素晴らしいパフォーマーでもあったアントニオ猪木の訃報に接しました。

故人は説明不要、昭和から今日に至るプロレスや総合格闘技の理念や人気を確立させた偉業に留まらず、政治や様々な事業の分野においても、常に異端と先進を両立させんと奮闘し、それゆえに悪人扱いされる事も度々だったとは思いますが、時代を面白くした事は間違いありません。

思えば、サイケおやじがアントニオ猪木という偉人に圧倒された最初は、やはりプロレスラーとしての活躍で、日本プロレス在籍時にはジャイアント馬場と双璧のエース格でありながら、所謂「五厘下がり」という存在が暗黙の了解どころか、ファンならば誰しもが意識し、ちょっぴり悔しい気分にさせられていたのも現実……。

それが昭和44(1969)年に開催された第11回ワールドリーグ戦において初優勝した事を契機に、以降は猪木をエースに据えた「ワールドプロレスリング」がNET=現・テレビ朝日で放送開始!

つまり、ジャイアント馬場がメインの日本テレビ「日本プロレス中継」と二本立てでのテレビ放送が成立した事から、会社としての日本プロレスには興行収入と放映権による莫大な売り上げがあり、それが放漫経営や派閥抗争等々も含めて、結果的にプロレス界の混迷と活性化に繋がった事は今や歴史ではありますが、さて、その中でプロレスラーとしてのアントニオ猪木と個人事業主の猪木寛至は、そんな会社の体質を所属レスラー中心の運営に変えるという大義名分で動き出したのが仇となり、今となっては失敗したクーデター首謀者の烙印を押されて、日本プロレスから解雇処分……。

そこで自ら立ち上げたのが新日本プロレスという経緯は、良く知られるところでしょう。

ただし、当初はテレビ中継も無く、興行的にも出場レスラーの顔ぶれに知名度が不足していた現実から、ついに猪木が踏み込んだ禁断の領域が、日本人対決と異種格闘技戦であり、前者では国際プロレスのエースだったストロング小林との伝説的な名勝負が昭和49(1974)年、後者では昭和51(1976)年2月、オリンピックで金メダルを獲得していた柔道王のウィリアム・ルスカとスリル満点の試合を繰り広げ、このあたりが猪木の全盛期だったと思われますが、その勢いで挑戦を表明した相手が、当時プロボクシング統一世界チャンピオンに君臨していた超有名人のモハメド・アリだったんですから、これには世の中がひっくり返るほどの驚きで満たされましたですねぇ~~!?

なにしろ、シュートを連想させる「ストロングスタイル」という信条を標榜していたとて、所詮猪木のやっている事はショウスポーツであり、一方のモハメド・アリはガチンコのプロボクサーというのが、世間一般の見方でしたから、果たして実現は可能なのか?

という疑問疑念が渦巻く中、それでも猪木は臆する事なく、昭和51(1976)年6月、日本武道館で極みの異種格闘技戦を開催したのですから、これはこれで歴史に名を刻す大偉業でありましょう。

しかし、試合そのものは、やはり真剣勝負だったのでしょう、終始ほとんど何も起こらず、寝転がってキックを繰り出す猪木にイライラするモハメド・アリのショウマンシップばかりが目立つという展開で、興行的には成功でも、観衆にしてみれば大凡戦!?

当然ながら、テレビ中継もあったんですが、他局は完全に茶番扱いの報道に徹していた事は言わずもがな、それでも高校時代のサイケおやじに柔道を教えていた先生は、前述ウィリアム・ルスカ戦ではテレビの前でニコニコしていたのに、このモハメド・アリ戦は顔に汗がびっしょりだったとか!?

う~ん、真剣勝負の凄さ、つまらなさを同時に我々に伝えてくれたアントニオ猪木というプロレスラーは、やっぱり素晴らしいですねっ!

さて、そこで本日掲載したのは、今や誰もが一度は耳にしているはずの「アントニオ猪木のテーマ」をA面に入れたシングル盤なんですが、この楽曲は最初「アリ / ザ・グレーテスト」と題された、モハメド・アリの伝記映画のサントラ音源であり、作曲はマイケル・マッサー、演奏はマンドリルと名乗るアフリカのバンドが演じていたんですが、前述した異種格闘技戦の後にモハメド・アリからの許可を得て、猪木が自らのテーマに流用したという経緯があります。

そして昭和52(1977)年に発売された猪木バージョンは直居隆雄のアレンジによる、スタジオセッションプレイヤーの演奏になっているんですが、アントニオ猪木本人も掛け声で参加しているので、それなりに迫真の仕上りでしょう。

ちなみに「イノキィ~ボンバイエッ!」というキメのフレーズは、モハメド・アリのオリジナルバージョンでは当然ながら「アァ~リッ、ホンバイエッ!」ですから、気になる皆様は下記に掲載した原盤サントラ音源のLPでご確認くださいませ。

ということで、アントニオ猪木については、とてもとても書ききれないのが本当のところなんですが、常に「何か」を期待させてくれる人物であったと思っております。

例えば、プロレスをバカにする人々に対し、プロレスラーの中にも本物の強さを持った者が確かに存在するという真実を我々に伝えてくれたのは故人の業績のひとつであり、それは一般社会においても、常に軽く見られている人物でも、間違いの無い行いを普通にやっている、その見事さを認めるべきという教えだったかもしれません。

あまりにも破格の生き様を貫いた故人ですから、悪く言われるのも必然かもしれませんが、サイケおやじとしては感謝と哀悼の意を心から述べさせていただいたつもりです。

アントニオ猪木、永遠なれっ!

合掌。

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼・彩木雅夫 ~ 港の五番町を聴きながら

2022-09-29 17:35:50 | 追悼

港の五番町 / 原みつるとシャネル・ファイヴ (キングレコード)

故・彩木雅夫が残した名曲の中では、五木ひろしが昭和63(1988)年に大ヒットさせた「港の五番町」もサイケおやじは大好きなんですが、これについては面白い経緯があるので、本日のお題とさせていただきました。

楽曲そのものは作詞:阿久悠&作曲:彩木雅夫が手掛けた作品として、最初は五木ひろしのLP「ぼくの新しい十二曲(ミノルフォン)」に収録され、昭和47(1972)年に発売されていたという逸話は有名なところですが、当時はシングルカットされず、しかし抜群のヒット性は認められていたのでしょう、同時期に愛田健二、そして本日ご紹介する原みつるとシャネル・ファイヴのシングルバージョンが制作発売されていたんですが、結果的には……。

で、サイケおやじが初めて聴いた「港の五番町」は昭和48(1973)年、件の原みつるとシャネル・ファイヴが演じていたバージョンで、これは高田弘が手掛けたムード歌謡らしからぬソフトロック系のアレンジが附されたミディアムテンポの仕上がりなんですが、リードボーカルにイナタイ雰囲気のコブシが強く、カラオケパート共々に微妙なソウル演歌っぽい印象は賛否両論かもしれませんが、サイケおやじは気に入ってしまい、中古ながらゲットしたのが、掲載盤というわけです (^^♪

もちろん、当時は本家五木ひろしのアルバムバージョンは全く聴いていませんでしたし、存在すらも知りませんでしたが、少し後になって、愛田健二のバージョンを聴いてみても、個人的には原みつるとシャネル・ファイヴのバージョンが、一番好きですねぇ~ (^^♪

ちなみに原みつるとシャネル・ファイヴは、以前にエリートメンを率いていた原みつる(vo,g) 以下、藤沢礼明(vo)、梅村良一(g)、中上修(key)、河村義明(b)、新田憲幸(ds,per,vo) という顔ぶれで、体裁はムードコーラスのグループではありますが、演奏そのものはロックやニューソウルまでも取り込んだ先進的なハコバン?

当然ながら、内山田洋とクール・ファイブからの強い影響は隠し様も無かったんですが、原みつるがエリートメン時代に狙っていたオシャレ感覚が土台にあった所為でしょうか、演歌~ムード歌謡のコブシや節回しが逆に泥臭いまでに表出していたみたいな印象が、サイケおやじには残っています。

そのあたりが、この「港の五番町」では、良い方向に作用しているとしたら、堂々の成功作であったと思うんですが、いかがなものでしょう。

そして原みつるは、今日まで様々な芸名を使い分け、マニア好みのレコードを幾枚も出している事は皆様ご存じのとおりなんですが、うろ覚えの記憶ではありますが、シャネル・ファイヴのメンバー達がスプートニクスのコピーバンドみたいな演奏しているライブギグに接した事もありますので、なかなか気になるグループではあります (^^;

ということで、それにしても彩木雅夫はサイケおやじの好みにジャストミートの名曲を数多く世に出してくれました。

あらためまして、合掌。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする