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夷酋列像(いしゅうれつぞう)④

2007年12月11日 | 絵画
昨日は雪がどっさり降った。11月22日朝日新聞・道内版「蠣崎波響(かきざきはきょう)と『夷酋列像』(いしゅうれつぞう)の世界」④から~ロシアの進出に藩の力を誇示~筆者は藤田覚・東京大学教授。

『夷酋列像』を見ると、道東のアイヌの有力者が、ロシアの外套(がいとう)や蝦夷錦(えぞにしき)をまとって描かれているのに気付く。像主はアイヌなのだが、衣装はアイヌ風ではない異国風である。

それを手がかりに、18世紀末の江戸幕府が、クナシリ・メナシ事件(1789年)にどのような衝撃を受けたのか、また蠣崎波響(1764~1826年)ら松前藩首脳が『夷酋列像』にかけた意図を考えてみたい。

工藤平助(1734~1800)が、1783年(天明3)に書き上げ、幕府老中・中田沼意次に差し出した『赤蝦夷風説考』は画期的な著作である。蝦夷地(えぞち)に出没(しゅつぼつ)する赤人(あかひと)とはロシア人で、蝦夷地のすぐそばまでが大国ロシア領になっているとはじめて明らかにし、放置すればアイヌはロシアに服従し、蝦夷地はロシア領になっしまうと警告した。

それまで、日本とアイヌとの関係で済んでいたものが、アイヌの背後に「ロシアが存在することを前提」にしなければならなくなった。

1789(寛政元)年に事件が起こるや、幕府は即座に、ロシアがアイヌに加担していると判断、深刻な危機感をいだいた。「工藤平助の警告が現実のものになった」、と理解したのである。

当時の幕府は、アイヌの日本への帰服とロシアの進出の阻止をいかに実現するのかをめぐって、ロシアの野心は領土なのか、貿易なのか。老中(ろうじゅう)の見解が分裂し、蝦夷地政策を一定できなかった。

幕府は松前藩に、ロシアと境を接する道東地域アイヌとの交易の改革と異国境の警備強化を命じるとともに、「ありがたい幕府」の存在を知らしめてアイヌの帰服をかちとるため、幕府役人が蝦夷地(えぞち)におもむきアイヌと交易する「お救い交易」をはじめた。

さらに幕臣(ばくしん)に蝦夷地を調査させ、オランダから最新世界地図を輸入し、北辺の地理状況を把握していった。それにより、蝦夷地はロシアや山丹・満州など、異国と目と鼻のだきで境を接する土地であると認識を深めていった。

松前藩(まつまえはん)は、異国であるロシア、山丹・満州(清国・しんこく)に接する地のアイヌであることを、ロシアや蝦夷錦(えぞにしき)の衣装で象徴刺せ、その有力者を味方につけ服従させていることを誇示(こじ)するとともに、子孫にアイヌの服従を勝ち取ることの重要性を教訓にのこすため『夷酋列像』を描いたのではないか。

幕府と松前藩はともに、クナシリ・メナシの事件を契機に、ロシアの進出という現実を前にして、アイヌの服従なくして蝦夷地の確保はない、という課題をつよく認識させられたのである。(おわり)

(このあたりになると、当時の幕府や松前藩の置かれた姿が浮き彫りになる。アイヌの若者たちの止むに止まれぬ気持ちから、和人への最後の抵抗となったクナシリ・メナシの戦い。

蝦夷地から遠く離れた幕府とその意を受けた松前藩の危機意識の前に、歴史の闇に葬り去られたという感じがする。『夷酋列像』の存在がなかったら、アイヌの人々の悲劇はさらに闇の奥に閉じ込められていたことだろう。)










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