FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

メキシコ壁画運動

2005年05月30日 | 絵画
絵画を革命せよ!メキシコ壁画運動。10年に及ぶ内戦の末、革命政府が樹立。先住民たちの末裔たちが、国を支配する白人たちに立ち上がった。ディアス独裁政治を打ち倒して20世紀最初の革命を成し遂げたメキシコで大衆にもメキシコ革命を知らしめようとして公共施設に壁画に描いた。

ディエゴ・リベラ(1886-1957年)、ダビッド・アルファロ・シケイロス(1896-1974年)、ホセ・クレメンテ・オロスコ(1883-1949年)の壁画に代表される。
西洋とは異なるメキシコの伝統を描いた。「死者の日」「革命のバラード」。

マヤやアステカの遺跡の発見が相次ぎ、古代文明に民族の誇りを見出す。スペイン人の到来以来消されてしまった歴史を復活させる。表面処理にサボテンをコーティングするという方法までよみがえらせた。

芸術というものは社会のものである。一人では所有することができない形式を選んだ。給料も日当方式。ディエゴは革命の手段としてあえてそういう道を選び、芸術家も変わらなければという意識だった。

オロスコは革命の負の部分を描いた。独裁政権を倒した後に、内戦によって多くの人々の命が失われたことを見た。「塹壕」「カトリック教の貴婦人たち」「ブルジュワジーの晩餐」その後、アメリカに渡り、祖国の貧しさを描いた「メキシコの風景」。しかし、世界恐慌が起こり、帰国する。
「カタルシス」女性が喜んで機械を受け入れている姿を描いて、人間性を蹂躙する機械文明を批判している。

シケイロスは中学生から革命運動にもを投じた生粋の革命家。社会改革を実践。労働者を組織化する。1930年、ついに投獄される。獄中では絵を描くことは自由だった。ニューヨークへ行き、実験工房を作り、技術の革新も行った。新しい画材と技法を用い、アメリカのアーティストにも影響を与えた。

61歳から手がけた全長80メートルを超す大作。革命を風化させないためのモニュメント。視覚の実験だった。天井まで描かれた世界最大の壁画。子供を抱いた母親が立ち上がって、民衆へと伝わり、革命が起こるという絵。70歳を超えて、メキシコシティに12角形を基に多面体。「受難のキリスト」「人類の行進」。

この番組を見たかったのは、ディエゴ・リベラがフリーダ・カーロの夫で以前見た「フリーダ」という映画を思い出したから。実像はどうなのかと。ところが、壁画のスケールの大きさ、その力強さに圧倒された。その迫力たるやー。時代背景にもドンドン引き込まれていった。

最後に紹介のあった神奈川大学の教授でラテン・アメリカの美術が専門という加藤先生の弁。「革命と聞いただけで興奮する世代」。ほー、あなたもそうなんですかー。あの頃の炎は消えてはいない。







『評決』

2005年05月25日 | Weblog
フランク・ギャルビン(ポール・ニューマン)は、かつて法律事務所で将来を嘱望されるような弁護士だった。今は葬式に行っては親族に処理をお任せ下さいと名刺を置いてくる生活。彼を支える老弁護士ミッキーの計らいで医療ミスの事件を紹介される。麻酔処置の誤りで植物人間になっていた。相手とされた聖キャサリン病院は、病院の信用を失うことを恐れ、21万ドルという示談金を用意してきた。

しかし、病院にいって証拠となるベッドに横たわる患者の写真をとっているうちに、衝撃を受ける。「真実は葬り去られる。機械につながれ、こん睡状態で死んだも同然。金を受け取れば三百代言になってしまう。彼女を助ける。僕は今日、生き方を変えた」彼は病院からのお金を受け取らず、法廷で争うことを決意する・・・

そうはいってもそこはハリウッド映画だから、相手の医者は有名な著作まであり、名だたる弁護士事務所がついている、証言を約束した医者は姿をくらます・・・とまあ、山あり谷ありの展開になる・・・。ポール・ニューマンの飲んだくれになるにはそれなりの理由があります、という人間味溢れる弁護士がこれまたいいし、これを見守っている年老いた弁護士仲間もあったかくて泣けてくる。たった二人で文献を探しながら法廷闘争に備えるんだからね。

さらに脇役の描き方がどれも納得する存在感。訴えている姉夫婦の夫が示談金を受け取らない、法廷で争うというとフランクをぶん殴る。自分の妻の姉のために奮闘して面倒を見てきたのだ。アメリカではどれくらいの費用がかかるのかわからないけれど、日本だってこれはもう大変な金額になるだろう。しかも4年間も。これ以上ないくらいのいい人ー。歯の一本も折るくらい殴りたくなるよ。

証言者としてきた医者は74歳でただの町医者。がっかりしているフランクに「ギャルビンさん、人間を見限ってはいけない。時には真実に耳を貸すことがあるのです。」と堂々といって立ち去る。たいしたもんなのだ。行きつけの酒場に現れたローラ(シャーロット・ランブリング)にひかれてしまうというのも「どんでん返し」の味付けになっている。こっちも悪女には悪女になる理由がありますというところ。

なんといっても山場は法廷場面。陪審員相手に素晴らしい言葉が続く。「今日の法はあなた方です。あなた方が法です。正義への願いです。」陪審員というものの責任重大さがヒシヒシと伝わってくる。フランクにとってはただ裁判に勝つということだけではない。彼の人生の起死回生でもあるからだ。戦う相手のほうの役者もみんなうまい。面白くて見ごたえがあり、なんといってもポール・ニューマンがいい、という映画。

今、思い返してももう一度見たいなあというハリウッド映画は、法廷劇ばかり。「十二人の怒れる男」や「アラバマ物語」。ヘンリー・フォンダやグレゴリー・ペックが魅力的だった。アメリカの良心を見る思いがした。






























『エレニの旅』

2005年05月19日 | Weblog
1919年ごろ、ギリシアのテサロニキ湾岸にあらわれた人々。ロシア革命勃発により赤軍がオデッサに入城し、移民としていっていた人たちが逆に難民として帰ってきた。その中に40歳がらみのスピロスという男と妻、5歳の息子アレクシス、その手を握っている小さな少女エレニ。オデッサで両親を失いスピロスに助けてもらったのだった。

10年くらいたった。スピロスたちは「ニューオデッサ」という村を築いた。家々が並び、学校や教会もあった。エレニはテサロニキで双子を出産し、裕福な商人夫婦の養子にしてもらった。アレクシスの子供だった。数年後スピロスは妻が亡くなり、成長したエレニを妻に迎えようとしていた。結婚式の途中で、ウエディングドレスを着たままのエレニとアレクシスは村を出て行った・・・

テオ・アンゲロプロス監督の「永遠と一日」から6年ぶりの新作ということで、ひどい雨の日に見に行った。これも長いお話。20世紀を総括する3部作の一つということだった。初頭に生まれ、終わりになくなった監督の母へ捧げた作品。ギリシア悲劇の旅ー。

エレニにはこれでもかといわんばかりに次々に苦難に見舞われる。そのたびによく泣く。エレニ役の女優が黙っていても泣きそうな表情に見え、ずーっと泣きはらしたように見える。これは見ていて辛かった。

「永遠と一日」の中で老詩人の妻が「私の一日」と言う日に、彼がちょっと崖に行ってくるというと裏切り者ーという言葉を浴びせて怒る。普段創作活動に没頭して、家庭生活を省みない夫に今日は妻のために一日下さいという日だったからだ。時代が違うとはいえ、この映画では女の側からのそういう反発や打開する行動がない。

エレニはアレクシスとの愛、双子との再会と生活という個人的なものだけでなく、大きな時代のうねりの中に翻弄される。アレクシスはアコーディオンが聴けて、民族音楽を奏でる仲間の死はファシズムの嵐だった。集会を催しただけでも捕まった。人民戦線が作られる。この辺のくだりはスペインの人民戦線を思い起こさせた。

エレニの悲劇はこれにとどまらない。獄中生活を送っているうちに双子は内乱によって、政府軍と反政府軍に分かれて戦ってしまう。そして、突如、沖縄の名前が出るー。

ここで20世紀のこととはいっても、どこか遠いギリシアのお話に見えたこの映画が突然目の前にアップになって出てくる感じがした。沖縄で終わる日本人の戦争。そこから始まる日本の戦後60年ー。重大な問いを突きつけられた思いー。

内容は「永遠と一日」よりずっとわかりやすい感じがした。ここでもどこへ行っても漂泊するよそ者という難民の意識がセリフとして出てきていた。哀愁漂う音楽が素晴らしく、映像の美しさはどの作品にも。スピロスの葬儀のとき、10人くらい喪服を着ていかだに乗り、川を下っていく場面。ここでも黒い色の美しさが印象深い。スピロスや音楽仲間のバイオリン弾きのニコスなど脇役の存在感が抜群。

この映画は終わってもー。
自分の問題として考えることが始まったー。












『永遠と一日』

2005年05月11日 | Weblog
老詩人アレクサンドレ(ブルーノ・ガンツ)は、余命幾ばくもないことを自覚し、すべてを整理して明日入院することを決意する。娘のところへ行き、亡き妻が随分前に自分へ宛てて書いた手紙を渡す。1966年9月20日。娘はこれは「私の一日」といっていた日のことだという。

ママの死後に取り組んだ19世紀の詩人の仕事は?ときかれる。ソロモスの“包囲された自由人”未完の詩集の第3稿。さあ、言葉が見つからないとねーと答える。娘の夫に「『海辺の家』は売ってしまうことにしました。明日から解体が始まります」と告げられ、衝撃を受ける。

妻が「私の一日」といっていた海辺の家で親戚たちと楽しく過ごした白い砂浜、青い海と空があった夏の日の思い出がよみがえる。街中でストリートチルドレンの少年と出会う。警察に追いかけられていた。年かさの少年は逃げおおせたが、年少の子供たちが次々捕まっている。とっさに車の中に呼びいれた。彼はアルバニア難民のギリシャ系だった。

人身売買の現場から救い出し、国へ戻すため山を越え、国境ゲートへ向う。もやがかかった遠景で、ゲートの高い金網に引っかかって動かない人間たち。二人にだけ見える幻の国境の悲劇の象徴だった。ゲートを目の前にして少年は、家族なんていない、ほんとはおばあちゃんなんていないと。こうして二人は引き返し、少年と一日だけの二人旅をする・・・

1998年/仏=伊=ギリシャ。テオ・アンゲロプロス脚本・監督の作品。
少年と二人の今の時間。妻と過ごした海辺の家の思い出。仕事にしていた19世紀の詩人ソロモスに関すること。この三つがいったりきたりして、話が重層的に展開する。

これから死へと向う老詩人と未来そのものの少年。一つの命の終わりは新しい命へと引き継がれる。妻との思い出は甘く切ない若かりし日の出来事。何度も何度もその思い出に引き戻される。少年とは心を開き、ソロモスのことを語って聞かせる。

ギリシャ人でイタリアで育ったが長くオスマン帝国に支配されていたギリシャの蜂起を聞き、母のいる故郷に帰ることにする。詩人の義務は、革命賛歌を作り、死者を弔い、民衆に自由を教えることだ。しかし、言葉がしゃべれない。近所を回り、聞いた言葉を集め、知らない言葉にはお金を払った。言葉を買う詩人ー。

ギリシャはアルバニア、マケドニア、ブルガリアが隣国でルーマニア、ユーゴと続く。いつも紛争が絶えず、難民の問題がある。いつでも国境を越えて逃れられる代わりにいつでも軍隊が国境を越えてくる可能性がある。ヨーロッパでは戦争を繰り返してきた反省がついに欧州連合へとつながっていったのだと思う。それにくらべてー。

前編が詩のようなセリフと美しい映像で、血は一滴もながされない。これから人生のたそがれに向うとき、何回も見たい映画。詩人に聞いても答えてくれなかった明日の長さは?妻が答える。永遠と一日ー。これはきっと哲学的な意味があるのだろう。

アレクサンドレ、アレクサンドレー。ご飯ですよー。
なんというやわらかい、やさしい母の声。多分、最も幸せな時間だったのだ。

エンディングに流れる管弦楽のテーマ曲がいつまでも耳に残っている。
胸の奥深くを揺さぶられるような重たい映画。映像は目を見張るような完成された美しさ。
こんなすばらしい映画に出会うと日常がすっとんでしまう。

今、札幌で「エレニの旅」というこの監督の新しい作品が上映されている。
どうしても行って見てきたい。








五月の雪

2005年05月08日 | Weblog
昨日は雪が降り、融けないで積もりだしたのには驚いてしまった。連休の始めに苗をたくさん買ってきては、花壇に植えたり、出窓の植木鉢にしたり。それがこの季節はずれの雪で、しおれてしまうのかと心配でたまらない。

夜になると一面真っ白になった。取り払って物置にしまっていた「むしろ」を引っ張り出してきてかけた。それが功を奏して朝になってみると、まだ赤い花も白い花も色がある。良かったー。ホッとしたー。五月は緑があふれて一年中で一番いい季節なのにと、なんだか腹が立って仕様がない。バラの新芽やチューリップのつぼみは大丈夫だろうか。

今日で連休も終わり。母の日ということで、早々とカーネーションやブルーローズの花が活けられた花々が届けられた。ありがとう!!こちらこそ感謝しています。

録画した映画や番組を見て一掃しようと思ったのに、アチコチの温泉に浸かっているうちに終わってしまった。三岸好太郎の番組も取り損なった。コンサもアウェイで負けた、あーあ。

アーセナルスペシャルボックスが来たー。02/03/04シーズンの見所満載のDVD2枚組み。一枚は見たけど、一枚はまだ。なんたって長いんだ。見るにも体力がいる。

もっと体力がいるのは、月曜日の朝からある海外サッカーの試合。一週間の始めから寝不足だからねえ。きつーい。今度の相手は、CL決勝進出で夢見心地!のリバプール。チェルシーとの大激戦の後に、疲れが出るのか。高揚感で一気に押してくるのか。ふたを開けてみないとわからない。

「故郷の香り」のパンフレットに、ヌアンがジンハーをもてなす為に作った4つのおかずの写真が載っていた。作り方まで書いてある。ちょっと作ってみようかなあ。







『故郷の香り』

2005年05月07日 | Weblog
ジンハー(グオ・シャオドン)は10年ぶりに村に帰ってきていた。高校時代の恩師の事業の揉め事を解決するためだった。今では北京の役所に勤め、妻と生まれたばかりの息子がいた。目的を果たし帰ろうとして村の橋を渡っていたとき、背負いきれない芝を担いで一歩一歩重そうに歩いていく女とすれ違った。

汗と泥に汚れていたが、まぎれもなく初恋の人ヌアン「暖」(リー・ジア)だった。そのうち夫と子供と暮らす家を訪ねてくれと言われた。先生から村の幼馴染で口の不自由なヤーバ(香川照之)と結婚し、6歳の娘がいると言う話を聞いた・・・

「山の郵便配達」「ションヤンの酒屋」に続くフェオ・ジエンチイ監督の作品。毎日休まずに黙々と犬を連れて、高い山々に住む人たちに手紙を届ける父親とそれを受け継いでいこうと言う息子がみずみずしい自然の風景とともに描かれた「山の郵便配達」。これですっかりこの監督のファンになった。

これも村の暮らしと風景が美しく描かれていて、懐かしい気持ちになる。ボタンの掛け違いで別々の運命をたどる男女。しかし、ヌアンとヤーバが生活する村人の人生にも物質的なものでははかれない価値があるんだよと言っているようなところは、あの郵便配達の姿が重なって見える。

ふたを取るとほうほうと立つ白い湯気。トントンと野菜を刻む音。卵をかき混ぜて、熱くなった鍋にさっと入れるとじゅっという音と共においしそうな料理が並ぶ食卓がある。ヌアンがジンハーと別れて暮らした10年間の間にこうして営々と繰り返されてきた日常の暮らし。これこそヌアンが努力して築いたものだからだ。

川の水にザルに入れた野菜を沈めて何度も洗ったり。水がめの中に浮かぶ畑で取れた新鮮な野菜。なんの変哲もない繰り返される暮らしこそ人生なのだとー。ヤーバが畑からとってきた大きなきゅうりに味噌をつけながら酒の肴にしてかじる。これも実においしそうな場面なのだ。

ジンハーの気持ちを文章と言うか、独白にしていってしまわないほうがいいのになあと。言葉ではなく最後まで映像だけで説明するというほうがよかったのではと。これがちょっと残念だった。

グオ・シャオドンは知性が感じられ、リー・ジアは娘のころと母親になり、運命を引き受けてたくましく生活する姿を演じ分けていた。しかし、なんといっても驚きはセリフがいえない香川照之の演技。ヌアンに対する愛情は彼の圧倒的な存在感で演じられていた。

若かりしころに戻って人生をやり直せたらと誰しも思う人生のほろ苦さ。透明感のある映像と共にいつまでも余韻が残る映画。















『家族のかたち』

2005年05月04日 | Weblog
夫婦が出演してどちらが悪いか決めるという公開番組に、12歳になる娘のマーリーンと一緒に証言者として登場していたシャーリー(シャーリー・ヘンダーソン)は、司会者の言葉によってディック(リス・エヴァンス)が大きな花束を持っていきなりあらわれプロポーズしたことに動揺し、ノーといってしまう。

落胆しているディックにこのまま3人で暮らしたいというシャーリー。母娘を捨てて町を出て行った夫ジミー(ロバート・カーライル)の記憶が踏み切れない思いを残しているのだった。TV番組でシャーリーとディックのやりとりをみていたジミーはやがて突然戻ってくることになる・・・

いつもやさしく誠実なディックと何をしでかすかわからないという夫のジミーとの間で揺れ動くシャーリーの女心。そりゃあ、一緒に暮らすならディックの方がいいでしょと思いながら、悪っぽい雰囲気のジミーにも振り払えない魅力を感じるシャーリーにもそうかもねえと感情移入し。でも実の父親以上にマーリーンがディツクを好きということに温かい気持ちになりー。

ロバート・カーライルは好きで、これもそのために借りてきた。『フルモンテイ』、『カルラの歌』(だったか)『ビーチ』それからなんだっけ。題名は忘れたしまったなあ。この悪っぽい雰囲気というのが、彼の魅力でもあり悪役が出来る所以でもある。

ディックを対照的なキャラクターにしてその対比が鮮やかで両方を魅力的にしているところが面白い。血がつながっていなくても一緒に暮らせばそれが家族になるという、しかも温かい関係が築けるよという。吹き出したりジーンときたりして最後はほろりとして終わるというイギリス映画。後味よく見終えることが出来る。

『眺めのいい部屋』や『ハワーズエンド』や『エマ』のような格式と伝統を重んじる中のイギリスとケン・ローチ監督に代表されるようなそれをぶち壊そうというイギリスとどっちのイギリス映画もたまらなく好きなのだ。

この前からのイギリス映画好きがどうもプレミアリーグ好きにつながってきているんだなあとこのごろ思う。感覚的にも違和感がないというところがね。この映画に出てくるノッティンガムという町の名前で無敗優勝を誇ったノッティンガム・フォレストというサッカーチームが3部降格したという最近のニュースを思い出してしまった。








ラ・トゥール

2005年05月03日 | Weblog
17世紀のフランスの画家、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)は、死後300年たって再発見され、光と闇の対比に深い内面の世界が精神性を持ち、近代的な造形も見せていて、今日高い評価と人気を得ているそうだ。

「ダイヤのエースをもついかさま師」は、まるで映画の中の一場面のようだった。3人がテーブルを囲んですわり、一人の女が立ってそばにいる構図。貴族の少年がだまされようとしていた。横に座っているいかさま師はカードを背中に隠している。その隣に座る娼婦らしき女は目配せして合図を送ろうとしていた。すぐにも絵の中の人物が動き出し、効果的な音楽が聞こえてきそうだ。

「犬を連れたヴィエル弾き」は、盲目の一人の男性の老人が真ん中に大きく描かれている。足元には犬がいる。ヴィエルというのは手回し琴なのだそうだ。老人はすっくと立って、嘆いているわけでもない。かといって恵まれた人生でもなさそうだった。強く印象に残る作品。

「のみをとる女」は着るものをはだけて、一心不乱に隠れているのみを探している様子。綺麗に描こうとかではなく、その状況を説明するために存在しているような描き方。女のこういう姿をありのままうけいれているというのが驚き。

住んでいたロレーヌ地方は、代々公爵家が統治する政治的にも経済的にもフランスから独立した一つの国家だった。ロレーヌ公爵の下、宮廷文化が栄華を極めていたが、次第に大きな国が小さな国を吸収する動きになる。30年戦争(1618-1648)が起こり、1630年にはフランスが攻め入ってきた。

抵抗運動も行われ、その都度戦死者が増えた。人口も半分くらいになった。人々は戦乱が止まず、ペストが蔓延する時代にまばゆい日の光で目にする多くは偽りである、夜の闇は太陽より愛すべきものとして、夜に瞑想することをすすめられる。過酷な運命を神に問い、祈るしかなかったからだ。

ラ・トゥールはそんな中で、裕福な商人や貴族ではなく虐げられた人々を描いた。鑑定家が出てきて、他にない特徴は汚れたつめを持つ手が絵の中にあるという。これは働くことで精一杯運命に抗したことを描きたかったのではないか。その上で人生に向き合った人物像。彼らに対するあたたかいまなざしが感じられる。

西洋美術館で5月29日まで催されている。
「聖トマス」「のみをとる女」「ダイヤのエースをもついかさま師」「書物のあるマグダラのマリア」「聖ヨセフの夢」など

一枚一枚じっくりと見てみたいけどー。遠すぎるー。