FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

見えない敵

2011年05月18日 | ドキュメンタリー

 NHKBS「世界のドキュメンタリー」~見えない敵~(ドイツ2006年制作)。1986年のチェルノブイリ原発事故から25年になろうとする年に、他国の出来事として見ていた日本でもとうとう地震津波の大震災によって、安全神話が崩れ、福島第一原発の事故が起こった。

この番組ではドイツのドキュメンタリー作家クスストフ・ボーケルが、ナチスドイツが行ったソビエト攻撃のドキュメンタリー番組取材のために事故の翌年、高濃度汚染地域へ入り、同行した通訳のウクライナ人女性マリーナとは2年後に結婚。その後妻は乳がんと診断され、死亡。マリーナの死によって原発事故にかかわった人々から当時の状況を聞き、被害の真相を追う決意をしたのだった。

当時はソ連邦末期、最後の書記長ゴルバチョフ時代。共産党機関紙「プラウダ」の編集長だったというジャーナリストの証言。ゴルバチョフ書記長と政府はこの事故が敵対する勢力が自分に仕掛けた攻撃だと解釈し、それに対する恐怖が強く、一度も現場に行かなかったというのだ。

 証言は続く。原子炉の下にはまだ冷却用の水が残っていて危険。炉心の溶融していたので炉心が冷却水に触れたら、新たに大規模な爆発が起きかねないので、そうなったらウクライナの大都市全域も放射能に汚染される。だから何としてもこの水を抜く必要があった。

水を抜くために真っ暗な中で二人の若者が原子炉の下へ入っていき、この水を抜いた。彼らは大量の放射能を浴びたが水を抜くことには成功した。モスクワ郊外にある「ミチノ墓地」にはチェルノブイリ事故で早い時期に事故処理に当たった人々が埋葬されている。彼らは被爆から数週間で無残な死に方で亡くなっている。

消火作業に当たった人たちは致死量の放射線を1回ならず10回分も浴びている。一か月以内に死ぬことが明白だったので、国家英雄の名誉称号を送るべき。そうすれば生きている間に国が称えたことを知ることが出来るとゴルバチョフに進言。しかし送られてきたのは6か月が過ぎてからだった。

「被ばくの恐ろしいところはどんな影響が出てくるのか想像しにくいことです。放射性物質のストロンチウムは骨やあごに蓄積され、やがて歯が抜け落ちます。しかし痛みを感じるものではありません。だからこそ兵士たちはどんな仕事でも引き受けたのです。そして後になって代償を支払わされました。それがチェルノブイリの悲劇です。」

 もう一人の証言者はディーマという画家の青年。モスクワの小さなアトリエで。原子炉の爆発事故の汚染処理に動員された80万人の一人。86年6月始め。その後内面を絵で表すようになり、作品を残しながら、体は次第に衰弱し入院もしたが、政府からは因果関係が認められず。映像に映っている当時は「体に多少の痛みと不快感があります」と語っていたが、まだ元気に証言している。

毎朝ミネラルウォーターと片手一杯の白い粉が支給され、貯水タンクもあり、熱いお湯やぬるめのシャワーも使えた。給水トラックも来ていた。汚れは洗い落とせたので安全対策が不十分とは思わなかった。1997年当時は我慢できるような普通の病気の人も被災者と認定された。ところが1999年には状況が変化。傷病手当は命にかかわる病気の人にのみ支払われると書かれ、つまり癌だけが対象となったのだった。ディーマの病気は認定されず、少ない年金で留め置かれた。

チリには放射性物質が含まれているとは知らされたが、それがどんな悪影響を与えるか教えられなかった。遠隔装置を使う重機はすぐ強い放射線で使えなくなった。あとはシャベルと水、手押し車、人間の体しかない。ディーマたち作業員は野営のテントに寝泊まりしていた。みんな明るかった。ちょうどその頃サッカーワールドカップメキシコ大会があったので、みんな大声を上げて応援していた。兵士たちは作業を10時間以上もやった後で這うようにしてTVのある部屋へ行き、ワールドカップの試合を見ていたという。

クラスメートの女性の証言。「ディーマは学生時代から自由な雰囲気で芸術家タイプだった」「彼はこう言いました。僕は行列の最後尾かもしれない。すでに多くの人が死んでいるので自分もその列に並んでいたのを知っていたのです。」2002年夏、モスクワ近郊の森の中で遺体で発見された。彼が子供時代に休暇を過ごした別荘のすぐ傍だった。1964年~2002年、4か後には40歳の誕生日を迎えるはずだったディーマ。身元不明者の墓地の一角にひっそりと埋葬されている。

番組の中では実写の映像もあった。作業員に手順を説明している。「手押し車にガレキを乗せろ。一人が乗せてほかの二人が運ぶ。向こうに着いたらすぐに数え始めろ。90まで数えたら駆け足で戻る。数を数えながらガレキをすくえ。90まで数えたらすべてを放り出して走って外へ出ろ」

人間が作った見えない敵との戦い。チェルノブイリでも日本でも責任者は一番危険な現場には行こうとしない。危険に晒されるはいつも弱い立場の人間たち。東電は2か月も経ってから実は…というように1号機ではメルトダウンが起こっていましたと発表。安全神話を壊したくないために被害を大きくしたのではないかという疑いが持たれている。台風の季節になれば距離の離れた地域にも放射性物質は運ばれてしまう。だらだらやっている場合じゃないと、日本でもいよいよ高濃度に汚染された建屋の内部に作業員が入るという段階になってきた。いつまでも事態が動かなければ、誰かが”選ばれて”入って行かざるを得ない。この番組でも恐ろしい映像の数々。水を抜くために原子炉の下へ入っていった若者二人の姿が今でも残像になって消えない。

 


無実プロジェクト

2011年02月12日 | ドキュメンタリー

日本で導入された裁判員制度のお手本となったという、その陪審員制度があるアメリカでも実は冤罪の問題があり、それを打ち破ろうとする無実プロジェクトの活動。BS世界のドキュメンタリー「冤罪から救出せよ~アメリカ無実プロジェクト」(制作NHK/日本電波ニュース社/2011年)。

今、アメリカで起きている冤罪を解明するうねり、死刑囚138人以上を含む無実が明らかにされてきた。その活動に大きな役割を果たしているのが各地に生まれた民間の無実プロジェクト。

大学のロースクールを拠点に弁護士である教員と、法律家を目指す学生が取り組んでいる。ウィスコンシン大学のこのプロジェクトは先駆けの一つ。刑務所で受刑者の相談に乗る活動から、DNAなどの証拠を使い無実の人を見分ける作業。12年前にこれを立ち上げたのがジョン・プレイ准教授とキース・フィンドリー教授。14人を獄中から救い出している。

無実の人が殺人を告白してしまう尋問ビデオを、学生たちに見せる。12歳の少女が自宅で殺害され、14歳の兄に嫌疑がかけられ取り調べを受ける。警察が過ちを認め、公開されたもの。

取り調べ室では、妹の死と自分へ向けられた疑いに絶望感が頂点に達し、頭を抱えて泣き出したところへ、嘘の証拠が出される。「部屋から血痕が出たよ」「そんな…どこで血が…」「分かっているだろう」「知らない、やってないよ、誓うよ」「ナイフのことも話せないのかい?」「なんのことかわからないよ、やったことも覚えてないよ、思い出せないんだ」「それはあり得ることだ」…その後まもなく少年は自白することとなる。

自ら冤罪体験をした人物、オチュアさんの場合。学生が質問する「あなたの経験ではどこまでが尋問だと思いますか」「トイレに行っている間も尋問だ。録画を止めた後、カメラがないトイレで警官が容疑者を殴る。腹を殴れば後は残らない。それから質問を再開する。警官はいつでも録画を止められる。先進地のシカゴではそれは禁止された。すべて録画される。廊下にいてもだ。警官が止めた時は何かを隠している。」

オチュアさんは無実プロジェクト救出第一号。警察が見込み捜査に突き進み、オチュアさんは覚えのない若い女性のレイプ殺人を告白させられる。当時22歳で死ぬのが怖かった。告白すれば死刑を免れると誘導され、裁判では終身刑を求刑される。刑務所に入って8年目、無実プロジェクトに手紙を出し、DNA鑑定では無実を証明された。2000年1月無罪が確定。オチュアさんはその後ロースクールに通い、弁護士資格獲得。冤罪に苦しむ人々を救い出したいと活動している。

もっとも死刑執行が多いと言われるテキサス州では、子供3人が自宅で焼死、父親のシェリンガム死刑囚は無実を訴えながら、2004年死刑が執行された。しかし無実プロジェクトの独自の実験から、これは液体がまかれたのは誤り、放火ではなかったと検証。州政府から依頼された専門家もただの火災という見解。

無実にあるのに死刑になってしまったという衝撃は大きく、テキサス州では検察庁の中に有罪事件の再調査をするセクションが誕生。殺人犯にされていた二人の無実を突き止めるなど成果を上げている。現場の抵抗があったが、ダラス(ケネディ大統領が暗殺された場所として有名)の司法制度の信頼回復を目指して行くことが最終目的だという。

今では無実プロジェクトの取り組みはアメリカ連邦政府を動かし、資金面で援助を始まるまでになった。1995年の強盗殺人未遂事件、1996年禁固刑80年の判決が求刑されたバンデンバーグ受刑者は、1998年人づてに聞いた無実プロジェクトに手紙をだし、最後の望みを託した。その活動が実って15年目にして再審の道が開かれ、保釈されることになった。

バンデンバーグさんの有罪判決は陪審員全員一致によるところ。当時の陪審員「最後まで私は違うのではないかと言い続けましたが、被害者の目撃証言しかなかった。もっと証拠がほしかったが、私たちは被害者のいうことを根拠にしたんです。彼がバンデンバーグがやったというのですから。人一人の人生がかかっているし、間違った判断はしたくないからです。でも間違ってしまった。裁判の後もずっと嫌な気持でした。再審が決まってよかったです。」

ジョン・プレイ准教授「犯していない犯罪について自白させるのはかつて考えたほど難しくありません。それが真実でなくてもDNAが見つかったとか、現場で目撃されたなどという証拠について嘘をつくと容疑者は有罪は免れない、救われる唯一の道は自白だと追いつめられてしまう。自白したほうがまだ楽だと思ってしまう」

キース・フィンドリー教授「制度は人間のものですからあらゆる国で間違いは起きています。私たちは無実プロジェクトの運動を国境を越えて世界に広げます」

冤罪の当事者から弁護士となったオチュアさん「一人の冤罪を避けるためには、例え10人の犯罪者を逃してもやむを得ない。これこそがアメリカの精神のはず。社会が悪人を完全に排除しようとすることで、無実の人がどれだけ投獄されるか考えて見てください。私もその一人でした。」

陪審員やオチュアさんの言葉は実に重たいものがある。日本では有罪無罪だけではなく、有罪の場合は量刑までも市民が決めるという裁判員制度が始まっている。通常より短い期間の審議でもし間違った証拠を基に判断を迫られるのであれば、裁判員はたまったものではない。最近では大阪地検による証拠改ざんという村木さんの冤罪事件があったばかり。功を急ぐあまりの検察による見込み捜査、検察ストーリーのでっち上げ。

すでに裁判が始まった東京地検による小沢さん秘書3人が逮捕された事件、小沢さんの強制起訴もそれと同じ構図だと言われている。日本より進んでいるはずのアメリカでさえ、冤罪から救出する取組が行われていることを考えれば、戦前の特高警察の体質を受け継ぐ前近代的な日本では、取り調べの全面可視化など急がれて当然ではないだろうか。


【シルクロード第2部】~第12集草原の王都

2008年11月22日 | ドキュメンタリー
【シルクロード第2部】第12集草原の王都~サマルカンド・ブハラ~。かつてのチムール帝国の古都だったウズベキスタンのサマルカンドには、サマルカンドブルーと言われる青を基調にしたタイルで外壁を覆われた美しい建物がある。この回は憧れの町、サマルカンドを中心にした取材だった。

劇的な攻防を繰り返した町サマルカンドは、紀元前はアレキサンダー大王、13世紀、1220年にはモンゴルの英雄、ジンギスカンに攻め込まれている。二人は大軍団を率いてこの町を侵略し、破壊した。

しかし14世紀、中央アジアが生んだ英雄チムールによって、町はよみがえる。1370年、チムールはサマルカンドを都と定めた。「ジンギスカンは破壊し、チムールは建設した」といわれるようにチムールは遠征の度に職人を連れ帰り、この地に美しい建物【レギスタン広場、シルドール・メドレッセ、チィリャ・カリ・メドレッセ】が立ち並んで、チムール朝文化が花開いた。サマルカンドこそ世界の中心と言われた繁栄の時代。

チムールは生涯ここを根拠地にして遠征を繰り返した。チムール帝国の版図は拡大し、中国の辺境から南ロシアの草原地帯、西はペルシャの都から、バグダッド、ダマスカスまで兵を進めた。小アジアの半島のアンカラで日の出の勢いだったオスマン帝国を破り、南はアフガニスタンからインドにまで勢力を伸ばした。

チムールはサマルカンドを中心としたイスラム帝国を建設しようとする理想をもっていた。自由な往来を保障し、各地から学者や芸術家を呼び寄せ、サマルカンドは国際都市になった。チムールに会うために中国とスペインの使節がその順番を争ったりするほどだったと言う当時の記述が残っている。

しかしチムールは君主になってもどこまでも遊牧民だった。宮殿には住まず、巨大な天幕に住み、毎晩臣下と酒を飲み、食べきれないほどの羊や馬の肉で宴会を催した。ひとたび遠征の命令が下ると周囲のテントに住む数万人の臣下はいっせいに移動した。

死の前年に立てられた【グル・エミール】という青い円塔型の建物に遺体は葬られているが、チムールはドームが低すぎるとこれの建て直しをさせている。

長い間チムールの柩は開封されなかったが、1941年、地下室にある本物の柩をウズベク共和国とソビエト科学アカデミーの学術調査団によって柩のふたが開けられた。頭はメッカのほうを向き、身体は絹の布を纏っていた。

そして何より遺体は巨人のような大男であることがわかった。これを基にロシアの学者によって後にチムールの顔が復元され、この像がタシケント歴史博物館に所蔵されている。

現在(1983年当時)のサマルカンドはおよそ人口50万人。近くにあるコルホーズ(このときにはまだソ連邦は解体していない)の農家が持ち寄ったコルホーズ・バザールが開かれ、これは中央アジアでもっとも大きいという市場。

一日2万人の買い物客で賑わっている。旧市街地の街並みはかつてのオアシス都市を彷彿とさせる緑豊かな雰囲気を残し、豊富な水は家々の間を縫うように灌漑用水として流れていた。

1405年1月、チムールは20万の騎馬軍団を率いて、中国へと向かった。当時の中国は永楽帝が支配している【大国・明】。チムールがどうしても一度は対決しなければならない相手だったが、その対決は実現しないままで終わった。

遠征の途中で急死したからだ。現在のカザフ共和国にあるオトラルという小さな町で、チムールは69歳だった。そんな攻防の歴史が薄れたいま、サマルカンドの町はタイルに飾られた建物が、輝くようにかつての栄華を伝えている。

なんど見てもあのブルーの色は見飽きない魅力がある。空の青、海の青にも似た透き通るようなブルー・・・。










蔵出し劇場【シルクロード】

2008年10月08日 | ドキュメンタリー
早朝、ゴミだしのついでに庭を見回ると、濡れたような朝露がまだ葉っぱに残っている。外に出してある植木鉢をいつ取り込むか、毎日気温が気になって仕様がない。3回目の薔薇がまた咲きだしたのがうれしい。

昨夜は毎週楽しみにしている【蔵出し劇場シルクロード(1984年のものを再放送)~第2部~】とアンナ・ネトレプコの歌劇の放送が重なってしまい、どちらにしようかというところ。

結局、これは永久保存版ということで毎週気合を入れて!録画しているので、【シルクロード】を優先。石坂浩二さんの語り、喜多郎さんの音楽がなつかしくて嬉しい。第10集 はるかな大宛(だいえん)~天馬を求めて~

大宛(だいえん)という今はない幻の国に存在した《天馬》の行方を求めての旅。タクラマカン砂漠の向こう、カシュガルの町を通り、天山山脈を越えたさらに西方にあったという、中国国境を越え、旧ソビエト領にまたがる旅。《フェルガナ盆地》へ向かう。

東西300キロ、南北150キロ、日本の四国より広い面積というのだから、想像もつかない広さ。【史記大宛列伝】に寄れば、漢より1万里のところにあり、数十万人が暮らしていて、人々は稲や麦を栽培し、ぶどう酒も作って、弓や鉾を使い騎馬戦も行っていた。

しかし13世紀、中央アジアに攻め入ったジンギスカンの軍勢によって滅ぼされてしまう。それより以前の漢の時代には、武帝によって西域踏査を命じられた張騫(チョウケン)が13年間にも及ぶ旅から戻って報告すると、武帝は《天馬》に興味を示す。

《天馬は一日に千里を走り、身体からは血のような赤い汗をかく》。武帝は天馬に憧れ、ついに6万の将兵、軍馬、ロバ、ラクダ、数万頭という大軍勢で4年に及ぶ戦いの末、将軍《李広利(りこうり)》は3000頭の天馬を連れて凱旋した。

首都だったところの遺跡が残されており、ようやく発掘も行われるようになったらしい。旅は続き、フェルガナの大草原を越えるとキルギス共和国に入る。市場ではさまざまな人とものが行き交うバザールが行われていた。この国では岩壁に残されていた古い岩絵を案内されることになる。

天馬の姿はいかに?・・・首が長くて頭が小さく、足も長かった。いかにもスピードに乗って加速するには好都合の体形をしている馬ではないか。かたわらには生贄になったというカモシカの絵もあり、これは単なる馬ではなく、大宛国の繁栄を支える守護神の役割も果たしているということがわかった。

さらに旅は続き、ウズベキスタン(このときにはまだ旧ソ連邦領)へ。その南にはアフガニスタンと続いている。今は幻の馬となった《天馬》が辿った道は、後に交易の道としてにぎわうことになった・・・。















秋の気配

2007年08月22日 | ドキュメンタリー
子供のころからお盆が過ぎれば土用波がたつから、海へ泳ぎに行ってはいけないといわれてきた。この辺りではお盆を境に朝晩がめっきり涼しくなり、秋の気配。学校も2学期がもう始まっている。

今朝の朝日新聞やTVニュースなどでも、民主党の小沢代表が、安倍政権のことを「政府は脳死状態なのか、うんともすんとも言わなくなった」ということを刺激的に取り上げている。

テロ対策特措法の延長反対を表明していることは大いにやってほしい。自衛隊の活動の中味もわかるようにしてもらいたい。さらにアメリカとの関係も含めて、この国の進む先の輪郭も見せてほしい。・・・などと期待している。

とはいっても、先の参院選で自民党を惨敗させたのは、何もニュースショーを盛り上げるためではないはず。期日前投票にわざわざ足を運んだ人々だって、安倍首相が結果の責任を取って辞任という、体制の転換を見たかったのだと思う。

結果の責任を負わないというのは、古くから日本の組織、軍隊でも行われていた。先の大戦の兵士であった80代の方々の証言を元にして作られたNHKのドキュメンタリー、兵士の証言記録。これを見ても、多くの犠牲者を出しながら、作戦失敗の責任は問われないまま、次の無謀な作戦へと移っていっている。

最新鋭の軍備を整えているアメリカに、空と海はすでに制圧されていた。兵士への補給を運んだ船もことごとく沈められる。日本兵はジャングルの中を右往左往しては、食料も水も絶たれ、マラリアなどの病気、飢えに苦しんで戦わずして亡くなられた。生き残った兵士は飢えに苦しんで死んだ責任は誰が取るのかと訴えている。

中国大陸打通作戦という、内陸の通路を確保するという理由で、ひたすら歩き続けた歩兵たちには、弾薬や武器ばかりか、食料は現地で何とかせよという。泥棒の奨励による兵士の倫理観の欠如。1年半ずっとそうだったという証言。

南京を攻略して当時の首都を陥落させれば、中国はあっさり降参するという甘い見通し。短期決戦の作戦は海でも陸でも次々に失敗する。蒋介石の軍隊は、毛沢東軍と一時的に手を結んでまで日本との戦いに全力で向かってきた。

軍隊の責任を取らないなし崩し的な体質は、盧溝橋事件から太平洋戦争終結まで、実に7年に及ぶ戦争にまで長引かせていった。いままた戦争が出来る国にしようという人々は、自分たち一族からは戦地に赴く兵隊など、子々孫々まで出てこようもないと思っているに違いない。









夷酋列像~秘められた悲劇~

2006年09月23日 | ドキュメンタリー
BS日テレ放送の「夷酋列像」謎のアイヌ絵、秘められた悲劇。まだ蝦夷地といわれていた頃の話。松前藩の兄を藩主に持つ家老でもあり、絵師でもあった当時26歳の蛎崎波響が描いたA3サイズのアイヌの長たち12人の絵。

鹿を担いで立ち上がろうとしている男、弓を構えている男。槍を持つ男。連れているのは白熊とヒグマだろうか。まるで絵の具を刺繍するように細部までリアリティがある。まだ鎖国の時代にあって、衣装が中国やロシアの色鮮やかな外国のものを着せている。当時としては特異なものであった。

寛政元年(1789年)、今から217年前。道東でアイヌの和人を襲撃した事件があり、死者71人を出した。和人への襲撃はクナシリ島で起こり、やがて対岸のメナシ地方へと飛び火した。クナシリ・メナシの蜂起として伝わっているものだ。

背景には和人がアイヌの人たちを暴力によって働かしたり、だましたり、女性への性的暴力があり、若い人たちが止むに止まれず立ち上がったというのが実態だった。松前藩からの鎮圧隊は260人。鉄砲85丁、大砲3門の重装備。このとき事態の収拾に奔走したのがアイヌの長たち。彼らの絵が「夷酋列像」である。

当時本州から蝦夷地に入ってきた商人は松前藩に金を払い、交易する場所の権利を手に入れ、自分たちに都合のいいルールでアイヌの人たちを酷使していた。松前藩は搾取、暴力、虐待の事実を知っていた。

説得された若者たちは根室のノッカマップに集められ、37名が斬首された。40日に及ぶ長旅になった。しかも松前に入る手前で待ったがかかる。綺麗な服装にさせよということで、蝦夷錦という中国製の衣装を着せて、隊を組んで凱旋行列をさせた。松前藩の大演出だった。武力によってアイヌ民族を滅ぼされないようにと戦争を避けた長たちの苦渋の決断。仲間の首と一緒など望んだことではなかった。

当時の幕府はロシアの南下を脅威に感じていた。老中松平定信は松前藩の統治能力に疑問を感じていた。交易商人からの借金の踏み倒し、密貿易の疑いがあったからだ。そうした中で起こったのが、クナシリ・メナシの蜂起。道東のアイヌの反乱で幕府の不信感は決定的になった。

松前藩は藩の取り潰しを恐れ、生き延びるために「夷酋列像」を利用した。異民族らしく立派な衣装を着せ、配下においていることを示したかった。事件の真相を隠し、アイヌ民族を屈強な異民族として描いた。

波響は家老という藩主の弟の立場とアイヌに同情的な気持ちの画家としての立場。この二つが見え隠れする絵になった。絵の評判は全国に広まり、大名や公家がこぞって閲覧したという。しかし、ロシアや中国製のきらびやかな衣装をまとうアイヌの姿は外国とアイヌが既に結びついている印象を与え、かえって不信を募らせる結果を招いた。

「夷酋列像」完成から8年、1798年幕吏、近藤重蔵がエトロフ島に「木標」を建立。エトロフ島は日本の領土であると宣言。1799年には蝦夷地が幕府直轄になり、1807年、松前藩は縮小されて福島県の柳川に移された。

さらに統治に乗り出した幕府は一方的にアイヌの和風化を進め、名前を日本名に、ちょんまげも結わせた。松前藩はそこまで強制はしていなかった。アイヌ民族は日本とロシアという二つの国に翻弄された民族だった。

札幌でアイヌ文様のデザイナーをして刺繍教室を開いている貝澤珠美さんは、この絵の謎を解く為に、ついにフランスのブザンソンの考古美術館に保管されているという一組の「夷酋列像」に対面する為に渡仏する。

一般公開されていなかったこの絵を、奥の扉を開けて案内してくれた女性学芸員スリエ・フランソワさんに、あなたはこの絵をポジティブに受け入れますか?それともネガティブに感じてしまうのでしょうか?と聞かれる。最初は虐げられたアイヌ民族を差別的に描いていたと対決姿勢を強めていた珠美さんはそこで、彼女からモデルになったアイヌを敬っていた。だからあのような表現になった。果たして波響以外の画家ならこういう形になっただろうかと問われ、敵意は次第にやわらいでいく。

さらに函館に来ていた宣教師が持ち帰った説があるという。フランス人宣教師メルメ・ド・カション神父。1858年函館に教会を開き、アイヌの存在を知る。布教目的ではなくアイヌの集落を訪ね、帰国後、1863年「アイヌ民族」という本を出版する。

アイヌ民族には文字がない。伝統は集落の長や詩人によって語り継がれる。アイヌ女性の子供への愛情は日本人よりとても深い。などと真の姿をヨーロッパに伝えようとした人物があったのだ。

この番組を見ながら、だいぶ前の話だが、資料展を見に行ったことがある知里幸恵さん(1903~1922年)のことを思い出していた。幸恵さんは祖母も叔母も口承文芸の伝承者で、はじめて「アイヌ神謡集」をまとめた人だ。

アイヌ文学の第一人者金田一京助にアイヌ語の重要な示唆いくつも与えたといわれ、その金田一の勧めで口承文芸の文学化に着手。短い期間に数々のノートと「アイヌ神謡集」の原稿を残したが、病弱だった身体で滞在先の東京で19歳でなくなった。のちに北海道大学の教授となるアイヌ語学者、知里真志保さんはその弟に当る。

珠美さんは講演会などに招かれてみると、余りにもアイヌのことを知らない人たちが多い。アイヌ文様を実際の生活に使って知ってもらうことで、アイヌ民族のことまで関心を持ってもらえればと、大きな黒い瞳でしっかりと前を向いて話していた。歴史の中の架け橋になりたいと・・・。