FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

最初の出版社

2006年07月29日 | Weblog
今日は暑さが我慢できずに、途切れ途切れにエアコンを入れた。このごろはモーツァルトを取っ掛かりに、音楽を聞く時間が増えて楽しい。あー、あの映画に使われていた歌はこれだったのかなんてわかって、視界が晴れたような気分になっている。

毎日モーツァルト第104回、トラットナー。ピアノ・ソナタ第14番、ハ短調。K.457.第1楽章。
ゲストは華道家のかりやざき省吾さん。
この曲は雄大で、最初の出だしがなんてドラマティックかしらと。息を呑むようにスーッと吸い込まれていく。いろんな展開があってすごくロマンティックなところがあったり、幻想的なファンタジーの世界をこの曲から感じるんです。

ですから紫色のアジサイとスイートピーの花をモーツァルトのイメージから活けさせていただいたんですが、こんな曲が、モーツァルトの手によって、あの時代に作曲されて、我々が楽しませていただけるなんて事は、奇跡としか言いようがないくらい、感動的なことだと思いますね。

ほんとにねえー。後世の人は特に、その時代から先駆けたことによる苦しみの木になった果実というのか。それをを作品として楽しませてもらっているというわけなんだから、なおさらだ。モーツァルトはそれでもまだ収入があり、家族を持つことが出来た。ゴッホなんか悲惨のきわみだ。絵は売れないし、弟のテオに食べさせてもらって、最後に自殺だったんじゃないかなあ。絵は何度見ても、ほんとに素晴らしい。

1784年秋、28歳。モーツァルトは1月から9月までトラットナー館の4階を借りて暮らした。この豪華な建物のコンサートホールでモーツァルトはたびたび演奏会を開いていた。トラッナーのような書籍商が台頭した当時のウィーン。

ここは、宮廷に出入りして財を成したトラットナーが建てた当時のウィーンを代表する建造物だった。トラットナー夫人は最初の弟子の一人だった。この曲はトラットナー夫人に捧げられた。

モーツァルトの手紙
”毎朝6時に理髪師が来て、ぼくを起こしてくれます。7時から10時まで作曲をして、その後トラットナー夫人にレッスンをします。キャンセルがない限り、毎日ぼくは通っています。”

この曲はウィーンで完成された唯一の短調のピアノ・ソナタ。モーツァルトはたびたび演奏し、楽譜も出版した。1770年に創業されたアリタリア社はウィーンの最初の出版社だった。モーツァルトはアリタリア社から多くの作品を出版した。

ウィーンでは皇帝ヨーゼフ2世の芸術保護政策により、書籍の出版が盛んになり、貴族や裕福な市民がわが子の練習用に楽譜を買い求めた。パリやロンドンに比べ、出版では遅れを取っていたウィーンでも出版譜の形でモーツァルトの作品が人々の間に広まっていった。

この作品も初めて耳にした。出だしがドラマチックでいて、それだけで終わらず、飽きさせないところがやっぱりすごい。モーツァルトの存在はヨーゼフ2世に守られていたことが大きいんだよねえ。手紙を読めば、天才モーツァルトが規則的な生活をして、日常の中で作曲をしていたのがよくわかる。天才は劇的に生まれない、ということなのだろう。







ナンネル

2006年07月27日 | Weblog
今朝のN響コンサート。R・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラ・・・」がよかったなあ。導入部はなんども聞いたことがある印象的なものだ。難しい名前にはまいったー。覚えられないー。

毎日モーツァルトは第103回、姉の結婚。ピアノ協奏曲第16番、ニ長調。K.451.

ゲストは心理学者の河合隼雄さん。
好きも好きも大好きですね。何か聞くというとモーツァルトを聞くというくらい好きです。やっぱり作曲家の中で、一番好きじゃないかと思いますね。昔、LPを買ったころは、あのころ、2300円で、給料が6868円。一枚2300円というと迷って迷ってー。大きいのではなく、小さいものでモーツァルトのピアノコンチェルトで買えるものがあるということで買ったんです。それがピアノ協奏曲16番。何度も何度も聞くから好きになった、とそういうわけです。

やっぱり魂にすっと入ってくるというのが一番いい、言い方かなと。ベートーベンもシューベルトも好きなんですよ。好きなんですけど、心を経由して魂に入ってくるので、心構えがないと聞けないんですよ。モーツァルトは心構えなど何もせずに他のことを何かしていてもすっと入ってきますからね。そういうところが、ほんとにすごいところだと思います。

いや、ほんとにー。すっと入ってくるというところがすごいよねえ。癒し系の音楽というところなんだろう。病院などでも使われているとか。これがもっと音楽の比重が生活の中で占める割合が重い人ならば、今朝聞いたシュトラウスの交響詩なんかも日常的に聞いているのだろう。今のところは、他にも時間がとられて、なかなかじっくり何時間単位で音楽を聴くという生活までいかない、ということだろうか。

1784年夏、モーツァルト28歳。
姉ナンネルが結婚するという知らせが届く。幼いとき、ヨーロッパ各地を一緒に回った姉ナンネル。生活のやりくりや父親の世話に追われてきた姉にしあわせが訪れた。結婚相手は15歳年上のザンクト・ギルゲンの地方管理官だった。

ザンクト・ギルゲンはザルツブルクの東に位置するヴォルフガング湖のほとりの小さな村。モーツァルトの亡き母、マリア・アンナの故郷でもある。ザンクト・ギルゲン教区教会で1784年8月23日、姉ナンネルは結婚式を挙げた。

街の人々は今でもナンネルを愛し、その名を冠したカフェもある。結婚式に参加できなかったモーツァルトは愛する姉に手紙を書いた。

”結婚したらわかります。およそ謎がどんなものか。物事には裏と表が。
楽しみもありゃ苦労もあるさ。だから旦那が渋面ばかりするならばあなたはおもえばいいのです。あれも男の気まぐれと”

ナンネルはモーツァルトの作品の良き理解者であり、助言者であった。「ピアノ協奏曲第16番」にはナンネルからの指摘が反映されている。姉の助言によって、ピアノの旋律に装飾的な音符が付け加えられた。

1784年8月18日ナンネルへの手紙
”来春にはきっとザンクト・ギルゲンでゾンネンブルク夫人となったあなたと抱擁したいとおもっています”
しかし、モーツァルトとナンネルは再会を果たすことはなかった。

モーツァルトの音楽は河合さんの言葉のように、心構えがなくても聴くことが出来る。それでいて、曲によってそのメロディに鮮やかな色彩がつけられている、というところがすごいなあと。ピアノ協奏曲を順番に聴いていくと、ほとばしる才能というのがはっきり感じられる。

前回のK.454.変ロ長調はモーツァルトの選曲集にも入ってなかった。ヴァイオリンの曲が集められたCDもあったので、当然入っているものと思ったのに。探すとなるとまた大変だ。


















最初で最後

2006年07月26日 | Weblog
今朝のN響コンサートで、モーツァルトの交響曲を演奏していた。新聞を読みながら、朝からベートーベンはねー、と思っていると、モーツァルトの41番ジュピターをやっている。あわてて新聞を読むのを止めて、TV画面に釘付け。間に合って、良かったなあー。

毎日モーツァルトは、第102回、天才の共演。ヴァイオリン・ソナタ変ロ長調。第1楽章より。

ゲストは棋士の佐藤康光さん。
この曲を作曲しているときには、ほんとうに時間がなかったというのを、何かの本で読んだんです。ある意味、即興に近い部分があるんじゃないかなという印象はあるんですが。にもかかわらずヴァイオリン・ソナタの中では名曲というか、素晴らしいと非常に評価の高い曲なので、時間はないがほとばしる才能で作曲して、こういう素晴らしいものも出来るんだなあということで、ある意味、自分にとっても励みになる曲ですね。

自分の対局でも忙しくて準備できないということもありますけど、やっぱり気持ちが張っているときとか、それでカバー出来る時もあるので、そういう意味でそういうことを思い出させてくれる曲かなあと。

1784年、モーツァルト28歳。
一人の天才音楽家と出会う。レジーナ・ストリナザッキ。
弱冠20歳のイタリア人女性ヴァイオリニスト。既に音楽の本場イタリアで名声を博していた。

モーツァルトの手紙、1784年4月24日
”今、当地には有名なストリナザッキが来ています。非常に優秀なヴァイオリン奏者です。彼女の演奏にはとても豊かな様式感と感情があります。ぼくは今、ソナタを1曲書いていますが、これは木曜日に彼女の演奏会で共演する曲です。”

4月29日皇帝ヨーゼフ2世の前で演奏会が開かれた。二人は大きな喝采を浴びる。ストリナザッキとの演奏から生まれたのがこのヴァイオリン・ソナタ変ロ長調だ。ケルントナートーア劇場はブルク劇場に次ぐ第2の宮廷劇場として多くの演奏会が開かれたが、ストリナザッキとの演奏会はここで催された。

ストリナザッキは才能をたたえられ、ヨーロッパ各地を演奏旅行していた。演奏会当日までに、ピアノパートの作曲が間に合わなかった。モーツァルトは楽譜を見るふりをして、見事にピアノを演奏し、演奏終了後、皇帝ヨーゼフ2世からからかわれたという。

この日の演奏会は大喝采を浴び、二人はお互いの才能をたたえあった。ストリナザッキは翌年結婚して以降、余り演奏旅行をしなくなった。二人の天才の共演はこの日が最初で最後になった。

ヴァイオリンの曲についてはあんまり聞いてみようと思わなかった。父親のレオポルトがヴァイオリニストだったということで、当然モーツァルトも弾けるのだろうが、やはり本領発揮はピアノの曲だろうと。

この番組でこういう風にエピソードを紹介されると、聴いてみようかなあという気になる。さっそくCDを探してみよう。TV画面では、ピアノもヴァイオリンも若い二人が堅苦しくない服装で演奏していた。若い男性は黒の普通のスーツ。ヴァイオリンを弾く女性はやはり黒で上衣がちょっと光るものが入っていて、下はパンツスタイル。現代を感じさせる姿だった。クラシックの世界も、こうでなくちゃねー。

モーツァルトの時代の日本はまだ江戸時代で、本居宣長だの、平賀源内だのという名前に、天明の大飢饉などという記述もある。モーツァルトは馬車による時速15キロの旅をものともせずにあちこち旅していた。この時代に女性が長いスカートをはいた姿で各地を旅行するということ自体、大変なことだ。ストリナザッキは才能と共に時代の先駆者でもあったのだろう。













はずむような気持ち

2006年07月23日 | Weblog
毎日モーツァルトは第101回、むく鳥。ピアノ協奏曲第17番。ト長調。第3楽章。K.453.なかなか先へは進まないので、今日は頑張って書いてみようとー。この第17番は、とっても楽しいとおすすめ出来る1曲でもあるからだ。

ゲストはオーボエ奏者の宮本文昭さん。
無人島へ持っていくとしたら、マーラーか、ブルックナーか。みんなそれぞれ素晴らしいと思うんだけど、やっぱりモーツァルトしかないって。その中でも、モーツァルトのピアノコンチェルト(協奏曲)は、ほんとに高級な人が弾かないと駄目なんだけど。

ほんとにモーツァルトを敬愛しきっている、そして、つねにモーツァルトを愛情たっぷりに節度を持って、でもものすごく愛情を、という実に難しいせめぎあいのところを、上手にやっていくという人のモーツァルトのピアノコンチェルトっていうのが、多分、ぼくはモーツァルトの曲の中では、一番モーツァルトを表している。ピアノ協奏曲っていうのは、多分、モーツァルトの音楽のエキスだとぼくは信じています。

1784年春、28歳。一羽のむく鳥を飼い始める。長男の死から9ヵ月後。ピアノ協奏曲第17番は生命力溢れるのびやかな曲。モーツァルトには大きな喜びが訪れていた。妻コンスタンツェの二度目の妊娠。ふたりのウィーンでの暮らしには明るさを取り戻す。

第17番第3楽章、冒頭に登場する旋律。それはむく鳥のさえずりを思わせる。まるでモーツァルトのはずんだ気持ちを作曲したかのようだ。モーツァルトの家計簿にはむく鳥を購入した記録が残されている。

”むく鳥 34クロイツァー それはきれいな声だった!”(モーツァルトの言葉)言葉に続いて、第3章冒頭の旋律が書き込まれていた。そのむく鳥に一遍の詩を捧げていた。

”いとしの道化 一羽のむく鳥 憎めないやつ”
”ちょい陽気なおしゃべり屋 時にはふざける いたずら者
 でも あほう鳥じゃなかったね”

暮らしぶりも豊かになっていった。午前中は貴族の子女のレッスン。午後には演奏会という日々が続いた。ピアノ協奏曲第17番は生徒の一人、プロイヤー嬢に捧げられた。

この曲はプロイヤー嬢の父が主宰する演奏会で初演された。プロイヤー嬢がピアノを演奏し、演奏会は大成功に終わった。一羽のむく鳥に愛情をそそぐほど心に余裕が出来たモーツァルト。モーツァルトの生活にはようやく明るい展望が広がっていった。

第3楽章はなんど聞いても楽しいメロディだ。宮本さんが言っていた、ピアノ協奏曲はモーツァルトの音楽のエキスという言葉にはうなづくものがある。というほど、どれもこれも聞きましたというほど、音楽通ではないにしても、ピアノ協奏曲は素晴らしいなあと思いながら、毎日聞いている。

各章が余り長い時間ではなく分けられて、曲調が大きく違うというところが、現代人にも飽きさせないのだろう。おんなじ調子で何十分も続いたら、重すぎて付いていけないのかもしれない。やはり第3楽章だけでなく、第1、第2と省略せずに聞いてみたほうが、その良さがわかるような気がする。

モーツァルトの人生が音楽に影響するということについては、芸術家が余りしあわせだといい作品が出来ないというのも真理なので、聞く側はその人生の苦しみを果実として聞いているということなのだろう。それでも、こうしてモーツァルトの書き残したものを読んで、その悲しみや喜びの息づかいを知ると、やはりモーツァルトの幸せを願ってしまう。

音楽をバックに流れる映像が、ウィーンの公園に集う人々の自然な表情だった。若いお母さんと遊ぶ子供たち。軽装でジョギングしている人、しっかり着込んで歩いているお年寄りたち。そのなにげない日常の姿が第3楽章と重なり、いっそう楽しげな音楽に響いてきた。















日本語文法

2006年07月05日 | Weblog
白い薔薇も清楚な色で花壇に清潔な姿で立っている。この薔薇はホワイトクリスマスというアメリカ産の薔薇。アポロという黄色い薔薇が満開になったら、その大輪ぶりに驚いている。こんなにおおきくなるんだなあー。

今朝の新聞の文化欄に劇作家、井上ひさしさんの新作「夢のかさぶた」が、23日まで東京・初代の新国立劇場小劇場で上演されているという記事が載っていた。「東京裁判3部作」完結編。歌と笑いをまぶしつつ「あの戦争の責任は誰にあるのか」を問う井上さんは「いろいろ考えていったら、日本語文法を被告人にすることになってしまった」そうだ。

こういうほんとにみたい舞台劇は地方にいては見られない。せいぜいWOWOWの舞台中継に期待するしかないかー。

「夢のかさぶた」では、東北の屋敷を舞台に、元大本営参謀で今は古美術商手伝いの徳治(角野卓造)と、どんな見合い相手より文法を愛する国語教師・絹子(三田和代)を軸に物語が進む。敗戦を境に、手のひらを返したように変わった日本。その原因を絹子は日本語に主語がないから、と指摘する。

「日本語は主語を隠し、ごまかす。責任を曖昧にするにはとても便利な言葉」「”私”の代わりに主語になっているのは”状況”。あの時はああいう状況だったから、今はこういう状況だったから、とコロッと切り替える。大変だったね、まあ過ぎたことは水に流して、はい次は民主主義ーー。こんなことが出来たのは日本人だけです。」反省や総括を放り出す日本人の悪癖は今も同じ、と井上さんは見る。

「サッカーだって、なんで負けたのか考えるのはもうやめて『さあオシムだ』でしょう。でもことが戦争になれば、そんな風に済ませるわけにはいかない。」・・・・


このところのオシム報道、中田引退報道ー。これはあの次々と目の前の獲物を追うTV番組報道を見せられるうちに、考える能力を失っていった総選挙の刺客報道、とおんなじではないかと腹を立てていた。井上ひさしさんの言葉は、じつにすーっと胸の中に入ってきた。

ワールドカップで1勝も出来なかった反省と責任はどうするんだ、でしょう?と。ジーコを監督にした側の責任の取り方が何もでてこないんだからね。持病を抱えるオシム監督が道半ばで代表監督を辞任するという事態になるのでは、といまからシナリオを想定!してしまいそうだ。俺たちのオシムを渡せないとジェフ千葉のファンが怒るのも当然・・・。
















自作目録

2006年07月05日 | Weblog
ワールドカップの試合に追われて、「毎日モーツァルト」を書くのが遅れてしまった。毎日、番組は見ているんだけど、それを文章にするという作業まで行かなくて滞っている。このところの高温続きで庭仕事も忙しくなってきて、などといっぱい言い訳をする羽目になる。

97回、自作目録。ピアノ協奏曲第14番変ホ長調。K.449.第1楽章より。
ゲストはドイツ文学者、池内紀さん。
ピアノコンチェルト(協奏曲)っていうのは、それまでもあったんでしょうが、モーツァルトがほとんど形を決めて完成させたというか、そういう意味では一番才能が溢れて発揮された場ですね。だから終始作ってますよね。幼いまだ10代の頃からー。

その前までは、あの人は几帳面な人ではなかったんだけど、作品目録、気に入ったものをきちっと書いて行くって事を始めたんだけど、それも確か、ピアノコンチェルトからはじめたんです。絶えずモーツァルトが作曲の基本にしたところ、そんな風に考えていますね。

ピアノ協奏曲は送られてきたCDがあるので、ずっと聞いている。17番の鳥の鳴き声などというのは、実に楽しいものだ。それぞれに個性的ではあるけど、何番は出だしはこうで、というほど記憶がない。もう一回聞きなおし、あー、そーだったのかーということになる。

モーツァルトはこの年から自分の作品の記録をつけ始めた。いわゆる自作目録だ。曲ごとに冒頭の部分、楽器編成、作曲した日付がていねいに記されている。自立した音楽家を目指すモーツァルト。その並々ならぬ決意を示しているようだ。

わが全作品の記録。1784年2月より
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
冒頭を飾るのはこのピアノ協奏曲第14番。
1、ピアノ協奏曲
伴奏:ヴァイオリン2 ヴィオラとバス(オーボエ2、ホルン2は任意に)右のページには曲の冒頭部分、最初の4小節が書かれている。必要なとき、すぐに譜面を出せるように工夫された作品目録。

グラーベン。
ウィーンの中心に位置するグラーベンは町の目抜き通りのひとつ。ここはモーツァルトの時代も貴族や裕福な市民で昼夜にぎわっていた。1784年1月、モーツァルトはグラーベンに引っ越してきた。モーツァルトが住んでいたトラットナー館には演奏会を開ける大広間があり、さまざまな芸術活動の拠点だった。このピアノ協奏曲も1784年3月、トラットナー館で初演されたといわれる。演奏会の前評判は高く、モーツァルトは期待を込めて父親に伝えた。

父への手紙、1784年3月3か
”すでに100人の予約者があります。まだ軽く30人は集まるでしょう”

父への手紙、1784年3月20日
”演奏会は無事にいきました。広間は超満員でした。ぼくの弾いた新しい協奏曲は特に受けました。どこへ行ってもこの演奏会を褒め称えています”

モーツァルト28歳ー
この後、自作目録には自信と意欲に満ちた作品がつづられていく。

ピアノ協奏曲のどれも素晴らしい。歌劇の中のテーマ曲も一緒に歌いたくなる。(歌えるかどうかは別として)。今まで聴いた中でのベスト1はクラリネット協奏曲。第2楽章のえもいわれぬ静けさは、なんとも形容しがたい、魂を揺さぶられるようなとでもいうのか。胸の奥の奥に入り込んでくるようなクラリネットの調べ。死の2ヶ月前に作曲されたのだそうだ。いわれているように、死を予感していたのだろうか。そういう心境だからこその静けさにも思える。