FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

『天保十二年のシェイクスピア』

2005年12月25日 | Weblog
WOWOWで放送された2005年9月28日、BUNKAMURAのシアターコクーンでの舞台中継。井上ひさし作、蜷川幸雄演出、宇崎竜童音楽による『天保十二年のシェイクスピア』。明治以来、翻訳され続け、英文購読の授業の必読だったシェイクスピアをここまで日本人が読み砕いてきたかという歴史の集大成のような劇に思えた。しかも、作家は笑い飛ばし、音楽までつけて、ミュージカル風にまで発展させていた。

はじめはキャストへの関心から劇を見ていたものが、次第にこの作品の素晴らしさにどれだけ苦心したろうか、時間がかかったろうかという、作者の井上ひさしさんへの感歎とも言える気持ちに変わっていった。性描写はかなりどぎつい場面もあり、R指定ともいえる内容にもなっている。放送は3時間59分。長くて大変ではあるが、場面転換が早いので、時間の割りにはだれてしまわなかった。

劇の冒頭から流れる「もしもシェイクスピアがいなかったら~」というテーマ曲をはじめ、歌って踊る場面もあり、普段歌声を聴く機会もないような役者たちの以外な芸を見られる楽しみもある。「ハムレット」「ロミオとジュリエット」「リチャード3世」「リア王」など、すべての作品を連想させるキャラクターが次々に登場する。

天保、下総国の清滝村。交通の要所でにぎわいもあり、鰤(ぶり)の十兵衛は二件の旅籠(はたご)と賭場、それに相撲の巡業のときの興行権などをもっていたが、隠居生活をしようと決心する。三人の娘、長女のお文(高橋恵子)、次女のお里(夏木マリ)、三女のお光(篠原涼子)がどれだけ自分に孝養をつくすかで、財産分与を決めると宣言。(長女、次女にはそれぞれ夫がいる。)三女のお光(捨て子だが、瓜二つの双子の女の子がいる。)は正直者でうまくいえず、家を追い出されてしまう。

長女と次女は15丁離れた場所でそれぞれ旅籠を経営していたが、さらに財産を狙い、それによって村を争いに巻き込むことになる。そこへ、父親の訃報で帰ってきた、お文の息子、きじるしの王次(藤原竜也、ハムレット))とその恋人お冬(毬谷友子、オフィーリア)、やはり流れてきた佐渡の三世次(唐沢寿明、リチャード三世)がからみ、策略が飛び交う壮絶な悲劇とそれを笑い飛ばすセリフとで、終局へと進んでいく。

以前見た舞台の放送で、ハムレット役が素晴らしかった藤原竜也はファンが見たらドッキリするような場面もあり、コミカルな演技もありで、イメージが変わるかもしれない。この若さで!芸達者は相変わらず。アニメの主人公ばりの顔が気になっていたが、かなり演技の幅が広がっているように見えた。

若い頃見た映画でのヒロイン役の高橋恵子さんが、舞台女優としてこうして重要な役をやっていることに、いつも感激する。華やかで堂々たる舞台女優になっている。毒のある役の夏木マリさんも見事だし、シェイクスピアも草葉の陰からさぞ満足しているだろうという、うまい役者ぞろいー。

導入部で、客席から汚い裸の格好をした男衆が多分!人糞のおけを肩に担いで登場し、大理石風の立派なシェイクスピアの舞台装置を片っ端から壊したり、桶の中のものをひしゃくでかけている。これがこの劇の精神なんだとー。続いてテーマ曲が流れると観客はあっという間に井上ひさしの目線に引き込まれていく。

もしもシェイクスピアがいなかったら~ 文学博士になりそこなった英文学者も随分出ただろう~もしもシェイクスピアがいなかったら~全集が出せずに儲けそこなって出版会社はつくづく困ったろう~もしもシェイクスピアがいなかったら~大入り袋の出しようがなくてプロデューサーたちはほとほと弱ったろう~シェイクスピアは飯の種~あの方がいるかぎり飢えはしない~シェイクスピアは米の蔵~あの方がいるかぎり死にはしない~
















メリークリスマス

2005年12月24日 | Weblog
思いがけずクリスマスプレゼントがあって、びっくりするやら、嬉しいやらー。いくつになっても、包装紙につつまれた贈り物には、何が入ってるんだろうという期待感がいっぱい。開けるまで、ドキドキするような緊張感と喜びが漂う。

組み立て式の白いツリーの林と白い家、その上を赤い服のサンタクロースが茶色いそりに乗って、鈴をつけたトナカイたちをあやつっている。空を飛んでるのだろうか。透明なフィルムにはMERRY CHRISTMASという白い文字と雪を表す白い点がちょんちょんと。楽しいクリスマスカードだねー。ありがとう!

そのほかには、ピンクの薔薇のキャンドルとか、近況を表す写真とか、京都に行ったのだろうか、お守りなんかも。写真も笑顔が元気そうでよかったー。これもありがとう!

こっちは、ケーキや鳥の足!を並べてワインで乾杯。飾り物のクリスマスツリーと赤い色のポインセチアの鉢がいくつも並んでるよ。一面白い雪の世界もクリスマスの雰囲気にはぴったり。住宅街は夜ともなれば電飾で大賑わいだしね。

WOWOWでやっていた竜也の舞台はおそろしく長いんだ、これが。途中、別番組(サッカーの)に走ってしまったんで、中抜けになっちゃったよ。蜷川幸雄の歌って踊って日本版シェイクスピアというところだから、見ごたえ十分。DVDに取ったから安心してー。帰るときにはなんとか時間を作って、駅まで迎えに行くからね。

そいじゃ、一緒に声を合わせてー
せーの、メリークリスマス!!
乾杯っと!!










『らくだの涙』

2005年12月17日 | Weblog
WOWOWで放送された映画。2003年/ドイツ/91分。ミュンヘン映像大学の学生、モンゴル出身のビャンバスレン・ダバーとイタリア人のルイジ・ファルロニの共同監督作品。ゴビ砂漠にテントを構えて暮らす遊牧民の家族とらくだの母子をずっと追っているドキュメンタリー。

砂漠の中で、真ん中に煙突を立てている鉛筆を短くしたような形のテントに、夫婦と祖父母、子供3人が暮らしている。らくだと羊を飼っているが、家族同様でもあり、らくだ乳や羊乳を飲んだり、大事な栄養源でもある。

らくだの1頭がはじめての出産をした。2日がかりの難産の末に、真っ白い毛を持つ可愛い子らくだが生まれる。ところが、子らくだが擦り寄って、乳を飲もうとしても、母らくだは受け付けない。下の男の子まで「母さんらくだがお乳をやらないと死んじゃうの?」なんて心配する。ついに上の兄弟二人を県庁のある町へ遣いにやり、馬頭琴奏者を呼んで、母らくだの気持ちをやわらげようとするー。

彼らの生活そのものが、絵になっている。あるとき、お坊さんらしき人が、そこに住む人々を集めてお祈りをする。「私たち、モンゴル民族はずっと昔から自然と精霊をあがめて来ました。今の人間は富を求めて、大地から奪うばかりで、天候や病気から守ってくれる精霊を追い払っています。この地上で暮らすのは、私たちが最後ではなく、続く世代があるのを忘れてはいけません。許しを請い、精霊が戻ってくるのを待ちましょう。」

これを聞くともっともなことばかりで、何十万も払ってさっぱりありがたくない葬式のお経より、はるかに心に染み入る言葉だ。ほんとそうだよーと相槌を打ちたくなる。しかし、兄弟は都会へ行って、TVもゲームもあるのを見て、体験してしまった。文明の利器に触れ、遠い国の人々も瞬時に映し出される生活を体験してしまったら、この家族はどうなるのだろうか。その後の家族の姿を是非、続編で見たいものだ。

素晴らしい節回しで民族的な歌声を聞かせる子供たちのお母さんや、二人の男の子の兄弟は、素人と思えない情感を漂わせ、役者以上の存在感があった。お兄ちゃんはしっかりして、下の男の子はやんちゃで可愛かったなあ。

家族や親子でみると感動を分かち合える、そんな幸せの原型が描かれている映画。








もっと悪いやつ

2005年12月15日 | Weblog
昨日の証人喚問のニュースはすごかった。姉歯氏の1級建築士になるまでの苦労話という予備知識があれば、まるで松本清張の世界をみるようだった。しかも、彼は悪いことははっきりしていても、何番目かの「わる」で、「わる」の中では末席なんだとわからせたのがライブの力だ。

組織に対して一人で向き合っているうえに、妻は病気で入退院を繰り返していた。90パーセント以上仕事を請け負っている木村建設から、コストダウンの為に、法令を超えてしまう偽造を迫られても、断ることが出来ない。

弱い人間とはいっても、こんなことに直面すれば誰だって、葛藤するし、逡巡する。これを弱いといって断罪できる人間がそういるものではない。家族を背負って生活するということには、お金が必要なのだ。まして病気の治療という切迫した事情があれば、なおさらお金を工面しなくてはならない。

上へ行くほど、その悪ぶりも筋金入りだということが画面から伝わってくる。しかし、彼らのキャラクターを面白おかしく見せているTVにつられてばかりいたら、また小泉自民党圧勝劇の二の舞になるよ。

なぜこんなに早く政府が税金投入を発表したのか。銀行の多額の不良債権が明るみに出たときと同じように、曖昧なままことがうやむやにされてしまう可能性がある。自民党議員は当然!このわるたちから献金を受けているはずだし。なんでも民間に任せておけばいいのか、という当たり前の疑問が通り過ぎてしまうを狙ってるんだからね。もっとわるいやつらの正体を、今のTVが暴けるのかどうかー。

もっとも4000万円の買い物もできない庶民にすれば、実感が持てない。所詮はドキュメンタリー劇みたいなものだ。都会でその値段は安いのか、と驚かされてしまう。これからはますます地方の地価は下落するだろうし、そんなに出さなくても土地つきのいい物件はいくらでもあるけどなあ。











帽子を楽しむ

2005年12月06日 | Weblog
このところ、胸がふさがれるニュースが続いている。自分の問題のように思われて重い気持ちになる。普通に市民生活をおくっている家族がこんな目にあうのかと、なんともやりきれない。

今朝の新聞を広げたら、一面に大きく、どうして日本の女性は、・・・という広告が出ていた。ボディソープを使っているメーカーだった。意識調査をしたら、日本女性は自分の美しさに自信が持てないという結果が出たそうだ。

誰かに決め付けられた美しさの定義に長い間、縛られたからではないかという文が載っていた。こういう文が広告になるってことが、1歩前進かなあ。一重まぶたの高校生らしき若い女性、白髪の中年の女性、スポーツをしているような若い女性。この3人の写真があった。それぞれ、一重まぶた、白髪、シミというのがポイントらしい。美しさはひとつではない、というメッセージを堂々と載せるところがいいと思うよ。

確かにねえー、せっせと白髪染めを続けていなかったら、耳鼻科に通わなくてすんだんだし。そういうものにとらわれているというのは否定できない事実だ。帰省した子供に感想を聞いたら、上品に見えるよとか何とか言われて、思わずほっとしたものだった。

このあたりは一面雪景色になった。これだけ寒くなると、中高年の女性たちがみんな帽子を被っている。寒いから必要に迫られてなんだけど、中にはつば広の帽子をおしゃれに決めている女性もいて、振り返ってしまったりする。

毛糸やウールやナイロンのスカーフなんかいろいろ取り揃えて、帽子を楽しむつもりだ。今は黒糸のボッチが付いている豹柄模様の毛糸のベレー帽が気に入っている。それを被って、さあ行こうー。









『カミーユ・クローデル』

2005年12月04日 | Weblog
1988年/フランス映画/150分。時代に先駆けた女性彫刻家カミーユ・クローデル(1864~1943)と師であり、恋愛関係もあったオーギュスト・ロダン(1840~1917)の出会いと別れと苦悩をイザベル・アジャーニとジェラール・ドパルデューが熱演している。

父親の支援もあり、アトリエをもって、英国人の友人と彫刻家として世にでるべく作品を作り続けていたカミーユは、その友人とともにロダンの助手として雇われ、彫刻家の世界に足を踏み入れる。しかし、ロダンはカミーユのアイデアに耳を傾けるどころか、彫刻のモデルとは平然と関係し、アトリエで働くほかの男性たちには当然のように肉体関係を迫られる。

当時のセクハラなんてもんじゃない?職場の環境が描かれると、才能以前に彼らに伍して作品を作り続けるのがいかにタフな神経を要求されるのかを感じる。後には「お互いに刺激を与え、影響を受け、ロダンと見られた小品がカミーユ作だったり、カミーユのアイデアが直ちにロダンの作品に生かされたりした。」

ロダン作「カレーの市民」の一人、ジャン・デール像に「マドモアゼル・カミーユ・クローデルへ。敬意を込めて ロダン」と書かれていたりする関係を過ぎて、カミーユは独立してアトリエを持ち、作品を作り続ける。

二人が再会し、激しい言い合いになるシーンがすさまじい。ロダンは作家のバルザック像を作った後の時期で「バルザック像でパリ中に笑われた。」といいながら「君の意志の強さは悪魔並みだ。」「きっと私の模倣だろう」とか「この私に勝ちたいか?格が違うぞ」という言葉になっていく。

カミーユも負けずに言い返す。「私は私の道を進むわ。自分を犠牲者にしていい仕事をして。クローデル嬢の仕事はロダンそっくりと。私の若さ、才能をを奪った。すべてを奪った。そう思わせるのがかねてからの狙いだったのよ。」「アトリエを3つも持ち、社交に走り、仕事はひとまかせ。そんなやり方はご免だわ!」

イザベル・アジャーニはどこかあどけなさを残す魅力があり、これが若い時代から演じるのに違和感を覚えさせなかった。病に侵されていくあたりは迫真の演技。ドパルデューも、大御所の立場を維持するための白とも黒とも付かないロダンの生活を存在感十分に熱演していた。

もしカミーユが志を同じくしていたイギリス人の友人と別れ別れにならなかったら、もしロダンの子供を育てていくことが出来たら、もし病院ではなく市民としてその後の世界大戦を体験できたらー。おそらく苦悩しながらも、もっと素晴らしい作品を作り、テーマをもって彫刻像に向うことが出来たのではないか。

今の時代に生きていたら、医学の進歩で、あるいは作品を作りながらの闘病生活も可能だったかもしれない。早すぎて生まれたがゆえに、肉体ばかりか才能まで破壊されてしまった悲劇。そう思うと彼女の無念は時代を超えて訴えてくるものがある。






ドームへ

2005年12月04日 | Weblog
疲れが残っていて、いこうかどうしようかとぐずぐず迷ってはみたもののー。やっぱり赤黒コンサを応援しに、今季最後の札幌ドームの試合を見に行ってきた。ぎりぎりの時間についてみたら、コンサゴール側の席はもういっぱい。それじゃあとアウェイゴールの側のほうへ。こっちはわりあい空いているからね。

移動の廊下を走っている間にも、応援の音楽が鳴り響いているのが聞こえ、なんだかワクワクしてくる。お弁当をぱくつきながら、見ていたらー。開始早々よくわからないうちに、もう草津に1失点されて、あきれるやらがっかりするやら。

どうも観客が多くて盛り上がっている試合に限って負けるんだよねえ、思いきや。何分もしないうちに、最近毎試合のように得点して波に乗っているFWの清野がゴールー。いやいや、まだあきらめてはいけないのです。

相手GKの小島は1998年W杯フランス大会に帯同していったよく言えば経験豊富、悪く?いえば海千山千。とまあ、何本のゴールチャンスをとめられたことか。ことごとく止められたなあ。ぶつかったデルリスは怪我で退場までしてしまった。

それでも交代で入った若いFW石井が後半勝ち越し点を押し込んで、なんとか今季の最終戦を勝利で終わることが出来た。よかったー。柳下監督とともに、また来季頑張ってねー。応援に行くよー。

夜になって帰ってきてから、ガンバ大阪が優勝したというニュースを見る。連敗していたので、これにはびっくりした。5会場で優勝の可能性のある試合が行われたというんだから大変だ。西野監督も涙の会見。セレッソ大阪が優勝すると踏んでいたらしく、この会場にはフラッグしかなかったらしい。優勝銀皿もメダルの授与もなかったものねえ。

といっているうちに、アーセナルの試合が始まる。
こっちも見ないことにはー。



















イサム・ノグチ

2005年12月02日 | Weblog
イサム・ノグチ(1904~1988)の作品については、原爆慰霊碑のいきさつを中心に日曜美術館で紹介されていた。その遺作が札幌市に依頼された「モエレ沼公園」と聞いて、俄然身近なものになった。そこに行き、プレーマウンテンなど上り下りして、眼下に見下ろす広い空間が見渡せる日没の風景は今でも思い出す。自転車に乗ったり、犬の散歩をしたり、家族連れも多く、たくさんの市民でにぎわっていた。人々の役に立つものを作りたいというイサム・ノグチの作品の集大成となったものだった。

イサムの物語はイサムより、もっと劇的ではないかというくらいのイサムの両親の物語抜きには語れない。アメリカに行き、詩人として認められようと英語の詩を発表した野口米次郎とアイルランド系アメリカ人レオニー・ギルモアとの間に生まれた。レオニーはつたないノグチの英語を直し、発表できるまでに手助けするという役割を担っていた。レオニーの存在なしでは野口の英語詩は成り立たないという関係であった。

しかし、ノグチは実際には別の女性に求婚し、レオニーとの結婚など考えもしなかった。2歳になるイサムとともに、日本にレオニーを呼び寄せたのも英語の詩を作って発表したくなったという理由ではないか、とまで疑われる。二人はすぐに別居し、野口は別の日本人女性と結婚した。レオニーの不安定な立場は日本を去るまで続き、下の妹はどうやら父親は別らしかった。

イサムは私生児であり、「あいのこ」としてはじめから同化するのがこんなんな条件が揃いすぎていた。イサムは結局外国人の子供が多い、英語を使う学校に行き、レオニーもほとんど英語しか使わなかった。当時の閉鎖的な日本の社会になじまないまま、日本を離れることになったようだ。

それでも、自然がみじかにある日本の生活はその後のイサムの芸術に大きな影響を及ぼし、来日したときには京都の庭園を気に入り、ちょうちんから後に「あかり」という光の彫刻を生み出している。戦後の来日で歓迎されたときにも、アメリカの真似はしないで日本の独自性を大事にしてほしいと訴えている。京都の庭園は後に形を変えて、何度も庭園の仕事で表現されているようだ。

父親を恨みながら、アメリカに渡ってから、東洋と西洋の融合を試みた父親のことを今までと別な視点で見たようで、イサム・ノグチを名乗るようになる。老いた父親が生活の困窮を訴えるとさまざまなものを日本に送ったりしている。イサムは日本とアメリカの架け橋になりたいという願望を持つにいたり、地球規模の思想や精神世界を作品に表現するようになる。

原爆慰霊碑の制作に力を入れ、強く望んだが、アメリカ人だからという理由で結局実現は出来なかった。これには落胆したらしい。後に日本に作ったアトリエで似たようなものを制作している。(この間のいきさつについては、日曜美術館で詳しく紹介していた。)

抽象彫刻から始まって、舞台装置や日本庭園からヒントを得た数々の庭園など、もっと多方面な活動に広がっていった。一つのジャンルにとらわれない才能だった。文化の溝を越えられず、和解できないまま、戦争の渦に巻き込まれた両親を1歩乗り越えて到達したイサムの目は、日本やアメリカという国の枠をはるかに超越した未来の地球を見ようとしていたように思える・・・。