FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

日めくり万葉集(60)

2008年03月29日 | 万葉集
日めくり万葉集(60)は余明軍(よのみょうぐん)という作者。歌の中にある歴史のミステリーを解き明かすという、おもしろい内容だった。選者は新進気鋭の書家の一人、武田双雲(そううん)さん。

【歌】
標(しめ)結(ゆ)ひて
我(わ)が定(さだ)めてし
住吉(すみのえ)の
浜(はま)の小松(こまつ)は
後(のち)の我(わ)が松(まつ)

巻3・394  作者は余明軍(よのみょうぐん)

【武田双雲さんが毛筆で書いた歌】
印(しめ)結(ゆひ)而(て)
我(わが)定(さだめ)義之(てし)
住吉(すみのえ)之(の)
浜(はま)之(の)小松(こまつ)者(は)
後(のち)毛(も)吾(わが)松(まつ)

【訳】
標を結って定めていた住吉の浜の小松は、後々もわたしの松だ。

【選者の言葉】
この歌は“義之(てし)”と読むところがドラマチックな部分。義之(ぎし)と書いて“てし”と読むのは当時の歴史観がないと読み解けないもの。千年以上、これが読み解けなかったという、とんでもないスケールの大きい推理小説がここにある。

現代からすると当時の男性の女性に対する価値観、距離感というのは想像を超えるが、今では恥ずかしいくらいの独占欲を自然に詠っているところがおもしろい。

まだ文字というものが日本に定着していないときに、中国や韓国から渡ってきた異国の人が使っていた神秘的な文字を自分たちが使っている言葉に当てはめていく、その緊張感。そのときの文字と言葉がぶつかるエネルギーみたいなものが伝わってくる。

王(おう)羲之(ぎし)といえば“書聖”と言われているくらい、重要な人物。この意識してきた【王羲之(おうぎし)】がこの千数百年前に中国においても、日本においても多大な影響力を及ぼしたということが感動的なことで、この歌の時代というのは、日本の文化がダイナミックに変貌を遂げる瞬間を詠っているのだと思う。

【檀さんの語り】
当時の人々は中国から入ってきた漢字の“音”と“訓”を使って、日本語を書き表した。万葉集に用いられたのは“万葉仮名”という。この義と之という言葉は、長い間読み方がわからなかった。

この解読に成功したのは江戸時代の国学者、本居宣長(もとおりのりなが)。まず王羲之の“ぎし”と考えた。王羲之は書聖といわれた4世紀半ばの中国の書家。当時“書家”を“手師”と読んだことに思い至る。万葉集が出来てから千年ほど後のことだった。

【感想】
中国の書聖といわれ歴史上に名前が刻まれている【王羲之(おうぎし)】の名前から、どうしてもわからなかった【義之(てし)】の読み方が解読されていく。この歴史のミステリーは、今まで見てきた放送の中で、もっともワクワクする内容だった。

歴史の醍醐味がここにあり!!という感じだ。本居宣長がこの言葉の解読に成功したときには、どんな瞬間が待っていたのだろうか。まるで映画の1シーンのように、そのときの映像が目の前に浮かんできた。

【調べもの】
○よのみょうぐん【余明軍】
大伴旅人が亡くなった後で、旅人の挽歌を詠んでいることから、旅人の従者だったらしい。












【暮らしの手帖】

2008年03月26日 | 雑感
昨日スーパーの片隅に陣取っている本コーナーを何の気なしに見ていたとき、雑誌【暮らしの手帖】が最前列に並んでいるのが見えた。見ているうちに、なんだかなつかしい気持ちで、胸がいっぱいになってきた。もう他界した母がずっと購読していた本だからだ。

以前にも本屋で何回か見かけたことがあったが、他のほうに忙しくて、買うまでにはならなかった。この本は実はとっくに廃刊になっていたのではないかと思っていた。それがまだ生きていますよ!という感じで、並んでいる。このごろ節約に努めているのにと、少し行ったり来たりして躊躇した末。やっぱりなつかしさのほうが上回り・・・2冊並んでいたが、そのうちの1冊を買うことにした。

母が生きているころの【暮らしの手帖】がどうだったのか、今となってはあまりにも年月が経って、詳しくは覚えていない。家庭で作る料理などのほかには、外国人女性の服装をお洒落の参考にしたり、グレゴリー・ペッく主演の映画【アラバマ物語】を文章として、かなり長く連載していた。

【アラバマ物語】には映画の写真が付いていたので、当然ながら、映画製作の後だろうということがわかる。これはいつごろだったのだろうか。当時は時代を先取りした製品検査が紙上で詳しく掲載されていたり、ただの雑誌というよりは、初代編集長・花森安治という編集者が市民生活の視点から起こした、一つの文化、一つの運動という感じがした。

母は中央から遠く、地方に住む一介の専業主婦に過ぎなかったが、こういう本を読んでいた人だった。浴衣姿で朝日新聞を読んでいる白黒写真も遺品の中に残っている。当時は今のように住宅が洋風化されていない時代で冬には寒すぎたが、玄関の2,3畳の取次ぎ間のところに座っては、御用聞きや集金人と話をしていた。

中でも朝日新聞の集金人が来たとき、「このごろ右よりになったって、いうんじゃないの?」とやりとりしていたことが、どういうわけか、いまでも忘れずに耳に残っている。そのころを右よりというんなら、今はなんて形容するんだろ?なんて、考えてしまうが。

新しく手に取った【暮らしの手帖】は隔月発行になっていた。ページをめくると覚えのある字体が子供のころに帰ったようでうれしい気持ちが沸いていくる。随筆の中には学者の“上野千鶴子さん”やアナウンサーの“山根基世さん”の名前もあり、それぞれ母親のことを書いた1文が載っている。

“イギリス発、なぜオーガニックなのか?”という記事には、安全な食を取り戻したいという地道な取り組みから、やがて店が出現。野菜の販売が主だったが、狂牛病騒ぎが起きてからは一気に安全な肉ということで、肉の販売数が増えた。しかしこれが一過性に終わらないようにと、生産者からのさまざまな発信が行われている、という興味深い内容だった。

今北国も遅い春を迎えようとしているが、子育てに忙しいときには花を愛でるなんて風流なことにはつい目も行かなかったというのに、このごろはすっかり趣味になってしまった園芸。今年こそはなんとかオーガニックでやってみようと意気込んでいる。こういう記事を読むと背中を押されているようで俄然やる気が出る。

巻末の【暮らしの手帖創刊60年】という文字の下には、過去に発行された本が並んでいた。和服のような布地で装丁がされている【おそうざい12ヶ月】と黒と赤のチェックの生地で装丁されている【おそうざいふう外国料理】。どちらも若いころに購入して、今まで随分お世話になったなあと感慨深い。















日めくり万葉集(55)

2008年03月25日 | 万葉集
日めくり万葉集(55)は「万葉集」が唯一の資料で謎の多い歌人、という柿本人麻呂の歌。選者は東洋文化研究者のアレックス・カーさん。

【歌】
磯城島(しきしま)の
大和(やまと)の国(くに)は
言霊(ことだま)の
助(たす)くる国ぞ
ま幸(さき)くありこそ

巻13・3254   作者は柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)

【訳】
磯城島の大和の国は、言霊が人を助ける国ですぞ。無事でいらしてくださいよ。

【選者の言葉】
日本語の音そのものに、マジックとかパワーがあるという、それが日本の言霊(ことだま)の強さではないだろうか。日本語は発音的に簡単に出来ている。あ、い、う、え、お。か、き、く、け、こ。

世界の言葉の中ではハワイ語やポリネシア語に似たものがあるが、こんなにシンプルに出来ている言葉はすくないのではないか。その意味では日本語はピュアで響きが美しい。

俳句や短歌には5・7・5など、自然なリズムがある。そのリズミカルな部分が言霊の一つになっている。それは言葉の構造的な部分から、必然的に出来るもので、中国語や英語、ヨーロッパ文学などでは、このような発想の歌はないのではないか、と思う。

祖先の【祖】に【谷】と書いて【祖谷(いや)】と読む。これは不思議な言葉。“いや”も“いおり”も、日本的な響きで可愛らしく、神秘的な味のある言葉。日本語のいろいろな言葉が外来語として、英語に入っている。

“きもの”“げいしゃ”“はらきり”“かみかぜ”。日本語の持つ言葉のおもしろさというものがあって、日本語がすっと世界に広まったのは日本語の一つのパワーが秘められているからだと思う。

【檀さんの語り】
徳島県東祖谷(ひがしいや)。アレックスさんは35年前に、日本の原風景を求めて、四国の山奥にあるこの村に出会い、“茅葺(かやぶ)きの民家”を購入し、【庵(いおり)】と呼んでいる。

この歌は遣唐使として旅に出る者へおくられたと考えられている。言霊とは言葉に宿る不思議な霊力のこと。アメリカ生まれのアレックスさんはその秘密を日本語に求める。もう一つ、シンプルな響きだけではなく、リズムにも注目する。

【感想】
【言霊】という言葉を聞いて、とっさに野田秀樹の舞台でのセリフや、サザン・オールスターズの歌を思い出した。かなり前のものなので度忘れ?してしまって、どういうタイトルだったのか、今は思い出せないなあ・・・。どちらも万葉集の歌から、インスピレーションが沸いたのだろうか。

確かに、歌というのは声を出して読むので、読んでいて心地良さがあるくらい、舌がかみそうでないもの?響きが美しく、リズム感があるものは印象深い。この【日めくり万葉集】の中でも、時間が経っても記憶に残っているのは、流れるようにスラスラと読める、響きやリズムのある歌だろうなあと。

【調べもの】
○しきしま【敷島・磯城島】
①崇神天皇・欽明天皇の宮のあった大和国(奈良県)磯城郡の地名。
②大和国の別称。

○ことだま【言霊】
言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた。万葉集(13)の【・・・助くる国ぞ】













法廷劇

2008年03月22日 | 映画
【アラバマ物語】はグレゴリー・ペック主演の映画の中でもっとも好きな法廷劇の映画。【12人の怒れる男】と同じように、少数者の意見も尊重しなければ民主主義ではないという、アメリカの良心が描かれている。1962年/129分/白黒映画。


1930年代、アメリカを不況の波が襲う時代。まだ人種差別が激しいアラバマ州の小さな町で、妻を亡くした弁護士、アティカス・フィンチ(グレゴリー・ペック)がジェムとスカウトという兄妹と、黒人女性のメイドの助けを借りながら、暮らしている。

そこへ若い黒人男性のトムが若い白人女性を強姦したという事件が起こり、アティカスはこの弁護を引き受けることになる。白人女性の父親は弁護するアティカスに怒りを向け、アティカスの子どもたちにもその影響が及びそうになる。

スカウト、ジェムの兄妹と友達のディルは冒険が大好きな遊び仲間。向かいの家には日中は町の人々に顔を見せない人間がいると興味を持つ。その家に冒険に行ったものの、その人物らしい人影におびえ、良く顔を見られないで帰ってきた。

その人物にはさまざまな噂があり、怖い人間と思っていたその人は、実は近くの木の穴に、兄妹を喜ばそうといろんなものをプレゼントとして、置いていたのだ。木で彫った兄妹の人形、古い懐中時計、などなど。

町の法廷で行われている裁判に興味を持ち、3人はこっそり父親に内緒で傍聴に行く。父親は黒人男性に問われている罪が実は冤罪であるということを証明しようとしたが、白人ばかりの陪審員の評決は、父親の努力に報いるものではなかった。傍聴席の黒人たちは一人も傍聴席から去ろうとせず、去っていく弁護士の父親の姿を、敬意を表して立ったまま見送っていた。・・・

2003年にはアメリカ映画協会が発表した「もっとも偉大な映画ヒーロー」でグレゴリー・ペックが演じているフィンチ弁護士が1位を獲得したのだそうだ。確かに60年代、70年代のアメリカ映画にはアメリカの良心を表しているようなヒーロー像が見られた。まだ自分たちの民主主義の力というものに、自信を持っていたような気がする。

アメリカの法廷劇には陪審員席に向かって大演説するシーンが必ず見られ、劇的に盛り上がる構成になっている。そこで正義とそれを支える市民の力、というものが、ストレートにセリフになっているからだ。今、アメリカは初の黒人大統領誕生か、初の女性大統領か、という話題で賑わう時代になった。

この映画のもう一つの見所は、子どもたちの目から見た世界が、生き生きと描かれているということ。二人の兄妹と友達のディルの冒険物語が最後まで映画の進行に絡んで、白人と黒人の救いようもない対決という大きなテーマに、向かいの家の引きこもりの青年の存在が加わり、これがロバート・デュヴァルの好演もあって、あたたかい余韻を残す映画になっている。

もう1本は最近見た中ではもっとも骨のある日本映画【それでもボクはやってない】。
何気ない日常から裁判の中に足を踏み入れた青年の戸惑いの中に、実は重大な人権問題があるという、刑事裁判の内実。

周防監督が10年ぶりに世に送り出したという、痴漢冤罪をテーマにした渾身の自信作。143分という長さが感じられない、刑事裁判の問題点を綿密に調べて作り上げ、法廷のシーンもかなりあるという、内容の重い作品になっている。

女子中学生が電車の中での痴漢行為を訴えて、その犯人と目された青年、金子徹平(加瀬亮)が懸命に無実を訴えるが、99・9パーセントは有罪となるという現実に、担当弁護士の一人も罪を認めて和解することをすすめる、といった日本の裁判の遅れた状況が描かれている。

最初の担当裁判官のセリフに周防監督のいいたいことが凝縮されていた。
問い「無罪を言い渡した事件で、本当はやってるかもしれないと悩んだことはあるか」

答え「ありません。証拠はないけど、本当は被告人が犯人かどうかと悩む必要はないんです。そんなことで裁判官が悩むと証拠もないのに勝手に検察官の言い分を補って、時には無罪の人を、有罪にしかねません。有罪の確信が持てなかったら、無罪なんです。刑事裁判の最大の使命は?無実の人を罰してはならないということです。」

この映画を見た後で、おやっと思う報道があった。
04年にあった北九州での殺人・放火事件。焼け跡から刺し傷のある遺体が見つかった事件を巡り、その妹(60)が逮捕され、殺人とそのほかの四つの罪に問われた。被告となった妹が二人きりの同房女性に語ったとされる「犯行告白」が重大な決め手となった。

しかし、3月5日の福岡地裁小倉支部での判決公判では、田口直樹裁判長は「告白」は、「任意性に疑問がある」と指摘。証拠能力を認めず、「捜査手法として相当性を欠く」として、殺人と放火については無罪とし、他の二つの罪で懲役1年6ヵ月執行猶予3年を言い渡した、という記事だった。

検察側が立証の決め手にしたのは、被告が警察署の留置場(代用監獄)で同房の女性(25)にしたとされる「犯行告白」。女性は起訴後もほぼ連日取調べを受けたが、自身の起訴事実や余罪の調べは4日間だけ。

この点について判決は「定員二人の房に意図的に長期にわたって収容した。代用監獄による身柄拘束を捜査に利用した」と指摘。「犯行告白には虚偽に供述が入り込む可能性が高い」「真犯人と認める心象形成に至らなかった」と結論付けた、とある。

公判で弁護側は「同房女性は警察に送り込まれたスパイであり、違法捜査。犯行告白は捜査情報に沿うように作り上げられたもので、そもそも存在しない」として争っていた、という内容。被告の逮捕も別件によるものだった。

欧米からはるかに遅れた日本の裁判制度の闇は、身近な市民社会の中で、いくらでも起こりうるという恐ろしさ。これからある裁判員制度を前にして、被告を有罪とするということの重大さも、あらためて考えさせられた。









日めくり万葉集(49)

2008年03月22日 | 万葉集
日めくり万葉集(49)は、当時、都ではなかった関東の歌、東歌。選者は奈良県立万葉文化館館長の中西進さん。

【歌】
我(あ)が恋(こひ)は
まさかもかなし
草枕(くさまくら)
多胡(たご)の入野(いりの)の
奥(おく)もかなしも

 巻14・3403    東歌・上野国歌

【訳】
私の恋は、今もかなしい。草を枕の多胡の入野の行く末もかなしい。

【選者の言葉】
この歌では、私の恋は今も未来も、永遠にかなしいと言っている。これがいくつもの言葉で恋について語る以上に、雄弁に恋とは何かを語っている。“かなしい”というのは漢字で書くと悲哀(ひあい)の哀(あい)という字もあるが、人を愛する愛も“愛(かな)し”という字もある。

むしろその方が元の日本語であるいとおしみの余り、ある切なさが生じることをかなしいと言った。たとえば持っているものを失くすとかなしい。それは持っているものを愛しているから。愛していなければそれはどうでもいいこと。つまり“かなしい”というのは、我と我が身への哀惜(あいせき)から。

“かなしい”という言葉を万葉集で調べてみると、本来東の国、東国(とうごく)の人たちの持っていた単語らしい。都の人間には“かなしい”という単語はなく、これは地方の言葉だったようだ。

それに目を付けたのが大伴家持(おおとものやかもち)という歌人(かじん)だった。家持は東国の歌に接し、そこで“かなしい”という言葉を見つけた。これがいかに素晴らしい言葉かということを発見した。

“かなし”というのは当時も素朴で、まだ天然自然であった東国に保たれ続けてきた感情。あるいは生命感であって、都の人間は文明がどんどん進んで、もっと小利口になっていた。

彼らは観察者であり、風景を見ている人間。入野(いりの)というのは奥が深いなあと思う。奥が深ければわからない。未来がわからないのと同じように入野の果てはわからない。そこに不可思議さとか神秘を感じる。

神秘の未来の果てまで私は“かなしい”、愛し続けているだろう。と詠うこの歌は、万葉集の中でどの歌が好きかと訊かれて、一番に挙げる歌。

【檀さんの語り】
歌に出て来る多胡(たご)とは、現在の群馬県多野郡吉井町のあたりにあった郡の名前。西暦711年に多胡郡が設置されたことを記した石碑は、日本最古の石碑の一つ。中西さんはこの歌の魅力は空間的、時間的広がりにもあるという。

【感想】
当時の都に対して、東の位置にある関東が東国といわれ、天然自然があったという表現には、現在のイメージとかけ離れていて、そこに大きな歴史の変遷、権力が移り変わる時の流れというものが感じられた。

ここに住む土地の奥はまだ未開で、どこが果てかはわからないが、そういうよくわからないずっと先までも切ない気持ちは変わらないと作者は詠う。空の色、流れる雲、風の強さや方向など。自然の変化を読み取るということが、すべて生命と繋がっている。そういう場所に立つと人間は、小手先でどうにかするというより、もっと大きな気持ちに包まれてしまう、という純粋さが伝わってくる歌。

【調べもの】
○まさか
目前の時。まのあたり。目の前。

○あいせき【哀惜】
人の死などを悲しみ惜しむこと。

○くさまくら【草枕】
草を結んで枕として野宿すること。
《枕》
【旅】【結ぶ】【結ふ】【仮】【露】【たご】にかかる











日めくり万葉集(48)

2008年03月19日 | 万葉集
日めくり万葉集(48)は大伴家持(おおとものやかもち)の歌。選者は日本と中国の文化の違い、美意識を研究している朱捷(しゅしょう)さん。

【歌】
春(はる)の園(その)
紅(くれなゐ)にほふ
桃(もも)の花(はな)
下(した)照(で)る道(みち)に
出(い)で立(た)つ娘子(をとめ)

巻19・4139   大伴家持(おおとものやかもち)

【訳】
春の園の紅に美しく咲いている桃の花。木の下まで照り輝く道に出て、たたずむ“おとめ”よ。

【選者の言葉】
この歌は絵画的で視覚的。とくに“にほふ”という言葉が印象的で効果的に使われている。万葉集ではよく“にほふ”という言葉と“さかり”という言葉が一緒に使われる。

人間や自然の生命の“さかり”が“にほふ”。“にほふ”ものが“さかり”を示すという風に使われる。個人的にはゴッホの「ひまわり」という作品がエネルギーや生命力を感じて、大好きな作品。

そういう視点から見ると、この歌は画家ではないが、“にほふ”という一言で、桃の花の“さかり”と若い娘の瑞々(みずみず)しさをわずか一言でうまく絵画的に描けているなと。

“にほふ”という言葉は語源からいうと、“に”は“赤い土”。赤い土は日本のアチコチにあって、その正体は水銀の原鉱石。“ほ”というのは“生まれる”“出てくる”という意味。

だから“にほふ”というのは、赤い土が地面いっぱいにあらわれている。そういう意味だった。この歌は色がはっきりして、描きやすい歌の中でも、特に良く出来た歌ではないかと思う。

【檀さんの語り】
この歌を詠んだ大伴家持は、国司として越中に赴任していた。春が遅い北陸の地に、絢爛と咲き誇った桃の花。そのあでやかな姿に家持は、花の下にたたずむ乙女をイメージし、【樹下美人像】(じゅかびじんぞう)を思い起こしていたのかもしれない。

【感想】
この歌は訳がいらないくらいに、絵としてもイメージが膨らむ歌。若い女性の輝くような生命力と桃の花の色、そういうイメージが重なって、明るい春の華やぎがやってきた。それが視覚として、目の前に広がって見える。

春を迎えてまた自然界には新しい生命の息吹が芽生えてくる。生きる喜びがあふれている歌、という感じがした。ゴッホはひとふでひとふでに力強さがある一番好きな画家。ゴッホが描いたら、果たしてどんな絵になるのだろうか。

【調べもの】
○に【土・丹】
地・土の意を表す「な」の転。

○樹下美人図(じゅかびじんず)
樹の下に立つ女性を描く画題。
古代アジアで広く行われ、とくに唐代に流行。
正倉院宝物の【鳥毛立女の屏風(とりげりゅうじょのびょうぶ)】はその例。














日めくり万葉集(45)

2008年03月14日 | 万葉集
日めくり万葉集(45)は大伴旅人の妹、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)。選者は民俗学者の神埼宣武(かんざきのりたけ)さん。

【歌】
草枕(くさまくら)
旅(たび)行(ゆ)く君(きみ)を
幸(さき)くあれと
斎瓦(いはひへ)据(す)ゑ(え)つ
我(あ)が床(とこ)の辺(へ)に

巻17・3927   作者は大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)

【訳】
旅行くあなたが、無事なようにと、神に祈るため、【斎瓦(いわいべ)】を据えてました。わたしの床のそばに。

【選者の言葉】
この中では【斎瓦(いわいべ)】。歌の中では【斎瓦(いはひへ)】。お供えの食事という風に読んだ場合、興味がある。器のことは【斎瓦】というのは清めるということで、【瓦(へ)】というのは【瓦器(がき)】、焼き物だろうと思う。

【斎瓦】というのを、後の世の【陰膳】(かげぜん)と想定すれば、今生(こんじょう)の別れのような旅立ちというのは、たとえば、第2次世界大戦に自分の息子を兵士として送る。

そうしたときに親とすれば、子どもの無事な帰還を願うけれども保障はされない。ということで陰膳をまつった人は随分いる。万葉集の時代から、時を経て、忽然(こつぜん)と同じような状況が出る。

だからこの【斎瓦】というのを【陰膳】のようなものと捉えている。そうすると難儀なたび、命の保障が必ずしもない旅、そういう旅へ送り出す家族の心情は、昔も今も変わらない。

わたしも1967年、1968年、インドのネパールからチベット人集落を目指して、若い民俗学者たちのグループで、学術遠征隊を作った。その旅に出るとき、母親はわざわざ岡山の田舎から横浜へ来て、船を見送ってくれた。それは長旅遠出というのではなく、もしかして・・・という、親の気持ちがあったのだろうと思う。

無事に一年後に帰ってきて、聞いてみると、やはり事あるごとに氏神様へ行って、行事の度に、好物のいくつかの料理を作って、それを神棚、仏壇とは別なところへお膳として、つまり陰膳としてまつっていたというのを聞いて、わたしも半分の体験者として、この歌がよくわかる。

【檀さんの語り】
民俗学者の神崎宣武さんは、フィールドワークのため、今も年間100日以上旅に出ている。大伴坂上郎女がこの歌を送ったのは、越中へ国司として赴任することが決まった、娘婿であり、甥の大伴家持(おおとものやかもち)。

郎女(いらつめ)は兄の大伴旅人が死んだ後、家持たち、旅人の子どもを養育してきた。歌は家持の旅の安全を祈る気持ちが込められている。

【感想】
もう他界した父の母、つまり祖母には4人の息子たちがいたが、3人を病気で失った。たった一人残された末息子が、太平洋戦争末期に兵隊にとられたときの気持ちはどんなだったろうか。父は兵隊としてはトウのたった年齢だった。

最早そういう兵隊しか新しく補充するあてはなかったようだ。もちろん、武器も食料も不足していた。集められた兵隊たちはそれを見て、とてもこの戦争に勝てる見込みはないと、すぐにわかったそうだ。

【調べもの】
○【陰膳(かげぜん)】
旅などに出た人の無事を祈って、留守宅で用意して据える食膳。

○【斎瓦(いはひへ)】=いわいべ
祭祀に用いる神聖なかめ。御神酒(おみき)を入れる。

○【瓦器(がき)】
素焼きの土器。

○【越中】(えっちゅう)
旧国名。今の富山県。

○【国司】
律令制で、朝廷から諸国に赴任させた地方官。















ミレー

2008年03月11日 | 絵画
名画への旅。「晩鐘」~ミレー~。19世紀フランスの画家、ミレーの代表作。ミレーは当時注目されない題材だった農民や労働者、働く人々を主題に絵を描き続けた。

1814年、フランス北西部のノルマンディ地方に生まれたミレーは、23歳のとき、絵の修業のため、パリへやってきた。パリでの生活は苦しかったが、絵を描き続けた。26歳のとき、「自画像」(1840から1841年ごろ)をサロンに出品し、これが入選。ようやく画家としての一歩を踏み出す。

当初、ミレーは肖像画や裸婦を描いては生活していたが、次第に自分のルーツである農民の姿を描こうと考えるようになる。そのきっかけとなったのがパリで労働者が蜂起した1848年の2月革命。

その翌年、ミレーは家族を連れて、パリからおよそ80キロ離れたバルビゾンへと移り住んだ。このちにアトリエを構え、農民の絵を書きながら生涯をここですごした。村の背後に広がるフォンテーヌブローの森は、多くの画家たちが風景画に描いたが、ミレーは森の反対側にある農地やそこで働く人々に目を向けた。

ミレーの作品は農民や労働者たちから支持される一方、富裕な人々からは革命的で危険な絵だと批判を浴びた。しかしミレーは農民という主題を変えるつもりはなかった。バルビゾンの隣にあるシャイイの村。ミレーの絵に描かれたシャイイ教会が今も当時と同じ鐘の音を響かせている。

“結局、農民画は私の気質に合っている。誰になんと言われようと芸術でもっとも私の心を動かすのは、なによりも人間的な側面なのだ。”
             A・サンスィエ「ミレーの生涯」より

「刈り入れ人たちの休息」(1850年~1853年)
旧約聖書の中テーマを題材に、助け合う人々を描いた。地主のボアズが自分の土地へ来たルツに落穂ひろいを許し、使用人たちに彼女を紹介する一場面。

「種を蒔く人」(1850年)
夕暮れが近づいたとき、若い農夫が畑で力いっぱい小麦の種を蒔いている。大きく前に踏み出した足。画面いっぱいに力強い農夫が堂々と描かれている。この作品は大きな反響を呼んだが、保守的な人々からは酷評された。

「落穂拾い」(1857年)
バルビゾンに住むようになって8年後の作品。広大な農地の中で、収穫の後に残った落穂を拾う、貧しい農民たち。その背後には地主の指示に従って働く、大勢の人々が描かれている。豊かさと貧しさが隣り合う農村の姿がリアルに描き出されている。

「羊飼いの少女」(1862年~1864年)
夕暮れ時、羊の群れを連れて帰る少女。牧歌的な田園の日常風景を描く。赤い帽子を被った少女が夕日を背に、うつむき加減に立っている。後ろには羊の群れ。

「晩鐘」(1857年~1859年)
信仰を支えに厳しい労働に耐え、生きる農村の人々。その生き方に深く共感し、一枚の絵に描いた。ミレーは祖母の姿を思い出しながら描いたと言われる。遠くに見える教会から響く夕暮れの鐘の音。静かに実りに感謝し、頭を垂れる夫婦の姿。

この作品はアメリカで高く評価され、いったんは海を渡ったが、その後、フランスの一市民が私財を投じて買い戻した。このあたりにも、絵というものは国民的な財産であるという、ヨーロッパの人々の考え方がわかるような気がする。

画像は「落穂ひろい」。労働する女性を描いたことにも感心するが、前に描かれている女性たちばかりか、その後ろで働く人々の姿、彼らを使う地主の存在。当時の社会的な状況を、集団の絵として表現しているところが素晴らしいと思う。

















映画「ジュリア」

2008年03月10日 | 映画
1977/アメリカ/フレッド・ジンネマン監督作品。この監督の作品の中では一番好きな映画。劇作家リリアン・ヘルマンと影響を受けたその幼友達ジュリアとの友情を軸に、同棲している劇作家ハメット、ナチが台頭してくるこの時代を描いている。

1934年、リリアン(ジェーン・フォンダ)は戯曲を思うように書けなくて、ハメット(ジェイソン・ロバーズ)に当り散らす。そんなとき幼友達のジュリアを思い出す。よくジュリアの広大な屋敷に行き、そこで使用人に囲まれている祖父母と食事した。

詩を暗誦し、将来を語り合った。オクスフォード大学の医学部に進学したジュリアはその後ウィーンへ行き、フロイトの下で学んでいた。そこでヒトラーに反対する労働者のグループに接触する。

リリアンはハメットに仕事場を移すことを助言され、パリで戯曲を書きあげることになった。そこでウィーンにいるジュリア(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)に連絡を取るが、会うのは難しいという話。ホテルの名を知らせて電話が切れる。

その後、ウィーンで労働者の暴動で200人死亡のニュース。そこへ電話があり、ウィーンで入院しているという。ウィーンの病院へ会いに行くが、頭にも包帯で動けず、話すことも出来ない。翌日病院へ行くとどこかに移送されて居場所がわからない。懸命にジュリアの行方を捜すが見つからない。

35年、アメリカに帰り、書いた戯曲が大ヒット。37年、モスクワの演劇フェスティバルに招待されることになった。途中パリで、突然ヨハン(マクシミリアン・シェル)という男に、ベルリンのジュリアに5万ドルのお金を届けて欲しいと頼まれる。

汽車にはジュリアの仲間の女性たちがそばに。彼女たちに助けられ、検問が厳しいフランスからドイツへの旅。そしてなつかしいジュリアとの再会。ジュリアは手術をし、足には義足を付け、松葉杖を使っていた。・・・

リリアンの独白の形になっているが、このジュリアという女性像もジュリアにまつわる話も、どうやらフィクションだったということらしい。映画ではジュリアの仲間を助ける資金を運ぶくだりがサスペンス仕立てになっている。そこに映画の興味をひきつけていたが、なによりもこのジュリアという女性像が魅力的。

何ヶ国語も話し、長身で力強く、大またで颯爽と歩き、美しく優雅。祖父母から引き継ぐ莫大な財産を得ながら、常に社会の弱いものの立場にたって貧民街で暮らし、ヒトラーが勢力を得ていく中で、密かに反対活動に身を投じている。これはいわば、リーダーとしての資質を持っているという意味で、一つの理想像を見る思いがする。

女同士が助け合うというだけではなく、ジュリアはリリアンに現実で何が起こっているのかという意識を持たせようとし、自身が作り出したものではないにしても、いざとなれば援助できる資金がある。この辺り、二人の友情がただの友情で終わらない、今を生きる女性へつながっている歴史の糸が見える。

ジュリアは現実の運動に飛び込む勇気もあった。現代に生きていればリーダーとなって、非営利組織の代表にでもなっていただろうか。それとももっと直接的に政界に進出して自らの主張を訴えていたかもしれない。

リリアン・ヘルマンという作家は1950年代、アメリカにマッカーシズムの嵐が吹き荒れ、ハリウッドにも及んだとき喚問を受けるが、非米活動委員会での答弁を拒否した。

「私は自分の良心をその年の流行に合わせて裁つことは出来ません」と答え、仕事を失った。リリアンはジュリアに劣らず、真っ向から権力に抗し、意志を貫く女性だったのだ。このとき、アーサー・ミラーも証言を拒否した。

アーサー・ミラーは後に「クルーシブル」(1997年)という映画で、この当時のマッカーシズムを批判する戯曲を映画用に脚色している。これはダニエル・デイ・ルイスが出ていたので思い出した。

最近の映画では「グッドナイト&グッドラック」(2005年)が、俳優のジョージ・クルーニーが監督・脚本・出演作として、実在したニュースキャスターとスタッフがマッカーシズムへ立ち向かっている姿を描いていた。ジョージ・クルーニーを見直した、驚きの映画。

リリアン役のジェーン・フォンダが華やかさもあっていいが、イメージにぴったりのジュリア役、ヴァネッサ・レッドグレーヴがアカデミー助演女優賞、ハメット役のジェイソン・ロバーズも助演男優賞を受賞。ジェイソン・ロバーズは「大統領の陰謀」での新聞社主幹役もよかった。今でも強く印象に残っている。

“ペンティメント”映画の冒頭に出た字幕。
油絵が年月を重ねると透明になり、最初に書かれた線が見えるようになる。これは“リペント(心変わり)”の結果なのだという説明だった。誰しも生きていればある“ペンティメント”。年月を経れば静かな色に染まってくる人生も、ふと透けて見えたとき、炎のような色に塗られていたわが青春のときが表れる・・・。















日めくり万葉集(43)

2008年03月09日 | 万葉集
日めくり万葉集(43)は作者未詳の歌。選者は俳優で、30年前から八ヶ岳の雑木林を育ててきた柳生博さん。

【歌】
思(おも)はぬを
思(おも)ふと言(い)はば
真鳥(まとり)住(す)む
雲梯(うなて)の杜(もり)の
神(かみ)し知(し)らさむ

巻12・3100  作者未詳

【訳】
思ってもいないのに、思っていると言ったら、真鳥の住む、雲梯(うなて)の森の恐ろしい神がお知りになるでしょう。

【選者の言葉】
天狗の狗に鷲と書くと狗鷲(いぬわし)という。全国に天狗岩とか天狗岳とかあるが、そういう絶壁に巣を作る。そこからわーっと里山へ降りてきて、そこで大きな生き物を食べる。場合によっては人間の赤ん坊もさらわれることがある。そういう大いなるもの、だが決して悪者ではない。つまりわたしたちよりは大いなるもの、という意味で使われている。

もう5,6年前の話。真冬に小鳥たちがさえずっていたが、一瞬シーンと水を打ったように鳴きやんだ。しーっという感じに静かになった。なんだ?と思ったら、翼を広げると2メートルはあるかという、狗鷲がぐわーっと自分のほうへ向かってくる。

そしてわーっとまた、向こうのほうへ飛んでいく。木漏れ日がさささっと木々に陰を作る。そのときには言葉も出ないし、すごいなあーと。神のようなものを恐れる気持ちと、もう一つ、表彰状をもらったような、君たちはいいことをしているよ、えらいぞと、見ていてくれているようなな、そう思った。

そういう風にして里山の人たちは千何百年も、いや二千年近く、生きてきているのではないだろうか。

【檀さんの語り】
嘘を見通す神にかけて、自分の恋心の誠実さを訴える歌。大いなるものがじぶん達の言葉や行いをいつも見ている。“雲梯の社”とは、奈良県橿原(かしはら)市の河俣(かわまた)神社のこと。では真鳥とは?鷲を指すと考えられている。その中でも全国に分布して古くから人々に恐れられてきたのが狗鷲(いぬわし)。

狗鷲(いぬわし)は今、人里離れた山岳地帯にだけ住み、絶滅の危機に瀕(ひん)している。柳生さんは30年前から八ヶ岳の裾野(すその)で荒れた人工林を手入れし、雑木林(ぞうきばやし)を育ててきた。

【感想】
柳生さんのお話にはいつも感動する。大いなるものということと同じことかどうかわからないが、誰が見ていなくても自分に恥じないように行動するということ。それは人間の根本的な誠実さにつながることで、そういう表に見えないところでの大人の行為が社会を支えている。

そういうことが、このごろは減っているのかもしれない。逆に言うと、誰も見ていなければ、発覚さえしなければ、お金にさえなれば、何をしてもいい、ということになってしまう。

【調べもの】
○真鳥(まとり)
鷲(わし)の異称。またふくろう、みみずくのような夜鳥ともいう。また鶴をいう。