BS日テレ放送の「夷酋列像」謎のアイヌ絵、秘められた悲劇。まだ蝦夷地といわれていた頃の話。松前藩の兄を藩主に持つ家老でもあり、絵師でもあった当時26歳の蛎崎波響が描いたA3サイズのアイヌの長たち12人の絵。
鹿を担いで立ち上がろうとしている男、弓を構えている男。槍を持つ男。連れているのは白熊とヒグマだろうか。まるで絵の具を刺繍するように細部までリアリティがある。まだ鎖国の時代にあって、衣装が中国やロシアの色鮮やかな外国のものを着せている。当時としては特異なものであった。
寛政元年(1789年)、今から217年前。道東でアイヌの和人を襲撃した事件があり、死者71人を出した。和人への襲撃はクナシリ島で起こり、やがて対岸のメナシ地方へと飛び火した。クナシリ・メナシの蜂起として伝わっているものだ。
背景には和人がアイヌの人たちを暴力によって働かしたり、だましたり、女性への性的暴力があり、若い人たちが止むに止まれず立ち上がったというのが実態だった。松前藩からの鎮圧隊は260人。鉄砲85丁、大砲3門の重装備。このとき事態の収拾に奔走したのがアイヌの長たち。彼らの絵が「夷酋列像」である。
当時本州から蝦夷地に入ってきた商人は松前藩に金を払い、交易する場所の権利を手に入れ、自分たちに都合のいいルールでアイヌの人たちを酷使していた。松前藩は搾取、暴力、虐待の事実を知っていた。
説得された若者たちは根室のノッカマップに集められ、37名が斬首された。40日に及ぶ長旅になった。しかも松前に入る手前で待ったがかかる。綺麗な服装にさせよということで、蝦夷錦という中国製の衣装を着せて、隊を組んで凱旋行列をさせた。松前藩の大演出だった。武力によってアイヌ民族を滅ぼされないようにと戦争を避けた長たちの苦渋の決断。仲間の首と一緒など望んだことではなかった。
当時の幕府はロシアの南下を脅威に感じていた。老中松平定信は松前藩の統治能力に疑問を感じていた。交易商人からの借金の踏み倒し、密貿易の疑いがあったからだ。そうした中で起こったのが、クナシリ・メナシの蜂起。道東のアイヌの反乱で幕府の不信感は決定的になった。
松前藩は藩の取り潰しを恐れ、生き延びるために「夷酋列像」を利用した。異民族らしく立派な衣装を着せ、配下においていることを示したかった。事件の真相を隠し、アイヌ民族を屈強な異民族として描いた。
波響は家老という藩主の弟の立場とアイヌに同情的な気持ちの画家としての立場。この二つが見え隠れする絵になった。絵の評判は全国に広まり、大名や公家がこぞって閲覧したという。しかし、ロシアや中国製のきらびやかな衣装をまとうアイヌの姿は外国とアイヌが既に結びついている印象を与え、かえって不信を募らせる結果を招いた。
「夷酋列像」完成から8年、1798年幕吏、近藤重蔵がエトロフ島に「木標」を建立。エトロフ島は日本の領土であると宣言。1799年には蝦夷地が幕府直轄になり、1807年、松前藩は縮小されて福島県の柳川に移された。
さらに統治に乗り出した幕府は一方的にアイヌの和風化を進め、名前を日本名に、ちょんまげも結わせた。松前藩はそこまで強制はしていなかった。アイヌ民族は日本とロシアという二つの国に翻弄された民族だった。
札幌でアイヌ文様のデザイナーをして刺繍教室を開いている貝澤珠美さんは、この絵の謎を解く為に、ついにフランスのブザンソンの考古美術館に保管されているという一組の「夷酋列像」に対面する為に渡仏する。
一般公開されていなかったこの絵を、奥の扉を開けて案内してくれた女性学芸員スリエ・フランソワさんに、あなたはこの絵をポジティブに受け入れますか?それともネガティブに感じてしまうのでしょうか?と聞かれる。最初は虐げられたアイヌ民族を差別的に描いていたと対決姿勢を強めていた珠美さんはそこで、彼女からモデルになったアイヌを敬っていた。だからあのような表現になった。果たして波響以外の画家ならこういう形になっただろうかと問われ、敵意は次第にやわらいでいく。
さらに函館に来ていた宣教師が持ち帰った説があるという。フランス人宣教師メルメ・ド・カション神父。1858年函館に教会を開き、アイヌの存在を知る。布教目的ではなくアイヌの集落を訪ね、帰国後、1863年「アイヌ民族」という本を出版する。
アイヌ民族には文字がない。伝統は集落の長や詩人によって語り継がれる。アイヌ女性の子供への愛情は日本人よりとても深い。などと真の姿をヨーロッパに伝えようとした人物があったのだ。
この番組を見ながら、だいぶ前の話だが、資料展を見に行ったことがある知里幸恵さん(1903~1922年)のことを思い出していた。幸恵さんは祖母も叔母も口承文芸の伝承者で、はじめて「アイヌ神謡集」をまとめた人だ。
アイヌ文学の第一人者金田一京助にアイヌ語の重要な示唆いくつも与えたといわれ、その金田一の勧めで口承文芸の文学化に着手。短い期間に数々のノートと「アイヌ神謡集」の原稿を残したが、病弱だった身体で滞在先の東京で19歳でなくなった。のちに北海道大学の教授となるアイヌ語学者、知里真志保さんはその弟に当る。
珠美さんは講演会などに招かれてみると、余りにもアイヌのことを知らない人たちが多い。アイヌ文様を実際の生活に使って知ってもらうことで、アイヌ民族のことまで関心を持ってもらえればと、大きな黒い瞳でしっかりと前を向いて話していた。歴史の中の架け橋になりたいと・・・。
鹿を担いで立ち上がろうとしている男、弓を構えている男。槍を持つ男。連れているのは白熊とヒグマだろうか。まるで絵の具を刺繍するように細部までリアリティがある。まだ鎖国の時代にあって、衣装が中国やロシアの色鮮やかな外国のものを着せている。当時としては特異なものであった。
寛政元年(1789年)、今から217年前。道東でアイヌの和人を襲撃した事件があり、死者71人を出した。和人への襲撃はクナシリ島で起こり、やがて対岸のメナシ地方へと飛び火した。クナシリ・メナシの蜂起として伝わっているものだ。
背景には和人がアイヌの人たちを暴力によって働かしたり、だましたり、女性への性的暴力があり、若い人たちが止むに止まれず立ち上がったというのが実態だった。松前藩からの鎮圧隊は260人。鉄砲85丁、大砲3門の重装備。このとき事態の収拾に奔走したのがアイヌの長たち。彼らの絵が「夷酋列像」である。
当時本州から蝦夷地に入ってきた商人は松前藩に金を払い、交易する場所の権利を手に入れ、自分たちに都合のいいルールでアイヌの人たちを酷使していた。松前藩は搾取、暴力、虐待の事実を知っていた。
説得された若者たちは根室のノッカマップに集められ、37名が斬首された。40日に及ぶ長旅になった。しかも松前に入る手前で待ったがかかる。綺麗な服装にさせよということで、蝦夷錦という中国製の衣装を着せて、隊を組んで凱旋行列をさせた。松前藩の大演出だった。武力によってアイヌ民族を滅ぼされないようにと戦争を避けた長たちの苦渋の決断。仲間の首と一緒など望んだことではなかった。
当時の幕府はロシアの南下を脅威に感じていた。老中松平定信は松前藩の統治能力に疑問を感じていた。交易商人からの借金の踏み倒し、密貿易の疑いがあったからだ。そうした中で起こったのが、クナシリ・メナシの蜂起。道東のアイヌの反乱で幕府の不信感は決定的になった。
松前藩は藩の取り潰しを恐れ、生き延びるために「夷酋列像」を利用した。異民族らしく立派な衣装を着せ、配下においていることを示したかった。事件の真相を隠し、アイヌ民族を屈強な異民族として描いた。
波響は家老という藩主の弟の立場とアイヌに同情的な気持ちの画家としての立場。この二つが見え隠れする絵になった。絵の評判は全国に広まり、大名や公家がこぞって閲覧したという。しかし、ロシアや中国製のきらびやかな衣装をまとうアイヌの姿は外国とアイヌが既に結びついている印象を与え、かえって不信を募らせる結果を招いた。
「夷酋列像」完成から8年、1798年幕吏、近藤重蔵がエトロフ島に「木標」を建立。エトロフ島は日本の領土であると宣言。1799年には蝦夷地が幕府直轄になり、1807年、松前藩は縮小されて福島県の柳川に移された。
さらに統治に乗り出した幕府は一方的にアイヌの和風化を進め、名前を日本名に、ちょんまげも結わせた。松前藩はそこまで強制はしていなかった。アイヌ民族は日本とロシアという二つの国に翻弄された民族だった。
札幌でアイヌ文様のデザイナーをして刺繍教室を開いている貝澤珠美さんは、この絵の謎を解く為に、ついにフランスのブザンソンの考古美術館に保管されているという一組の「夷酋列像」に対面する為に渡仏する。
一般公開されていなかったこの絵を、奥の扉を開けて案内してくれた女性学芸員スリエ・フランソワさんに、あなたはこの絵をポジティブに受け入れますか?それともネガティブに感じてしまうのでしょうか?と聞かれる。最初は虐げられたアイヌ民族を差別的に描いていたと対決姿勢を強めていた珠美さんはそこで、彼女からモデルになったアイヌを敬っていた。だからあのような表現になった。果たして波響以外の画家ならこういう形になっただろうかと問われ、敵意は次第にやわらいでいく。
さらに函館に来ていた宣教師が持ち帰った説があるという。フランス人宣教師メルメ・ド・カション神父。1858年函館に教会を開き、アイヌの存在を知る。布教目的ではなくアイヌの集落を訪ね、帰国後、1863年「アイヌ民族」という本を出版する。
アイヌ民族には文字がない。伝統は集落の長や詩人によって語り継がれる。アイヌ女性の子供への愛情は日本人よりとても深い。などと真の姿をヨーロッパに伝えようとした人物があったのだ。
この番組を見ながら、だいぶ前の話だが、資料展を見に行ったことがある知里幸恵さん(1903~1922年)のことを思い出していた。幸恵さんは祖母も叔母も口承文芸の伝承者で、はじめて「アイヌ神謡集」をまとめた人だ。
アイヌ文学の第一人者金田一京助にアイヌ語の重要な示唆いくつも与えたといわれ、その金田一の勧めで口承文芸の文学化に着手。短い期間に数々のノートと「アイヌ神謡集」の原稿を残したが、病弱だった身体で滞在先の東京で19歳でなくなった。のちに北海道大学の教授となるアイヌ語学者、知里真志保さんはその弟に当る。
珠美さんは講演会などに招かれてみると、余りにもアイヌのことを知らない人たちが多い。アイヌ文様を実際の生活に使って知ってもらうことで、アイヌ民族のことまで関心を持ってもらえればと、大きな黒い瞳でしっかりと前を向いて話していた。歴史の中の架け橋になりたいと・・・。