FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

舞台『オイディプス王』

2005年03月29日 | Weblog
TV放送された2004年7月、ギリシャのアテネ、野外のへロデス・アティコス劇場で行われた蜷川幸雄演出による『オイディプス王』。ギリシャ政府はオリンピックと併設して芸術オリンピックというものを4年間やってきて、その最後の年ということで招待された作品。

サッカースタジアムとおんなじようにすり鉢状になっていて、見下ろされている舞台は白とグレーの市松模様になっている半円形で、その奥に階段があり、登ったその後ろは役者が行き来する空間になっている。古代の建築物が傍らに建っていて、今日までの歴史を否応なく感じさせられる。

オイディプス王は野村萬斉。妻イオカステを麻美れい。白い足まで覆う長さの衣装は後ろが黒い色の上に重ねて白い布を見せていて、引きずる長さのその背中の部分には、墨の一筆書きのような模様が書かれている。神官の首には神社に飾るような綱と白い紙がネックレスのようにかけられている。

オイディプスは神から自分の父親を殺すという予言を受け家を出た。旅の途中で森に現れたスフィンクスの妖怪から出される謎を解き、テーバイの人々を災いから救った事で王になった。しかし、再び作物は実らず、厄病がまん延し、テーバイの苦境を脱する為に神託を受けに遣わせた使者の口から出てきた言葉は、オイディプスが来る前のテーバイの王であるライオスを殺した犯人がこの地に居る為という事だった。しかも、その犯人はオイディプスだというのだ・・・

しあわせに暮らしていた人間が神が下した運命によって知らずに父を殺し、母を妻とすることで、人生が暗転するという悲劇。「人の一生は最後の日を見極めるまではわからぬもの。生涯の終わりを幸福のうちに迎えるまでは誰であろうと幸せ者と呼んではいけない。」確かにー。この言葉を胸に刻んで残りの人生を生きなければなりませんねー。

まわりが止めるのも聞かず、自分が苦しむ事になるかもしれないのに、どこまでも真実を追究していく妥協のない激しさや、自分で自分の目をついてしまうという残酷さはちょっと日本人にないものではと。日本人なら追究する前に無常観や諦観が先に来て、静かにもののあわれを感じて終わりかなあ。良くもあり悪くもありー。

野村萬斉さんは声も良く通り、劇的な展開を演ずるのも見事なものでまさに海外での入魂の演技という感じがした。さらに驚いたのは麻美れいさんが妻であり、母でもあるという難しいやくどころを堂々と演じていた事。セリフも勿論、立ち姿も歩き方もさすが鍛えられていて舞台映えがした。

半円に並ぶようにして一緒に大勢の役者がセリフを朗朗といったり、群舞のようなシーンがある。これは迫力があった。黒と赤の布地を配して動くとそれが鮮やかに見えるなど、デザインも計算が行き届いたものだ。極めつけは東儀秀樹さんの邦楽の響きがあるゆっくりしたテンポの音楽。東洋を感じさせてすばらしかった。

蜷川さんは東洋の解釈と美意識というものを見せたかったのだろうと思う。舞台装置は木の様に見えるものをところどころに置く以外は何もないというシンプルさ。役者の演技で勝負というもの。またそれにこたえる演技だった。終わった後は役者の挨拶に続き、最後に蜷川さんが出てきたときは一段と強い拍手が鳴り止まずー。まるで日本人を代表しているようで、見ているほうも胸が熱くなり、よくやったと嬉しくてたまらなかった。

舞台『ロミオとジュリエット』

2005年03月27日 | Weblog
WOWOWの舞台中継。日生劇場での蜷川幸雄演出による藤原竜也のロミオ、鈴木杏のジュリエット。舞台には、奥に建物の壁面のように、多分10代の若い男女が正面を向いた白黒の写真になっている。数え切れないくらいの人数。これは若くしてなくなった若い男女だろうか。その前に3階建ての構造になる狭い廊下くらいの歩く場所が取り付けられて、役者は両端にある階段を使ったり、使わないで飛び降りるような恰好をしたりで、2階と1階を行き来している。

中世の時代。モンタギュー家とキャピュレット家は長い確執の間柄。その1人息子のロミオと一人娘のジュリエットが舞踏会で出会う。結婚まで約束するが、ロミオの親友のマキューシオがジュリエットの従兄のティボルトに刺されたことで亡くなってしまう。その怒りからロミオはティボルトを殺め、ヴェローナの町から追放の処分を受ける。

ジュリエットは父親からすすめられた結婚話があり、神父のところへ助けを求めて駆け込む。神父は仮死状態になる秘薬をジュリエットに飲ませ、それを追放先のロミオに手紙で知らせるつもりで使いを出したが、これが障害によって届かなかった。明日は婚礼という晩に再びロミオと会えることを信じてジュリエットは秘薬を飲んだ。ロミオのもとには友人がジュリエットが亡くなったという知らせを持ってくる。

墓所に行ったロミオはもう一度ジュリエットを見にきていた結婚相手を刺し、自分も手に入れた毒薬を飲み干して、ジュリエットの傍に横たわる。仮死状態から目覚めたジュリエットの傍には、毒薬を飲んだロミオがいた。絶望したジュリエットは傍にあった短剣で胸を突き、目覚めない眠りについた。

これは今まで何回も映画を見ていて、余りにもそのイメージが強すぎて、斬新な蜷川ワールドに浸りきれなかった。ハムレットのように様々な人間が入り組んだ複雑な関係からなるというより、ほとんどロミオとジュリエットの世界になってしまうからだろう。

ハムレットでホレイショー役をやったマキューシオがスピード感のある動きで印象に残った。藤原竜也は杏ちゃんとのからみは照れくさそうだったけど、ファンになるとどのお芝居も贔屓目になってしまうのかもしれない。杏ちゃんは花びらのようなドレスがどれもかわいらしく、一人で長いセリフを堂々といえて大したものだと感心したけど、どうしてもイメージが合わなかった。それには理由があってー。

オリビア・ハッセーのジュリエットによる中世の時代性を出したフランコ・ゼフィレッリ監督のものと、現代に時代設定したレオナルド・ディカプリオとクレア・ディーンズの印象が強すぎるからだ。殆ど2人のイメージで決まってしまうという点ではかえって訴えかけが難しいのかもしれない。これは若い世代の為のお芝居であり、若さがなくなると感動は難しい物語といえそうだ。







舞台『ハムレット』

2005年03月25日 | Weblog
WOWOWの舞台中継。2003年シアターコクーンで。蜷川幸雄演出による藤原竜也演ずる若きハムレットはシェイクスピアの古典悲劇。装置がない舞台に金網をボックス状に張り巡らし、四方の客席から見られるようになっている。急死したハムレットの父親の亡霊が舞台に現れたり、消えたりするときだけ、下に下りる仕掛けが作動するというシンプルさ。役者も客席から登場したりという観客との一体感を強調するものになっている。

ホレイショーに亡霊が出たことを報告した見張りの兵はデンマークがこのところ軍備増強に励み、終日働かせられていると嘆く。ホレイショーは、隣国ノルウェーの王フォーティンブラスとハムレットが領土を賭けて決闘し、それでフォーティンブラスは負けたけれど、同じ名前の息子が虎視眈々と領土奪還を狙っているからだと両国の関係を説明する。

ハムレット(藤原竜也)は、急死した父親の亡霊から父の弟である叔父、クローディアス(西岡徳間)が自分を殺したのだと言われる。父を殺した叔父は母ガートルード(高橋恵子)を妻に迎えている。老臣ポローニアスの娘オフィーリア(鈴木杏)との愛を犠牲にしても復讐を誓うが、ハムレットは旅の一座に2人の前で父王殺しの芝居をやらせ、その反応からクローデイアスの父殺しの確信を得る。

母とハムレットが芝居の後で言い合いをしているのを聞いていたポローニアスをハムレットは誤って殺してしまい、ハムレットは学友と共にイギリスへ送られる。父が亡くなり、ハムレットからの愛も失って狂ったようになっていたオフィーリアは流れる川に落ち、亡くなってしまう。

オフィーリアの葬儀に亡くなったと思われていたハムレットが現れた。イギリスに送られたときしたためられていたクローディアスからの謀殺を促す一筆を、ハムレットは見破り書き換えていたのだった。フランス留学から帰国したオフィーリアの兄レアティーズは仇を討とうとハムレットとの試合に臨んだが、そこにははクローディアスの策謀で剣先に毒が塗られ、合間に飲み干すお酒にも毒が入れられていた。

2人は相打ちの形になり息絶える。ガートルードは毒杯を飲み、クローディアスも殺される。ことの顛末を国民に知らせようと誓うホレイショーの目の前には、ノルウェー王のフォーティンブラスが現るー。

シェイクスピアのハムレットといっても、―To be, or not to be・・・という有名な文は、英文購読の授業にさかのぼるほどのはるかかなたの時間だし、’97年のケネス・ブラマーの映画『ハムレット』がもっとも身近な案内になってしまうという頼りないものでしかない。

ケネス・ブラマーより藤原竜也のハムレットのほうがずーっといい。そう思えるほど、若さに溢れ、台詞回しも素晴らしく、この舞台ですっかり竜也ファンになってしまった。藤原竜也の為に用意されたハムレット。そういっても過言ではないほど、素晴らしかった。

オフィーリアは映画では、ケイト・ウィンスレットがやっていた。杏ちゃんは繊細というよりかなりたくましい感じに見えてしまったが、まだ高校生くらいでよくこの難役に挑んだのでは。映画ではジュリー・クリスティがやっていたガートルードを高橋恵子さんが。

かつての映画スターが様々な人生を経て、こんな大きな息子のいる母親役をねえ、と時の流れをかんじてしまった。セリフも良く通る声ではっきり聞き取れ、年齢と共に妖艶な魅力が増して、兄と弟を愛憎に巻き込むほどの大輪の薔薇のような華やかさであたりを圧倒していた。

蜷川幸雄と藤原竜也のトークというおまけがついていたが、『ゲバラ』の自伝を渡したというのにはビックリ。しかも蜷川が「変革し続けよう」なんて藤原竜也にいっていたのには、もっとビックリ。今の時代にこういう真正面からぶつかろうという情熱を持つ人がいて、それにこたえようという若者がいるんだということにー。

地味な練習に明け暮れる舞台役者の仕事を選択したことに大きな拍手!!若さが失われる年齢になったとき、その積み重ねがきっと大きな財産となって跳ね返ってくると思うよ。「ロミオとジュリエット」の舞台も楽しみだー。

舞台『走れメルス』

2005年03月22日 | Weblog
WOWOWの舞台中継で『走れメルス~少女の唇からはダイナマイト!~』野田秀樹が20歳のとき、1976年の作品。こちら岸に住む男女とむこう岸に住む男女の話が交錯しながら展開していく。野田秀樹のインタビューでは、30年前にはこちら岸にリアリティーがあって、むこう岸のTVなどの世界は絵空事という認識があったが、今はむしろこちら岸が遠いものになり、むこう岸の非現実的なものにリアリティーをかんじる時代になってきたというものだった。

こちら岸に住む芙蓉はいつも着物を着て、鏡の前に座りながら母親からもらったという「青春歌集」を読んでいる。久留米のスルメは、下着泥棒で仕事の最後には必ず芙蓉の家に来る。向こう岸に住む零子は結婚式を抜け出し、アイドル歌手メルス・ノメルクと逃亡。

芙蓉の「ぬしが死ぬと部下にするの?」とメルスがくり返す言葉は反対にすると意味が符合するものだった。芙蓉が読んでいる「青春歌集」には何も書いてなくてすべて芙蓉の作り話だが、メルスはこちら岸に現れ、これが大変なことを引き起こすことになる・・・

テンポがはやくて、役者が早口言葉のようにセリフをいい、飛んだり跳ねたり!するようなところは今の劇と同じようだけど、こんな複雑な難しい構成をわずか20歳で考えるというのは何という才能だろうかとあらためて驚いてしまう。流れる音楽や効かせる言葉なんかは、なんせ30年前だからねえー。

南沙織の歌や当時の刑事ドラマのテーマ曲までは思い出したが、「路傍の石」とか「ノンちゃん雲に乗る」とか「安寿と厨子王」に至っては全くわからないのではと、ハラハラしてしまう。マツケンサンバなんて言葉が出てきたときはむしろホッとした。

こちら岸の世界に飽き足りなく、どうにかして向こう岸の世界とつながっていたいという青春の危うさと輝きー。野田秀樹扮する3人の女の子の母親である評論家、桐島洋子がなんとかして彼女たちをこちら岸に踏み留まらせようと奮闘する場面がおかしかった。飛んだり跳ねたり、まるでバネのように動き回って舞台狭しと演技する姿には全人生を芝居に賭けている姿勢が伝わってきて、ジーンときてしまった。

深津えりさんも繊細な少女の役を声を高くしてよく演じていたけど、零子役の女優さんの名前がわからないけど、この人の対照的ともいえるたくましい演技も存在感があり、印象的だった。