FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

芝桜

2011年05月28日 | ガーデニング

我が家の庭の一番手前には芝桜が植えられ、長いベルトのように庭を縁取っている。こうなるまで何年もかかった”労作”ではあるが、今年はそのベルトの中に白い小花が混じっているのを発見。なんだろ、これ?

しかも一部はその小花に占領され、ベルトの連続性が途切れているほど。面倒なことにその白い小花とピンク色の芝桜の葉っぱの形状がそっくり。よほど目を凝らさないと違いが分からない。一面の芝桜の中に白い花が咲いてびっくりする。

どうやらこの花は根っこが糸のようにつながって、どんどん繁殖するセラスチウムということが分かった。その点も芝桜とよく似ている。そういえば去年ずいぶん元気よく範囲が広がっていた。芝桜のほうまで広がってくるのを警戒すればよかったんだ、と一本一本を引っこ抜きながらブツブツ。これが結構手間がかかるんだから、もう…。


半袖の出番

2011年05月28日 | 雑感

昨日は20度を超え、長袖では暑いなあと感ずる日中にはとうとう半袖の出番となった。なかなか気温が上がらなかっただけに、いよいよ初夏らしい季節になってうれしい。

例年、5月の最後の土日には小学校の運動会が催されるのが恒例の行事。ぶるぶる震えながらよりも青空の下、強い日差しの中で汗をかくくらいのほうが生徒もいい思い出になるのだろうし。

今日は夕方くらいから雨が降り出したので、よかった。運動会はもう終わっているから、いつでも一雨どうぞ。子どもたちはもう大きくなって、親元にもいないから運動会は遠い日の記憶。巻きずしや稲荷ずし、鳥の唐揚げやらなんやら、せっせと作って持っていったり、前日に席取りをしたことなど。会場に流れる行進曲、甲高いアナウンスの声、あの日のにぎやかな歓声…。親のほうも若かったなあとなつかしく思い出す。


木靴の樹

2011年05月22日 | 映画

WOWOWで放送された「カンヌ映画祭特集」~シネマクラシックでは普段あまり放送されない長編映画、「木靴の樹」(1978年/イタリア/190分)をもう一度見ることが出来てうれしい。この年のカンヌ映画祭パルムドール受賞作。

巻頭場面で”出演者はベルガモ地方の農民である。19世紀末ロンバルジア州に4軒の農家が暮らしていた。住居や樹木、一部の家畜は地主のものだった。収穫の三分の二が地主のものとなる”という字幕が出てくる。

貧しいながら息子のミネクだけは学校に行かそうとするバティスティ一家、地主に差し出す収穫物の計量日、馬車の底に石ころを詰めてごまかそうとするフィナール、夫に死なれた後洗濯女をしながら15歳を頭に6人の子供を育てているルンク未亡人、ブレナー家の美しい娘マッダレーナは働いている工場のステファノと結婚する。(マッダレーナ役のルチア・ぺツォーリは素人なのだろうかと思えるほど魅力的!)。

その後マッダレーナとステファノはミラノで修道院長をしている伯母を訪ねると、そこで伯母が連れてきたのは身寄りのない子。帰路は引き取ったその子を連れて帰ってくることになった。ミネク(学校への6キロの道のりを木靴を履いて通うけなげな姿!)は放課後履いていた木靴が割れてしまい、父さんは川沿いに立ち並ぶ樹の中から1本を切り倒し、知られぬように新しい木靴を作ったが…。

まるで全篇ドキュメンタリーのように農民の生活が生き生きと描かれている。早く出荷したいために朝早く人目につかないうちにトマトの苗に牛糞ではなく鶏糞を撒くとか、貴重な家畜の牛の病気を治すために教会で祈りを捧げた聖水!?を牛に飲ませると一晩で回復するとか、生き抜くために知恵を振り絞る。貧しさから抜け出せない彼らの苦しみと対照的なのが地主の暮らし。計量日に農民が集まった地主の家の窓から聞こえてくるのは、手回し蓄音機から鳴り響くオペラ。邸宅では息子が弾くピアノの音楽会が開かれる。

水車がある粉ひき所、歌を歌いながらの共同作業、夜になると集会所に集まって過ごす、などは記録映画のようでもあり、ローソクや自然光に映し出された場面は陰影が強く、西洋絵画のようだ。牛が耕した後の畑に種をまく農民の姿は、ブリューゲルの「種まく人の譬えのある河口風景」(1557年)やミレーやゴッホが描いた「種をまく人」の構図そのもの。家の中で食事をする光景はゴッホの「ジャガイモを食べる人々」(1885年)を思い起こさせる。

ヴィットリオ・デ・シーカの「自転車泥棒」に影響を受けたとされるエルマンノ・オルミ監督は撮影も脚本も手掛けている。今でも印象に残るアルジェリア独立戦争を描いた「アルジェの戦い」(1966年)の監督はフランス人でもアルジェリア人でもなく、実はイタリア人だったことを思い出した。見事なドキュメンタリー的手法でその場に居合わせたような臨場感があった。イタリア映画は戦後映画史に残るネオリアリズムの伝統を生み出してきたが、この作品もその列に並ぶ必見の名作だろうと思う。


見えない敵

2011年05月18日 | ドキュメンタリー

 NHKBS「世界のドキュメンタリー」~見えない敵~(ドイツ2006年制作)。1986年のチェルノブイリ原発事故から25年になろうとする年に、他国の出来事として見ていた日本でもとうとう地震津波の大震災によって、安全神話が崩れ、福島第一原発の事故が起こった。

この番組ではドイツのドキュメンタリー作家クスストフ・ボーケルが、ナチスドイツが行ったソビエト攻撃のドキュメンタリー番組取材のために事故の翌年、高濃度汚染地域へ入り、同行した通訳のウクライナ人女性マリーナとは2年後に結婚。その後妻は乳がんと診断され、死亡。マリーナの死によって原発事故にかかわった人々から当時の状況を聞き、被害の真相を追う決意をしたのだった。

当時はソ連邦末期、最後の書記長ゴルバチョフ時代。共産党機関紙「プラウダ」の編集長だったというジャーナリストの証言。ゴルバチョフ書記長と政府はこの事故が敵対する勢力が自分に仕掛けた攻撃だと解釈し、それに対する恐怖が強く、一度も現場に行かなかったというのだ。

 証言は続く。原子炉の下にはまだ冷却用の水が残っていて危険。炉心の溶融していたので炉心が冷却水に触れたら、新たに大規模な爆発が起きかねないので、そうなったらウクライナの大都市全域も放射能に汚染される。だから何としてもこの水を抜く必要があった。

水を抜くために真っ暗な中で二人の若者が原子炉の下へ入っていき、この水を抜いた。彼らは大量の放射能を浴びたが水を抜くことには成功した。モスクワ郊外にある「ミチノ墓地」にはチェルノブイリ事故で早い時期に事故処理に当たった人々が埋葬されている。彼らは被爆から数週間で無残な死に方で亡くなっている。

消火作業に当たった人たちは致死量の放射線を1回ならず10回分も浴びている。一か月以内に死ぬことが明白だったので、国家英雄の名誉称号を送るべき。そうすれば生きている間に国が称えたことを知ることが出来るとゴルバチョフに進言。しかし送られてきたのは6か月が過ぎてからだった。

「被ばくの恐ろしいところはどんな影響が出てくるのか想像しにくいことです。放射性物質のストロンチウムは骨やあごに蓄積され、やがて歯が抜け落ちます。しかし痛みを感じるものではありません。だからこそ兵士たちはどんな仕事でも引き受けたのです。そして後になって代償を支払わされました。それがチェルノブイリの悲劇です。」

 もう一人の証言者はディーマという画家の青年。モスクワの小さなアトリエで。原子炉の爆発事故の汚染処理に動員された80万人の一人。86年6月始め。その後内面を絵で表すようになり、作品を残しながら、体は次第に衰弱し入院もしたが、政府からは因果関係が認められず。映像に映っている当時は「体に多少の痛みと不快感があります」と語っていたが、まだ元気に証言している。

毎朝ミネラルウォーターと片手一杯の白い粉が支給され、貯水タンクもあり、熱いお湯やぬるめのシャワーも使えた。給水トラックも来ていた。汚れは洗い落とせたので安全対策が不十分とは思わなかった。1997年当時は我慢できるような普通の病気の人も被災者と認定された。ところが1999年には状況が変化。傷病手当は命にかかわる病気の人にのみ支払われると書かれ、つまり癌だけが対象となったのだった。ディーマの病気は認定されず、少ない年金で留め置かれた。

チリには放射性物質が含まれているとは知らされたが、それがどんな悪影響を与えるか教えられなかった。遠隔装置を使う重機はすぐ強い放射線で使えなくなった。あとはシャベルと水、手押し車、人間の体しかない。ディーマたち作業員は野営のテントに寝泊まりしていた。みんな明るかった。ちょうどその頃サッカーワールドカップメキシコ大会があったので、みんな大声を上げて応援していた。兵士たちは作業を10時間以上もやった後で這うようにしてTVのある部屋へ行き、ワールドカップの試合を見ていたという。

クラスメートの女性の証言。「ディーマは学生時代から自由な雰囲気で芸術家タイプだった」「彼はこう言いました。僕は行列の最後尾かもしれない。すでに多くの人が死んでいるので自分もその列に並んでいたのを知っていたのです。」2002年夏、モスクワ近郊の森の中で遺体で発見された。彼が子供時代に休暇を過ごした別荘のすぐ傍だった。1964年~2002年、4か後には40歳の誕生日を迎えるはずだったディーマ。身元不明者の墓地の一角にひっそりと埋葬されている。

番組の中では実写の映像もあった。作業員に手順を説明している。「手押し車にガレキを乗せろ。一人が乗せてほかの二人が運ぶ。向こうに着いたらすぐに数え始めろ。90まで数えたら駆け足で戻る。数を数えながらガレキをすくえ。90まで数えたらすべてを放り出して走って外へ出ろ」

人間が作った見えない敵との戦い。チェルノブイリでも日本でも責任者は一番危険な現場には行こうとしない。危険に晒されるはいつも弱い立場の人間たち。東電は2か月も経ってから実は…というように1号機ではメルトダウンが起こっていましたと発表。安全神話を壊したくないために被害を大きくしたのではないかという疑いが持たれている。台風の季節になれば距離の離れた地域にも放射性物質は運ばれてしまう。だらだらやっている場合じゃないと、日本でもいよいよ高濃度に汚染された建屋の内部に作業員が入るという段階になってきた。いつまでも事態が動かなければ、誰かが”選ばれて”入って行かざるを得ない。この番組でも恐ろしい映像の数々。水を抜くために原子炉の下へ入っていった若者二人の姿が今でも残像になって消えない。

 


色が増えてきた

2011年05月17日 | ガーデニング

 大震災から2か月が経っても、被災地の現状には気持ちが晴れないニュースと映像が続いている。5月の半ばを過ぎ、チューリップの開花とともに、我が家の庭も一気に色が増えてきた。

庭好きの人たちにとって大型連休のゴールデンウィークはガーデンウィークだという記事が少し前の(北海道新聞発行の)「花新聞」に載っていたが、雨が降らない限り庭に出てはせっせと「今年の庭計画」に沿って動き回っている。苗を植えたり、移し替えたり、鉢植えのものを地植えしたりでせわしない。

宿根草の中では、最早花をつけているすみれやツルニチニチソウ、ハート形の可愛らしい花が連なって咲く(なんていったか?)が葉っぱも青々としてとても元気。この時期恒例の木酢液散布をしなければと思いつつ、やることが多すぎてまだそこまで行っていない。今年はそれに何年経っても被害甚大な黒点病対策としてキトサン液を用意したけど、効能書き通りに効いてくれるかなあ…。


いいなあ

2011年05月10日 | ガーデニング

先ほどのTV番組では埼玉県所沢市にある西武ドーム開催、今年の「国際バラとガーデニングショー」が紹介されていた。会場には有名なバラ研究家がデザインした庭、コンテストに応募したバラ好きの庭と、バラが所狭しと持ち込まれ、さぞいい香りに包まれているのだろうとうらやましい限り。

このあたりではまだ桜も咲いていないという肌寒い天候が続いている。大型連休にも桜前線は間に合わなかった。道南の松前にようやく桜が開花したというニュース。バラが咲くまでにはまだ間があり、6月の下旬ころまで待たなければならない。

その代わりといってはなんだけど、梅雨もなくヨーロッパに似た乾いた気候風土なので、夏から晩秋まで休むことなく、数か月間咲きっぱなし。放っておけば雪が降り出してもまだ花が咲いてる。”低木”という範疇に入る薔薇は耐寒性もあり、意外と丈夫なのだ。(この耐寒性は北国に自生するハマナスが親となって子孫に受け継がれたものらしい。)

我が家の庭にバラの花が咲き誇るまで1か月以上もある。芽が蕾になり、それが花となるまで育てていくには忍耐が必要、同時に少しずつの変化を見つけることが楽しい。それにしてももうバラが咲いている、いいなあ…。

写真は山に咲く野草、日本カタクリの花。


ナスタチウム

2011年05月10日 | ガーデニング

NHK4月の番組改編で消えるのではないかと心配したのが【猫のしっぽカエルの手】と【世界のドキュメンタリー】。視聴料を払うんだから、二つとも残ってよかった!そこで嬉しい~京都大原ベニシアの手づくり暮らし~Vol.58.「歌がつなぐしあわせ」

まずは
孫のジョー君と一緒にお得意のハーブを使ったスカボローフェアピラフ。日本人にとってはアメリカ人の二人組、サイモン&ガーファンクルの歌でおなじみ。パセリ、セージ、ローズマリーとタイムというメロディがすぐ耳の奥で聞こえてくる。

分葱や細かく切ったハーブをオイルとバターで炒め、さらに米を加え、お米が透明になるまで炒める。これにハーブ、ブイヨンを溶かしたスープを加え15分煮る。出来たら、それに松の実、ゆでたかぼちゃ、ナスタチウムの花やハーブを少し飾って見た目にも綺麗に出来上がり。

お孫さんのジョー君には英語学校の先生という顔がのぞき、スカボローフェアの意味を歌を歌いながら教えている。庭に出て二人で京都弁!を使いながら”試食会”というのが微笑ましい。

…「私は5歳の時家族でスペインの別荘へ行きました」「ナスタチウムは何千年も前からアンデスに自生していて16世紀にスペイン人の探検家が持ち帰りました」「発疹やニキビ痕をきれいにするために葉を顔にこすりつけたりします」…

ナスタチウムは防虫効果があるということだったので、スーパーの入り口の前で売っていた苗を、早速薔薇の近くに植えてみた。ベニシアさんの体験は地球規模で大原の片隅に閉じ込めておくのはもったいないといつも感嘆するが、そこは”類は友を呼ぶ”。「アイリッシュパブ」へ行き、リバプール出身という同年代のイギリス人、フェリシティー・グリーンランドさんの歌声を聴きに行く。

かなり前に「フェリシティーの青春」というドラマを見ていたので、この名前ははじめて聞いた気がしない。フェリシティーさんは日本の古い歌の成り立ちにも関心があるという方で、お店では「アニー・ローリー」を歌っていた。そのそばでベニシアさんを含むお客さんたちはただ聴いているだけでなく、老若男女、輪になって踊っている。すっかり日本人として暮らしているベニシアさんも、遠い故郷の音楽を聴きたい時もあるのだろう。

小・中・高と日本人は明治の時期に入ってきたという欧米の古い歌を授業で習っている。だから日本人が作った童謡の様に口ずさむことが出来るのだ。別れの歌「蛍の光」も実はスコットランド民謡だったんだからねえ。高校の音楽の授業で音大を出た女の先生が、コロラトゥーラ・ソプラノで高音を響かせて歌っているとき、男子生徒たちが大げさに!椅子から転がり落ちた?のを今でもなつかしく思い出すよ。


雨の日は

2011年05月01日 | ガーデニング

雨の日は庭仕事もお休み。帰省している子どもが他の子供たちを代表して、母の日のプレゼント。裏庭をぐるりと取り囲むようにラティスがほしいというと、丁度ホーマックで安売りしている時期でもあり、早々に受け取ることになった。
 

バッグとか靴とか、洋服とか、いろいろ言ってくれるのはありがたいことだが、この頃は身を飾ることに興味もなくなり、一番の楽しみは花を育てること。丹精した結果、薔薇の花が咲く季節はえも言われぬ至福の時間。それに子どものほうも生活にゆとりがないのだから、あまり迷惑をかけたくない気持ちもあり。

そんなわけで雨が降っても傘を差しながら、薔薇の枝から葉っぱが伸びてきたり、球根はムスカリやヒヤシンスの花が咲きだしているのを発見。思わずニンマリ!?いや、モナリザの微笑み!?になっているという今日この頃…。