FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

『コリオレイナス』

2007年04月23日 | Weblog
シェイクスピア原作。蜷川幸雄演出。後期の戯曲で生前の上演記録は残っていないという。悲劇として最後に書かれたもので、1608年ごろの作とされている。公式サイトには孤高を貫き通した~ローマ将軍の悲劇~とあった。

WOWOWで放送された3時間にも及ぶ舞台劇。久しぶりにこれだけ見ごたえのあるものを見たという感じになった。唐沢寿明、白石加代子、勝村政信、香寿たつき、吉田鋼太郎、嵯川哲郎など、うまい役者ばかり。

紀元前5世紀ごろ。古代ローマの共和制ができたころのお話。貧民たちの暴動はケイアス・マーシアス(唐沢寿明)に起こっている。貧民たちに穀物の支給を反対したからだった。マーシアスの友人で温厚な性格の貴族、メニーニアス(吉田鋼太郎)はなんとか抑えようとするが、マーシアスは軍務の能力を欠く貧民たちには穀物を支給しなくてもよいと発言する。

この暴動を鎮めるために「護民官」が設置されるが、平民から選ばれた二人は影で反感を煽る。ローマを勝利に導いたマーシアスは陥落した都市コリオライにちなんで、コリオレイナスという称号を受ける。ローマに帰ったコリオレイナスは母の希望で執政官の選挙に出る。

元老院から執政官に推薦されるが、なるためには謙虚のしるしとして、ぼろ服を着て広場に立ち、傷跡を見せながら、市民の了解を得なければならなかった。コリオレイナスはその慣習に強く抵抗するが、周囲に説得されて従う。市民の賛成を得るが、彼の失脚を狙う二人の護民官(嵯川哲郎)の扇動により、逆に反逆罪で訴えられてしまう。

母ヴォラムにア(白石加代子)の説得により市民に謝罪するが、途中でかんしゃくを起こして、逆に民衆の敵としてローマから追放されてしまう。母と妻(香寿たつき)と幼い息子をローマに残したまま、祖国をうらみ、敵として戦ったヴォルサイ人の将軍、オーフィディアス(勝村政信)のもとに行き、ともに戦うことになる。ローマ支配下の属州が次々と攻め込まれて、ローマ人たちはコリオレイナスを追放したことを後悔し、メニーニアスに説得に行かせるが、成功しない。

しかし、ローマへの攻撃に備えているときに、彼の元へ母と妻子がやってきた。母は和解をすすめ、それを受け入れたコリオレイナスはローマとの和議を成立させる。再びヴォルサイ人のところへ戻ったコリオレイナスには、彼が来たことにより影が薄くなっていたオーフィディアスが、これを裏切り者とし、反逆者として刺し殺してしまう。・・・

長時間の劇で、途中で休憩!しながらでないと見られないほどだったが、役者たちの熱演、コリオレイナスの唐沢寿明やその母親役の白石加代子に圧倒されて、最後まで見ることができた。舞台装置や衣装も海外公演を意識したのではないかと思えるほど、和服をアレンジしたようなものや、仏像が出てくるなど、日本的な文化を取り入れていた。

舞台全景を覆いつくすような広さと高さがある階段は、群集の顔が識別できるというように、大勢の登場人物が、ひとりひとり生きているさまがわかるような人間像、として描くことに成功しているように見えた。

この母親の孟母ぶりは大変なもので、妻との関係より結びつきが深い。結局は反抗できない息子に、なにやら教育ママと息子のような関係にも見える。その一方でこの母親には家庭の枠を超えた、もっと大きな外の世界への視野というものがあって、めそめそせずにどうしたらこの難局を乗り切るか策を考えようとする。それが権力欲へともつながっていくのだろうが、ただの孟母に終わらない。感情に流されないところは現代のキャリアウーマンにも通じる女性像ではないかという気がした。

もう一つはここで登場する平民たち。これはいかにも愚民として描かれていて、その時の扇動に乗ってしまうところは、ついこの間の日本の総選挙での小泉圧勝劇を皮肉っているようにも見えた。しかしそういう民衆を操る術に長けていないと、いわば政治家の人気取りともいえるが。

それなしでは古代も現代も政治家は生きていけないよともいっているようにも見える。軍人としてはこの上もなく卓越したものを持っていたが、言葉でそれを訴えないコリアレイナスは生き延びることができず、あっさりと殺されてしまう。

検索で調べてみたら、古代ローマの共和制というものがあって、元老院、執政官、民会(平民)、三つの階級からなっているようだ。戦争が多かったことがあって、重装歩兵の政治的発言力が強まり、平民が当時の政治を独占していた貴族に対して政治参加を要求するようになったらしい。これが身分闘争の始まりで、次第に法的にも平等になっていったとある。

しかし、平民といっても農民などは度重なる戦争で土地を離れ、属州から安い穀物が入り没落していく。これをなんとかしようと土地分与の改革を実施しようとした兄弟がいたが、兄は暗殺され、元老院は弟の仲間まで処刑したという。やはりほんとうの市民的権利はフランス革命を待たないと存在してはいなかったようだ。

女も母になるとかくのごとく強し、というのを見せつけられるような、白石加代子さんの演技には圧倒的な迫力と存在感があった。唐沢さんも素晴らしかったが、彼女も主演といってもいいような舞台だった。





試されるとき

2007年04月21日 | Weblog
少し気温が上がった週末には造園に行ってみる。いろとりどりの苗を見ると、思わず買ってきて植えてみたくなるが、やっぱり五月の連休まで待つことにした。雪印の苗センターにもバラを何本も注文しているしね。そのうち玄関先まで、トラックで運んでくるのだそうだ。

明日には市議選の投票日。選挙カーからはお願いしますの声がひびき渡る。告示があってから誰にしようかを考えるというのでは遅いわけで、市議会の場合は地域密着だから政党で選ぶのと違う基準があってもいいんだし。

4月18日の北海道新聞の夕刊、作家の高村薫さんの~思考停止は格差の是認~という見出し。統一地方選、現状維持でいいのかという記事。

「現職の圧倒的優位も、立候補者の顔ぶれの無難さも、むしろ変革を避けんとする有権者の意識を映したものだといえる。ただし、こうした現状維持の選択は、政策提案も行政の監視もしない地方議会の是認につながり、一部に生まれてきた地方議員の意識の変化の芽を摘むことになるであろう。」

「地方選挙は、地域の生活に密着している分、本来は必ずしも国政の政党図と重ならないのであるが、地方分権が進んでいないこの国では、地方選挙といえども国政選挙の縮図になる。」

「地方分権を積極的に求めるどころか、国政との一体化で地方自治を維持せんとする彼ら首長たちへの信任は、私たちの思考もまた高度成長時代で停止していることを示している。」

「格差は、経済の市場原理がもたらしたものであり、先進国主導のいびつなグローバル経済が富の一極集中をもたらすことは、いまや世界の認識である。格差は、景気のよしあしにかかわらず、一定の再分配でしか是正されないのであるが、いまだに市場経済による成長を目指す国への追従は、地方が自ら格差を是認して勝ち組を目指すということである。これが現状維持の選択の意味するところである。」

ほんとにー。地方が勝ち組を目指すなんていう発想自体が、なんだかおかしいような気がするよ。人口比も経済力もはじめから土俵が違うというのに。経済力がないから老人しか住めないところにしていいのか、ということだよねえ。明日はそういう意味でも地方に住む有権者の意識が試されるとき・・・。

アメリカバージニア州のバージニア工科大学で起きた乱射事件には度肝を抜かれた。32人も犠牲になるとは。マイケル・ムーア監督「ボーイング・フォー・コロンバイン」のコロンバイン高校での同じような事件を思い出す。今度の犯人はその高校での事件のことを口にしていたようだ。

あの映画の中でのアメリカの人々が持っている恐怖感が強いという指摘はあってるのだろう。だから銃で武装するのだろうと。しかもその銃が簡単に手に入るというのが、そもそもこわい社会だ。話し合いなんかより、銃で相手を抹殺してしまえという空気がいまだにあるということが。

アメリカほど銃は簡単には手に入らないという安心感があるはずの日本で、アメリカの事件の直後に起こった長崎の伊東市長に対する銃撃事件。市長は至近距離からの銃弾により、搬送された病院で亡くなった。何か思想的なものがあるかと疑われたが、そうではないようで、市道工事現場での自動車事故を巡るトラブルがあったことから、というものらしい。

何か意味づけするのももどかしいような、単純にキレたことによる、ということのようだ。日本も暴力団などから銃が手に入るようになり、腹が立つ相手は問答無用に殺してしまえという風潮になってきたかと。広島市と長崎市は太平洋戦争末期の8月にアメリカから原爆投下された。長崎の伊東市長は広島市長とともに被爆した市民を代表して核廃絶へ向けて全世界へのアピールをされていた方だけに、こんな亡くなりかたは悔しいし、ほんとうに残念・・・。

謹んでご冥福をお祈りいたします。















2007年04月11日 | Weblog
日曜日の統一地方選挙では、現職の知事たちは強みを発揮してそれぞれ再選を果たした。驚いたのは、その中であれだけいろいろ物議をかもす発言が多い前東京都知事の石原氏が大勝したということ。しかも解せないことに、女性の投票者の率が男性を上回っていたということだ。

「女性が生殖能力を失っても生きているってのは、無駄な罪ですって」という、以前の「ババア発言」に対しては選挙戦中盤、JR新宿駅西口前での糾弾集会があったとあるが、一票を投じた女性たちはひょっとして自分はババアではないと認識!している女性たちなのだろうか?

この発言のこわさの核心はババアというだけではなく、女性に対して生殖能力を失うということを指摘していることにあり、「産む機械」発言と同じ次元のはず。

ババア発言を許せないといった77歳の主婦はー。「しかし、テレビでは人を罵倒する人を持ち上げる風潮がある。石原さんをミーハー的に支持しているのも、私たちと同じ女性なのです。」という言葉には腹立ちを通り越してあまりにも悲しいものがある。

オリンピック招致のことを一緒に夢を見よう、それがこころの財産になると演説していたようだったが、新聞に掲載されていた声欄の45歳の主婦は1票入れたが五輪はいらないと主張している。それではなぜ1票を入れたのか。

「影響力の大きさと実行力、思いをかなえようとするエネルギーの強さは他候補を圧倒していたからです。」うーん、当選したあかつきには演説していたことを実行するということではないの?公約は何のために?

イメージだけで決めてしまったのだろうか。「今度の五輪がこころの財産になるとは思えません。」といいながら、石原氏に投票してしまうということを、この女性の場合は矛盾している行動という風には捕らえていない。

まあー、人間には感情というものがあって、しばしば矛盾した行動を取るものだということは体験上!否定できないが、それが選挙にまで及ぶとこういう形になって表れるものか、となんだか拍子抜けしてしまう。

「今の東京に五輪などというお祭りは不必要です。(中略)これ以上お金や気力を犠牲にして何をしようというのですか。」というのであれば、もっと福祉などの弱者救済を唱えていた候補者がいたのではないだろうか、と思ってしまうが。出口調査では女性の場合は石原氏51%、浅野氏30%という、なんとも謎の多い投票者の行為である。







引き裂かれたイレブン~オシムの涙~

2007年04月08日 | 映画
2000年/オランダ/85分/ドキュメンタリー。1987年のサッカーワールドユースチリ大会。そこで優勝した旧ユーゴ代表はザグレブに凱旋し、ベオグラードでも大歓声で迎えられた。90年代はユーゴスラビアの時代といわれ、若きタレントが溢れていた。

しかし、旧ユーゴ崩壊の過程で、代表選手になった彼らは祖国のシンボル的な存在を期待され、最後の代表監督となったオシム監督は分離独立の流れに抗して、なんとかサッカーで繋ぎ止めたいと苦闘していた。

1992年春、ユーゴによるボスニアのサラエボ侵攻が始まり、オシム監督は妻と子どもが取り残されていた。同胞からも自分だけが逃げたという非難を浴び、ついにベオグラードで辞任会見を行う。「サラエボのために唯一出来ることです。」オシム監督が見せた、このときの苦渋に満ちた涙ー。

その後、ユーゴ代表はUEFA(映像にも出てきたここのヨハンセン会長は、ついこの間のプラティニ新会長になるまで何回当選したんだろう?)が国連の制裁決議に従ったため、2000年ユーロには予選通過にもかかわらず出場できなかった。選手たちもキャリアの空白が出来た。

インタビューにこたえるオシム監督の言葉。サッカーで祖国崩壊を何とか食い止めようと真剣に考えていた。ドン・キホーテだった。忘れることなど絶対に出来ない。監督としても栄光にも苦しめられた。過去の業績が否定され、将来への夢や希望も打ち砕かれた。

何を喜びに生きていけばいいのか。戦争で死んだ人たちはある意味でしあわせだ。ひどい言い方だということは分かっている。家族を失って悲しむ人々は大勢いるからね。だが私たちは「たましい」を殺されたんだ・・・。

映像には見たことがある選手たちが映っていた。ミランにいたクロアチアのボバンは何回も見て覚えている。モンテネグロのミヤトビッチは今はレアルマドリードのゼネラルマネージャーかなんか?写真では見たことがあった。

ラツィオにいたミハイロビッチもセリエAの映像で記憶にある。その後、日本に来てプレーしたストイコビッチはインタビューには出ていないが、代表選手として一列に並んでいた。それにスペインに行ってプレーしている選手も、名前は忘れたが並んでいた。

国家と民族が分断される悲劇。この映像の解説者になっている木村元彦氏の本を以前に読んだことがあって、この映画の映像より、その解説を読みたかったくらいだ。バルカン半島の悲劇といってしまえば、日本からはるか遠いところの理解しがたい出来事。しかし日本が身を置くアジアに話を置き換えれば、いまだに離れ離れになっている民族が存在し、解決しないままになっている・・・。