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夷酋列像(いしゅうれつぞう)⑤完

2007年12月11日 | 絵画
11月29日朝日新聞・道内版「蠣崎波響(かきざきはきょう)と『夷酋列像』の世界」⑤完から。~蜂起後の処刑、作品の原点に~筆者は川村則子・布アーティスト~

蠣崎波響(1764~1826)による『夷酋列像』というこの絵が描かれた1790年(寛政2)に、一体、なにがあったのだろう。1789年、クナシリ(国後)で和人から酒や食事を与えられたアイヌの2人が急死した。

奴隷状態さながらの圧制を受けていた国後のアイヌが不信と憤怒の情から蜂起、和人70余人を殺した。これに対し、松前藩討伐軍(260人)の処断は首謀者らを含む37人の処刑。この「クナシリ・メナシ騒動」がこの絵の背景の原点。

アイヌの蜂起で「鎮圧に功があった」12人の何人かが、松前に連れていかれ藩主からほうびをもらった。今日、残っている『夷酋列像』はこれら、松前に出かけたアイヌを描いたもの。

そのひとりクナシリの首相ツキノエは、自分の息子を和人に殺されている。が、アイヌ民族が生き残るためにには、数十人の犠牲を払っても、他の大勢を救うという決断を下したのではないか。

藩主・道廣は絵師、波響にアイヌが非礼無礼な反乱をし、制圧し処刑もした。が、執政のそしりは反乱の事実とともに免れぬ。ゆえにアイヌの盛装をさせ肖像を描くことで、善政に対しアイヌたちが従順の意を表した。このような意図で『列像』の作画を命じたのかもしれない。

松前藩内でのこれらアイヌへの処遇は善意に満ちた記録もあるが、『列像』はクナシリ・メナシの戦いで、多くのアイヌたちの血が流された事実の上に出来た作品であることは否めない。

9月末の松前資料館で展示された『列像』の中のただ一人の女性、チキリアシカイの目の中に、他の男たちとは異なる光を感じた。「アイヌをたくましく生きる時代を見届けてやろう」という意志。

その目を見た瞬間、萱野茂さんの「アイヌはアイヌ・モシリ、すなわち〈日本人〉が勝手に名づけた北海道を〈日本国〉へ売ったおぼえも、貸したおぼえもございません」(『アイヌの碑』=朝日文庫)という言葉が去来した。

かつてミッション系のスクール寄宿舎で生活をしているとき、毎日の礼拝で、祖父母からもらったアイヌのイケマ〈魔よけになる草の根〉のお守りこそが私を守ってくれると信じていた。

どんなところに住んでいようとも、どんな宗教に身をおこうとも、どんな環境の中にあっても、自分自身が心から信じているものを打ち消すことはできない。祖父母から受け継がれてきたアイヌの風習のひとつひとつを大切にして生きていくことがアイヌ民族の”非戦・平和”の魂を守ること・・・。そうチキリアシカイが私の耳元でささやいているようだ。(おわり)

〈写真はアイヌの長、ツキノエ。また新潮社版の中村真一郎著「蠣崎波響の生涯」という読売文学賞受賞の本もありますので、さらに深く知りたい方はどうぞお読みください。)





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