FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

テオ・オン・テオその2

2005年10月27日 | Weblog
昨日からいい天気。明るい日差しを浴びると、なんだか今日はいい日になるような気がするから不思議だ。閉ざされた生活までのつかのまのやすらぎ。それでもないよりずっといい。

池澤夏樹さんのアンゲロプロス監督へのインタビューが続く。「アレクサンダー大王」〈1980年)について。民衆と独裁者の関係、共産主義の限界について描かれているのではという問いにー。

政治とイデオロギーが主題の、ある意味予言的な映画になった。〈その後のソ連邦の崩壊。社会主義圏の国々の独立を指しているのだろうか。)社会主義的な体験と誰もが見ていた社会主義の夢。その終焉を見つめた映画。

寓話の形をとっているが、構造としてはミサの形を取っている。ビザンチン形式で一方に独唱者たち、一方の大衆は声に順応してあるときは大王を称え、あるとは”神を食べる”。それは古代社会におけるセレモニーだった。キリスト教社会では周知のあの儀式に受け継がれている。

神の血を飲み、神の体を食べる。〈この辺のことはちょっとわからない内容。映画では確かに大王は食べられてしまうが。)ビザンチン美術では重要な円形広場の概念があって、村の広場にも円形広場と時計塔がある。すべては広場で起こる。

この映画は私自身にも深く刻み込まれた作品だ。長い年月信じていた一つの夢の終わり、希望と変革の時代の終焉がテーマだからだ。やがて来る終焉は私には既に見えていた。アレクサンダーはスターリン現象の寓意で、カリスマ的君主が独裁者と化す現象の寓意だ。

世界の変革を語る思想を信じようとしてきた。世界は変わるもの、より良く変わるものだと。よりよい世界、社会主義とはそれだった。人々はすべてを失った。唯一のよりどころであった夢さえなくした。夢の向こう側にあるもの、つまり形而上学を。世界にとってこれほど重大なときはなかった。

この映画の後には、歴史を後景に押しやること、人間について語る。歴史を信じ、歴史がもたらすものを担い、すべてを失った人間を。その思いが「シテール島への船出」〈1984年)になっていった。夢を信じ、海へ捨てられる人々。老主人公のように。「シテール島」にいたるまで4年間かかった。長い空白だった。その年月が歴史の変化を引き受け消化する為に、必要だった。・・・

これは胸を打たれる重い内容だった。そして夢というのは世界がよりよくなるという社会主義のことだというくだりになると、ぐっと来てしまった。あの老主人公に、そばへ行きたいと叫ぶ老妻を添わせて、海へと送り出すシーンはせめてものアンゲロプロス監督のはなむけなんだろう。

社会主義は一つの国では成就できないという、国境を越えた、むしろ国境をなくそうという思想でもあったはずだ。しかし実際にはスターリンを筆頭にそれとは逆のことをした。あちこちで、地図上の国境どころか、内なる精神的な国境も越えようとはしなかった。

アンゲロプロス監督がその変化を引き受けるのに4年間もの時間が必要だったというのは、その作業の大変さを物語っている。かつて政治的季節に出会ったものは、その夢を捨てることは出来ない。世界はよりよくなる、きっとよくなると今でも毎日、TVニュースや新聞の中に、夢のかけらを探している。時を経ても、種火のような炎は消えてない。
























テオ・オン・テオその1

2005年10月26日 | Weblog
ギリシャのアンゲロプロス監督に、詩人で作家でもある池澤夏樹さんがこれまでの映画について質問し、アンゲルプロス監督が答えている。池澤夏樹さんは日本で最初に公開された「旅芸人の記録」の名前をつけ、画面に出てくる日本語の言葉も入れた。それ以来、すべてのアンゲロプロス監督の映画の日本語の言葉を入れている。日本のアンゲロプロス人気は池澤さんの日本語の言葉の力によるところが大きい、といっても過言ではないと思わせるほどだ。

アンゲロプロス監督もかつては詩人だったそうだ。短いセリフの中にこめられている内容の深さというのか、一回見ただけ終わるのはもったいない、もう一度見ようと引っ張られるような磁力のようなものがある。

「旅芸人の記録」〈1974-1975〉についての質問に答えてー。

同世代の監督でただ一人、ギリシャに残り映画を作り続けることになった。抵抗の間、独裁制は何か、どうして独裁制になったのかと自問するようになった。年月をさかのぼり、自分の歴史と重ねた。

1935年に生まれ、1936年にはメタクサス独裁になり、5歳のとき第2次世界大戦になった。ドイツ軍がギリシャを占領した。9歳のとき、最初の内戦でアテネさえ戦場となり、ついで第2時内戦となった。”山の戦争”となったパルチザンと国軍が戦った。そして1952年には右翼が復活した。多くの人々は独裁制が終わり、再び民主主義が復活すると、世の中は変わると期待したがー。

1952年のことを語りながら、1974年のことを語るにはどうするか。検閲の耳があり、人々は語らない習慣になっていた。しかし、「1936年の日々」のように、アイロニーの映画として、”イワザルの話法”ではなく、柔軟であるがはっきりした話法を選択することにした。52年と74年の2つの歴史的な時代を同じ流れで同一のカットで共存させるという方法だった。・・・

「旅芸人の記録」はやはりアンゲロプロス監督の最高傑作ではないかと思っている。「エレニの旅」も作り、まだこれからも20世紀を総括する映画を作るらしいけれど。これ以上の作品を作るのは難しいのではないか。独裁制が続いていたギリシャの中で映画を作ったというのが大きい。こういう厳しい精神状況で追い詰められた中だからこそ、いつまでも歴史に残るような傑作を作れたのだろうと思う。

旅芸人一座は雪のある細い山道を歩き、村の人々にアコーディオンを奏でながら、芝居を見に来てと今日も歌い続けるー。

ヤクセンボーレ!ゴルフォも来るよ、タソスも来るよ。
みんなそろって見に来ておくれ。話題の芝居は今夜の8時。
飛び切りおもしろい 芝居が見られるよ!!












ホワット・ア・ワンダフル・ワールド

2005年10月12日 | Weblog
ニューオーリーンズにジャズの武者修行に行ったことがある夫婦がチャリティーコンサートを開き、楽器をなくした演奏家たちを支援したいというニュースをやっていた。集まった人たちの前で歌っていたのが、「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」。

そのお二人がプロの演奏家なのかどうかは、ちょっとわからなかった。以前から現地の高校などへも楽器を寄贈しているという話だった。日本人の中にもニューオーリーンズにこういうかかわり方をしている方たちがいるのかと胸を打たれた。

この歌を歌ったルイ・アームストロングは映画では「上流社会」のなかで、ビング・クロスビーと一緒に歌って演奏していたのを思い出す。「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」も映画のテーマ曲で聞いたことがあり、好きな曲だった。あの飛び出るような目で歌うだみ声のあたたかさと、ニューオーリーンズから送られてくる凄惨な映像とどうしても合致しなかった。

今朝の新聞には、パキスタンの避難所の写真が載っていた。トラックの上で持っている救援物資を人々が手を伸ばして取ろうとしている姿だった。もう地獄図の絵のようだった。日本からも援助部隊が行ったというニュースを見たけど、わずか何十人という規模。おんなじアジアの人たちに、こういうときこそ大勢の人員を送ってほしい。そのために税金を払っているんだから。瓦礫の中から助け出された人たちの映像を目にするのが、せめてもの救い。













ピーター・ジェニングス

2005年10月08日 | Weblog
何日前だろうか。何かの番組を探していたとき、NHKの衛星放送の画面があらわれ、ピーター・ジェニングスのことをアメリカにいる特派員が述べていた。番組は始まったばかりのようだった。画面に釘付けになりあわてて録画。次の日も後編があるということなので、これは正確に録画した。

ABCネットワークのニュース・キャスターで、1983年から2005年4月まで唯一のアンカーだったが、8月7日は胃がんにより67歳で死去されたそうだ。同時多発テロのときには、(ブッシュ大統領は「われわれの側につくのか、テロリストの側につくのか」と世界の国に二者択一を迫った。)大統領をを支持する愛国的な番組作りをしなかったため、視聴率もダウンし、非難のメールも殺到したが、制作や編成の側も頑張り、それを変更しなかったようだった。

事件の4日後だったか、ニューヨークのスタジオで、子供たちに活発な疑問を出させている。10代の子供が「アメリカは何故人の心に憎しみを植えつけてしまったの?」「困っている国に制裁を加えて爆弾を落としたからじゃないの?」「彼らに必要なのは爆弾じゃなくて薬じゃないの?」「「アメリカが誰かを怒らせているのは確かだと思う。」「その原因が何か、突き止めて改めなくちゃ。」その当時、日本には何も聞こえてこなかったこんな声がTVに流れていたとは・・・。

1996年ごろにはスミソニアン博物館が原爆投下をしたエノラ・ゲイ号の展示と併せて写真や遺品を公開したいという意向が2年に及ぶ論争の末に、退役軍人会や政治家の反対にあい、結局展示できなかったことについて。都市を狙ったのは原爆の効果がはっきりあらわれるからとか、ソ連との駆け引きの中で投下が行われたとかも伝えている。

戦後50年を迎え、言論の自由はアメリカ人が命を賭けて戦い取ったもののはずですと、強く批判するコメントを放送したりしている。

最後にインタビューにこたえてー。

国が戦争へと向っているときにその是非を冷静に議論するのは難しいことです。ブッシュ政権の主張もきわめて強力でした。しかし、もう少し政府に対して批判的な行動が出来たはずだと考えています。

政府や軍のやることはなんであろうと支持するのは、愛国心ではなくナショナリズムではないか。星条旗やバッジをつけてTVに出演している人もいた。私の上司はバッジをつける必要がないといいました、質の高い公平で誠実なジャーナリズムこそが愛国心だと、私もそう思います。

メディアの使命は特別な力を持たない人々の為に、一般大衆に代って政府を監視し、日々政府に疑問を投げかけることだと思います。いわば「見張り役」です。・・・

先の日本の選挙でメディアが雪崩を打ったように刺客報道に翻弄されたことを思うと、これだけのことが言える人がいたということのすごさがひしひしと伝わってくる。














『モーターサイクルダイアリーズ』

2005年10月07日 | Weblog
1952年、23歳の医学生のエルネスト・ゲバラ〈ガエル・ガルシア・ベルナル)は、親友アルベルト・グラナード〈ロドリゴ・デ・ラ・セルナ〉とともに、バイクに乗って南米大陸縦断の旅に出た。そこでは、ブエノスアイレスの家にいては想像もつかないような、今まで見てきた世界とまったく違う人々の姿を知ることになる。ベネズエラまで12,425キロもの旅になった。

正直なエルネストとちょっと狡賢いアルベルトの取り合わせもおもしろいし、ドキュメンタリー番組のように、焚き火を囲みながら夫婦にどうして職を失ったのかとかインカの遺跡の中で暮らしを立てている人には、どんないきさつで追われたのかとか民族衣装を着ている一人が手芸をやっていたからこうやって暮らしていけると答えたり。まるで一般人へのインタビューを見ているようだ。真剣に聞いているエルネストの表情が重要なポイントだった。

圧巻は隔離医療施設のコロニーで働いた最後の夜、修道女や医者やスタッフに囲まれて、誕生祝をしてもらう。そこでのお礼のスピーチー。「今回の旅でより強く確信しました。無意味な国籍により国が分かれていますが、南米大陸は一つの混血民族で形成されているのです。偏狭な地方主義を捨てて、ペルーと統一された南米大陸に乾杯しましょう。」

この言葉がほんとに素晴らしかった。後のキューバ革命をカストロとともに実現した革命の戦士を予感させる描き方になっている。ゲバラを演ずるガエル・ガルシア・ベルナルも純粋さと清潔さが感じられて魅力に溢れている。17歳から3年間ロンドンで演技の勉強をしたそうで、英語・スペイン語・イタリア語・フランス語に堪能とはすごい。国際的な俳優になれる資格十分だね。

この映画のウォルター・サレス監督はブラジル人ということで、南米の映画というのは見る機会がなかなかないから、そういう点でもよかった。製作総指揮がロバート・レッドフォード。『明日に向って撃て』から随分時が経った。チェ・ゲバラは1967年10月にCIAの工作のより射殺された、という文字を画面に流すあたり、あの当時の世代の政府に対する反骨精神が感じられて、これは嬉しかった。

レンタル店の棚にガエル・ガルシオ・ベルナルが演じた『チェ・ゲバラ』のDVDが置いてあった。手に取ろうとしたら、借りられていてなかった。残念だったなあ。ゲバラの純粋さが伝わってくる後味がいい映画だった。年齢を問わず見られるおすすめの映画。








参考資料

2005年10月01日 | Weblog
第14条

1.すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関係において、差別されない。

2.華族その他の貴族の制度は、これを認めない。

3.栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴わない。栄典の授与は、現にこれを有し、または将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。


第24条

1.婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

2.配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。








『ベアテの贈り物』

2005年10月01日 | Weblog
第2次世界大戦で敵国同士になり、日本にいる両親とアメリカの大学に通っていたベアテさんは離れ離れになった。戦争が終わっても、日本はアメリカの占領下にあり普通の市民というだけでは日本に行くことは出来なかった。ベアテさんは占領軍の仕事を探し、ようやく来日して両親と会うことが出来た。

占領軍の中では日本の憲法草案を作るという仕事を担当し、人権委員会は3人からなっていた。女性はベアテさん一人であった。両親との日本での生活で日本女性の地位の低さを感じていたベアテさんは、憲法14条と24条にその強い思いをたくした。

ベアテさんの父親レオ・シロタさんはウィーンを拠点とする国際的なピアニストだった。山田耕作に指導をこわれて来日し、現在の東京芸大の教授として17年間日本に居住することになる。映画では両親との生活のなつかしいフィルムや、憲法制定後、道を切り開いた日本女性の証言をレオ・シロタのピアノの演奏とともに紹介している。赤松良子さんや石原一子さんや緒方貞子さんや、勿論81歳のベアテ・シロタ・ゴードンさんも。

戦後間もない映像の中には着物姿の女性たちが写されていて、母の面影を思い出し、なんでもない画面でも涙が流れて止まらなかった。母から市川房枝さんの名前はなんども聞いたことがあり、新聞を読み、読書家だった。すでに亡くなり、母はいったいどう考えていたのかと今となっては問うことは出来ないが、女性の立場の向上ということには強い思いがあったのではないかと思う。

映画の中でレオ・シロタさんの重そうなレコードを昔風の蓄音機で回しているのを見て、家にもレコードがあった、手回しの蓄音機も見たなあとなつかしく思い起こしてしまった。

女でも自立してひとりで生きていけるようにと、子供たちを次々と家から離して大都会へと送り出した。そのための仕送りは10年にも及んだ。これが自分が行った男女平等の精神だったと思っている。次世代に蒔いた種だと。

しかし、映画を見て、これで終わりではない。なにかこの地で手助けすることがあるのではないか。一歩踏み出して、出来ることを探そうと思うようになった。

「わたしたちは〈この映画を見ることで〉感謝の気持ちを持ち、一人ひとりが次の世代に何を引き継いでいくべきかを考え、生き方を変えるきっかけになると思う。

私たち日本女性が今日こうして自由に生きられる原点は、一人のアメリカ人女性の熱い思いに端を発しており、その精神を受け止めた多くの日本女性たちが戦後勇気を持ってその実現の為に戦ってきたことにある、ということをこの映画は教えてくれる。」〈下村満子さんのエキプ随想から・・・)