FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

「コッホ先生と僕らの革命」

2013年11月17日 | 映画

 サッカーが映画になっているということなのでなんの気なしにWOWOWで録画して見てみたら…”ドイツサッカー誕生の秘話”が描かれていた映画「コッホ先生と僕らの革命」(2011年)。こんなに感動したのは久しぶりだなあというほど、サッカーファン必見のいい映画だった。

まだ19世紀のお話、ドイツ帝国意気軒昂の時代、イギリス留学から帰国したコッホ先生(ダニエル・ブルュール)は厳格な教育を施す名門校初の英語教師として採用され着任してみると、体育の授業はまるで軍事教練のようだし、規律重視、絶対服従の教育。資本家階級の息子たちがほとんどのこの学校では教師も生徒たちも反英感情が根強く、英語の授業もうまくいかない。

そこで生徒たちを校庭に連れ出しイギリスから持ち帰ったボールでサッカーの練習をしながら、英語を上達させようとすると、サッカーの面白さに夢中、生徒たちも徐々に英語を覚えるようになる。サッカーの精神はフェアプレイとか、サッカーファンにとってはうれしくなるようなコッホ先生の授業だったが、猛烈な非難を浴びてしまう。

生徒たちのほうはサッカーを授業に取り入れるようになってから大きな変化が表れ、なにかといじめられていた唯一の労働者階級出身の生徒は小柄な体ながら、サッカーでは活躍することから、次第に生徒たちの中で認められるようになっていく。地元の新聞社もコッホ先生のサッカー授業を取り上げるが、学校の上層部の意向を汲んだ批判的な記事ばかり。

とうとう政府の調査団もくることになり、辞めようとするコッホ先生の目の前にはイングランドから留学時代の友人が同じ年頃のサッカーチームを連れてやってくる…

 コッホ先生はサッカーを教えるだけではなく、服従には抵抗し、自立して物事を考える人間になるための全人的教育を実践しようとしたのだろう。それが学校だけでなく、当時の社会通念とも衝突することになった。

コッホ先生は1875年、生徒とサッカークラブを設立し、その後サッカーはドイツで広まったが、禁止する区域もあり、なんとバイエルンで解禁されたのは1927年だったそうだ。日本では卒業式などで歌われたかび臭い!?「蛍の光」が素晴らしい歌詞で蘇っていた。特に2番目の歌詞、良かったなあ。

 北や南 東や西 君がどこに行こうとも 新しき精神は世界に広がる 

 だから聞け 機は熟す 友よ 今は昔日のため あの遠き日々のため

 友情の杯を酌み交わそう 過ぎ去りし日々を思い


映画を見る

2013年01月16日 | 映画

 衆院選の結果とその後にやりきれない思いを抱きながら、現実逃避も一つの方法かなあと。映画館に行くほどではなくても、WOWOWでこのごろ結構いい映画が放送されているからね。

スペイン映画「ペーパーバード幸せは翼に乗って」(2011年)…旅一座の芸人のお話。スペイン内戦後、国内の状況が一変し、劇団の中も緊迫したものになっていくところなど、社会的背景がしっかり描かれているので、とても見ごたえのあるものになった。お笑い芸人(といっても日本のTVタレントのお手軽な笑いとは質が違う)の一人がフランコ総統政府が行う生活がどんなものか、踊って歌いながら、時に替え歌をして風刺を効かせる場面がすごい!!反政府分子で睨まれる危険性があるにもかかわらず。こういう激しい抵抗精神は日本人にはないすごさかもしれないと、選挙後だったのでなおのこと感動した。

舞台で笑いを振りまきながらもピーンと緊張感のある演技と表情のホルヘ役(イマノル・アリアス)がこの映画にはピッタリ。このキャスティングがすべてだったかなあという気がする。親のいないミケルを引き取って育てる相方のエンリケはほのぼのしているし、二人に育てられるたくましい子どものミケル、この疑似家族3人トリオがとてもいい。三人が揃う最後のシーン、これがまたいいねえ。

以前に見たスペイン映画「蝶の舌」(1999年)…も同じころを描いた名作。生徒となる8歳の病弱な少年を森に誘っては自然の中で人生を教えるグレゴリオ先生(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)の存在には感銘を受けた。彼も共和派の一人として後に逮捕される運命が待っていた。先生役の役者が素晴らしい。教壇で最後の演説をした場面、自由という言葉を使っていたのが印象的。もう一度見てみたいなあ。

日本映画では日活100周年記念だったかの「戦争と人間」(1970年~73年)三部作。…この前に映画化された「人間の條件」と同じく五味川純平さんの原作、山本薩夫監督、史料考証には五味川さんの資料助手を務めていた澤地久枝さんが名前を連ねている。(最近の澤地さんは脱原発のデモに参加したり、「九条の会」で活動されているようだ。)佐藤勝さんの音楽が迫力があって効果的な場面で使われていた。俳優座、文学座、劇団民芸の舞台役者大勢。滝沢修さん、加藤剛さん、栗原小巻さん、高橋幸治さん、山本圭さん、岸田今日子さんなど。そのほか当時の日活オールスターキャストで、吉永小百合さんや浅岡ルリ子さん、高橋英樹さんら、総出演で製作された。

昭和の初期から太平洋戦争前夜のノモンハン事件まで、時代考証を綿密に行いながら描かれている歴史大作。国内では不況が吹き荒れ、農村は疲弊し、娘が売られる時代、それに乗じて軍部が台頭し、戦争へ向かうように法が整備され、共産党員や文化人が次々検挙され、獄中でひどい扱いを受ける様、軍隊における非人間性、財閥の家族と親はない兄弟とを登場させ、戦争によって資本が増殖していく過程と人民の苦しみを対比させている。

中国では満州における日本人と差別的な扱いを受ける中国人、関東軍の行状など、朝鮮人抗日指導者を演ずる地井武男さんには万歳事件で肉親を失ったセリフを言わせ、最近の中国、韓国に対する右翼的な空気からすれば想像できないほど、大陸侵略に対して強い反省から生まれたというのがよくわかる物語だ。仮に現在の状況に一石を投じたいと、この作品の放送を企画したのなら、WOWOW映画部門は大したものだけど…。

中国語のセリフもたくさん出てくるところは「人間の條件」と同じ。最後に描かれるノモンハン事件では、ロシアが全面戦争ではなく国境紛争にとどめ、それでも大敗北に終わり、たくさんの死者が出ていたという事実。日本の軍隊はこれを認めず、ひたすら精神論で押してゆく怖さ。当時の新聞も国民に敗北を知らせようとしない。国民は戦勝記事に騙され、若者は軍隊へと駆り立てられ、日本軍はさらに戦線を拡大し、太平洋戦争へと突入していく。

このあたり、京都大学の小出助教が福島原発事故と先の戦争は同じ(構造)…と仰ったことが頭に浮かぶ。国防軍などといって再び他国の人々の血を流すのか、若者を兵隊にしたいのかと、映画を見ながら改めて怒りが込みあげてくる。過去に日本は何をしたのかだけではなく、アジアの一員として何が出来るのかと自省を促すような、是非見ていただきたい映画。


悲しい!!

2012年01月27日 | 映画

 水曜日25日の夕刊に「テオ・アンゲロプロス監督の事故死 ギリシャで撮影中 バイクではねられる」という小さな記事が載っていた。監督の写真がなかったら見逃すところだった。悲しい!!

以下記事によれば…「旅芸人の記録」で知られるギリシャの映画監督、テオ・アンゲロプロスさん(76歳)が24日、交通事故に遭い、アテネ近郊の病院で死亡した。AP通信などによると、アンゲロプロスさんはこの日、最新作「もう一つの海」を撮影していた。トンネル内で道路を渡ろうとしたとき、バイクのはねられて強く頭を打ったという。

1936年アテネ生まれ。留学先のパリから帰国後、60年代から映画製作を始めた。神話を下敷きにギリシャの現代史を批判的に追った「旅芸人の記録」(75年)でカンヌ映画祭の国際批評家賞、「アレクサンダー大王」(80年)でベネチア映画祭の最高賞の金獅子賞、「永遠と1日」(98年)でカンヌ映画祭パルムドールなど、様々な賞を得た。

極端な長回しや曇天での撮影など、独自のスタイルを貫いた。「エレニの旅」(2004年)では実際に二つの村を建設。CGを使わずに洪水で水没した村を描き出すなど、徹底した絵作りで従来の常識を超えた作品を生み出した。…

「エレニの旅」を含む20世紀を描いた3部作を作ると意気込んでいたのだから、これはアンゲロプロス監督にとっても未完のままで心残りだろう。この作品は年内に完成させて、来年のカンヌ映画祭出品を考えていたようだ。この頃あまり映画を見ないので知らなかったら、第2弾「第三の翼」という映画が年内公開を控えているという話。それならぜひ見たいなあ。

「エレ二の旅」は札幌の映画館まで見に行った。札幌へ行くたびに紀伊國屋書店へ立ち寄ってはテオ・アンゲロプロス全集(4巻)を買い揃えて行ったころがなつかしい。ギリシャの歴史を描いた「旅芸人の記録」もいいけど、一番好きなのは「永遠と一日」。左翼的な立場で描いてきたものが、最近では違ってきているようだった。

映画の細かい中身を大分忘れてしまったので、参考にウィキペディアを検索してみたら詳細が書かれてあって、思い出した。ギリシャのテッサロニキという街を舞台に、妻に先立たれ、創作が行き詰ってはもがき、病を抱えて死期が近いという、年老いた孤独な詩人が主人公。アルバニアから逃げてきた少年との出会い。彼を人身売買の養子縁組から有り金をはたいて救いだし、国境を越えて逃がそうとするが…という物語。

ギリシャの国民的詩人というソロモスを登場させ、イタリアに生まれ、ギリシャ語を学び、ギリシャ独立賛歌を詩作したころの映像がところどころで挿入されている。過去と現在、未来が交錯して描かれる、こういう描き方はこの監督さんの特徴でもある。その上に難民という現代的な問題も加えている。

タイトルはどういう意味なのかなあと…、どうやら永遠というのは詩人としての命。一日は生命としての時間ということのようだ。この監督の作品の中ではこの映画は陽光を取り入れ、映像も綺麗で明るくとっつきやすい。少年のこれからにもまだ希望を持たせている。音楽もいいしね。導入部がなんとも素晴らしい。アンゲロプロス監督の中ではもっとも親しみやすい映画というところだろうか。

全集の箱を引っ張り出してきて、「永遠と一日」、その次には「旅芸人の記録」を見てみよう。三部作目の完成を見ずに亡くなられたのは残念だけど、「エレニの旅」の続編があったことに慰められる。「第三の翼」の公開を待ちながら…。


人間の條件

2011年09月10日 | 映画

8月に放送された小林正樹監督、仲代達矢主演の映画「人間の條件」(白黒映画)は6部からなる上映時間、実に9時間31分の日本映画史上に残る大作であり、よくぞ時間をかけてここまでつくり上げたという、日本映画界の良心ともいえる反戦映画。五味川純平さんの原作は1300万部を超える大ベストセラーになり、一躍人気作家になったそうだ。

原作を読んだことはないが、決して軽い内容ではないこういう本が多くの日本人に読まれていたことに驚く。今では考えられないような出来事。本を読むことが生活の中で日常だったんだねえとつくづく。

先の大戦に対する反省がまだ日本人の中に残っている時期だからこそ、こういう難解で(赤軍の背後にスターリンが飾られているのに)社会主義に対する、いささか教条的な!?生の言葉がそのまま出てくる本が読まれたのだろう。

上映された1959年から61年の間には60年安保闘争があり、若者も知識人も左翼が当たり前の時代であったようだ。(安保闘争の最前線で亡くなった女子大生、樺美智子さんの「人知れず微笑まん」という本を読んだことがあるよ。)

地下運動する活動家でもなんでもない一市民が、その生活の場でヒューマニズムから旧満州での中国人支配や軍隊の理不尽さを告発するうちに、その存在が反戦へとつながっていく。

戦地で玉砕が続き、敗色が近づいてくる昭和18年から始まるこの物語では、南満州鉄鋼会社に務める一市民が新婚の妻との生活を望み、兵役免除として選んだ新しい職場の炭鉱だったが、そこでは戦時体勢への協力として中国人捕虜を使い、さらなる増産体制へ抵抗する彼らに対して見せしめの処刑。それに対する怒りを抑えられず、とうとう抗議の声を上げると、待っていたのは憲兵の壮絶な尋問。その後すぐ、邪魔者のように軍隊へと召集される。軍隊生活でも古参兵の初年兵への理不尽ないじめが横行し、仲間をかばいながらもそれへも抵抗するうちに…。

第1部純愛編、第2部激怒編、第3部望郷編、第4部戦雲編、第5部死の脱出編、第6部曠野の彷徨編。当時の大スターの佐田啓二や高嶺秀子も出演し、もちろん、この映画の主役梶役の仲代達矢さんや美千子役の新珠美千代が渾身で演じている。

仲代さんは特に最後のほうの追いつめられていく過程での形相がすさまじく、日常とは違う哲学的な演技とでもいうのか、そういうものを表現するときにはいかにも舞台役者の素顔が現れ、それを表現できる役者だから、この作品は成功したのだろうと思わせるほど。

新珠さん演ずる美千子は、切ない声で初々しい新婚の妻がかわいいが、どうも戦後教育?を受けた戦後生まれからすれば、純愛と性愛ばかりの女性像で、梶のレポを読んでもよくわからなかったというように、梶が何と懸命に闘っているのかという、同志的な視点がなさすぎるような気もするが。

それにしてもこの長丁場な映画を様々なエピソードをつなぎ合わせて、最後までもっていくのだから、見応え十分。是非見ていただきたい映画。

(同じ時期に放送されたNHKBSアーカイブス「~日中、知られざる戦後史~『留用』された日本人」と同じくアーカイブス「『認罪』~中国撫順戦犯管理所の6年~」、さらに少し前に放送されたが「家族と側近が語る周恩来」(4回)なども、日本と中国の歴史を知る上で参考になった。周恩来のような政治家が今の日本にもいたらと…)


木靴の樹

2011年05月22日 | 映画

WOWOWで放送された「カンヌ映画祭特集」~シネマクラシックでは普段あまり放送されない長編映画、「木靴の樹」(1978年/イタリア/190分)をもう一度見ることが出来てうれしい。この年のカンヌ映画祭パルムドール受賞作。

巻頭場面で”出演者はベルガモ地方の農民である。19世紀末ロンバルジア州に4軒の農家が暮らしていた。住居や樹木、一部の家畜は地主のものだった。収穫の三分の二が地主のものとなる”という字幕が出てくる。

貧しいながら息子のミネクだけは学校に行かそうとするバティスティ一家、地主に差し出す収穫物の計量日、馬車の底に石ころを詰めてごまかそうとするフィナール、夫に死なれた後洗濯女をしながら15歳を頭に6人の子供を育てているルンク未亡人、ブレナー家の美しい娘マッダレーナは働いている工場のステファノと結婚する。(マッダレーナ役のルチア・ぺツォーリは素人なのだろうかと思えるほど魅力的!)。

その後マッダレーナとステファノはミラノで修道院長をしている伯母を訪ねると、そこで伯母が連れてきたのは身寄りのない子。帰路は引き取ったその子を連れて帰ってくることになった。ミネク(学校への6キロの道のりを木靴を履いて通うけなげな姿!)は放課後履いていた木靴が割れてしまい、父さんは川沿いに立ち並ぶ樹の中から1本を切り倒し、知られぬように新しい木靴を作ったが…。

まるで全篇ドキュメンタリーのように農民の生活が生き生きと描かれている。早く出荷したいために朝早く人目につかないうちにトマトの苗に牛糞ではなく鶏糞を撒くとか、貴重な家畜の牛の病気を治すために教会で祈りを捧げた聖水!?を牛に飲ませると一晩で回復するとか、生き抜くために知恵を振り絞る。貧しさから抜け出せない彼らの苦しみと対照的なのが地主の暮らし。計量日に農民が集まった地主の家の窓から聞こえてくるのは、手回し蓄音機から鳴り響くオペラ。邸宅では息子が弾くピアノの音楽会が開かれる。

水車がある粉ひき所、歌を歌いながらの共同作業、夜になると集会所に集まって過ごす、などは記録映画のようでもあり、ローソクや自然光に映し出された場面は陰影が強く、西洋絵画のようだ。牛が耕した後の畑に種をまく農民の姿は、ブリューゲルの「種まく人の譬えのある河口風景」(1557年)やミレーやゴッホが描いた「種をまく人」の構図そのもの。家の中で食事をする光景はゴッホの「ジャガイモを食べる人々」(1885年)を思い起こさせる。

ヴィットリオ・デ・シーカの「自転車泥棒」に影響を受けたとされるエルマンノ・オルミ監督は撮影も脚本も手掛けている。今でも印象に残るアルジェリア独立戦争を描いた「アルジェの戦い」(1966年)の監督はフランス人でもアルジェリア人でもなく、実はイタリア人だったことを思い出した。見事なドキュメンタリー的手法でその場に居合わせたような臨場感があった。イタリア映画は戦後映画史に残るネオリアリズムの伝統を生み出してきたが、この作品もその列に並ぶ必見の名作だろうと思う。


なつかしい映画

2011年03月05日 | 映画

今年の米アカデミー賞では、作品賞など主要4部門を獲得した「英国王のスピーチ」という映画が新聞でも記事になっていた。これは見てのお楽しみとして、この時期になると、過去のアカデミー賞受賞作品というのがTV放送されて、なかなか放送されないような映画が”おまけ”としてついてくる。

一番の驚きは5時間以上にもなるイングマール・ベルイマン監督・脚本の「ファニーとアレクサンデル」(1982年/スウェーデン・フランス・西ドイツ)今の鮮明な映像で見たいとずっと待ち望みつつ、NHKでも!?放送されないのだから、うれしいなんてもんじゃない。WOWOWがよくぞ!!ついに!!という感じだ。

ベルイマン監督は劇場用の3時間版とTV放送用の5時間版を作ったらしいが、見るほうとしてはもちろん長いほうを見たい。アレクサンデルが亡霊を見るという不思議な力、幻視だ念力だという部分は好きではないが、長丁場の物語を面白くさせている。

この作品はキャストがピッタリ、アレクサンデル(バッティル・ギューヴェ)とその母エミリー(エヴァ・フレーリング)の大きな瞳はなんと魅力的なんだろう。冬の雪景色が捉えるクリスマスから始まる季節感、やがて街は華やいで緑と花が溢れ、バックに流れる重厚な音楽、小道具として配置されている室内の花…、どれもいいなあ。

20世紀初頭のスウェーデン、3階建の大邸宅、多くの使用人がいる富裕なエクダール家、窓から見える街並みには彼らとは違う人々の生活が見える。かつて女優をしていた祖母ヘレナ(グン・ヴォールグレーン)、長男、次男、三男夫婦の生き様。突然劇場を経営していた俳優の長男が亡くなり、その妻で女優のエミリーとその子供たち、ファニーとアレクサンデルの物語になっていく。

やがて再婚するヴェルゲルス主教(ヤン・マルムシュー)と共に主教館での生活が始まる。”悩むより楽しめ”のエクダール家でのびのび暮らしていた子どもたちは、この生活に溶け込めず破たん。ヘレナに何とか脱出したいと相談するエミリー。次男と三男、それにヘレナの元愛人イサク(エルランド・ヨセフソン)の尽力で子どもたちは助けだされ…。

この物語はベルイマン監督の自伝的要素が強いという話らしいが、牧師だった父親への反発か、質素で規律正しく厳格な生活を子どもたちに強いる主教に対しては一番厳しい。しかしそれも考え方の違いで、日本では明治に当たるこの時代、子どもが小さな大人ではないという考え方もなかったのでは?と思われる時代。

体罰も教育には必要というのが主流だったろうと考えると、むしろ、使用人もお客も子どもも大人も、一緒にテーブルを囲んでクリスマスを祝う、という民主的な!?エクダール家のやり方のほうが当時、珍しいという気がする。

そうしてみるとこの映画は悪人というのが一人も登場しない。主教も無邪気ではないアレクサンデルの反撃に翻弄されたともいえる。女たちも男たちもさざ波はあっても相手を認め合う。夫を失っている祖母ヘレナ、さっさと亡くなってしまう長男の妻エメリー、だらしない大学教授の次男を何とか支えるけなげな妻ドイツ人のリディア、若い使用人の愛人に子どもを産ませるという、菓子店を営む三男を寛容に認める妻アルマ…。

主教を含め、男たちに対してはその弱い部分、建前と実際の生活という、矛盾する部分を容赦なく暴き出すが、まだ時代性から受動的に生きざるを得ない彼女らに対しては、あたたかい目が注がれている。

雪国の人間にとっては冬があってこそ春が巡ってくる。北欧の監督のこういう描き方はうれしい。祖母ヘレナが朗読する「想像力は色あせた現実を美しい織布に変える」という内容の言葉は、すべての映画ファンへ贈られるメッセージ…。


レオニー

2010年11月09日 | 映画
先週本屋さんへ行ったとき偶然、入口のところに映画「レオニー」のポスターが張ってあった。今週の土曜日20日に全国公開されるそうだ。そのときは積雪があれば遠出の運転は危ないかなあと、前売り券を買おうかどうしようか迷って帰ってきたが・・・。

何年か前にアメリカ人と結婚しアメリカ在住というノンフィクション作家、ドウス昌代さんの「イサム・ノグチ」~宿命の越境者~を読んだことがあり、(今ではかなり内容も飛んでしまった!)、そのときはとにかく長い本で苦労して読んだという記憶が残っている。

その後札幌に行った折、郊外のモエレ沼公園まで足を運んでその感触を確かめてみた。彫刻家イサム・ノグチの最後の作品は、どこまで行けば終わりになるのかというくらい広大な敷地に作られ、大人も子どもも楽しめる遊びの空間だった。

芸術が一握りの人々のためだけのものであっていいのか、という思いはずっとあったようだから、これだけの大作を作るための大きな空間を、ここでようやく手に入れて実現したということになる。これが遺作となったイサム・ノグチが作る前に下見に訪れた、という映像を何かで見たことがあったので、なんともいえぬ気持ちで胸が一杯になったものだ。

今回のこの映画は朝日新聞でも紹介されていたが、女性映画監督、松井久子さんの第3作目に当たり、日米合作、7年の歳月をかけて作られた松井さん渾身の自信作だそうだ。ドウス昌代さんの本ではイサムの母親、レオニーにも触れられてあるが、当時の男尊女卑、封建性がまだ残る日本でシングルマザーを貫く困難さと、どこまでも英語を押し通すレオニーの頑固さをも描いていたような記憶がある。

この映画ではがんばる母親像だけではなく、レオニーの自我が表れた部分も隠さずに描いたということだから、その点は女性像を美化しがちな男性監督とは違う視点から描いているのではないかと期待している。

インタビュー記事では松井監督ご自身もお子さんがまだ幼いときに離婚を経験されているので、レオニーの生き様に自分が重なって見えるという思いを吐露されていた。今では立派に成長された息子さんがスタッフとして松井さんを支えているそうだ。久しぶりに映画館へ行く土曜日には、暗い画面に浮かぶセリフと映像からどんなメッセージを受け取るのか、今から楽しみ・・・。


なつかしい二人

2010年05月17日 | 映画
朝の時間帯には最近の、舌鋒鋭いが何の解決策もない番組にうんざりして、ワールドニュースを良く見たりするが、この間、いつものように見ていたら、カンヌ映画祭の話題からなつかしい二人が並んで画面に登場していた。

ルキノ・ビスコンティ監督の映画「山猫」(1963年イタリア、フランス合作、第16回カンヌ映画祭パルム・ドール受賞)に出演しているフランス人俳優アラン・ドロンとイタリア人女優のクラウディア・カルディナーレのお二人が、今年のカンヌ映画祭ではこの作品が上映されるということで呼ばれたということらしい。

若かりしころにはこういう映画はそれほど気持ちが動かず、通り一遍の感想しか出てこないが、年月を経ると、この映画の中に出てくるバート・ランカスター演じる没落貴族の陰影のある感情や演技が印象深く、引き付けられるようになる。

バート・ランカスターという俳優は西部劇に出てくる荒くれ男のイメージしかなかったので、この役柄の重厚な演技には随分驚いたものだ。今では彼も亡くなり、アラン・ドロンの老け顔にはそれほど驚かなかったが、クラウディア・カルディナーレの変わり様にはいささかショック!!

ウィキペディアによれば、貴族が催す絢爛豪華な舞踏会の場面があるが、撮影は人口光ではなく、自然光を採用したことで光量不足はローソクで補ったそうだ。そのためセット内は蒸し風呂のようになり、劇中でキャストがしきりに扇を仰いだり、汗に濡れていたりしたのは演技ではないというのだから、妥協を許さない“巨匠”に使われるのも楽ではなかったようだ。

この映画をちゃんと見たのが去年だったか一昨年だったか、はるか前ということではなかったのでクラウディア・カルディナーレのイメージがまだ残っていたからだろう。なにやら独特の映画解説で知られた故淀川長治さんの声が今にも聞こえてきそうだが、185分ほどもあるというオリジナル版をじっくりともう一度見てみたいなあ・・・。

これの「余談」という項目にはオヤッと思うようなことが載っていた。現在民主党幹事長の小沢さんがこの作品のアラン・ドロンの台詞「変わらずに生きてゆくためには自分が変わらねばならない」という言葉を引用、代表戦に向けて壊しやのイメージを一新するのに使われたとあった。

浪花節のように見えて以外と?現代的な感覚の持ち主なのかもしれないねえ。ネットの世界では“マスゴミ”と呼ばれているTV,大手新聞報道の小沢は悪というイメージの刷り込みがすさまじい。改革をめざして自民党を飛び出した小沢さんがいよいよ政治倫理審査会へ出て行って、それがいかに不当であり、間違いであるかを証言しなければと思うようになったのだろう。








映画に行く

2009年10月24日 | 映画
雪虫も飛ぶようになってそろそろ越冬準備。家の周りの洗濯物干し竿を片付けたり、エアコンのカバーを取り付けたり。庭ではつる薔薇の葉っぱをむしり、ダリアももう掘り上げる時期かなあと・・・。

今朝は近くの学校で年に一度の廃品回収日なので、玄関の前に1年分の!新聞紙や雑誌を束ねて並べておく。ばたばたと早朝に用事を足して、今日が初日の日本映画「沈まぬ太陽」を朝一の割引を使って見に行ってきた。

朝早い時間帯ながら意外と観客が入っていてびっくり。戦後経済大国となっていく日本を支えたであろう企業戦士たちの姿と家族。生活が豊かになっていく一方で組合は少しづつ分断されていく。そこで誠実に生きようとしたために起きる葛藤と苦悩を、主演の渡辺謙が渾身の力で演じている。

520人の犠牲者を出した御巣鷹山日航ジャンボ機の事故が物語の重要な核となり、パキスタン、イラン、アフリカと世界各地を舞台とし、3時間以上に及ぶ大作で見ごたえ十分。

ちょうどTVニュースや新聞の記事にもなっている日航再建に公的支援を検討とか、JR西日本の福知山線脱線事故の調査漏洩問題とか。利益を生み出すことと安全性の問題をどうするかという、そういう意味でもタイムリーな映画。途中で休憩が入るほど長い映画というのは久しぶりだった。







映画あれこれ

2009年07月16日 | 映画
12日のWOWOWでのインディ・ジョーンズシリーズ全4作品放送は久しぶりに過去の作品も楽しめる一日だった。第2作目の「魔宮の伝説」(1984年)が一番印象的。

トロッコに乗って逃げるシーンは当時はジェットコースターのような迫力でびっくりしたものだ。一難去ってまた一難。なんたってハラハラドキドキにまさるものはない。ハリソン・フォードも若くて活きがいい。

作品の鍵となる「聖櫃」やら「秘石」やら「聖杯」、「クリスタル・スカル」というものが実はちゃんとした研究があるということも、映画の放送前に考古学者が語った番組でわかった。日本人には荒唐無稽に思えたこともなるほどとこれも助けになった。

この映画のテーマ曲も大好きで、これを聴くと何といってもわくわくしてくる。ここぞというシーンで音楽が流れてくる。担当しているジョン・ウイリアムズという作曲家はスター・ウォーズの音楽も手がけているらしい。

昨年公開された「クリスタル・スカル」はこのシリーズを締めくくる作品なのだろうと映画館まで見に行った。ちょっと引っかかったのは核実験の場面。冷蔵庫の中に入って被害を防ぐというところが、日本人にはあまりにも軽すぎる様な気がしてどうにも。

「魔宮の伝説」のナイトクラブでの冒頭シーンでは集団で機械的な動きをする踊りが出てくる。ハリソン・フォードが演じるアクションシーンとは違うゴージャスな雰囲気。フレッド・アステアやジーン・ケリーなど、かつてのハリウッド製のミュージカルの数々を思い出すような懐かしい瞬間だった。