FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

危なかった

2007年12月31日 | 雑感
子どもたち二人が帰省し、空の便を避けた第3陣は、フェリー、JRという交通手段で今日の午後、到着するということだ。TVニュースでは大雪で飛行機の欠航もあったようなので、時間がかかっても休みが多ければ、こういうほうが確実かもしれない。

昨日帰省した子どもはいつもより随分荷物が少ないなあと思いきや、実は寝坊してしまって、大変だったという話。起きて時計を見たときには寝過ごしたことがわかり、大慌て。前の晩に荷物を用意しておいたので、歯磨き、洗顔もぶっ飛ばして!!わずか3分で家を出た!!

警察の派出所に駆け込んで、そこからタクシーを呼ぶという裏技!!タクシーの運転手さんが親切な人で、何も食べていないとわかるとペットボトル入りのお茶にサンドイッチまで手渡してくれたのだそうだ。それをパクついてようやく人心地。

空港までだと何万もかかるとわかったので、新宿までにし、降りてからまた乗り継ぎまで走った。運転手さんは緊急事態を察知し?大変なスピードで飛ばしてくれたらしい。都会の水に染まらないでと言っていたそうな。やれやれー。

ちょっとした民宿状態では当然?TVのチャンネル権もなくなる。迎える支度に忙しく、かつての日々のようにバタバタしている。子どもたちからリクエストのあるポテトコロッケに切り干し大根煮。

そのあとは黒豆、焼き豚、紅白なます、八幡巻き、など日持ちのするものから。今日はお節だからと特別に京都生麩を入れた炒りどリ、栗きんとん、そのほかの甘い味。それに今晩のオードブル。新年の朝のお雑煮と茶碗蒸しの用意。

WOWOWで一挙放送していた「ローマ」を見だしたら面白くなって、借りてきたビデオを見ないで、空いた時間に見ている。放送開始時には期待してみたものの、あまりにもどぎつい場面が多くて、見ないでいた。再放送の今は22回で完結のところ、15回あたり。

共和国終身独裁官になったカエサル。カエサル、後のシーザーはガリアにおける7年にわたる戦いを記した「ガリア戦記」を書くなど、ただの軍人ではなく、なかなかの知識人でもあった。〈ガリアは今のフランスにあたる。イタリアはあとにフランスのナポレオンに攻め込まれている。)

政敵のポンペイウスを殺したが、カエサル自身も暗殺される。その後、ブルータス、アントニウス、キケロ、オクタヴィアヌス、それに元兵士の隊長とその部下の物語。オクタヴィアヌスの母さんに、カエサルへのうらみが取り付いている愛人など。ちょっとこわすぎる女性たちも登場する。

もともと歴史は大好きなので興味深いが、紀元前の時代に議会の原型のようなもの、法律という抽象的なものが既にあるということが驚きだ。ただし、一見民主的な社会の成り立ちは、多くの奴隷たちによって支えられている、という落ちが付くのが現代とは違うところ。

確か昨日の朝日新聞に、三浦監督の契約更新の記事が載っていた。コンサドーレ札幌にとって、これは何よりの朗報だ。J1定着に向けて話し合ってきたということだ。中位を目指す?うーん、そうあってほしいものですが。来季はなんとか、残留をよろしくお願いしますねえ。

そろそろ昼の食事を作らないと・・・。
それではどうぞよいお年をお迎えください!!














帰省してきた

2007年12月29日 | 雑感
大晦日に向けてなにかとバタバタする中、昨日は子どもが一人、帰省してきた。大掃除をかねて、普段使わない椅子をなんとか運んできて配置換えしたり、長いすのカバーを取り替えたり。室内に取り込んだ植木鉢類の位置も移動。ついでに納戸の整理。

今日は午前中にTSUTAYAに行って大量にDVDやビデオを借りたら、あまりにも多かったのか、紙の袋に入れてくれるというサービス。そのあとにはおせち料理の材料の買出しがあり、スーパーは混雑して大変だった。

子どもはキーファー・サザーランドの「24」のシリーズなど。親の方は「眠る男」や高倉健の古い映画。これは中国でも上映されたというもので気になっていた「君よ憤怒の河を渉れ」。それに「バベットの晩餐会」。3本ともDVDではなくビデオと言うのがいかにもだ。レンタルも一週間だからのんびり見られる。

キーファー・サザーランドは飲酒運転で捕まったそうなのに、アメリカでは番組降板ということもないらしい。本屋に行くたびにTSUTAYAのほうへ行っては、ケネス・ブラナーの映画「魔笛」は置いてないかとずっと探していた。それが来年の1月25日にレンタルになると書いてあった。映画館での上映は見逃してしまったので、これは今から楽しみ。

明日にはももうひとり帰省してくる。なんと9時半ごろ到着の飛行機らしい。へエーと驚いてしまった。羽田まで行く時間を考えれば、いったい何時に起きるのかと心配になる。そんな早朝の便でもなんとか飛んでくれればと。大荒れとか大雪などと言う天気予報がきになってしようがない。

安い便が取れなくて、往復には8万円もかかるという。なんという高い運賃!!親元へ帰ろうとするだけで、こんなにお金がかかる。新幹線なんかどうでもいいから、この飛行機代を何とかしてほしいよ。










ブリューゲル

2007年12月27日 | 絵画
録画が多くなるだろうと、年末年始に向けてHDDを整理しつつ。リストの一番目にあるのが「名画への旅」から大好きな「雪中の狩人」。ピーテル・ブルューゲル(1525/30~1569)、16世紀フランドルの画家の代表作。

ブリューゲルが活躍した16世紀半ばのベルギーのアントワープはヨーロッパの商業活動の中心地だった。現在のオランダに生まれたと伝えられているブリューゲルは、この町の工房で絵の修業をしていた。

20代後半にはアルプスを越えて、イタリアへ修業の旅へ出ているが、その途中、アルプスの山々の雄大な風景に魅了される。その後の絵にもしばしば登場することになる。〈「牛群の帰り」「雪中の狩人」)

アントワープに戻ってからは、版画の下絵を手がけ、当時、大人気だったヒエロニムス・ボス〈1450年ごろ~1516年〉の影響を受け、その寓意的な表現を受け継ぐ。1555年出版された連作「大罪」の中の「うぬぼれ」。この中には流行の衣装を着た女性が鏡に映る姿から傲慢さを描いている。

骨だけのミイラが馬にまたがり、人々を追い立てている絵で、人々が逃げ惑い駆け込んでいるのは二度と出てこられない死の家が描かれてある「死の勝利」という絵。ボスの再来と大変な評判となる。

ブリューゲルの時代のフランドル地方では復活祭の40日間、人々はキリストの苦行をしのび、水や魚以外は口にしないという習慣を守り、対照的に謝肉祭では思う存分飲み食いし、バカ騒ぎをした。「謝肉祭と四旬節のけんか」。

「こどもの遊戯」〈1560年ごろ〉の絵にもこの当時のさまざまな子どもの遊びを200人くらいのこどもを登場させ、お手玉や馬とびなどを描き、資料的にも貴重な絵になっている。

ブリューゲルは1563年ブリュッセルへ。アントワープが商業都市だったのに比べ、ブリュッセルは政治の中心地で文化的な雰囲気に満ちていた。ここで新たに貴族をパトロンとし、新しい表現に挑戦していく。

画面いっぱいに大勢の人物を登場させて細かく描くという手法から、次第に個性溢れる人物像に絞った描き方に変わっていく。このころから農民の生活に深い関心を寄せ、しばしば農村に出向き、日常の様子を絵に仕上げていった。

ハプスブルク帝国の皇帝たちはブリューゲルの作品の熱心なコレクターだった。ウィーン美術史美術館には12点にものぼるブルューゲルのコレクションがあるが、その中の一つが代表作の「雪中の狩人」〈1565年)

これは農民の生活を季節の変化とともに描いた連作の中の一つ。守護聖人が描かれた居酒屋の看板。その前では豚を焼く村人たち。絵の手前には獲物を背中に背負った狩人たち。厳しい冬の風景と彼らが眼下に見下ろす村の様子が描かれている。

それまで絵の背景にしか描かれてなかった風景が、絵の主役になった画期的な絵。凍てつく冬の寒さ、村人が凍った水の上でスケートをしている様子。何より、水の色に寒さがよく表れているところ、冬の刺すような空気というのがよく伝わってくる。村人たちの動きにどこか楽しさがあるのがいい。

尚、ウィキペディアではー。「フランドル地方」について。
旧フランドル伯領を中心とするオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域。中世に毛織物を中心に商業経済が発達し、ヨーロッパの先進的地域として繁栄した。「フランドル」という呼び方は元々フランス語からきている地域名。日本では英語形の「フランダース」もよく使用された。画像は「雪中の狩人」。










ちょっと早いけど

2007年12月19日 | 雑感
今週末にバルセロナはレアルマドリーと対戦するということで、たまたま録画したバルサTVを見ていた。クライフが監督としてベンチに座り、今はバレンシアの監督になったクーマンが選手で出ていて、ロマーリオがハットトリックを達成したという試合だ。

歴史的な大勝を収めた1994.1.8という日付が出ていたクラシコを見ていたときに・・・。チャイムが鳴って、子どもから先月に行ったというロンドン旅行のいろいろなお土産が送られてきた。

イングリッシュガーデンの綺麗なパンフレットと一緒にLONDON LITEという、日本で言えば日刊現代のような大きさの大衆的な新聞らしい。サッカー以外のスポーツ記事と一緒に、ベッカムやビクトリアの記事もある。

ベンゲル監督の記事も写真入で載っている。(最初は読もうと思っても張り切るが、あまりにも辞書を引く回数が多くて、途中であきらめるというのがいつものコース。)

ロンドンのTommy Hilfiger でもらったコート姿のアンリが写っているパンフレットもあり、いやー、これはうれしい。なんたってかっこいいアンリの写真。国内で仕入れたらしい、バルサのアンリ、14番の文字があるビールグラスもあった!!

いつもスーパーで、アンリのグラスはないかとビール売り場で探すものの、これがなかったんだよねえ。やっと手に入った!!

イングランドの旅を案内するパンフレットには、食のことをレベルが上がっていると紹介していた。ローストビーフしかないというイメージと違うらしいというのは、WOWOWで放送している「ジェイミー・オリヴァー」のシェフスクールをいつも見ているので、わかってきた。

ジェイミーの師匠はイタリア人らしいから、イタリア料理の影響があるのだろうが、これは野菜や魚も取り入れて、なかなかヘルシーで新鮮そうだし、日本人にも食べられそうなのだ。

送られてきたおみやげはいろいろ入っているおもちゃ箱のようで、うれしくなって興奮気味。ほかにもなんだかんだとたくさんの心づくしをありがとう。ちょっと早いけど、これはクリスマスプレゼントだね。










その後の絵

2007年12月14日 | 絵画
今朝の朝日新聞の道内欄、「北の美術」には、蠣崎波響(かきざきはきょう)の「唐美人図」が載っていた。1814年、107.3×44.5cmの縦長の絵。「夷酋列像」の迫力には及ばないが、「波響の美人画の中でも、名品といえる1点」と紹介されている。

・・・「幕命により、松前藩が梁川〈福島県〉に移住させられて7年目。家老の波響は、松前に戻るべく復領政策を進める一方、『梅痩柳眠邨舎(ばいそうりゅうみんそんしゃ〉』というアトリエを構え、作画に没頭していた。」・・・

和人に対する最後の抵抗を試みたクナシリ・エナシの戦い。アイヌの人々の若者を中心とする蜂起に対して数十人の処刑という弾圧を行った松前藩。その藩主の弟であり家老、絵師でもあった蠣崎波響は、そのとき鎮圧に協力したとされるアイヌの長たち、12人の絵を描いた。これが「夷酋列像」。

アイヌの人々に対する敬いの気持ちもあり、波響の苦渋の表情が筆致に表れる絵となった。それ以降、波響の絵は日本画の枠組みを出ることなく、花鳥風月の世界を描いている。

函館で育ち、花見の時には松前に行き、松前城を見ているが、先住の人々、松前藩がどういったものだったのか、という歴史にまで思いが及ぶことはなかった。

そういう意味で、「夷酋列像」という絵に出会ったことは、自分が育った土地の歴史、何代か前の人々が、蝦夷地と呼ばれていた時代にどう生きて、それが時の幕府とどういうつながりがあったのか。・・・ということをあらためて考えるきっかけになったと思う。

波響の絵はアイヌの人々の悲劇があり、それを目の当たりにしたことによる苦悩の気持ちで描かれたものではあったが、そういう境地で描かれたものだからこそ、どこか現代にも通用するような美しさと迫力を兼ね備えており、蝦夷地と呼ばれていた時代の文化を代表している。写真は蠣崎波響展の図録から。





















夷酋列像(いしゅうれつぞう)⑤完

2007年12月11日 | 絵画
11月29日朝日新聞・道内版「蠣崎波響(かきざきはきょう)と『夷酋列像』の世界」⑤完から。~蜂起後の処刑、作品の原点に~筆者は川村則子・布アーティスト~

蠣崎波響(1764~1826)による『夷酋列像』というこの絵が描かれた1790年(寛政2)に、一体、なにがあったのだろう。1789年、クナシリ(国後)で和人から酒や食事を与えられたアイヌの2人が急死した。

奴隷状態さながらの圧制を受けていた国後のアイヌが不信と憤怒の情から蜂起、和人70余人を殺した。これに対し、松前藩討伐軍(260人)の処断は首謀者らを含む37人の処刑。この「クナシリ・メナシ騒動」がこの絵の背景の原点。

アイヌの蜂起で「鎮圧に功があった」12人の何人かが、松前に連れていかれ藩主からほうびをもらった。今日、残っている『夷酋列像』はこれら、松前に出かけたアイヌを描いたもの。

そのひとりクナシリの首相ツキノエは、自分の息子を和人に殺されている。が、アイヌ民族が生き残るためにには、数十人の犠牲を払っても、他の大勢を救うという決断を下したのではないか。

藩主・道廣は絵師、波響にアイヌが非礼無礼な反乱をし、制圧し処刑もした。が、執政のそしりは反乱の事実とともに免れぬ。ゆえにアイヌの盛装をさせ肖像を描くことで、善政に対しアイヌたちが従順の意を表した。このような意図で『列像』の作画を命じたのかもしれない。

松前藩内でのこれらアイヌへの処遇は善意に満ちた記録もあるが、『列像』はクナシリ・メナシの戦いで、多くのアイヌたちの血が流された事実の上に出来た作品であることは否めない。

9月末の松前資料館で展示された『列像』の中のただ一人の女性、チキリアシカイの目の中に、他の男たちとは異なる光を感じた。「アイヌをたくましく生きる時代を見届けてやろう」という意志。

その目を見た瞬間、萱野茂さんの「アイヌはアイヌ・モシリ、すなわち〈日本人〉が勝手に名づけた北海道を〈日本国〉へ売ったおぼえも、貸したおぼえもございません」(『アイヌの碑』=朝日文庫)という言葉が去来した。

かつてミッション系のスクール寄宿舎で生活をしているとき、毎日の礼拝で、祖父母からもらったアイヌのイケマ〈魔よけになる草の根〉のお守りこそが私を守ってくれると信じていた。

どんなところに住んでいようとも、どんな宗教に身をおこうとも、どんな環境の中にあっても、自分自身が心から信じているものを打ち消すことはできない。祖父母から受け継がれてきたアイヌの風習のひとつひとつを大切にして生きていくことがアイヌ民族の”非戦・平和”の魂を守ること・・・。そうチキリアシカイが私の耳元でささやいているようだ。(おわり)

〈写真はアイヌの長、ツキノエ。また新潮社版の中村真一郎著「蠣崎波響の生涯」という読売文学賞受賞の本もありますので、さらに深く知りたい方はどうぞお読みください。)





夷酋列像(いしゅうれつぞう)④

2007年12月11日 | 絵画
昨日は雪がどっさり降った。11月22日朝日新聞・道内版「蠣崎波響(かきざきはきょう)と『夷酋列像』(いしゅうれつぞう)の世界」④から~ロシアの進出に藩の力を誇示~筆者は藤田覚・東京大学教授。

『夷酋列像』を見ると、道東のアイヌの有力者が、ロシアの外套(がいとう)や蝦夷錦(えぞにしき)をまとって描かれているのに気付く。像主はアイヌなのだが、衣装はアイヌ風ではない異国風である。

それを手がかりに、18世紀末の江戸幕府が、クナシリ・メナシ事件(1789年)にどのような衝撃を受けたのか、また蠣崎波響(1764~1826年)ら松前藩首脳が『夷酋列像』にかけた意図を考えてみたい。

工藤平助(1734~1800)が、1783年(天明3)に書き上げ、幕府老中・中田沼意次に差し出した『赤蝦夷風説考』は画期的な著作である。蝦夷地(えぞち)に出没(しゅつぼつ)する赤人(あかひと)とはロシア人で、蝦夷地のすぐそばまでが大国ロシア領になっているとはじめて明らかにし、放置すればアイヌはロシアに服従し、蝦夷地はロシア領になっしまうと警告した。

それまで、日本とアイヌとの関係で済んでいたものが、アイヌの背後に「ロシアが存在することを前提」にしなければならなくなった。

1789(寛政元)年に事件が起こるや、幕府は即座に、ロシアがアイヌに加担していると判断、深刻な危機感をいだいた。「工藤平助の警告が現実のものになった」、と理解したのである。

当時の幕府は、アイヌの日本への帰服とロシアの進出の阻止をいかに実現するのかをめぐって、ロシアの野心は領土なのか、貿易なのか。老中(ろうじゅう)の見解が分裂し、蝦夷地政策を一定できなかった。

幕府は松前藩に、ロシアと境を接する道東地域アイヌとの交易の改革と異国境の警備強化を命じるとともに、「ありがたい幕府」の存在を知らしめてアイヌの帰服をかちとるため、幕府役人が蝦夷地(えぞち)におもむきアイヌと交易する「お救い交易」をはじめた。

さらに幕臣(ばくしん)に蝦夷地を調査させ、オランダから最新世界地図を輸入し、北辺の地理状況を把握していった。それにより、蝦夷地はロシアや山丹・満州など、異国と目と鼻のだきで境を接する土地であると認識を深めていった。

松前藩(まつまえはん)は、異国であるロシア、山丹・満州(清国・しんこく)に接する地のアイヌであることを、ロシアや蝦夷錦(えぞにしき)の衣装で象徴刺せ、その有力者を味方につけ服従させていることを誇示(こじ)するとともに、子孫にアイヌの服従を勝ち取ることの重要性を教訓にのこすため『夷酋列像』を描いたのではないか。

幕府と松前藩はともに、クナシリ・メナシの事件を契機に、ロシアの進出という現実を前にして、アイヌの服従なくして蝦夷地の確保はない、という課題をつよく認識させられたのである。(おわり)

(このあたりになると、当時の幕府や松前藩の置かれた姿が浮き彫りになる。アイヌの若者たちの止むに止まれぬ気持ちから、和人への最後の抵抗となったクナシリ・メナシの戦い。

蝦夷地から遠く離れた幕府とその意を受けた松前藩の危機意識の前に、歴史の闇に葬り去られたという感じがする。『夷酋列像』の存在がなかったら、アイヌの人々の悲劇はさらに闇の奥に閉じ込められていたことだろう。)










夷酋列像(いしゅうれつぞう)③

2007年12月09日 | 絵画
ガソリン代が高くなって車の遠出を控えるようになり、灯油代も一緒に高くなったので、暖房は温度を下げてけちけちに燃やすこのごろ。朝日新聞・道内版「蠣崎波響と『夷酋列像』の世界」③から~極まる描写法、表現力優れる~筆者は、朝賀浩・大阪市立美術館学芸員。

完成時、27歳。若き蠣崎波響(かきざきはきょう、1764~1826年)が描いた『夷酋列像』は、江戸時代絵画史のなかでも傑作のひとつに数えられる。

それは本図が「クナシリ・メナシの戦い」(1789年)を契機として描かれ、対象がアイヌの人々だというその特異性のみではなく、画家自身が身につけ、駆使した表現方法の堅実さ、完成度の高さに理由がある。

後に京へ出て流行の円山四条派画風に触れると波響はもっぱらそれに追従するが、それまではおそらく江戸藩邸において学んだ中国伝来の長崎派の画風、沈南蘋(しんなんびん)の様式を十二分に理解し、制作に発揮した。

・・・師匠であった宋紫石(そうしせき)らからの影響は少なくないが、師をも超える独自の完成度を備え、出藍(しゅつらん)の誉れというべきであろう。『列像』に認められる陰影法は二つの異なった要素が混在する。

その源流を中国に求める表現と、ヨーロッパ(オランダ)に求める要素である。中国絵画からの影響は18世紀前半に入ってきた明るく装飾的な表現で、その陰影法はコントラストが強調される。『列像』各図の顔のしわの表現などにその影響が見られる。

また同じころ、オランダからの銅板画などの影響を受け、多くの絵師らが西洋風の遠近表現や陰影法を取り上げた。『列像』では一部にロシア風の着衣をまとった人物が描かれるが、その質感を表現するために西洋風の陰影法が駆使される。

細密描写は、各図の着衣の文様などつぶさに観察できるが、特に人物の髪やひげ、衣装の刺繍、獣皮などの毛や糸といった極細の描写にたけている。しかも、金泥という極細表現が非常にむずかしい絵の具でも破綻なくこなしている点に感心させられる。

ロシア服のボタンの穴を通じて見える先に、金の飾り糸や、着衣の質感を表す陰影などが手抜きなく描かれる徹底ぶりにはうならされる。このような絵画表現の完成度の高さの上に、作品の中の虚実が取りざたされる。

本来「絵空事」である作品が「真実」を表現するかのように錯覚させる力は、ひとえにこの表現力にある。(おわり)

(西洋絵画でも画家たちは、光を白い点にしたり、壁を本物らしく見せるために砂を混ぜたり。「絵空事」を「真実」に見せようとさまざまな技法を見つけては、見るものをその作品世界に浸らせるように苦労してきた。波響の時代には、もう世界の絵画の潮流が届いていたという事実に、現代から見るとちょっと驚かされる。オランダ絵画の影響がこの中に見られるということが。)











夷酋列像(いしゅうれつぞう)②

2007年12月09日 | 絵画
今日は昨日よりずっと温かいので夷酋列像探しに、とうとう図書館まで行って来た。朝日新聞・道内版「蠣崎波響(かきざきはきょう)と『夷酋列像』の世界」②から。~高い表現力、特異さ目立つ~筆者は井上研一郎・宮城学院女子大学教授。

1979年、北海道近代美術館で行われた企画展「松前の明星ー蠣崎波響展」が、私にとって波響との出会いだった。・・・『列像』に見られるきわめて精緻な表現力は師の宋紫石(そうしせき)をしのぐほど素晴らしい。

だが、その後の波響は当時京都で流行していた円山四条派の作風を身につけていく。息詰まるような克明な写実表現は、次第に穏やかな性格を帯びる。

問題は、主題としてのアイヌをなぜ波響がその後描かなかったかのかという点にある。それは結局『列像』とはなんだったのか、という問いかけにほかならない。

波響の作品研究を続けながら『列像』から逃げられなくなったきっかけは、1984年の『夷酋列像』ブザンソン本発見のニュースである。原本の一部とされる函館図書館本2点(『御味方蝦夷之図』)とはあきらかに異なる真作の存在が明らかになり、道内外の大きな話題となった。

・・・こうなると、ひとり美術史だけが立ち遅れてしまった感は否めない。・・・1991年から92年にかけて全国4会場で開催された「蠣崎波響とその時代」展は、波響の美術史的評価を世に問う最初の大規模な展観であった。

それに先立つ松前町での調査のとき、『列像』の最初に描かれたマウラタケのポーズが中国の仙人、廣成子(こうせいし)の図像に酷似していることが確かめられた。『列像』の成立にかかわる重要な出来事である。

また、各地に残る『列像』の模写作品の比較検討を通して、2組の原本の関係や所在の変遷(へんせん)を跡付ける努力も行われた。今回の松前フォーラムでは、ブザンソン本『夷酋列像』の現地調査に基づく高度精密画像が紹介され、波響の表現能力の高さが十分に証明された。

これを一歩進め、作品を近代絵画史の中にしっかりと位置づけることが美術史研究者に求められている。(おわり)


(写真は北海道近代美術館発行の『波響』~松前の明星~という蠣崎波響展図録から。文中にあるマウラタケのポーズというのは、今でいう体育座りという格好にあたり、絵の中では正面を向いている。しかし、これは図録にはなかった。他の絵にしたのは、浮世絵とは違う、波響の絵の素晴らしさという点でも是非、色彩のあるものにしたかったからだ。)







夷酋列像 ①

2007年12月09日 | 絵画
朝日新聞道内版のアートシーンという紙面に、「蠣崎波響と『夷酋列像』(いしゅうれつぞう)の世界」が5回に渡って掲載されていた。これは2006年9月23日に書いた、BS日テレ放送の「夷酋列像」~謎のアイヌ絵、秘められた悲劇~というドキュメンタリー番組に重なる部分が多く、そうかこれはあのことだ!!と。見た当時、強い衝撃を受けた番組なので、今でも鮮やかな印象として覚えている。

といっても最初に読んだものが5回目の記事。しかも週1回掲載とわかり、あわてて以前の新聞を捜したが、4回目が掲載されている新聞がどうしても見つからず。

① ~悲しみの図に想いを込める~
【アイヌ民族学・大塚和義・国立民族学博物館名誉教授】

・・・1789(寛政元)年、「クナシリ・メナシの戦い」に加わり和人と戦ったアイヌの居住地と『列像』に描かれた12人の居住地を見比べてみると、両者の「経済的基盤」の違いがわかる。

戦いに参加したのは漁業を生業にし、和人商人に取り込まれた地域の集団。一方『列像』に描かれたのは、非常に高価な交易商品「ラッコ」など毛皮生産にかかわっていた集団である。

蠣崎波響(かきざきはきょう)は松前藩側に味方したとされる長人(おさびと)12人を藩命により描いた。とはいえ、いまだになぜ、描かれたのかはわかっていない。しかも『列像』には戦いの状況はまったく描かれていない。・・・

・・・「クナシリ・メナシの戦い」が起きた当時のこの地域の最大有力者は(国後にいた)ツキノエであった。彼の親族関係のイコトイ、イコリカヤニが属する毛皮生産集団は当時、経済的優位にあった。

しかし『列像』に登場する人物はウラヤスベツ(現在のとうふつ湖付近)のマウラタケであり、大陸につながる道のかなめという地理的重要性がアイヌ社会の序列より優先されたといえる。

・・・ツキノエは12図中、3番目に配され、末尾にツキノエの妻チキリアシカイが描かれている。彼女は『列像』中、唯一女性であり、当時65歳。同族が絶えてしまうという危惧から戦いの収束に奔走したが、自分の息子を処刑され、松前城下にまで連れて行かれた。

チキリアシカイの悲しみと憤怒の表情を目の当たりにし、この図を持って『列像』を締めくくったところにに、波響のアイヌへの想いが込められていると私は思う。27歳でこれを描きあげた波響は以後、アイヌを対象に筆を持つことはなかった。(おわり)

(当時、和人から奴隷状態に置かれていたアイヌたちが仲間二人の急死に端を発して、クナシリ・メナシの戦いに蜂起する。それに対し松前藩は徹底弾圧に出て、30数人を処刑。

和人に協力したとされるアイヌたちに高価な衣服を着せた絵を、松前藩の藩主を兄にもつ家老であり絵師でもあった、26歳の蠣崎波響に描かせた。これが夷酋列像。

この絵の完成から8年、近藤重蔵がエトロフ島に「木標」を建立。エトロフ島は日本の領土であると宣言。1799年には蝦夷地が幕府直轄となり、1807年、松前藩は縮小されて、福島県の梁川に移された。幕府は一方的にアイヌの和風化を推し進め、名前を日本名にちょんまげも結わせた。松前藩はそこまで強制していなかった。)