FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

影響が及ぶのは

2007年05月20日 | Weblog
昨日、札幌へ向かった国道沿いの家々の庭にはかならず赤や黄色などのチューリップが咲いていた。街中に入ってもやっぱりチューリップの花がどこの庭にも。帰り道の国道の分離帯には、アップルロードといって、りんごの木に花が咲いていたり、かなり長い距離にバラが植えられていたり。いつも車窓から見るのを楽しみにしている。

今朝の朝日新聞の声欄に、気になる投書が載っていた。~18歳で改憲を判断できるか~という、静岡市の39歳の主婦の方の1文から。

幼稚園児の母親の集まりで、数人の若い母親に国民投票法について聞いてみた。この法律をほとんど理解していなかった。いや、この話題に興味や関心を示さない人ばかりだった。

「結論ありきで議論不十分」「最低投票率の規定がない」「18歳選挙権」など、疑問点や問題点の反応はなかった。高学歴で、比較的余裕のある家庭の専業主婦らである。育児や家事に追われる毎日だが、新聞を読む時間がないわけではない。

改憲の動きが加速する一方で、無関心な人がいることがとても気になる。投票年齢は18歳以上。世界では常識というが、権利意識や主体性など、その国の教育や文化を知らずに、単純に年齢を比較しても意味はない。

私は米国に10年間滞在、教師などを経験した。米国では、小学校の低学年から自分の考えを持ち、主張する教育をしている。私は主張する子供に何度も出会った。たしかに18歳でも意見表明は可能だろう。だが、そのためには十分時間をかけた適切なプログラムが不可欠である。

・・・選挙権は18歳どころか、むしろ引き上げる必要性はないのだろうか。(おわり)

たしかにー。18歳というのは戦争を経験していない世代の投票を増やすこと、という政府の策動が見え見え。戦争を経験している世代、その体験を聞かされている世代は圧倒的に改憲反対派だということを政府も承知しているからこそ。

若い母親たちの無関心ぶりには、もしかしたら、これがのちのち、徴兵制を促す分岐点になるかも知れず、自分たちの息子だってその可能性があるかもしれないという風には考えないのかと、不思議な気がする。安倍首相が唱える戦後レジームの脱却がどこへ行くのかと思いきや、回顧調、復古調で、いっきに明治時代をいい時代としてなつかしんでいるとしたら、女性たちにこそ一番影響が及ぶはず・・・。





ふたたびドームへ

2007年05月20日 | Weblog
昨日は雨模様の中、朝早くから出発してコンサのホームゲームを応援しようと札幌ドームへ。下位の水戸戦とはいえ、取りこぼしのないようにと願いつつ。たまの札幌行きなので、人も訪ねるし、雪印種苗センターへも寄り、それっとばかりにドームへかけつけるというスケジュール。

気温10度くらいの寒い日だった。屋根のあるドームで観戦できるのはありがたいことだ。駐車場があるから広い地域の各地から応援に来られる。座席の前にはおばあちゃんも含めた家族連れの5人組。

途中で寝入ったお孫さんを抱えながらのおばあちゃん。若いお母さんは下の子をあやすためにしょっちゅう、出たり入ったりで忙しい。それでもお父さんと共に懸命に応援歌を歌い、一緒に手拍子をしていた。観客は1万5千人強。

前半開始早々1分、FWダヴィが先制点を奪う。なにがあったのというほど、電光石火の早業だった。
左サイドをあがってそのままドリブルで進み、角度のないところからシュート。よく入ったもんだなあと驚いていたら、相手GKが手で触ってコースが変わり入った、というものだった。1-0.ドームはびっくりしながらもうれしい驚きの声に包まれる。

31分に追加点が入り、2-0。
後方から芳賀が前線へ大きくロングボールを蹴り、FW中山がなんとか相手ボールにしないで落とすと、MFカウエが思い切ったミドルシュート。スピードのあるボールは高い位置のまま、右隅に入っていった。カウエもすばらしいシュートを蹴るんだねえー。

(6ヶ月の契約らしく、契約更新するためには結果を出さないとというわけで、ダヴィもカウエも必死にゴールを決めた。)

後半、ボールを奪いにも来ず、攻めても来ない水戸をどうやったら崩せるかという感じで、時間が過ぎた。38分にCK.ボールはいったんはじかれたが、ゴール前の西谷がこれを浮かしてシュート。そのこぼれ球を、上がっていたセンターバックの曽田が得意の頭ではなく、足で押し込んだ。後半にも歓喜の瞬間が訪れたとばかり、ドームのお客さんは立ち上がって大喜び。3-0.

3点も取って勝つなんてめったにないよという感じで、昨日は楽しいゲームになった。観客は立ち去りがたく勝利の余韻を楽しむように、座席からコンサのタオルマフラーをくるくる回していた。

前半21分ごろ、怪我で退場したDFブルーノがどうなったかその後が心配。曽田がのびのびと前線へあがったり出来るのは、センターバックが2枚になってブルーノが後ろでカバーしていたからだろうし。

次はミッドウィークにアウェイの湘南戦。前回の対戦ではたしか0-0.攻守の切り替えの激しい難しい試合だった。自信をつけている選手たちが果たしてゴールを奪えるかどうか。首位キープの勢いに乗って、がんばれー。



元気だよ

2007年05月13日 | Weblog
桜前線もようやく北上して、昨日は公園へ桜を見に行った。ジンギスカンの焼肉パーティでもするのか、シートを敷いて場所取りしている。後で来ますよとばかりに木と木の間にロープを張り、それを真四角のようにしているというベテランの仕業には、なんだかおかしいやら。

人々のにぎわいの割には桜の木が少ない。本州の桜と違って、野性味がつよく花と同じくらい葉っぱが目立つ。このあたりでは入学式や転勤や引越し、などという時期にはまだ桜の開花は間に合わないから、いわゆる日本的な桜にまつわる文化というのはないのかもしれない。気候風土が違って、季節感はヨーロッパに似ているしね。桜がバラ科だって知ってる?

カーネーションの花や、そのほかの贈り物が届いた。このごろは子供に対して怒っているという日常的なヒステリーはないから、自分でも母といわれればそうだったのかという気分で気恥ずかしい。

1年のうち10ヶ月くらいはサッカー狂で日々が過ぎるから、自分でも年齢を意識しないうちに時間が経っている。今日はコンサドーレがアウェイでセレッソ大阪に1-0で勝って、さらにうれしい祝日になった。なんとかJ1昇格してほしいと願いながら応援しているので、これからのことしか考えないっていうところですかねえ。

いまだになんだかんだと時間に追われている。
おかげで母は元気だよ。
心のこもった贈り物を感謝しつつ。
いろいろありがとう!!








うまくいった

2007年05月11日 | Weblog
家の前の花壇にはチューリップとムスカリが咲いている。後ろのバラにはちょうどいい日当たりと風が通る道だが激しく揺れている。チューリップの花首を見ると、大丈夫かなーと心配になり、時々窓に近寄っては様子を見てしまう。

このところパソコンの調子が悪くなりどうしようかと思案の末、パソコン会社のお兄さんに来てもらった。毎度お世話になっていますねえ。このお兄さんは、バルサのイニエスタ選手に負けないくらい色白でもある!!(バルサといえば、アンリを取るとかどうとか。またこれが始まったー。)

原因がわからず、もう何年も経っているということで、ウィンドウズを初期化するということになった。次に出るのはウィンドウズビスタとかいってたっけ。こっちはなるべく買い替えを伸ばして使いたいし。買い替えっていったって安くはないんだし。

ずいぶん時間をかけて、作業はうまくいった。やれやれとホッとした。あれこれ書こうかと思っても、なんだか落ち着かないとうまくいかない。とりあえずは快気祝いのような気分でうれしい。

さっき、カーネーションとバラの花、届いたよー。
写真はまた後で付けるからねー。
素敵なお花をありがとう!!










想像力

2007年05月03日 | Weblog
今日は憲法記念日。参議院選挙では、与党は憲法改正を焦点にするという話。今日の朝日新聞の記事では「60歳の憲法と私」。俳優で歌手の高橋和也さんが登場している。

【戦争できる国にしない】
「日本の青空」という映画で、主人公の憲法学者・鈴木安蔵(故人)を演じているそうだ。

彼は戦後、民間の憲法研究会でとても民主主義的な草案を作った人。政府はまともに取り合ってくれなかったんだけど、GHQ(連合国総司令部)がそれを研究してくれた。今の憲法はたんなるアメリカの押し付けではなかったと言うのが、映画の主題です。

ぼくはこの映画に出るまで、憲法をじっくり読んだことがなかった。多分義務教育で教わっていたと思うんだけども、印象は薄い。鈴木さんのことなんて、教科書にはでてこなかったし。あらためて憲法を読み直すと、独特の文体でたしかに取っつきにくい。でも戦争や武力の放棄が具体的に書かれていて、それが新鮮な驚き。

「男闘呼組」にいたころ、ジョン・レノンの「イマジン」を聴いて、「想像してごらん、すべての人が平和に暮らしていると」という詞に感激した。9条は変えるべきではない。

「戦争放棄」という最先端の憲法を持っている日本こそ、「現実を理想に近づけるべきなんだ」というメッセージを世界に発信できると思う。アメリカにも「一緒に作った憲法でしょ?今になって『一緒に戦え』なんて、ずるいじゃないか」と言わないと。

ぼくは俳優だから、いろいろな人物を演じる中で右にも左にも揺れる。でも、6人の子どもを持つ父親として、戦争が出来る国になってほしくない。中学生の息子が「憲法が改正されたら、兵隊に行かなきゃいけないの?」と言ったんで、「あり得るよ」と答えた。

ほんとうは「絶対にそんなことはさせないよ」って言ってやりたかったんだけど。ぼくの同世代や下の世代には、徴兵制が復活するかも、という想像力を働かせてみて欲しい。(おわり)

37歳という高橋さんの9条を変えるべきではないという発言はなんと心強い言葉。ジョン・レノンが生きていたら、今こそ想像力を働かせてごらんというだろう。中学生の息子さんとの会話にはあまりにも切実で胸が詰まるようだった。高橋さんと同世代の人たちのこどもが徴兵制を現実のものとして考えている。これから自分たちの身に降りかかる現実の問題なんだと・・・。






『コリオレイナス』

2007年04月23日 | Weblog
シェイクスピア原作。蜷川幸雄演出。後期の戯曲で生前の上演記録は残っていないという。悲劇として最後に書かれたもので、1608年ごろの作とされている。公式サイトには孤高を貫き通した~ローマ将軍の悲劇~とあった。

WOWOWで放送された3時間にも及ぶ舞台劇。久しぶりにこれだけ見ごたえのあるものを見たという感じになった。唐沢寿明、白石加代子、勝村政信、香寿たつき、吉田鋼太郎、嵯川哲郎など、うまい役者ばかり。

紀元前5世紀ごろ。古代ローマの共和制ができたころのお話。貧民たちの暴動はケイアス・マーシアス(唐沢寿明)に起こっている。貧民たちに穀物の支給を反対したからだった。マーシアスの友人で温厚な性格の貴族、メニーニアス(吉田鋼太郎)はなんとか抑えようとするが、マーシアスは軍務の能力を欠く貧民たちには穀物を支給しなくてもよいと発言する。

この暴動を鎮めるために「護民官」が設置されるが、平民から選ばれた二人は影で反感を煽る。ローマを勝利に導いたマーシアスは陥落した都市コリオライにちなんで、コリオレイナスという称号を受ける。ローマに帰ったコリオレイナスは母の希望で執政官の選挙に出る。

元老院から執政官に推薦されるが、なるためには謙虚のしるしとして、ぼろ服を着て広場に立ち、傷跡を見せながら、市民の了解を得なければならなかった。コリオレイナスはその慣習に強く抵抗するが、周囲に説得されて従う。市民の賛成を得るが、彼の失脚を狙う二人の護民官(嵯川哲郎)の扇動により、逆に反逆罪で訴えられてしまう。

母ヴォラムにア(白石加代子)の説得により市民に謝罪するが、途中でかんしゃくを起こして、逆に民衆の敵としてローマから追放されてしまう。母と妻(香寿たつき)と幼い息子をローマに残したまま、祖国をうらみ、敵として戦ったヴォルサイ人の将軍、オーフィディアス(勝村政信)のもとに行き、ともに戦うことになる。ローマ支配下の属州が次々と攻め込まれて、ローマ人たちはコリオレイナスを追放したことを後悔し、メニーニアスに説得に行かせるが、成功しない。

しかし、ローマへの攻撃に備えているときに、彼の元へ母と妻子がやってきた。母は和解をすすめ、それを受け入れたコリオレイナスはローマとの和議を成立させる。再びヴォルサイ人のところへ戻ったコリオレイナスには、彼が来たことにより影が薄くなっていたオーフィディアスが、これを裏切り者とし、反逆者として刺し殺してしまう。・・・

長時間の劇で、途中で休憩!しながらでないと見られないほどだったが、役者たちの熱演、コリオレイナスの唐沢寿明やその母親役の白石加代子に圧倒されて、最後まで見ることができた。舞台装置や衣装も海外公演を意識したのではないかと思えるほど、和服をアレンジしたようなものや、仏像が出てくるなど、日本的な文化を取り入れていた。

舞台全景を覆いつくすような広さと高さがある階段は、群集の顔が識別できるというように、大勢の登場人物が、ひとりひとり生きているさまがわかるような人間像、として描くことに成功しているように見えた。

この母親の孟母ぶりは大変なもので、妻との関係より結びつきが深い。結局は反抗できない息子に、なにやら教育ママと息子のような関係にも見える。その一方でこの母親には家庭の枠を超えた、もっと大きな外の世界への視野というものがあって、めそめそせずにどうしたらこの難局を乗り切るか策を考えようとする。それが権力欲へともつながっていくのだろうが、ただの孟母に終わらない。感情に流されないところは現代のキャリアウーマンにも通じる女性像ではないかという気がした。

もう一つはここで登場する平民たち。これはいかにも愚民として描かれていて、その時の扇動に乗ってしまうところは、ついこの間の日本の総選挙での小泉圧勝劇を皮肉っているようにも見えた。しかしそういう民衆を操る術に長けていないと、いわば政治家の人気取りともいえるが。

それなしでは古代も現代も政治家は生きていけないよともいっているようにも見える。軍人としてはこの上もなく卓越したものを持っていたが、言葉でそれを訴えないコリアレイナスは生き延びることができず、あっさりと殺されてしまう。

検索で調べてみたら、古代ローマの共和制というものがあって、元老院、執政官、民会(平民)、三つの階級からなっているようだ。戦争が多かったことがあって、重装歩兵の政治的発言力が強まり、平民が当時の政治を独占していた貴族に対して政治参加を要求するようになったらしい。これが身分闘争の始まりで、次第に法的にも平等になっていったとある。

しかし、平民といっても農民などは度重なる戦争で土地を離れ、属州から安い穀物が入り没落していく。これをなんとかしようと土地分与の改革を実施しようとした兄弟がいたが、兄は暗殺され、元老院は弟の仲間まで処刑したという。やはりほんとうの市民的権利はフランス革命を待たないと存在してはいなかったようだ。

女も母になるとかくのごとく強し、というのを見せつけられるような、白石加代子さんの演技には圧倒的な迫力と存在感があった。唐沢さんも素晴らしかったが、彼女も主演といってもいいような舞台だった。





試されるとき

2007年04月21日 | Weblog
少し気温が上がった週末には造園に行ってみる。いろとりどりの苗を見ると、思わず買ってきて植えてみたくなるが、やっぱり五月の連休まで待つことにした。雪印の苗センターにもバラを何本も注文しているしね。そのうち玄関先まで、トラックで運んでくるのだそうだ。

明日には市議選の投票日。選挙カーからはお願いしますの声がひびき渡る。告示があってから誰にしようかを考えるというのでは遅いわけで、市議会の場合は地域密着だから政党で選ぶのと違う基準があってもいいんだし。

4月18日の北海道新聞の夕刊、作家の高村薫さんの~思考停止は格差の是認~という見出し。統一地方選、現状維持でいいのかという記事。

「現職の圧倒的優位も、立候補者の顔ぶれの無難さも、むしろ変革を避けんとする有権者の意識を映したものだといえる。ただし、こうした現状維持の選択は、政策提案も行政の監視もしない地方議会の是認につながり、一部に生まれてきた地方議員の意識の変化の芽を摘むことになるであろう。」

「地方選挙は、地域の生活に密着している分、本来は必ずしも国政の政党図と重ならないのであるが、地方分権が進んでいないこの国では、地方選挙といえども国政選挙の縮図になる。」

「地方分権を積極的に求めるどころか、国政との一体化で地方自治を維持せんとする彼ら首長たちへの信任は、私たちの思考もまた高度成長時代で停止していることを示している。」

「格差は、経済の市場原理がもたらしたものであり、先進国主導のいびつなグローバル経済が富の一極集中をもたらすことは、いまや世界の認識である。格差は、景気のよしあしにかかわらず、一定の再分配でしか是正されないのであるが、いまだに市場経済による成長を目指す国への追従は、地方が自ら格差を是認して勝ち組を目指すということである。これが現状維持の選択の意味するところである。」

ほんとにー。地方が勝ち組を目指すなんていう発想自体が、なんだかおかしいような気がするよ。人口比も経済力もはじめから土俵が違うというのに。経済力がないから老人しか住めないところにしていいのか、ということだよねえ。明日はそういう意味でも地方に住む有権者の意識が試されるとき・・・。

アメリカバージニア州のバージニア工科大学で起きた乱射事件には度肝を抜かれた。32人も犠牲になるとは。マイケル・ムーア監督「ボーイング・フォー・コロンバイン」のコロンバイン高校での同じような事件を思い出す。今度の犯人はその高校での事件のことを口にしていたようだ。

あの映画の中でのアメリカの人々が持っている恐怖感が強いという指摘はあってるのだろう。だから銃で武装するのだろうと。しかもその銃が簡単に手に入るというのが、そもそもこわい社会だ。話し合いなんかより、銃で相手を抹殺してしまえという空気がいまだにあるということが。

アメリカほど銃は簡単には手に入らないという安心感があるはずの日本で、アメリカの事件の直後に起こった長崎の伊東市長に対する銃撃事件。市長は至近距離からの銃弾により、搬送された病院で亡くなった。何か思想的なものがあるかと疑われたが、そうではないようで、市道工事現場での自動車事故を巡るトラブルがあったことから、というものらしい。

何か意味づけするのももどかしいような、単純にキレたことによる、ということのようだ。日本も暴力団などから銃が手に入るようになり、腹が立つ相手は問答無用に殺してしまえという風潮になってきたかと。広島市と長崎市は太平洋戦争末期の8月にアメリカから原爆投下された。長崎の伊東市長は広島市長とともに被爆した市民を代表して核廃絶へ向けて全世界へのアピールをされていた方だけに、こんな亡くなりかたは悔しいし、ほんとうに残念・・・。

謹んでご冥福をお祈りいたします。















2007年04月11日 | Weblog
日曜日の統一地方選挙では、現職の知事たちは強みを発揮してそれぞれ再選を果たした。驚いたのは、その中であれだけいろいろ物議をかもす発言が多い前東京都知事の石原氏が大勝したということ。しかも解せないことに、女性の投票者の率が男性を上回っていたということだ。

「女性が生殖能力を失っても生きているってのは、無駄な罪ですって」という、以前の「ババア発言」に対しては選挙戦中盤、JR新宿駅西口前での糾弾集会があったとあるが、一票を投じた女性たちはひょっとして自分はババアではないと認識!している女性たちなのだろうか?

この発言のこわさの核心はババアというだけではなく、女性に対して生殖能力を失うということを指摘していることにあり、「産む機械」発言と同じ次元のはず。

ババア発言を許せないといった77歳の主婦はー。「しかし、テレビでは人を罵倒する人を持ち上げる風潮がある。石原さんをミーハー的に支持しているのも、私たちと同じ女性なのです。」という言葉には腹立ちを通り越してあまりにも悲しいものがある。

オリンピック招致のことを一緒に夢を見よう、それがこころの財産になると演説していたようだったが、新聞に掲載されていた声欄の45歳の主婦は1票入れたが五輪はいらないと主張している。それではなぜ1票を入れたのか。

「影響力の大きさと実行力、思いをかなえようとするエネルギーの強さは他候補を圧倒していたからです。」うーん、当選したあかつきには演説していたことを実行するということではないの?公約は何のために?

イメージだけで決めてしまったのだろうか。「今度の五輪がこころの財産になるとは思えません。」といいながら、石原氏に投票してしまうということを、この女性の場合は矛盾している行動という風には捕らえていない。

まあー、人間には感情というものがあって、しばしば矛盾した行動を取るものだということは体験上!否定できないが、それが選挙にまで及ぶとこういう形になって表れるものか、となんだか拍子抜けしてしまう。

「今の東京に五輪などというお祭りは不必要です。(中略)これ以上お金や気力を犠牲にして何をしようというのですか。」というのであれば、もっと福祉などの弱者救済を唱えていた候補者がいたのではないだろうか、と思ってしまうが。出口調査では女性の場合は石原氏51%、浅野氏30%という、なんとも謎の多い投票者の行為である。







春一番

2007年03月31日 | Weblog
まだ雪がちらほら降ってきたりするが、庭には春一番に咲く予定!の球根たちが新しい緑をつけて顔を出している。殺風景でただ土があるばかりというところに、こういう緑を発見したときのうれしさは格別だ。室内に咲き誇る花より何倍もの価値がある。

毎週のように見ているポール・スミザーの四季のガーデン生活。なかでも土作りや剪定の方法など、画面で見るので参考になっている。番組の最後のところでは土手に咲く水仙の黄色い色が鮮やかだった。我が家の庭はまだ咲くまでかなり時間がかかりそうー。

上京したときにはどこか花の見られるところ、などといって騒いだが、結局どこにいってもまだバラどころか葉っぱしかないよ、といわれて実現しなかった。番組でよく出て来る関西の宝塚にある広大なガーデンへは行こうと思えば行けたようだ。もっとも咲いているのはせいぜいスノードロップの小さな花くらいだろうけど。

ポールのいうナチュラルガーデンというのは、日本のその辺に咲いている野草を家庭の庭にもという考えらしい。しかし、見回すとこの当りには自然がいっぱいで、自分のうちの庭までナチュラルにしようとは思わないなあというところだ。やっぱり半年雪に覆われていれば、華やかな色彩溢れるバラの魅力にはかなわない。

東京の六本木に出来た国立新美術館を見に行ったとき、入り口から会場まで少し歩いていく道があった。その横は塀のようになっていて、以前雑誌で読んだような壁面ガーデンというのか、壁面の緑化というのか。近寄ってよく見ると、塀の壁には雑誌で解説していたようなフェルトが張られていて、針金も縦横に張り巡らせてあった。

緑はアイビーのようなツタ類を這わせていた。これからあたたかくなったり、時間が経てば壁面いっぱいになるだろうという計画のようだった。雑誌にはフランスのパトリック・ブランという植物学者が建物の壁に垂直な庭(バーティカルガーデン)を作ることをはじめたと書いてあった。その記事の記憶が頭の隅に残っていて、フェルトを見た途端に思い出した。

これの壁に使われているのが「特別なフェルト」。根が成長するための深さは必要でなく、平面的な広がりがあればいいということで、パリばかりか、日本でも金沢の21世紀美術館に使われて話題になったということだ。大都会では高さのあるビル群にこれを適用したら、40度近くまで上昇する気温を少しでも抑えられるのでは、などと思った。子どもたちが住んでいるところでもあり、なにか遠い出来事ではない気がしている。

(写真は庭で写した、春一番)









終わりは始まり

2007年03月28日 | Weblog
新聞のコラムも3月いっぱいで最終回になるものもあり、その中の一つがあざらし日和の旅日記。舘浦海豹(あざらし)さんという方が書いていたもので、いつも道内の温泉を紹介する楽しい1文が載っていた。今日は最後のところに憲法についてのことも書いていて、これには感激した。

高速道路も80キロ制限の制限速度で走っている車はない。朝、新千歳空港へ向うとき、左車線なのに全員130キロで走っていたことがある。でも捕まったらスピード違反。それが大人の現実。

憲法9条を変えようと言っている人は、法定速度が現実と合わないから、高速道路の制限速度を100キロにしよう、といってるのと同じ。人間は80キロ制限でも100キロ以上で走る生き物なんだから、制限速度を100キロにしたって、実際はそれ以上のスピードでみんな走るし、取り締まるオービスの設定も100キロには出来ない。それが現実。

でも、憲法9条が非戦の理想を掲げているから、自衛隊が罪もないイスラム人を殺すことを日本人は認めない。理想という歯止めは、少しずれて現実にブレーキをかける。憲法9条を現実に合わせて後退させたら、現実はもっと暴走する。太田光や湯川秀樹の全世界非核武装論のほうが「現実的な理想」に思える・・・。

いやー、まったく、そう思いますねえ。国民投票法案も9条アレルギーのない18歳以上に設定しようとしているというところまで、政府の策動は進んできましたが。理想を捨てたらどうなるかー。この年齢で(といってもお年は分かりませんが)、「理想」という言葉が出てくるというのは、おそらく「おんなじ世代」に違いないと確信しています。

文中にあったはるみ知事が出ているという「米チェン」っていうCM.道外米に米チェンしろって言うことかよとお怒りでしたが。確かにー。おいしいかどうかは二の次でずっと我が家は「きらら397」を食べています。いまだに雪印(メグミルク)の乳製品を探してでも買うというのとおんなじ心境です。

上京したときには、つややかな葉っぱに赤い花の椿があたたかい春の陽光を浴びて、なんて綺麗なんだろうと。帰ってみるとまだ緑は雪の下。あーあ、春はまだだなあーとまだ白い外界を眺めた。それでも冬に雪のないところで過ごしたらどうなるのだろうか、という考えがふと頭に浮かんだ。雪はどこにあるの?とボケた頭で必死に探してしまうかもしれない。

(写真は上野公園で見た赤い椿の花)