庭仕事でちょっとばかり肩や腕が痛い。紅葉がすすむ山の景色を見ながら温泉に浸かってきた。毎日モーツァルトは一足飛びに?第140回父の死。弦楽五重奏曲ト短調。K.516.第1楽章より。1787年、モーツァルトも31歳になった。レオポルトの死という題で他界した父の記憶が目に浮かんできた。
ゲストはヴァイオリニストの堀正文さん。
調性がト短調というのはモーツァルトには珍しい。モーツァルトの作品では少ないですが、緊張感があり、深みがある考えさせられる曲ですね。技術的なことだけではなく、精神的にもかなり引き締められる印象が強いですね。
四重奏ではなく五重奏で最高傑作を書いたというところにモーツァルトの型にはまらないところ、神聖さがあって、感情を抑えながらも、中で広がっていくところがかなり成熟した曲だと思います。
ただ茶目っ気があるとか、明るいとかじゃなくて人間としていろんなつらい目にあったことも含めて、大人になってからも経験した苦しみを踏まえた曲想というものがにじみ出た曲だと思います。
1787年5月16日、モーツァルトは「弦楽五重奏曲ト短調」を完成させた。この第1楽章には、物悲しく不安をほのめかす旋律が随所に見られる。前年末から立て続けにモーツァルトを襲った三男や親友の死。そんな中で作られたこの作品は代表的な短調の曲といわれる。
この曲が完成して10日あまり後、更なる不幸がモーツァルトを襲った。1787年5月28日早朝、父レオポルトが娘ナンネル夫妻の見守られながら67年の生涯を閉じた。同じ日、聖ペテロ教会の修道院長は彼の功績を日誌に記した。
”本日逝去された父親は機知と思慮に富む人物であった。彼は童児ヴォルフガングならびに娘をクラヴィーアの名手として、ドイツ全土、フランス、オランダ、英国、スイス、イタリアもローマに至るまで連れて行き、すべての場所で喝采と賞賛を得た。”
すべてを投げ打って旅を重ね、息子の才能を開花させたレオポルト。モーツァルトとナンネルはその愛情に包まれて育った。5月29日聖セバスティアン教会の墓地に埋葬された。当時長編オペラの作曲に追われ、ウィーンを離れられなかったモーツァルトは父の葬儀に立ち会うことは出来なかった。
6月2日のモーツァルトの手紙。
”最愛のお姉さん!ぼくらの最愛のお父さんの突然の死を告げる悲しい知らせが、ぼくにとってどんなに辛かったか想像してもらえるでしょう。常に変わらぬあなたの誠実な弟。 W.A.モーツァルト。
幼い頃から支えてくれた父の死。それはモーツァルトにとってあまりにも大きな喪失だった。
60代の父の死というのが、この頃ではどのような死だったのか。妻マリアに先立たれ、娘ナンネルも結婚して家を巣立っていった。それでも自分は大丈夫だから心配するなといい続けていたレオポルト。子供たちにとってはこの上もない悲しみだったが、父の尊厳が守られたままで亡くなったというのは良かったのでは。
お互いに心から気遣ううちに永遠の別れが来たことは、むしろしあわせではないか。レオポルトはモーツァルトの活躍する姿を目にしてから亡くなった。なにより息子より先になくなったこと、順送りで親が先に死ぬことが出来たというのは、喜ぶべきことだ。
大きな影響力を持っていた父レオポルトが亡くなった。モーツァルトが自分の足で歩く本当の人生は、このときから始まったといえるのだろう。
この曲はやはり年齢とともに堀さんが言っていた成熟が感じられた。「毎日モーツァルト」の本が出版されたそうなので、探してみようと思う。最近ではあー、この第2楽章は観客からアンコールの要望があったものだ、などとすっかり生活の中に溶け込んできた。モーツァルトとの出会いというより、音楽のある生活の始まり、といったほうがいいのかもしれない。
ゲストはヴァイオリニストの堀正文さん。
調性がト短調というのはモーツァルトには珍しい。モーツァルトの作品では少ないですが、緊張感があり、深みがある考えさせられる曲ですね。技術的なことだけではなく、精神的にもかなり引き締められる印象が強いですね。
四重奏ではなく五重奏で最高傑作を書いたというところにモーツァルトの型にはまらないところ、神聖さがあって、感情を抑えながらも、中で広がっていくところがかなり成熟した曲だと思います。
ただ茶目っ気があるとか、明るいとかじゃなくて人間としていろんなつらい目にあったことも含めて、大人になってからも経験した苦しみを踏まえた曲想というものがにじみ出た曲だと思います。
1787年5月16日、モーツァルトは「弦楽五重奏曲ト短調」を完成させた。この第1楽章には、物悲しく不安をほのめかす旋律が随所に見られる。前年末から立て続けにモーツァルトを襲った三男や親友の死。そんな中で作られたこの作品は代表的な短調の曲といわれる。
この曲が完成して10日あまり後、更なる不幸がモーツァルトを襲った。1787年5月28日早朝、父レオポルトが娘ナンネル夫妻の見守られながら67年の生涯を閉じた。同じ日、聖ペテロ教会の修道院長は彼の功績を日誌に記した。
”本日逝去された父親は機知と思慮に富む人物であった。彼は童児ヴォルフガングならびに娘をクラヴィーアの名手として、ドイツ全土、フランス、オランダ、英国、スイス、イタリアもローマに至るまで連れて行き、すべての場所で喝采と賞賛を得た。”
すべてを投げ打って旅を重ね、息子の才能を開花させたレオポルト。モーツァルトとナンネルはその愛情に包まれて育った。5月29日聖セバスティアン教会の墓地に埋葬された。当時長編オペラの作曲に追われ、ウィーンを離れられなかったモーツァルトは父の葬儀に立ち会うことは出来なかった。
6月2日のモーツァルトの手紙。
”最愛のお姉さん!ぼくらの最愛のお父さんの突然の死を告げる悲しい知らせが、ぼくにとってどんなに辛かったか想像してもらえるでしょう。常に変わらぬあなたの誠実な弟。 W.A.モーツァルト。
幼い頃から支えてくれた父の死。それはモーツァルトにとってあまりにも大きな喪失だった。
60代の父の死というのが、この頃ではどのような死だったのか。妻マリアに先立たれ、娘ナンネルも結婚して家を巣立っていった。それでも自分は大丈夫だから心配するなといい続けていたレオポルト。子供たちにとってはこの上もない悲しみだったが、父の尊厳が守られたままで亡くなったというのは良かったのでは。
お互いに心から気遣ううちに永遠の別れが来たことは、むしろしあわせではないか。レオポルトはモーツァルトの活躍する姿を目にしてから亡くなった。なにより息子より先になくなったこと、順送りで親が先に死ぬことが出来たというのは、喜ぶべきことだ。
大きな影響力を持っていた父レオポルトが亡くなった。モーツァルトが自分の足で歩く本当の人生は、このときから始まったといえるのだろう。
この曲はやはり年齢とともに堀さんが言っていた成熟が感じられた。「毎日モーツァルト」の本が出版されたそうなので、探してみようと思う。最近ではあー、この第2楽章は観客からアンコールの要望があったものだ、などとすっかり生活の中に溶け込んできた。モーツァルトとの出会いというより、音楽のある生活の始まり、といったほうがいいのかもしれない。