FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

尊厳があるままで

2006年09月30日 | Weblog
庭仕事でちょっとばかり肩や腕が痛い。紅葉がすすむ山の景色を見ながら温泉に浸かってきた。毎日モーツァルトは一足飛びに?第140回父の死。弦楽五重奏曲ト短調。K.516.第1楽章より。1787年、モーツァルトも31歳になった。レオポルトの死という題で他界した父の記憶が目に浮かんできた。

ゲストはヴァイオリニストの堀正文さん。
調性がト短調というのはモーツァルトには珍しい。モーツァルトの作品では少ないですが、緊張感があり、深みがある考えさせられる曲ですね。技術的なことだけではなく、精神的にもかなり引き締められる印象が強いですね。

四重奏ではなく五重奏で最高傑作を書いたというところにモーツァルトの型にはまらないところ、神聖さがあって、感情を抑えながらも、中で広がっていくところがかなり成熟した曲だと思います。

ただ茶目っ気があるとか、明るいとかじゃなくて人間としていろんなつらい目にあったことも含めて、大人になってからも経験した苦しみを踏まえた曲想というものがにじみ出た曲だと思います。

1787年5月16日、モーツァルトは「弦楽五重奏曲ト短調」を完成させた。この第1楽章には、物悲しく不安をほのめかす旋律が随所に見られる。前年末から立て続けにモーツァルトを襲った三男や親友の死。そんな中で作られたこの作品は代表的な短調の曲といわれる。

この曲が完成して10日あまり後、更なる不幸がモーツァルトを襲った。1787年5月28日早朝、父レオポルトが娘ナンネル夫妻の見守られながら67年の生涯を閉じた。同じ日、聖ペテロ教会の修道院長は彼の功績を日誌に記した。

”本日逝去された父親は機知と思慮に富む人物であった。彼は童児ヴォルフガングならびに娘をクラヴィーアの名手として、ドイツ全土、フランス、オランダ、英国、スイス、イタリアもローマに至るまで連れて行き、すべての場所で喝采と賞賛を得た。”

すべてを投げ打って旅を重ね、息子の才能を開花させたレオポルト。モーツァルトとナンネルはその愛情に包まれて育った。5月29日聖セバスティアン教会の墓地に埋葬された。当時長編オペラの作曲に追われ、ウィーンを離れられなかったモーツァルトは父の葬儀に立ち会うことは出来なかった。

6月2日のモーツァルトの手紙。
”最愛のお姉さん!ぼくらの最愛のお父さんの突然の死を告げる悲しい知らせが、ぼくにとってどんなに辛かったか想像してもらえるでしょう。常に変わらぬあなたの誠実な弟。  W.A.モーツァルト。

幼い頃から支えてくれた父の死。それはモーツァルトにとってあまりにも大きな喪失だった。

60代の父の死というのが、この頃ではどのような死だったのか。妻マリアに先立たれ、娘ナンネルも結婚して家を巣立っていった。それでも自分は大丈夫だから心配するなといい続けていたレオポルト。子供たちにとってはこの上もない悲しみだったが、父の尊厳が守られたままで亡くなったというのは良かったのでは。

お互いに心から気遣ううちに永遠の別れが来たことは、むしろしあわせではないか。レオポルトはモーツァルトの活躍する姿を目にしてから亡くなった。なにより息子より先になくなったこと、順送りで親が先に死ぬことが出来たというのは、喜ぶべきことだ。

大きな影響力を持っていた父レオポルトが亡くなった。モーツァルトが自分の足で歩く本当の人生は、このときから始まったといえるのだろう。

この曲はやはり年齢とともに堀さんが言っていた成熟が感じられた。「毎日モーツァルト」の本が出版されたそうなので、探してみようと思う。最近ではあー、この第2楽章は観客からアンコールの要望があったものだ、などとすっかり生活の中に溶け込んできた。モーツァルトとの出会いというより、音楽のある生活の始まり、といったほうがいいのかもしれない。










もう少し大きくする

2006年09月29日 | Weblog
地元の「花新聞」も、NHKの「趣味の園芸」も、毎月送られてくる「園芸通信」という雑誌も、秋バラの特集に紙面を多く割いている。このあたりでは、寒暖の差が激しいので本州より秋バラの花の色が鮮やかなのだそうだ。バラの苗も増えてきて、来年にはもっと増える予定?ということで、砂利部分を取り除いてもう少し庭を大きくする計画を実行中。

一輪車に積んでは移動するということの繰り返しで、そんなに何時間も出来ない。いい加減、砂利をすくうスコップを持つ手にも力が入らなくなってくるからだ。以前の「素敵にガーデニング」で、オーストラリアの広大な土地を切り開いて庭造りをしたという例が紹介されていた。若かったから何でもできると思ったとその庭の持ち主はいい、実際、家も手作りなのだそうだ。

そういう時期もあったかなあと振り返りながら、もう限界というのも分かる年齢になったので、次の日にやるのも嫌だというほどまで行かないうちに、作業を止める。そうでないと続かない。

この間行った講習会では、今度はバラの苗を土中に埋めて土をかけるという越冬対策を教えてもらうことになっている。埋めるとなると左右の場所も必要になり、周りを囲むように宿根草を植えるということは出来ない。本州とはやはり相当な違いがあるようだ。その上に雪があれば、むしろ凍害にはならないということらしい。

雪が降ってからもバラの花はけなげに咲いていて、それを剪定してしてしまうのは不憫だ。こんなに大きくなった枝を切るには忍びないけど、枯れてしまっては元も子もないからねえなどと言い訳しながら。今の時期にはスーパーでも園芸店でも来春に咲く球根を売っている。バラは6月にならないと咲かないから、春一番にはチューリップやアイリスやムスカリに、ぱあっと明るく咲いてもらおう。なんだか考えるだけで楽しくなってくる・・・。



























『郡上一揆』

2006年09月29日 | Weblog
BS2で放送された2000年、112分、神山征二郎監督の日本映画。江戸時代に実際に起きた農民一揆を描いている。ドキュメンタリータッチで、農民の群集場面などは黒澤明監督の映画を思い出す。ただ過去の歴史を描いたという以上の、誇りを持って戦った農民に対する神山監督のほとばしるような情熱が感じられた。

江戸時代、宝暦4年(1754年)、郡上藩は藩の財政逼迫を解消する為にはと従来の年貢取立ての定額制から、収穫高に応じて税を納めるという「検見取り」へと変更することを庄屋に伝えた。いわば増税になるこのやりかたに、120余の村から集まった3500名の農民たちは藩に「検見取りお断り願い」を出した。

一旦はその勢いに押されて家老たちがその願いを聞き届ける書面を作って見せたが、藩はこれ以外に増税の見込みがないことから、この変更は幕府から命令されたものだということにする。重税にあえいできた農民たちは代表を出して、郡上藩の江戸の藩主屋敷に行き訴えるが聞き入れられないので、奉行所に訴える。当時一揆は禁じられていた。訴えた農民たちは命を懸けた戦いだった。

しばらく結果も知らされないまま江戸に足止めされたが、国に帰って謹慎する身になった。国元では郡代によって「検見取り」が強行されようとしていた。もう一度訴えて直訴しようと、道行く途中をつかまえて訴状を見せて訴える駕篭訴や、奉行所の前に置かれてある目安箱への箱訴を決行する。裁判の結果、郡上藩金森家は取り潰し、関係した老中、若年寄、勘定奉行、代官らの免職のほか、幕府や藩の役人にも処罰が及んだ。一方の農民たちにも厳しく、処刑14名、追放約100名、牢死19名の犠牲者を出した。

キャストには、父親の加藤剛から郡上の役に立つ人間になれと読み書きを教育された、戦いの中心的役割を担う定次郎役に緒方直人。その妻かよに岩崎ひろみ。生まれたばかりの子供は一揆の騒動が終わるころには幼女になっていた。放漫財政をなすがままという郡上藩主に河原崎健三。一揆側には他に永島敏行、山本圭、林隆三。庄屋に前田吟。宿泊する宿の亭主に篠田三郎。

夫婦役も妻役の岩崎ひろみが初々しくてよかった。やはり年輪を感じさせる加藤剛や山本圭は、過去にいろんな作品を見てきているのでなつかしい。農民の長い間の苦しみから来る不退転の決意や怒りを演じていた。

しかしこの土地の出身という神山監督が描こうとしているのは、「しぼりとられ、地をはい、足で踏みつけられるだけという百姓像は間違いで、文にも武にも長け法律をよくし、納税者の誇りを保つ毅然たるものたち、それが我らが祖先」「人間の誇りだけは捨てなかった者たちのことを映画にしておきたかった」のだと。

反対する農民たちが竹やりをもって続々と結集して来る場面の迫力には圧倒される。歴史を突き動かすエネルギーがこちら側にも伝わってきた。その中で一人一人が自分に向き合い、決意していく場面の人間ドラマもある。今で言えば1億円以上の闘争資金を集め、たびたび集まっては戦い方を決め、代表を江戸に送り、4年もの戦いを支えた。農民たちは烏合の衆ではなかったと描きたかったのだろう。裁判によって藩主だけではなく幕府の要人まで裁かれたのはこの郡上一揆だけなのだそうだ。

まだ身分制度に縛られた時代の抵抗する精神、こんな戦いを挑んだ歴史があったのかと、驚きとなにか勇気付けられるものがある。ずっしりと重い史実を描いた見ごたえのある映画だった。


















夷酋列像~秘められた悲劇~

2006年09月23日 | ドキュメンタリー
BS日テレ放送の「夷酋列像」謎のアイヌ絵、秘められた悲劇。まだ蝦夷地といわれていた頃の話。松前藩の兄を藩主に持つ家老でもあり、絵師でもあった当時26歳の蛎崎波響が描いたA3サイズのアイヌの長たち12人の絵。

鹿を担いで立ち上がろうとしている男、弓を構えている男。槍を持つ男。連れているのは白熊とヒグマだろうか。まるで絵の具を刺繍するように細部までリアリティがある。まだ鎖国の時代にあって、衣装が中国やロシアの色鮮やかな外国のものを着せている。当時としては特異なものであった。

寛政元年(1789年)、今から217年前。道東でアイヌの和人を襲撃した事件があり、死者71人を出した。和人への襲撃はクナシリ島で起こり、やがて対岸のメナシ地方へと飛び火した。クナシリ・メナシの蜂起として伝わっているものだ。

背景には和人がアイヌの人たちを暴力によって働かしたり、だましたり、女性への性的暴力があり、若い人たちが止むに止まれず立ち上がったというのが実態だった。松前藩からの鎮圧隊は260人。鉄砲85丁、大砲3門の重装備。このとき事態の収拾に奔走したのがアイヌの長たち。彼らの絵が「夷酋列像」である。

当時本州から蝦夷地に入ってきた商人は松前藩に金を払い、交易する場所の権利を手に入れ、自分たちに都合のいいルールでアイヌの人たちを酷使していた。松前藩は搾取、暴力、虐待の事実を知っていた。

説得された若者たちは根室のノッカマップに集められ、37名が斬首された。40日に及ぶ長旅になった。しかも松前に入る手前で待ったがかかる。綺麗な服装にさせよということで、蝦夷錦という中国製の衣装を着せて、隊を組んで凱旋行列をさせた。松前藩の大演出だった。武力によってアイヌ民族を滅ぼされないようにと戦争を避けた長たちの苦渋の決断。仲間の首と一緒など望んだことではなかった。

当時の幕府はロシアの南下を脅威に感じていた。老中松平定信は松前藩の統治能力に疑問を感じていた。交易商人からの借金の踏み倒し、密貿易の疑いがあったからだ。そうした中で起こったのが、クナシリ・メナシの蜂起。道東のアイヌの反乱で幕府の不信感は決定的になった。

松前藩は藩の取り潰しを恐れ、生き延びるために「夷酋列像」を利用した。異民族らしく立派な衣装を着せ、配下においていることを示したかった。事件の真相を隠し、アイヌ民族を屈強な異民族として描いた。

波響は家老という藩主の弟の立場とアイヌに同情的な気持ちの画家としての立場。この二つが見え隠れする絵になった。絵の評判は全国に広まり、大名や公家がこぞって閲覧したという。しかし、ロシアや中国製のきらびやかな衣装をまとうアイヌの姿は外国とアイヌが既に結びついている印象を与え、かえって不信を募らせる結果を招いた。

「夷酋列像」完成から8年、1798年幕吏、近藤重蔵がエトロフ島に「木標」を建立。エトロフ島は日本の領土であると宣言。1799年には蝦夷地が幕府直轄になり、1807年、松前藩は縮小されて福島県の柳川に移された。

さらに統治に乗り出した幕府は一方的にアイヌの和風化を進め、名前を日本名に、ちょんまげも結わせた。松前藩はそこまで強制はしていなかった。アイヌ民族は日本とロシアという二つの国に翻弄された民族だった。

札幌でアイヌ文様のデザイナーをして刺繍教室を開いている貝澤珠美さんは、この絵の謎を解く為に、ついにフランスのブザンソンの考古美術館に保管されているという一組の「夷酋列像」に対面する為に渡仏する。

一般公開されていなかったこの絵を、奥の扉を開けて案内してくれた女性学芸員スリエ・フランソワさんに、あなたはこの絵をポジティブに受け入れますか?それともネガティブに感じてしまうのでしょうか?と聞かれる。最初は虐げられたアイヌ民族を差別的に描いていたと対決姿勢を強めていた珠美さんはそこで、彼女からモデルになったアイヌを敬っていた。だからあのような表現になった。果たして波響以外の画家ならこういう形になっただろうかと問われ、敵意は次第にやわらいでいく。

さらに函館に来ていた宣教師が持ち帰った説があるという。フランス人宣教師メルメ・ド・カション神父。1858年函館に教会を開き、アイヌの存在を知る。布教目的ではなくアイヌの集落を訪ね、帰国後、1863年「アイヌ民族」という本を出版する。

アイヌ民族には文字がない。伝統は集落の長や詩人によって語り継がれる。アイヌ女性の子供への愛情は日本人よりとても深い。などと真の姿をヨーロッパに伝えようとした人物があったのだ。

この番組を見ながら、だいぶ前の話だが、資料展を見に行ったことがある知里幸恵さん(1903~1922年)のことを思い出していた。幸恵さんは祖母も叔母も口承文芸の伝承者で、はじめて「アイヌ神謡集」をまとめた人だ。

アイヌ文学の第一人者金田一京助にアイヌ語の重要な示唆いくつも与えたといわれ、その金田一の勧めで口承文芸の文学化に着手。短い期間に数々のノートと「アイヌ神謡集」の原稿を残したが、病弱だった身体で滞在先の東京で19歳でなくなった。のちに北海道大学の教授となるアイヌ語学者、知里真志保さんはその弟に当る。

珠美さんは講演会などに招かれてみると、余りにもアイヌのことを知らない人たちが多い。アイヌ文様を実際の生活に使って知ってもらうことで、アイヌ民族のことまで関心を持ってもらえればと、大きな黒い瞳でしっかりと前を向いて話していた。歴史の中の架け橋になりたいと・・・。





















充実した日々

2006年09月17日 | Weblog
ニュースを見ると、九州方面で台風13号の被害が大変らしい。交通機関にも影響が出ているようだ。列島の長さが関係して北から南から随分様子が違う。毎日モーツァルトは、そろそろデジタルのDVDを買ってきて永久保存版作り。予約のダビングにするとファイナライズも自動的にやってくれることがわかった。

毎日モーツァルトは、第116回アンダンテ。ピアノ協奏曲第22番変ホ長調。K.482.第2楽章より。
ゲストは作家の永井道子さん。
これも耳慣れた曲だなあと聞いてたら、ある日、うっ?と思ったんです。第2楽章。違う、私、理解してない。モーツァルトの美意識というか、短調の悲しみではなく長調の中になんともいえない悲しみというか、悲しみといっちゃいけない。もっと深い人生に対する思いみたいなものをモーツァルト自身は意識していないかもしれないけれど、それがあるんですね。

そういうものに行くポイントとして、もしかしたらK.482というのは大きな問題を含んだ名曲なのかなあという、これはまったく、私自身が考えてウロウロしているだけなんですけど。・・・

永井さんはずっとモーツァルトをお聞きになってきた方にしかいえない、深い疑問というのか、洞察をおっしゃっていて、是非、それをなにか1文に表して、公にしていただきたいものです。

1785年2月、充実した日々を送る29歳のモーツァルト。大作オペラ「フィガロの結婚」の作曲に取り掛かっていた。そんなモーツァルトのもとに、慈善演奏会の出演依頼が届く。

12月23日ブルク劇場で音楽家の遺族支援のための慈善演奏会が開かれた。皇帝ヨーゼフ2世のほか、多くの貴族も列席した。ウィーンを代表する多くの音楽家が出演料なしで参加する。「ピアノ協奏曲第22番」はこの演奏会でモーツァルト自らが披露した。

オーボエの替わりにクラリネットを使うなど新しい試みも行った作品。第2楽章は「アンダンテ(歩く早さで)」でゆったりと甘美な主題が変奏されていく。翌日の新聞にはモーツァルトへの賛辞が掲載された。「ウィーン新聞」1785年12月24日。
”モーツァルト氏が自身の作曲になるピアノ協奏曲を披露したが、それが大きな評判を得たことについては、これ以上触れる必要はない。まことに著名な巨匠の名声はさらに高まるであろう。”演奏終了後、感動した聴衆の間からは、アンコールの声が沸きあがった。それは第2楽章をもう一度聞きたいというものであった。

1786年1月13日、それを伝え聞いた父レオポルトは娘ナンネルに次のように書き送った。
”ヴォルフガングは演奏会のために変ホ長調のピアノ協奏曲を作ったが、そのとき、ちょっと珍しいことにアンダンテをアンコールされたそうだ。”1785年を締めくくる最後の演奏会は聴衆の大喝采の中で幕を閉じる。

モーツァルトもついに登りつめて巨匠になった。35歳の生涯を考えると決して早すぎるということはないんだけども。そういうことになって、作品の完成度も高くなり、難しくなってくるという側面があったかもしれないねえ。この作品ではたとえノーギャラの慈善演奏会でも手を抜かずに新しい試みを行う、という意欲に満ちた自信が溢れる時期でもあったのだろう。

最近ではモーツァルトを聞くほどに、また17歳の頃の若々しい曲、交響曲25番の第1楽章の一気に畳み掛ける調べに魅力を感ずるようになった。映画「アマデウス」で効果的に使われていた曲だ。晩年の天上の音楽のようなものと違う、生き生きとした生命力、だれないで最後まで持っていく迫力を素晴らしいと思うようになった。もしかしたら、これが一番の傑作かもしれないなどと・・・。
















永遠の別れ

2006年09月03日 | Weblog
昨夜の放送で、今年のモーツァルトの誕生日にザルツブルクで行われたウィーン・フィルのコンサートは素晴らしかった。日本人ピアニスト、内田光子さんの演奏も誇らしく、日本人のモーツァルトもここまで来たんですよというようだ。まるで歌うように、他の楽器と掛け合うように音が流れて行き、時間も忘れてすっかり魅了された。

毎日モーツァルトは第114回、父の帰郷。幻想曲ハ短調。K.475より。ピアノ、ラルス・フォークト。
ゲストは作家の赤川次郎さん。
これはモーツァルトの曲ということを知らないで聞くと、ロマン派の音楽か思うぐらい、形式というより感情を表すことに重点が置かれた曲だと思うんですね。勿論、最後にはきちんと形も整っていますが。最初からショパンかシューマンかという出だしで始まって、あの当時のピアノで弾いたら、どんな音がしたのかというきがちょっとしますけど。

やっぱりとてもスケールの大きな曲になっていると思いますし、もう古典派という言葉でくくることに無理がある。形式に従って書いていればすむっていう存在じゃなかったわけだから。そういう点では一番モーツァルトの型破りなというか、枠に収まりきれない面がよく出た曲だと思いますね。

たしかにドラマチックな感じがしました。型に納まりきれないというのは勿論のこと、およそ5歳の「きらきら星」から始まって30年間で700曲という曲を作ったというのですから。想像を絶する仕事ぶりですね。なんでも夜中から朝方にかけて、猛烈なスピードで譜面に書いていったということですし。もうなにもかも、常人には考えられない才能、としかいいようがないですねえ。

1785年、「幻想曲ハ短調」が作曲された。幻想曲とは即興演奏のように自由に構成された器楽曲のこと。この曲はモーツァルトの弟子であったトラットナー夫人に献呈された。

1785年3月、モーツァルト父子はアロイジア・ランゲ夫人宅に招待された。コンスタンツェの姉で、かつてモーツァルトが恋したアロイジア。今は結婚しランゲ夫人になっていた。ソプラノ歌手のランゲ夫人はアリアを披露した。

レオポルトの手紙、1785年3月25日。
”ランゲ夫人がアリアを歌うのを聞きましたが、彼女が最高度の表現力を持って歌うことはまったく否定できません”

かつてアロイジアとの交際に強く反対していたレオポルトだが、ランゲ夫人となったアロイジアと交流を深めていった。4月下旬、レオポルトのウィーン滞在は2ヵ月半が過ぎようとしていた。

大司教から許された休暇は6週間。予定を大幅に上回る滞在に大司教は帰郷を促した。4月25日モーツァルト夫妻はウィーンを発つ父を途中まで見送った。プルカースドルフはウィーンの西、およそ12キロ。峠のふもとにある交通の要の町。ここで人々は郵便馬車を整え、各地へ向う。

プルカースドリフはリンツへの旧国道にある最初の郵便馬車の駅だった。ウィーンでは演奏会や作曲で大忙しのモーツァルト。妻のコンスタンツェも同行して、くつろいだ家族の時間を持つ。モーツァルト一家は馬車が出発するまでの間、昼食を取った。そして名残を惜しみながら、それぞれの帰路につく。それがモーツァルトと父との永遠の別れとなった。

なんでもない時間のなかにモーツァルトと、それを取り巻く人間との関係が大きく変化していたというのがわかる。旅というのが当時はつらいものと考えられていたようで、父レオポルトにとっても、馬車の旅は重労働だったのだろう。

モーツァルトの番組に出会ってから、いまや、モーツァルトなしでは考えられないくらい、毎日聞いている。聞くほどに好みも出てきて、やはり言葉が入っているものはどうしても考え方に時代的な制約があり、なじめないなあという感じだ。それでも、紀伊国屋で歌劇「魔笛」の映画版DVDというのを仕入れてきたので、聞いてみようと思う。なんといっても監督がイングマール・ベルイマンだったというのが大きい。これは見逃せない。