FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

最後の砦

2006年10月31日 | Weblog
今夜当り平野部でも雨が雪に変わるかもしれない、というありがたくない天気予報が出た。いよいよ雪が降る。連日のいじめによる子どもの自殺が報道されているところへ、今度は校長までが必修漏れを苦に自殺したのではないかというニュース。

そういう中で、保健室が子どもたちにとって「最後の砦」になっているという記事があった。女性教諭たちがいじめの予兆を捕らえ、「何かあったの?」と聞き出して、聞き終えた時には3時間も経っていたりしたそうだ。

あと少し何とか持ちこたえれば、必ず新しい世界が開け、もっと違った人間関係が築けるはず。養護教諭の「保健室は最初に問題を発見できる場所。同時に最後の砦」。「見逃さず、問い詰めず」。成績や評価に関係しない、ちょっとした緩衝地帯があれば、子どもも救われる。

もう一つうれしい記事。アフガニスタンで倉庫代わりだった教室にあった数千冊の教科書が、5月、男たちによって放火された。女子教育に反感を持つイスラム原理主義勢力のタリバーン残党の仕業ではないかと疑われている。アフガニスタンの映画のなかで大統領になりたいという女性の話があったが、現実にはまだこんな未開の土地のような話がある。

それでもあきらめずに女子教育に携わるマフムド先生がいる。「知識がなければ就労の機会もない。女子にこそ学ぶ機会を与えなければ」(これは今の日本でもそっくり当てはまる言葉。)タリバーン政権下でもその信念が揺らぐことなかったそうだ。成人の識字率、男性43パーセント、女性14パーセント。

今年になってから、反政府活動が活発になり、女子校ばかりか、共学校までも襲われている。240校が休校に追い込まれという。9月20日、トラック3台分の真新しい教科書が届けられ、授業がようやく正常化された。事件後、登校をためらう子どもは一人もいない。「みんな学ぶことが好きなんです。その気持ちを暴力で抑えつけることはできません。」


(写真は温泉の駐車場で。果たしていつものコンチャンなのかどうか・・・。)













『アルナの子どもたち』~パレスチナ難民キャンプでの生と死~

2006年10月28日 | Weblog
2004年/イスラエル=パレスチナ/84分。イスラエルの平和運動家、アルナ・メールはジェニンの難民キャンプで子どもたちへ「支援と学習」という事業を行っていた。スウェーデン議会から送られた「もう一つのノーベル平和賞」の賞金で子ども劇団を作り、息子ジュリアノに指導させた。アルナ亡き後、和平ムードは壊れ、封鎖や攻撃も強まり、難民キャンプでの活動は出来なくなっていた。この作品の監督でもあるジュリアノが再びその場所を訪れ、子どもたちのその後を、過去の映像とともに追っているドキュメンタリー映画。

映像の中で、アルナがステージから学習と自由という言葉を訴え、自由と平和が結びついているというようなメッセージを叫びながら子どもたちへ送っていたシーンには、胸を揺さぶられた。自由の意味を自覚するには学習しなければならない。無知から目覚め、平和でなければ自由はない、ということをアルマとの活動から学んでいったこどもたち。

こどもたちは人格を持った人間として扱われることで笑顔を取り戻し、将来は俳優になりたいというような夢が語られたりしていた。イスラエル軍の攻撃によって、家を破壊された子どもがいると、アルマは自分へ攻撃させ、紙を引きちぎらせて怒りを表現しなさいという。

その事実をじっと耐えていたような子どもはそこでようやく感情を表に出した。そういう毎日の過程が、抑圧され続けてきた彼らに怒ることが人間として当たり前なんだ、という誇りを自覚させたのではないだろうか。難民キャンプが潰された後にも、こういうアルマから受けた教育の原点とも言うべきものが、彼らの胸の中にはしっかりと刻まれていたのだろう。

しかし、アラブの名優オマー・シャリフのような俳優になりたい語っていたユーセフは、もっと別な世界へ飛び出して行くことも出来ない。イスラエルの攻撃は前にもまして強くなり、ある日、現場に行ったユーセフは自分が抱きかかえていた腕の中で少女が亡くなるという事態を経験する。この出来事を境にユーセフは大きく変わったようだと同じ難民キャンプで一緒だった仲間がジュリアノに語る。

ユーセフはその後、イスラエルへ行って市民に銃撃を加え、イスラエル軍から射殺された。殉教者として、二度と帰ってはこないという覚悟のビデオを残していた。一緒に行動したもう一人もその場で殺された。

瓦礫の中で悄然となっている状態から、怒りを表現することを教えられた子どもも、決して降伏しないと今では抵抗する仲間たちのリーダーとなっていた。彼の母親は無傷でイスラエル軍を帰してはならない。たとえ自分が殺されても降伏はするなと息子に言う。家を攻撃されてもテントで暮らせばいいのだと。

降伏を拒絶する彼がついに攻撃の標的となり病院へ運ばれてくる。そばには泣き叫んでいる母親と家族。まだアルマといた頃の映像が流れされると、見ているほうもたまらなくなる。生き残ったその頃の仲間は淡々と、亡くなった彼が生まれたばかりの子どもを抱いている写真を壁に貼っていく・・・。

ジュリアノ監督と日本人映画監督で「A」「A2」の作品がある森達也さんの対談が載っていた。イスラエルの女子学生が見終わった後、泣きながら立ち上がって「驚きました。私はパレスチナ側にも、夢を持っていて、笑っていて、こんなにかわいい子どもたちがいるなんて全然知りませんでした」といったそうだ。森さんは「オウムだけじゃない。北朝鮮の工作員もアルカイダも、みんな泣いたり笑ったりする同じ人間なんですよ」。

ジュリアノ監督は他人の助けを求めている可哀そうな人たちとしてではなく、誇り高く、自分たちの権利の為に戦い、運命を自分たちの手で解決しようとする新しいパレスチナ人のイメージを描きたかったと語っている。

あれだけ笑っていた子どもたちが、今はほとんど生き残っていないという過酷さ。イスラエル側の人間であっても、アラブの血も流れているジュリアノ監督であればこそ、こういう現状をどうしても映画の中で訴えたかっただろう。イスラエル軍は今年になって再び、レバノンで同じような子どもたちを生み出している。



























ふさわしい曲は

2006年10月13日 | Weblog
昨夜からファイターズ優勝で、こっちは大変な騒ぎ。その前夜からプレーオフの試合の生放送があり、スタジアムも4万3千人で超満員の盛り上がり。ヒルマン監督へのインタビュー。優勝したことは「信じられないー!」胴上げされたことは「もう一度お願いしますー!」スーパーでも優勝の値引きがあるかなあーとそっちも気になる。

毎日モーツァルトのほうは、あまり優勝にふさわしくない?第120回メランコリー。ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488.第2楽章より。

ゲストはザルツブルク在住のピアニストの小菅優さん。
すごく悲しいというか、不気味というか、こわい部分があるんです、この曲は。弾くのがすごく難しいし、いくら追究しても、コンサートで表せるのかって思うんです。モーツァルトに話しかけるようにして、モーツァルトの身になって考えてみて、でも難しいから、何回弾いても考え直さなくちゃいけないと思うんです。質問したいことが一杯あって、この曲はいつ、どういう風に調べたのかなとか、あなたはどういう気持ちで書いたのって、問いかけるような感じですね。

1786年3月、モーツァルトは春の予約演奏会に向けて、新たなピアノ協奏曲を完成させる。現在最も広く親しまれているピアノ協奏曲の一つ「第23番」。完成から5カ月後、この曲をめぐって思わぬ展開があった。ドナウ南部に位置する風光明媚な地、ドナウエッシンゲン。

1786年夏、新たな収入の道を模索していたモーツァルトは、この曲を遠方のゆかりある貴族へ提供することを思いつく。フュルステンベルク侯爵。ドナウエッシンゲンの領主で、音楽愛好家。侯爵はかつてこの地を訪れたモーツァルト親子と出会い、当時10歳のモーツァルトの才能に驚き、親子を厚くもてなした。そして別れに際して、涙を流して悲しんだという。モーツァルトはそんな思い出から、知人を介して侯爵に曲の提供を申し出る。

1786年8月8日、モーツァルトの手紙。
”もし侯爵様がお好みの曲を注文してくださるお気持ちがあれば、そして何がしかの年俸を与えてくださるならば、いっそう早くより本腰を入れてご期待にそえるでしょう。”

侯爵はモーツァルトの申し出を受け入れ、「ピアノ協奏曲第23番」を含む3曲の楽曲を購入する。第2楽章に表れる陰影にとんだメランコリックな調べ。音楽家として名を馳せるモーツァルトにやがて訪れる人生の陰りを暗示するように、憂いを秘めて流れ続ける・・・

ゲストの小菅さんが言うように、何か思うことがありそうな曲調。それでも3歳にしてはじめて出合ったこれ以上ないおもちゃとしてのクラヴィーア。それがどんなに悲しく重い調べでも、どこか音楽することへの喜びがモーツァルトの曲には残っている気がする。だから聴いていて楽しいのだ。仕事ではあっても、音と戯れているとすべてを忘れるんだよ、というモーツァルトの声が聞こえてきそうだ。

その楽しさが一番感じられるのがやはり、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」だろうか。ピアノではないが、父レオポルトから手ほどきを受け、ザルツブルクの宮廷ではヴァイオリンを弾いていた。これならファイターズ優勝を祝して、曲を流せるかもしれない。



















いらない人はいない

2006年10月06日 | Weblog
どこかで救急車の音が聞こえるなあと思いながら国道を運転していたとき、ふと後ろを見たら、そこに救急車がー。ウィンカーを出して左の路肩へ。かなりあわててしまった。今日の毎日モーツァルトは、ゲストの言葉が胸に響いた。(本の中でも読んだものだ。)

毎日モーツァルト第145回、プラハ再訪。オペラ「ドン・ジョヴァンニ」K.527.序曲、第1幕より。

ゲストはジャーナリストの江川紹子さん。
モーツァルトって、どんな人もその人の個性とか、その人の生活とか、一所懸命考えていた気がするんですよ。世の中いらない人はいないっていうか、どんな人にも個性があって、生活があって。そういうものをすごく大事にしていたんじゃないかなって思うんですよねえ。

たとえば「ドン・ジョヴァンニ」のドン・オッタービオというテノールがいますね。あの役というのはどっちかというと、見ててそんなに魅力のある男性ではなく、ちょい役にしてもおかしくないと思うんですね、ストーリー展開からいうと。でもあのドン・オッタービオにすごく綺麗なアリアを2曲与えているんですよ。

客観的に見てつまんなそうな男でも、こんな素敵な面があるっていう、そういうモーツァルトの博愛主義的な、人間はみな、それぞれ個性があって素敵な面があるっていう、そういうところを象徴している気がするんですね。

1787年夏、モーツァルトは新しいオペラの作曲に全力を注いだ。作品を発注したのはプラハの興行師、パスクワーレ・ボンディーニ。「フィガロの結婚」が大当たりしたので、第2弾を狙ったものだった。ハプスブルク家のお膝元ウィーンから遠く離れたプラハでは、モーツァルトの自由あふれるオペラが大いに歓迎された。

台本は「フィガロの結婚」と同じ、ロレンツォ・ダ・ポンテ。この年の2月にベネチアで初演された「ドン・ジョバンニあるいは石の客」を下敷きにすることにした。稀代の色事師ドン・ファンの伝説をオペラ化したものである。

”モーツァルトは題材の選択を私に任せてくれた。私は「ドン・ジョヴァンニ」を選んだが、モーツァルトはこれにすっかり魅了されてしまった”(ダ・ポンテの回想録)

1787年10月1日、モーツァルトは「ドン・ジョヴァンニ」の楽譜を抱え、コンスタンツェと共にウィーンを出発した。しかしオペラはまだ三分の一ほどが未完成のまま、残りはプラハで書き上げなければならなかった。

プラハに着いたのは10月4日、初演は10日後と決まっていた。「ドン・ジョバンニ」の舞台はスペインのある町。第1幕、放蕩を極める若い貴族ドン・ジョバンニが令嬢ドンナ・アンナの部屋に忍び込むが抵抗される。アンナの父である騎士長が出てきて、争いとなり、騎士長は殺されてしまう。アンナは婚約者のドン・オッタービオと共に復讐を誓う。

ドンナ・アンナ”ああ!あなたに出来るならいつまでもこの血に復讐すると誓ってください”
ドン・オッタービオ”あなたの眼(まなこ)にかけて誓いましょう。私たちの愛にかけて誓いましょう”

プラハ到着後、モーツァルトは親しい友人であるドゥーシェク夫妻の別荘、ベルトラム荘で作曲を続けた。思ったように作曲がはかどらないまま、初演の予定日10月14日が迫っていた。

ゲストの江川さんが言った素晴らしい言葉(もちろんモーツァルトも素晴らしい)は既に出版された本の中で読んでいたが、いつの日の放送か分からなかった。それが今日、画面に出てきたとは・・・。

ここ数日の新聞やTVでは、いじめを苦に学校の教室に行って首吊り自殺をした12歳の生徒のニュースが取り上げられていた。それをようやくいじめと認めた市長などが自宅に行って謝罪した、という報道が出ていたばかり。

学校現場では先生も子供をかばう防波堤ではなくなっているという現実。毎日子供を送り出す親の側も忙しく、生活に明け暮れて、競争社会の中で生きている。それでもいざというときには、この世に生まれた人間にいらない人はいない、とどういう風に子供に伝えるのか。この放送を見たのはそんな思いの中にいたときだった。CDで、ドン・オッタービオの曲をもう一回聞いてみよう・・・。












新しい弟子

2006年10月04日 | Weblog
朝から天気で、気温が上がると長袖を半そでに着替えた。ちょっと汗ばむくらいになっている。毎日モーツァルトは第119回、フンメル。ピアノ協奏曲第24番ハ短調。K.491.第3楽章より。1786年、モーツァルト30歳。

ゲストは華道家のかりやざき省吾さん。
このコンチェルトは、子供の頃にピアノ発表会があって、この短調の曲を先生と二人で弾いて見ませんか?ということで、2台のピアノで弾かせてもらった。大曲ですし、間違えました何回も。それでもこのハ短調の曲だけは、最初から最後まで弾かせていたいただけたので、私にはなつかしいし、コンチェルトというと、このハ短調になるんです。それで、ストックに水仙といった、コンチェルトの華やかな雰囲気、独奏曲にないオーケストラとの美しいハーモニーを描き出すようなイメージで、活けてみました。

1786年はじめ、モーツァルトのもとに、ある父子が訪れる。幼い頃から、指揮者である父親から音楽の教育を受け、ピアノやヴァイオリンの演奏に才能を示す。父親はフンメルを弟子にしてほしいとモーツァルトに願い出た。

モーツァルトはフンメルをピアノの前に座らせ、その7歳の少年が奏でるバッハにじっと耳を傾けた。次に自分の作品をフンメルの前に置く。フンメルの初見演奏の実力を見極めるためだった。

モーツァルトはその演奏を聴くと顔を輝かせ、フンメルの父の元へ駆け寄り、こういった。”この子を是非私のところへ置いていきなさい。私が目を離しません。この子はものになりますよ。”(フンメルの父の回想より)

「ピアノ協奏曲第24番」は1786年、4月、当時のブルク劇場で初演されたとされる。フンメルもこの曲を好み、彼が演奏した即興部分が楽譜として今も残されている。フンメルはモーツァルトの弟子として2年間共に暮らし、音楽家としての才能を発揮させていく。

アイゼンシュタットのエステルハージ家に仕える作曲家ヨーゼフ・ハイドンもフンメルの実力を高く評価し、楽士長を退くに当って、青年となったフンメルを後任に選んだ。フンメルはピアノ曲や室内楽曲など、数々の名曲を残し、ヨーロッパを代表する音楽家として活躍した。

約30あるピアノ協奏曲のうち、短調の作品は2曲しかなく、この24番と20番ニ短調のみ。20番もドラマチックな曲想になっているが、これもオーケストラのスケールの大きさと、ピアノの独奏から来る華やかさが感じられる。

当時は活躍したであろうフンメルも250年後には聞かれない名前。モーツァルトは時代を飛び越え、音楽の楽しさばかりでなくいまや安らぎの時間となり、身体中の細胞が呼吸を取り戻していく・・・。



















真っ赤な表紙の本

2006年10月03日 | Weblog
真っ赤な表紙に装丁された「毎日モーツァルト」の本が手に入った。こんな本があれば、手っ取り早くて番組の感想を書く必要もなさそうなんだけど。まあ、自分が苦労して書くのはまた別の楽しみ、というところだろうか。ナレーションの声を担当している俳優の山本耕史さんの話も載っている。今ではすっかりファンになり、CMも喜んで!見たりするほどになった。

モーツァルトの《物語》や、曲の時代背景の説明もあり、写真付きでわかりやすいものになっている。父レオポルトは、ヴォルフガングを身分の高い女性と結婚させたいと思っていたが、モーツァルトには「逆玉の輿」の趣味はなく、人間は平等という意識がいつもどこかにあったようだ。オペラに登場する庶民の女性たちは、皆生き生きと魅力的に表現されている、と書かれている話は印象深い。

これはちょうど、ゲストの江川紹子さんが、「モーツァルトは博愛主義を大事にしていた人、たとえば『ドン・ジョバンニ』のドン・オッターヴィオは、魅力ある男性ではないし、ストーリー展開からして、ちょい役でもおかしくないが、彼にすごくきれいなアリアを2曲も与えている。一人ひとりの人間が、それぞれの命を輝かせるためにどうすればいいか。このことについて考えるとき、モーツァルトの発想はとても大事だと思う」という素晴らしい話と合致する。

~あとがきにかえて~の安田和信さんはまた、「彼と同時代のヨーゼフ・ハイドン、サリエリ、クリスティアン・バッハなどの作品を聴けば、モーツァルトの音楽が、当時の標準といかにかけ離れていたかを、はっきりと実感できるはず。それゆえ素晴らしかったといえるが、斬新すぎて受け入れてもらえなかったとも想像できる。「交響曲第40番」(K.550)に至っては、20世紀初頭の作曲家シェーンベルクが提唱した、調性によらない12音技法に似た動きをする箇所まで出てくる。しかもモーツァルトは意図的に行っている」という時代を超えた天才ぶりを解説している。

毎日モーツァルトを聴くようになってから、音楽の記事やニュースにも目が行くようになってきた。この間にはオペラ「イドメネオ」の上演が、(たしかドイツでだったと思うけど)、イスラム教徒の生首が登場するシーンがあったので、情勢に配慮して中止になったと新聞に載っていた。

地元の札幌でも、「魔笛」の日本語訳したものが上演されたらしく、その音楽評が載っていた。パパゲーノをかなり膨らませて、主役のようにしていたということだった。出来れば日本語訳した歌を歌ってもらいたいと考えていたので、こういう親しみやすさはうれしい。

文化庁による「アジア・オーケストラ」のフェスティバルが東京と大阪で公演があるらしく、それに「ハルビン黒竜江交響楽団」が招かれて来日する。旧満州国時代に、日本の影響を強く受け、故朝比奈隆さんも常任指揮者をつとめた歴史があるそうだ。東北アジアの現代史そのままに、幾たびも改名や解散を経たが、中国人だけのオーケストラに生まれ変わって戦後はじめて日本の土を踏む、という記事だった。

中国の地に無理やり傀儡政権を作った満州国で、なにかしらその土地の文化に貢献することもあったのだ、と読んでいてホッとするものがあった。

(写真は、いつも行っている温泉の駐車場にこのごろ登場した白樺の馬?それとも鹿?ふたつ揃えば・・・)

























二人の作品

2006年10月02日 | Weblog
庭仕事も新しい場所が増えて大きくなったことで一段落。まだちょっと痛いところがあっても、来春はどうなるかと楽しみのほうが大きい。朝晩の風に加えて、夕暮れ時の寂しさは、足早に去っていく秋とその後の長い冬を感じさせる。

毎日モーツァルトは第118回、ソプラノの競演。音楽劇「劇場支配人」K.486.第3曲、第4曲より。1786年、モーツァルト30歳。

ゲストは漫画家の里中智子さん。
やっぱり文化というのは、活力のあるところで生まれるんですね。出きれば十分時間があって、十分資金があって、かなう限りのぜいたくな条件で演奏してもらって、耳も肥えたお客様がたくさん聞きに来られて、そういう大舞台というのはやはり張りがあります。モーツァルトが大都会に出たのは無理がないし、出てくれたからこそ、いろんな作品も残せたんだと思います。

ヨーゼフ皇帝はオランダ総督のウィーン来訪を歓迎するために、ドイツ語とイタリア語の二つの音楽劇を競わせる趣向を思いつく。ドイツ語はモーツァルト、イタリア語はサリエリが作曲することになった。

モーツァルトの音楽劇「劇場支配人」は、1786年2月7日、シェーンブルン宮殿のオランジェリー(大温室)で初演された。第3曲はプリマドンナを巡って、競い合う二人のソプラノ歌手の歌。歌手ヘルツ夫人役はかつてモーツァルトが恋した、妻コンスタンツェの姉、今はランゲ夫人となっているアロイジア・ランゲ。もう一人の歌手ジルバークランク嬢役は、カタリーナ・カヴァリエリ。

ヘルツ夫人”プリマ・ドンナは私よ”
ジルバークランク嬢”プリマ・ドンナは私よ”
男性歌手”なぜ二人はそんなに優劣を決めたがるんだい?”
ヘルツ夫人とジルバークランク嬢が交互に、”私の歌を聴いた人たちは みんな素晴らしいって言ってくれるから”
男性歌手”みんなそれぞれ素晴らしさがあるじゃないか”

第4曲、三重唱
”芸術家は自分を輝かせるために努力しなければならない。芸術家がおごりを覚えるとその輝きを失ってしまう。
男性歌手”みんなが一つにまとまることがもっとも美しいものだと思う。
女性歌手”芸術家が成し遂げたあらゆるもの、それは本当に素晴らしいものだわ”最後にまた三重唱。

モーツァルトとサリエリ、二人の音楽劇はウィーンのケルントナートーア劇場でも上演された。二人の作品には聴衆から惜しみない拍手が送られた。

里中さんがおっしゃるように、モーツァルトはウィーンに出たからこそ後世に残るような作曲をした。ということは、あのザルツブルクの頑固者と腹を立てた大司教と喧嘩してくれたお陰で、こうして毎日モーツァルトを聞いていられる?大作曲家ハイドンの弟だったか、生涯ザルツブルクで我慢して一生を終えた宮廷音楽家もいたんだよねえ。何がいいのか悪いのか・・・。