FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

『鞄を持った女』

2006年04月12日 | Weblog
1961年/イタリア/122分。ヴィスコンティ監督の『山猫』に出ていたクラウディア・カルディナーレ主演の白黒映画。若いジャック・ペランが16歳の役で出ている。質のいいイタリア映画がドンドン日本に入ってきた頃の映画。NHKの放送で試し!に見たのが、とうとう引っ張られてエンディングまで付き合った。これが予想以上だった。

クラブの歌手アイーダ(クラウディア・カルディナーレ)は知り合った男と二人旅にでる。しかし、実家近くまできたとき、彼女と鞄を放り出していってしまう。アイーダは知らない町で途方にくれながらも、なんとか探して男に会うことになったが、大きな屋敷から出て来たのは弟のロレンツォ(ジャック・ペラン)だった。

困り果てているアイーダを見てロレンツォはお金をこっそり工面したり、兄に代って彼女を助けようとする。男に裏切られてきたアイーダも次第に彼を受け入れるようになる。ロレンツォは母親は既になく、兄と共におばの下で暮らしていた。ある日、父親代わりの神父がアイーダに会いに来て、純粋なロレンツォが傷つくのを恐れ、アイーダに町から去ることをすすめる。・・・

綺麗なんだけど、ちょっとハスッパな役どころというのが彼女にはよく似合うようだ。災難ばかりと嘆くアイーダをなんとか慰めたりのロレンツォ。アラン・ドロンの次世代のように期待されたジャック・ペランがどういう映画に出ていたのかしらなかった。

次第にフランス映画もイタリア映画もハリウッド映画に押されて、余り話題にならなくなっていった。ジャック・ペランはそういう時期に重なって不運だったような気がする。これはデビュー作なのかどうか。折れそうな体から来る純粋さが漂って初々しい。

アイーダとロレンツォはおよそ違う世界に住む二人が、心を通わせるようになる。彼女を見守ろうとするロレンツォがなんとも切ない役回りだ。クラウディア・カルディナーレは体当たりの演技を披露している。肉体派女優!に見えても、当時は女優といえどもむやみに露出しないんだよねえ。

このあたりは一番時代の空気を感ずるところ。何でもありの今とは違うんだなあと。ジャック・ペランの彼女をひたすら思う気持ちが画面から伝わってくる。彼の清潔感がこの映画を安っぽさから救っていたのかもしれない。クラウディア・カルディナーレの演技力も見直した。

いいと思わなかったら途中でやめようと見始めたものが、予想したよりはるかによかった。映画『WATARIDORI』で白髪になって登場してきたときにはびっくりしたよー。こんな良質な青春映画に出てたんだねえ。








『ヴェニスの商人』

2006年04月11日 | Weblog
2004年/アメリカ/イタリア/ルクセンブルク/イギリス/130分。シェイクスピアの有名な原作の映画化。映画になったのははじめて見た。ユダヤ人の高利貸しシャイロックを懲らしめて一件落着という原作のイメージだったものを、シャイロックの差別され続けたユダヤ人としての言い分をかなり膨らませて現代へ投影させているように思えた。

そこに今、映画化する意味があるということなのだろう。アル・パチーノ、ジェレミー・アイアンズ、ジェセフ・ファインズなど、シェイクスピアを演じられるうまい役者が揃った。ヴェニスの街並み、16世紀をあらわす衣装など、重厚で見ごたえがある。

16世紀、1596年のヴェニス。自由主義を掲げる都市国家ヴェニスでも、ユダヤ人への差別と迫害は行われていた。彼らは塀のある工場跡ゲットーに住み、夜にはキリスト教徒が門を施錠して、番をした。日中、外出するときには赤い帽子をかぶらなくてはならない。土地の所有を禁じられ、彼らは高利貸しを営んでいた。これはキリスト教に反する行為として、狂信的反ユダヤ主義者の標的になった。

バッサーニオ(ジョセフ・ファインズ)はアントーニオ(ジェレミー・アイアンズ)に財産を使い果たし、どうやって借金を返すかと相談にやってくる。ベルモントにいる財産を受け継いだ美しい女、ポーシャ(リン・コリンズ)の求婚者になるためにと。

アントーニオは自分の信用でどれほど借りられるかとユダヤ人の金貸し、シャイロック(アル・パチーノ)の借金を申し込む。シャルロックは3000ダカットを3ヶ月としたが利子は取らず、代りにアントーニオの体の肉、1ポンドを担保としてなら金を貸すという条件をつける。

バッサーニオは首尾よくポーシャと結婚の運びとなったが、アントーニオは船の財産を失ってお金を返せなくなった。シャイロックはアントーニオを被告として裁判に訴える。慈悲はないのかという声をきかず、お金ではなく正義を求める。アントーニオの心臓の近くの体の肉1ポンドをいただくというが・・・。

見ている間に、以前見たアル・パチーノのシェイクスピアに関係した映画のシーンがなんども現れては消えた。あれはどういう題名だったのかと懸命に記憶を手繰り寄せてみた。アメリカ人へのシェイクスピアを知っているか?という街頭インタビュー。実際にアル・パチーノがシェイクスピアの役を演じていた。ケネス・ブラナーにわざわざセリフのことなど聞きにいって、セリフにはこういうリズムがあると教えられていた。

映画を見終わってようやくそれがわかった。1996年のドキュメンタリー映画『アル・パチーノのリチャード三世を探して』というものだった。あのころからシェイクスピアを演ずることに情熱を燃やしていたのだろう。彼にとっては念願かなってのシェイクスピア役者なのだ。

最大の見せ場である1ポンドの肉はとってもいいが、血は一滴も流してはならないという有名な裁判のシーン。ここでのアル・パチーノは単なる悪役ではないセリフで、これまでの演技の集大成といってもいいほど見事だった。

慈悲はないのかと問われてー。
無実の身に恐れるものはない。あなたがたは大勢の奴隷を買い取り、犬かラバのように扱い、金を払ったからと卑しい仕事をさせる。彼らを自由にしては?娘の婿にどうだ?なぜ重労働させる?彼らにもやわらかいベッドをー。あなた方と同じご馳走をー。私が要求している1ポンドの肉は金を出して買ったもの。私のものだ。却下されるなら法律などくそくらえ。ヴェニスの法は有害無実となる。・・・

ヨーロッパの長い歴史の中で、植民地を作ってはそこから資源を剥奪して、清潔でゆたかな社会を築いてきた。それを支えるためには今で言う3Kの仕事は奴隷のような役割の人間にさせてきたということなのだろう。

このころからすでに、移民としてやってきた人間とそこに代々住み着いて財産を増やしてきた人間との格差というものがあるということがわかる。日本にも士農工商の身分の下に、さらにもうひとつ、社会から隠されたような身分があった。ユダヤ人はそれに相当するのかもしれない。

ヴェネツィアの人々が享受している自由の裏側にこういうことがある、と裁判の公開された場所で糾弾したはずのシャイロックには、裏づけとなる市民権が何も保証されていなかった。

ユダヤ人に対する差別が20世紀まで続き、遂にはドイツナチスのユダヤ人絶滅運動の収容所にまでつながるという恐ろしい歴史の事実。ゲットーというのが16世紀には既にあったということを知らなかった。根の深さには驚くばかり。

アル・パチーノの存在感が文句なく、他を圧倒している。(ジェームス・ディーンも通った)名門アクターズ・スタジオで演技を学びと紹介されていたのにはびっくりした。ジェレミー・アイアンズは出ているだけでうれしいという類のファン。『仮面の男』『永遠のマリア・カラス』がなつかしい。ジェセフ・ファインズはなんといっても、グイネス・パルトロウと共演した『恋に落ちたシェイクスピア』と『エリザベス』。

最近見た中で一番堪能した映画。
アル・パチーノに引っ張られて見るだけの価値がある・・・。


















『そして、ひと粒のひかり』

2006年04月09日 | Weblog
2004年/アメリカ・コロンビア/101分。これが長編監督デビューのジョシュア・マーストン監督。5000ドルの報酬に目がくらみミュールという麻薬の運び屋をやった17歳マリアの物語。たくさんの中から選ばれたという主演のカタリーナ・サンディノ・モレノは2004年のベルリン国際映画祭の女優賞受賞、アカデミー賞主演女優賞にもノミネートされたそうだ。

17歳のマリア(カタリーナ・サンディノ・モレノ)は幼子を抱えた姉と母親がいた。薔薇農園での仕事で一家の収入を支えていた。ところがボーイフレンドの子供を妊娠してしまう。仕事中に体調が悪くなり、そのことから上司とトラブルになって仕事をやめてしまう。周りからは謝って仕事に戻りなさいといわれる。ボーイフレンドと会ってみたものの、相手の家には10人の家族がいて、寝室も共用という条件だ。彼が自分の家族と一緒に住む可能性もない。

愛してないのだから結婚はしないと彼女は宣言する。しかし、生活するお金をすぐにも稼がねばならない。そこへ知り合ったフランクリンという男からミュールをやってみないかと誘われる。麻薬を胃の中に飲み込んだまま飛行機に乗ってアメリカまで運ぶという仕事だった。その報酬は高額で5000ドルほどにもなるという・・・

日本の家族像からすると、17歳のマリアに一家の家計の全責任を負わせることがなかなか理解できない。おそらく、個人という意識が薄くて、家族一塊で収入を得られる誰かにみんなが負ぶさるということなのかなと考えてみた。母親も小さな子供を抱える姉までも、辞めたマリアを激しく責める場面は痛々しくて正視できないほどだ。

胃の中で麻薬をつめた袋が破れたら死んでしまうという危険な仕事を、それでもあえてやる決心をする。葡萄の粒よりもっと大きいようなゴムの袋詰めを62粒も飲まされる大変な作業は見ていてもたまらない。コロンビアではこういうことが日常的なことなのだろうか。ゲバラが南米大陸は一つであると演説してからの年月は、貧しさを救うために何も役にはたっていなかったのかとつくづく思う。

教育を受けることも出来ず、その貧しさの構造が延々と変わらないのかもしれない。アメリカに渡り、運び屋を空港で引き受ける男たちに向っても追い詰められた中で、マリアは泣き寝入りせずに主張する。その度胸たるやたいしたものなのだ。病院にいって、そこで初めてお腹の子の心音を聞く。力強い心臓の音が響く。彼女はもう一人ではない。その子と一緒にどこまでも生きていかねばならない。

言葉もわからずこれからどうするのかと画面を見守りながらも、どうか強い母親になって親子で生き延びて、と願わずにはいられない。女は出産によって世界が劇的に変化する。自分のためだけではなく、自分の子供とともに歩む人生が始まるのだ。

鮮烈なデビューを飾ったカタリーナ・サンディノ・モレノは、実際に彼女がその場で感じたように思える自然な演技で素晴らしい。不安そうな17歳が次第に力強く目覚めていく姿を清潔感を漂わせながら演じていた。次はどんな作品になるのか楽しみだ。








ケンブリッジルール

2006年04月08日 | Weblog
昨夜のプレミアプレビューショーでは久しぶりに!アーセナルの好調さが画面に登場していた。CLの勢いがリーグ戦にも波及しているというものだ。気を良くして見ていると、150年前にケンブリッジの学生がフットボールのルールを初めて文書化したと言う説明があった。これは興味しんしん。思わず何回も見てしまった。

ケンブリッジは地元チームがプレミアリーグまで上がったことはないが、フットボールの歴史には欠かせないというものだ。今から150年前にパブリックスクールはそれぞれが独自のルールでプレーしていた。そこで別のスクールと対戦しやすいようにと、ケンブリッジの学生がルールを文書化することにした。

ルールを書いた紙は町の中心にあるパーカーズヒースを囲む木の幹に張られた。ケンブリッジに乗り込んできた相手チームはここでケンブリッジのルールを確認した。1863年のFA(イングランドサッカー協会)設立のときにも採用されたそうだ。

そのときにはロンドンで会議が開かれ、ブラックヒースの代表はケンブリッジでルールを作った人間はひ弱だと思っていて、フットボールは男のスポーツだからもっと激しくてもいいはずだと主張した。このことがきっかけとなって、ラグビーとフットボールに別れたという。その後、ブラックヒースは世界初のラグビークラブになった。FAはこのルールを採用した。

今季はロンドンにあるフルアムフットボールクラブのクレーブン・コテッジスタジアムを使わせてもらいケンブリッジとオクスフォードの対戦が実現した。1892年から続く伝統の1戦で、122回目の対戦だった。(こういうクラシコもある!)1-0でケンブリッジが勝ったが、この18年間で2度目の勝利というからオクスフォードには分が悪いらしい。

現存のルールは、やりあううちに言葉の応酬で激しくなり、売り言葉に買い言葉でなくなっていた可能性もあったのだ。ロンドンを舞台に歴史の一瞬が目の前に現れるようだった。もしかしたら美しいフットボールが見られなくなっていたかもしれない。このとき、その場でぐっとこらえた人間がいなかったら・・・。



















『ウィスキー』

2006年04月01日 | Weblog
2004年/ウルグアイ/アルゼンチン/ドイツ/スペイン/94分。題名のウィスキーというのは、写真と撮るとき日本では笑顔を作る為にチーズという、それと同じ使い方。もっと違うイメージだったので以外だった。主役の登場人物は男も女もさびしい。華やかなことが少しもない人生。毎日判で押したように淡々と時が過ぎる生活。そこへもう一人の男が加わることによって変化する三人の関係の物語。

マルタ(ミレージャ・パスファル)は、靴下工場に働いている。3人の従業員のうち一番年上で古株。工場主からもすっかり信頼されている。工場は旧式な機械が動き、定規を使って線をひいた帳簿があり、工場主はいまだにタイプを使っている。工場主のハコボ・コレル(アンドレス・パソス)から、亡くなった母親の墓石の建立式にブラジルにいる弟のエルマン(ホルへ・ボラーニ)を呼ぶので、来てくれないかといわれる。「妻役として、2,3日でいい。」

マルタは承知して、ハコボと並んでピンクの衣装で結婚式の写真まで撮った。式の後、兄弟はサッカーの試合を見に行ったりしていたが、二人を旅行に誘う。化粧もしないで黙々と働いてきたマルタが赤いスーツを着て口紅までぬっていた。ホテルのプールで遊んでいるとエルマンが来た。マルタは逆さ言葉まで使って会話をし、楽しい時間を過ごしたが・・・。

この映画はマルタ役にミレージャ・パスファルという女優を選んだことでほぼ成功したのだはないかと思わせるほど、彼女の存在が大きい。仕事の帰りのバスでイヤホーンから流れる音楽だけが楽しみという地味な生活。妻役にといわれて引き受けた時点で、その気があったかもしれないハコボとの関係。旅の開放感からどんどん女っぽくなる変化に目を見張る。

彼女はエルマンとの楽しい時間になにがあったのか。エルマンには家庭があり、画面からは真相はわからない。3人がいるところでは常に明るく、話で場を盛り上げていた。商売の腕はハコボよりあるらしく、チリに輸出しているという。ハコボにはカタログにあったあの機会は古いよ。工場を改装するなら協力する。自分のところから製品を輸入して売るといいという話までする。

一方のハコボはマルタに気の効いた会話をするでもなく、ちっとも面白みがない。母親の介護に追われてきたようだ。それを知る町の人たちは彼にはやさしい。エルマンといったサッカーの試合で唯一大声を出して気持ちを発散していた。エルマンが介護につくしたハコボにお礼を差し出す場面があった。現在の生活からは量れない微妙な兄弟の関係だ。

建立式ではダビデの星をつけた教会で友人たちが頭に帽子をかぶり、ユダヤ人であることがわかる。エルマンは父親は怠けるなといって朝から晩まで働きづめだった。自分が似ているという。そのあたり、流浪の民だったユダヤ人としての兄弟の背景がうかがえる。薄暗い明かりのあるホテルの廊下をまっすぐに歩いてエルマンの部屋に向っていくシーン。マルタにとって、あのときが人生の分かれ道になったのだろうか。

滅多に見られないウルグアイの映画。マルタがブラジルはもっと豊かでしょう?とエルマンにいうセリフがあった。南米でも経済力には差があることを感じさせる場面だった。ハコバもエルマンも芸達者で見事なものだ。ほとんど3人の行動を追うだけで時間が経つ。

華やかさや明るさはないが、かといって全編重苦しいわけでもない。登場人物の描き方に引き込まれて見てしまう。エンディングまで残る疑問は、映画の中ではわからない。答えは観客の解釈に委ねられている。いろんな解釈が出来そうな映画。東京国際映画祭でグランプリを受賞している。