ワールドカップ熱も日本が負けたことで収束するだろうか。次の監督が誰に決まるのか、気になるところだ。雨に打たれながら(勿論カッパを着て)、花壇の花を整理して裏庭に持っていった。雨が続いて、あんまり薔薇の葉っぱが密集するとまた昨年見たいに病気になってしまうのではないか、と気が気でない。
毎日モーツァルトは96回、孤独のアリア。
アリア「あたり吹くそよ風よ」K.431.
1783年モーツァルト27歳。
ゲストは再び、脳科学者の茂木健一郎さん。
モーツァルトって、ものすごくサービス精神が旺盛な人で、パーティーの中でも明るく振舞っているとか、宮廷の王様とかそういう人たちにもいろんな明るい感じで振舞っていたと思うんですけど。
そういうモーツァルトが一人になって、フッと本音になるとき、自分の人生の孤独さというのを感ずるときがあったような気がして、そういうのが時々音楽にあらわれるんですけども。このアリアって、モーツァルトの本音があらわれている気がしますね。やっぱりモーツァルトって、孤独だったと思うんですよ。
まあ、天才は孤独って昔から言いますけど、おそらく妻のコンスタンツェだって、そんなにモーツァルトを理解していたかどうかわからないし、やはりなんていうのかな。すごい淋しい思いをするときがあったと思うんですよ。
そういうモーツァルトの孤独がこの曲に表れているなあって、感じがしますね。勿論、これはまだ彼が精力に満ちて、音楽を作っているときの曲ですけど、ふとそんな時よぎる淋しさみたいなものがこのアリアには投影されている気がしますね。こういう曲からむしろモーツァルトの内面というか、リアルに感じられる気がしますね。
いや、ほんとにー。
途中で畳み掛けるような歌い方になり、悲劇が強調されてくると、迫力がある。優雅な曲調のモーツァルトと違う面が表現されているようだ。
長男の死という悲しい現実に直面していたモーツァルトは、この頃演奏会で一つのアリアを披露した。これは孤独な男の悲しみを込めたアリア。オペラ「後宮からの誘拐」の主役を務めた、人気テノール歌手、ヨハン・アダムベルガーが歌った。
1783年12月24日 父への手紙
”おととい、演奏会がありました。アダムベルガーが僕の1曲を歌いました。会場は満員でした。”
”あたり吹くそよ風よ 翼に乗せて愛するあの人に私のため息を届けておくれ”
”伝えておくれ 愛するあの人の為に私は死ぬと だから私に会うことはもうないだろうと”
(ゆったりしたやさしさがここで急転する)
”ひどい運命とあわれな有様に 悲しむ私の声は誰にも聞こえない”
”そんな苦しさの中で私は誰にも見えない 私は誰の助けも求めない 誰の憐れみも慈悲も あたりには数々の亡霊がいて うめき声が響いている”
”なんて残忍なのだ 経験したことのない冷たさだ ひどい運命と哀れな有様に 悲しむ私の声は誰にも聞こえない”
”そんな苦しさの中で 私は誰にも見えない”
”私は誰の助けも求めない 誰の哀れみも慈悲も”
このアリアはブルク劇場で初演されたといわれている。当時、王宮やそれに付属する劇場でしばしば演奏会が開かれ、モーツァルトの活躍の場となった。この作品は演奏会の為に書いたアリアの中でも傑作のひとつ。曲調が途中で急転する。運命の過酷さと孤独の恐怖を呪う歌詞が繰り返される。
長男の死で傷ついた心をここに吐露するような詩が続いている。天才だけでなく、また子供の死という劇的なものに遭遇した人でなくても、孤独というものは年齢と共に連れ添うものではないかなあ。簡単に人間同士理解することも理解してもらうことも出来ないということがわかってくる。それを引き受けていくというのが大人だった。「だった」というのは、昔の大人は(自分の父も含めて)、それを当たり前のように引き受けていた。今はそれが出来なくなった大人が多いということかもしれない。
1783年、モーツァルトにとって、苦しい試練の年が暮れようとしていた。
毎日モーツァルトを聞きながら、見ながら頭の中がモーツァルトでいっぱいの今は、あまり楽しんでモーツァルトを聞けないときかもしれない。いろんなものが大量に注入されて、自分の中で整理しきれないからだ。このシリーズが終わり、1年後、もしかして2年後かもしれないが、ずっと時間が経ってから、本当にモーツァルトの音楽を心から楽しめるようになるだろうという予感がする。
なんでも基礎的なことを学ぶときは、あんまり楽しむ余裕などないものだ。今は助走の期間。もっと羽ばたくためのー。そう思いながら毎日モーツァルトを聞いている。
毎日モーツァルトは96回、孤独のアリア。
アリア「あたり吹くそよ風よ」K.431.
1783年モーツァルト27歳。
ゲストは再び、脳科学者の茂木健一郎さん。
モーツァルトって、ものすごくサービス精神が旺盛な人で、パーティーの中でも明るく振舞っているとか、宮廷の王様とかそういう人たちにもいろんな明るい感じで振舞っていたと思うんですけど。
そういうモーツァルトが一人になって、フッと本音になるとき、自分の人生の孤独さというのを感ずるときがあったような気がして、そういうのが時々音楽にあらわれるんですけども。このアリアって、モーツァルトの本音があらわれている気がしますね。やっぱりモーツァルトって、孤独だったと思うんですよ。
まあ、天才は孤独って昔から言いますけど、おそらく妻のコンスタンツェだって、そんなにモーツァルトを理解していたかどうかわからないし、やはりなんていうのかな。すごい淋しい思いをするときがあったと思うんですよ。
そういうモーツァルトの孤独がこの曲に表れているなあって、感じがしますね。勿論、これはまだ彼が精力に満ちて、音楽を作っているときの曲ですけど、ふとそんな時よぎる淋しさみたいなものがこのアリアには投影されている気がしますね。こういう曲からむしろモーツァルトの内面というか、リアルに感じられる気がしますね。
いや、ほんとにー。
途中で畳み掛けるような歌い方になり、悲劇が強調されてくると、迫力がある。優雅な曲調のモーツァルトと違う面が表現されているようだ。
長男の死という悲しい現実に直面していたモーツァルトは、この頃演奏会で一つのアリアを披露した。これは孤独な男の悲しみを込めたアリア。オペラ「後宮からの誘拐」の主役を務めた、人気テノール歌手、ヨハン・アダムベルガーが歌った。
1783年12月24日 父への手紙
”おととい、演奏会がありました。アダムベルガーが僕の1曲を歌いました。会場は満員でした。”
”あたり吹くそよ風よ 翼に乗せて愛するあの人に私のため息を届けておくれ”
”伝えておくれ 愛するあの人の為に私は死ぬと だから私に会うことはもうないだろうと”
(ゆったりしたやさしさがここで急転する)
”ひどい運命とあわれな有様に 悲しむ私の声は誰にも聞こえない”
”そんな苦しさの中で私は誰にも見えない 私は誰の助けも求めない 誰の憐れみも慈悲も あたりには数々の亡霊がいて うめき声が響いている”
”なんて残忍なのだ 経験したことのない冷たさだ ひどい運命と哀れな有様に 悲しむ私の声は誰にも聞こえない”
”そんな苦しさの中で 私は誰にも見えない”
”私は誰の助けも求めない 誰の哀れみも慈悲も”
このアリアはブルク劇場で初演されたといわれている。当時、王宮やそれに付属する劇場でしばしば演奏会が開かれ、モーツァルトの活躍の場となった。この作品は演奏会の為に書いたアリアの中でも傑作のひとつ。曲調が途中で急転する。運命の過酷さと孤独の恐怖を呪う歌詞が繰り返される。
長男の死で傷ついた心をここに吐露するような詩が続いている。天才だけでなく、また子供の死という劇的なものに遭遇した人でなくても、孤独というものは年齢と共に連れ添うものではないかなあ。簡単に人間同士理解することも理解してもらうことも出来ないということがわかってくる。それを引き受けていくというのが大人だった。「だった」というのは、昔の大人は(自分の父も含めて)、それを当たり前のように引き受けていた。今はそれが出来なくなった大人が多いということかもしれない。
1783年、モーツァルトにとって、苦しい試練の年が暮れようとしていた。
毎日モーツァルトを聞きながら、見ながら頭の中がモーツァルトでいっぱいの今は、あまり楽しんでモーツァルトを聞けないときかもしれない。いろんなものが大量に注入されて、自分の中で整理しきれないからだ。このシリーズが終わり、1年後、もしかして2年後かもしれないが、ずっと時間が経ってから、本当にモーツァルトの音楽を心から楽しめるようになるだろうという予感がする。
なんでも基礎的なことを学ぶときは、あんまり楽しむ余裕などないものだ。今は助走の期間。もっと羽ばたくためのー。そう思いながら毎日モーツァルトを聞いている。