FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

孤独

2006年06月23日 | Weblog
ワールドカップ熱も日本が負けたことで収束するだろうか。次の監督が誰に決まるのか、気になるところだ。雨に打たれながら(勿論カッパを着て)、花壇の花を整理して裏庭に持っていった。雨が続いて、あんまり薔薇の葉っぱが密集するとまた昨年見たいに病気になってしまうのではないか、と気が気でない。

毎日モーツァルトは96回、孤独のアリア。
アリア「あたり吹くそよ風よ」K.431.
1783年モーツァルト27歳。

ゲストは再び、脳科学者の茂木健一郎さん。
モーツァルトって、ものすごくサービス精神が旺盛な人で、パーティーの中でも明るく振舞っているとか、宮廷の王様とかそういう人たちにもいろんな明るい感じで振舞っていたと思うんですけど。

そういうモーツァルトが一人になって、フッと本音になるとき、自分の人生の孤独さというのを感ずるときがあったような気がして、そういうのが時々音楽にあらわれるんですけども。このアリアって、モーツァルトの本音があらわれている気がしますね。やっぱりモーツァルトって、孤独だったと思うんですよ。

まあ、天才は孤独って昔から言いますけど、おそらく妻のコンスタンツェだって、そんなにモーツァルトを理解していたかどうかわからないし、やはりなんていうのかな。すごい淋しい思いをするときがあったと思うんですよ。

そういうモーツァルトの孤独がこの曲に表れているなあって、感じがしますね。勿論、これはまだ彼が精力に満ちて、音楽を作っているときの曲ですけど、ふとそんな時よぎる淋しさみたいなものがこのアリアには投影されている気がしますね。こういう曲からむしろモーツァルトの内面というか、リアルに感じられる気がしますね。

いや、ほんとにー。
途中で畳み掛けるような歌い方になり、悲劇が強調されてくると、迫力がある。優雅な曲調のモーツァルトと違う面が表現されているようだ。

長男の死という悲しい現実に直面していたモーツァルトは、この頃演奏会で一つのアリアを披露した。これは孤独な男の悲しみを込めたアリア。オペラ「後宮からの誘拐」の主役を務めた、人気テノール歌手、ヨハン・アダムベルガーが歌った。

1783年12月24日 父への手紙
”おととい、演奏会がありました。アダムベルガーが僕の1曲を歌いました。会場は満員でした。”

”あたり吹くそよ風よ 翼に乗せて愛するあの人に私のため息を届けておくれ”
”伝えておくれ 愛するあの人の為に私は死ぬと だから私に会うことはもうないだろうと”
(ゆったりしたやさしさがここで急転する)
”ひどい運命とあわれな有様に 悲しむ私の声は誰にも聞こえない”
”そんな苦しさの中で私は誰にも見えない 私は誰の助けも求めない 誰の憐れみも慈悲も あたりには数々の亡霊がいて うめき声が響いている”
”なんて残忍なのだ 経験したことのない冷たさだ ひどい運命と哀れな有様に 悲しむ私の声は誰にも聞こえない”
”そんな苦しさの中で 私は誰にも見えない”
”私は誰の助けも求めない 誰の哀れみも慈悲も”

このアリアはブルク劇場で初演されたといわれている。当時、王宮やそれに付属する劇場でしばしば演奏会が開かれ、モーツァルトの活躍の場となった。この作品は演奏会の為に書いたアリアの中でも傑作のひとつ。曲調が途中で急転する。運命の過酷さと孤独の恐怖を呪う歌詞が繰り返される。

長男の死で傷ついた心をここに吐露するような詩が続いている。天才だけでなく、また子供の死という劇的なものに遭遇した人でなくても、孤独というものは年齢と共に連れ添うものではないかなあ。簡単に人間同士理解することも理解してもらうことも出来ないということがわかってくる。それを引き受けていくというのが大人だった。「だった」というのは、昔の大人は(自分の父も含めて)、それを当たり前のように引き受けていた。今はそれが出来なくなった大人が多いということかもしれない。

1783年、モーツァルトにとって、苦しい試練の年が暮れようとしていた。

毎日モーツァルトを聞きながら、見ながら頭の中がモーツァルトでいっぱいの今は、あまり楽しんでモーツァルトを聞けないときかもしれない。いろんなものが大量に注入されて、自分の中で整理しきれないからだ。このシリーズが終わり、1年後、もしかして2年後かもしれないが、ずっと時間が経ってから、本当にモーツァルトの音楽を心から楽しめるようになるだろうという予感がする。

なんでも基礎的なことを学ぶときは、あんまり楽しむ余裕などないものだ。今は助走の期間。もっと羽ばたくためのー。そう思いながら毎日モーツァルトを聞いている。






















ピアノ・ソナタ第13番

2006年06月22日 | Weblog
ゴミの一週間ー。月曜日は燃えるゴミ。火曜日はペットボトルとプラマークの日。水曜日は資源ごみ。木曜日は燃えるゴミ。金曜日は燃えないゴミと第1と第3がダンボールで、第2と第4が紙マークの日。火曜日にプラだと思って植木鉢を出したら、曜日が違いますの紙がはってあった。土曜日になるとようやく!のんびりとした朝が訪れるー。

毎日モーツァルトは第95回、長男の死。ピアノ・ソナタ第13番変ロ長調。K.333.第2楽章より

ゲストはピアニストの菊池洋子さん。
ピアノを始めたころから、とても有名な曲ですから何回も何回も弾いた曲ですが、2年前にもう一度この曲を取り出してみようと、実際にこの曲を勉強したのは2年前からだったんですね。

最初のフレーズ、1楽章の出だしを弾いてドキッとしたんですね。モーツァルトが私に話しかけてきているようなー。最初の出だしってそうじゃないですか。ほんとにモーツァルトが誰かにやさしく話しかけているような、だから弾いていてドキドキしたと申しますか。

この頃、息子さんがなくなっているわけですよね。もし息子さんがなくなっていることを知って書いている曲だったら、それにしては明るい曲だなと思ってしまいますね。私にとっては、この曲はしあわせを感じる曲ですね。

この番組で流れた第2楽章は、第1楽章のドキッとしたというような明るい感じはなくて、かなり瞑想しているような落ち着きというのか、そういうものが感じられる。やはり全楽章を聞いてみないとわからないなあ。

この「ピアノ・ソナタ第13番」は従来パリで書かれたとされてきたが、近年の研究では1783年リンツで着手したと考えられている。ザルツブルクからの帰途、馴染みの町リンツに立ち寄り、大聖堂近くのトゥーン伯爵邸に宿泊、幼少時代からの顔なじみのトゥーン伯爵に大歓迎を受け、リンツ滞在は3ヶ月に渡った。

モーツァルト夫妻がウィーンに帰ったのは11月末だった。ウィーンを留守中、モーツァルト家に悲劇が起きていた。知り合いの乳母に預けていた長男のライムント・レオポルトが8月19日に腸閉塞で急死していたのだ。ライムント・レオポルトは聖ウィリヒ教会に葬られた。

1783年7月2日父への手紙
”子供からおじいちゃんと伯母ちゃまの手にキスを送ります”
1783年7月5日
”ライムント坊やはぼくにそっくりなので、みんなすぐにそういいます”
1783年12月10日
”僕らはふたりとも、あの哀れなまるまると肥った可愛い坊やの死をいたく悲しんでいます”

モーツァルトにとっては、リンツでの成功の後に訪れた大きな試練だった。
当時は薬も今ほどなく、衛生環境も十分でないとなると、何人も生んだ中の丈夫で運にも恵まれた子供しか、生き残れなかったのだろう。

送られてきたピアノ協奏曲全集を聞いてるし、TVでもよくモーツァルトの曲の演奏会の模様が放送されている。文字通り、音楽は毎日モーツァルト・・・。






















リンツ

2006年06月19日 | Weblog
今日は午後から雨降り。携帯電話が故障したと思って、保証書も持って店に行った。故障でしたらメーカーに持っていってみてもらうので、しばらくかかるかもしれませんといわれる。ところがー。充電のランプがちゃんと赤く付いているではないか。そこで、あー、思い出した!!テーブルタップのスイッチを切ったままにしていた。オンにしていなかったのだ。すっかり恥をかいてしまったー。

毎日モーツァルトは94回、リンツ。交響曲第36番ハ長調。K.425.「リンツ」第1楽章より

ゲストは脳科学者の茂木健一郎さん。
リンツって、数日間で書いたといわれてますけど、これは物理的にも大変で、やっぱり記憶のマジックだと思いますね。モーツァルトはおそらく、かなりの音楽をレパートリーとして脳の中に持っていたんだと思いますね。

ですからその場で0から生み出すと考えるとすごく驚異のように感じられるんですけど、いろんな既に頭の中で収納されているレパートリーを変形させ、組み合わせを変えつつ、作っていったと思えば、まあ、3,4日があれば出来るかなという気がしますね。

それで恐らく隣にはコンスタンツェがいたわけなんですけど、なんかそういう揺るぎない生活人としてのなんていうのかな。着実さというものを感じちゃうんですね。だから我々はね、シンフォニーを書くというとテンパってね。非日常に入って書くと思うから、そうか4日で書いたってすごいなと思っちゃうけど。

実はモーツァルトって、こんなの数日間で書くって、日常だったんだなっていう気がしますね。日常で別に普通に生きていながら、だからこういうのを書けちゃうんだっていう、そういうとこに達していたんじゃないかなあと。やっぱりモーツァルトって、日常の達人だったような気がしますね。

うーん、そうかー。
そんな風にコンスタンツェとお茶を飲んでいる時間の延長上に作曲していたから、彼女にはモーツァルトの偉さ!がさっぱり伝わらなかったのか。もっと、うんうん苦しんでいる(ベートーベンみたいに)姿を見せていたら、夫の仕事は大変なんだと逆に大事にされたかもしれないよ!!

モーツァルトは3ヶ月の里帰りを終え、ウイーンへの帰途についた。その途中リンツに立ち寄った。ドナウ湖畔の町リンツはザルツブルクとウィーンの中間に位置する。現在ウィーン、グラーツに次ぐオーストリア第3の都市である。少年時代からしばしば訪れたなじみの町だった。

ここで親しい友人のトゥーン伯爵に大歓迎を受け、演奏会を開くことになる。当時演奏会のプログラムには交響曲は欠かせなかった。交響曲を一曲も持参していなかったモーツァルトは演奏会までの4~5日で交響曲を書き上げた。こうして誕生させた「リンツ」ー。短期間で書き上げたとは信じがたい完成度でたちまち人気曲となった。

1783年10月31日父への手紙
”この家でぼくらがどんなに歓待されているか、とてもお伝えできないほどです”

この番組で次々に披露される名曲がドンドン増えていく。それにつれて宿題も積み上げられていくような気がしている。一つの楽章だけで全体の曲を聴いていないからだ。期限がない、いつかはーというものではあるけど。少しづつ、CDを探して聴いていきたいと思っている。











一つの約束

2006年06月16日 | Weblog
ワールドカップの連日の試合でサッカー熱にうなされる?興奮が続いている。その時間が長く続いて、モーツァルトの世界に戻るには、頭を氷かなんかで冷やさないとー。毎日モーツァルトは第93回、約束のミサ。ミサ曲ハ短調「大ミサ」K.427.

ゲストは歴史学者の黒板伸夫さん。
この曲はどちらかというと、短調でもあるし、荘重で重々しい同時に非常に格調の高い曲なんですけど。「エト・インカルナートゥス・エスト」(御体を与えられ)「ミサ曲ハ短調」のソプラノ独唱曲。

非常に美しい女性の独唱で、天上の音楽というものがあるとすれば、こういうものかしらと。他の部分が重々しいだけに美しさというか、軽やかさというか。しかし軽やかさではあっても、決して軽薄ではない。それこそ魂を揺さぶられるような美しさに惑わされた経験があります。

コンスタンツェの姉はオペラの歌手で、モーツァルトが最初に恋したのは彼女が本命だった。しかし、その姉は別の男性とさっさと結婚してしまったといういきさつがある。その本命だった彼女の妹もやはり美声の持ち主だったのだろう。独唱部分は黒板さんが魂を揺さぶられたと表現したような高音に引き込まれる曲だ。天上の音楽と形容するのがふさわしい美しさ。そういう意味では、モーツァルトの仕事の内容がまったくわからない結びつきではなかった、というところに救われるような気がする。

ゲストの黒板さんは他界した明治生まれの父を思い出させた。装いもきちんとして大変にお洒落な人だった。85歳で亡くなる前の最期の買い物が、家族と共にデパートへ行って買い求めたオーデコロン。その父がクラシック音楽が好きで、家の中に流れていたのを聞きながら育ったので、今になってモーツァルトなんて言い出しても、自分の中では余り抵抗がない。黒板さんの面長な顔、静かな雰囲気は確かに父に似ていた。もうすぐ父の13回忌があり、実家に行く。

1783年の夏、モーツァルト27歳。
コンスタンツェを連れてザルツブルクに帰郷していたモーツァルトは結婚前の一つの約束を果たそうとした。前の年に、結婚問題で悩んでいたモーツァルトは結婚できたら、ミサ曲を書き、故郷の教会に捧げると誓いを立てていた。

宗教都市ザルツブルクに生まれ、数々の教会音楽を書いてきたモーツァルト。その気持ちを壮大なミサ曲に託したい。だが自分のためのミサ曲を書くのはこれが初めてだった。作曲には長い時間を費やした。

1783年1月4日、父への手紙
ぼくは心を込めて、真剣に誓約しましたし、本当にそれを守りたいと思っています。ミサ曲の楽譜はぼくが本当に誓約したまぎれもない証拠であり、完成を待ってここにあります。

1783年10月26日。ザルツブルグの聖ペテロ教会で約束のミサ曲が演奏された。ソプラノのパートを受け持ったのはコンスタンツェ。一年がかりの誓いがようやく実現した。

姉ナンネルの10月26日の日記にはこのときの様子が書かれている。
”弟が自分のミサをあげた。宮廷楽団員のみんなが参加した”

指揮をしたのはモーツァルト自身だった。「エト・インカルナートゥス・エスト」というキリストの降誕を賛美する歌をコンスタンツェが歌った。大編成のこの曲は聖ペテロ教会の小規模楽団では演奏できなかったため、宮廷楽団員が大挙してモーツァルトの為に演奏した。

温かく迎えてくれた宮廷楽団員の仲間たち。結局父と姉はモーツァルトが期待したほどにはコンスタンツェと受け入れてくれなかったといわれている。ミサの翌日の10月27日、モーツァルトはウィーンへの帰途に付いた・・・

写真は聖ペテロ教会の内部。大司教コロレドと決裂してウィーンへと出ていったモーツァルトをまた歓迎したという宮廷楽団員の話は、大都会にない温かみを感じさせた。父と姉とコンスタンツェの関係から離れて、ホッとするものがあっただろう。














代って作曲する

2006年06月13日 | Weblog
昨日、歯医者に電話したら、すぐ来てください、車で15分くらいですね、といわれた。はいーっと、すっ飛んでいく。レントゲンを撮った後に歯茎を麻酔して切開した。その後で外れた義歯を、駄目もとでやってみますから、と接着してくれた。今日の毎日モーツァルトは第92回、M・ハイドン。ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲。ト長調。K.423.第1楽章。

ゲストは作家の島田雅彦さん。
弦楽器の中ではヴィオラが一番好きで、実際、大学オケで弾いていたことがあるんですよ。だからこのヴァイオリンとヴィオラのデュオも、一番弾けた頃には弾いたことがあるんですけどね。聞くに堪えないと思いますけどね。いいんですよ。こっちが弾いてるぶんにはね。聞かせるつもりはないんですから。

それで、ヴィオラが何故好きかっていうと、ヴィオラ奏者はみんなそういうでしょうけど、「おばあさんの声」に近いんですよね。だからこのヴァイオリンとの掛け合いを聞いてると、孫とおばあさんの会話を聞いているような風に聞こえます。で、時に、このヴィオラがこうヴァイオリンを諭すというか、何かやさしく人生について自分の経験を語っているというような、それをもっと快活に解釈して、あー、おばあちゃんがいいといっているから行ってまえみたいな感じで。ヴァイオリンが応じるみたいな、そういう対話に聞こえますね。

おんなじ作家でも、平野さんとは違うもっと身近な聞き方があるもんだ、とどこかほっとするような島田さんの言葉だった。昨日の弦楽四重奏曲と比べると、確かに、随分聴きやすいなあという印象だ。

27歳、里帰り中のモーツァルトは友人を助けることになる。友人はミヒャエル・ハイドン。交響曲の父、ヨーゼフ・ハイドンの実弟。モーツァルトの宮廷音楽家時代の同僚。急病に倒れ、大司教に命じられた曲を作れなくなっていた。急遽、ハイドンに代って曲を書く。ふたりの友情の証となった。

ミヒャエル・ハイドンは1737年、オーストリアの地方都市ローラウで生まれた。兄同様にシュテファン大聖堂の聖歌隊〈現ウィーン少年合唱団)で教育を受ける。1963年には25歳でザルツブルク宮廷音楽家に就任。モーツァルトは教会音楽の影響を受け、19歳年上のM・ハイドンを敬愛していた。

ハイドンはモーツァルトがウイーンに移り住んだ後には、後任の大聖堂オルガン奏者になった。1783年の夏、6曲の二重奏曲に取り掛かっていたが、病に倒れる。モーツァルトは旧友に手を差し伸べ、こうして書かれたのが、この「ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲」。ハイドンはモーツァルトの楽譜をながらく大切にし、モーツァルトもウィーンに戻ってからも、度々M・ハイドンの楽譜を取り寄せた。M・ハイドンは他の宮廷からの誘いもあったが、この地で一生をザルツブルク宮廷に捧げた・・・。

写真はオルガン演奏したというシュテファン大聖堂。ウィーン少年合唱団の歌声は来日していることもあり、日本人にもおなじみだ。前に見たモーツァルトの番組では、ザルツブルクに留学しその後も留まり音楽活動を続けている、という日本人女性のピアニストが登場して、ザルツブルクは-20度にもなるんですよーといっていた。

それを聞いてから、ザルツブルクにもそこで育ったモーツアルトにもぐっと親しみを覚えるようになった。冬の凍てつくような寒さ、春が来たときの喜び。そういう感覚がわかるんですねえと。しかしモーツァルトはあくまで室内の人で、旅行中も自然に心を動かされることはなかったそうだ。そういう話はなんだか、現代にも通じるところがあるかもしれないなあ。





















現代に共鳴する部分

2006年06月12日 | Weblog
朝からいい天気。歯の具合がおかしいので、歯医者に行かねばー。予約が必要だから、今日のところは無理かもしれない。「毎日モーツァルト」は第91回、帰郷。弦楽四重奏曲第16番、変ホ長調。K.428.(ハイドン四重奏曲第3番)の第1楽章。

ハイドンセットと呼ばれているものの中の1曲。姉ナンネルと父レオポルトに引き合わせるために、故郷ザルツブルクへ旅立つ前に作曲されたものらしい。弦楽器ばかりになると、もうピアノの軽やかさととっつきやすさはなくなる。本物のクラシックファンかどうか、試されているような曲だ。

ゲストは作家の平野啓一郎さん。
この第1楽章では、すでにここでクラシック音楽のかなりのことが、やられているという印象を受けますね。パッと聞くと、本当に彼の時代のもっと後の作曲家が作ったという印象がありますね。なんとなく落ち着かない感じというのがずっとあって、モダンな曲の感じがします。

自分が現代というある種の不安の時代に生きているというのもあると思うんですね。そういう中で、自分が今、感じているストレスとか緊張みたいなものとどっかで共鳴する部分があるかもしれないですし、芸術家として刺激的なモーツァルトっていうのは、その辺にあるんじゃないかという気がちょっとしますよね。

なるほどねー。
クラシックを聞いて、現代と共鳴する部分を見つけるというのは、さすが作家という職業の人間だなあと。しかし、21世紀になっても、20世紀の課題が持ち越され、さらに予測できないさまざまな危険にいつ遭遇するかもしれないというのは、パニックの前段階ともいえる不安な精神状況に置かれている、そういう恐怖心がひとりひとりにいつも入り込んでいる、ということかもしれない。

27歳のモーツァルトは妻コンスタンツェを連れて故郷ザルツブルクへ里帰りをした。家族とのわだかまりはいまだにあり、滞在する3ヶ月の間、家族にコンスタンツェを認めさせたいとひたすら心をくだく。家族や友人たちと思い出の地を巡った。まだ乳児ともいえる子供を置いて、夫婦で何ヶ月もどこかへ行く。しかも、周囲の誰もそれを不思議に思わないのかなあと、この辺は当時の事情がわからず、ちょっと理解するのは難しい。

ヘルブルン宮殿は17世紀前半に造られたザルツブルク大司教の夏の離宮になっていた。庭園のいたるところに訪れる人を楽しませる仕掛けがほどこされている。さまざまな水の仕掛けがあり、「ルスト・シュロス(楽しみの宮殿)」とも呼ばれているそうだ。こういう遊び心があるところで、モーツァルトは育った。ザルツブルク宮廷音楽家時代にはモーツァルト活躍の場であった。

1783年7月6日、帰郷前の手紙。
「8月1日には、きっと僕らはあなたがたのそばにいるでしょう。」
「そうすれば、あなたがたの霊名の祝月を親しくお祝いしましょう。」

1783年7月31日
姉ナンネルの日記には、誕生祝の様子が書かれている。
「午後、弟が私にアイスクリームを、夜にはポンチを作ってくれた。」

写真はヘルブルン宮殿内の水の仕掛け。
毎日、観光客が大勢訪れている。














おだやかな生活の中で

2006年06月09日 | Weblog
朝から雨模様。梅雨というのとは違うけど、またちょっと寒くなったので長袖に着替えた。今日の「毎日モーツァルト」は第90回、帰郷の決意。モーツァルトは忙しくも幸せを感じながら暮らしていたおだやかな日々。父親の帰郷を促す手紙が来て、また確執があった大司教コロレドのことが頭に浮かぶ。幻想曲ニ短調K.397.メロディの美しさにくわえて、かなり内省的で静かな時間があるというのが曲の感想。

ゲストは吉野直子さん(ハープ奏者)。
曲としても音楽としても深いものを持っている大好きな曲。
途中で出てくるゆったりとした短調のメロディも心を打たれる。シンプルなんだけど、心を打たれるメロディが素晴らしい。最後には長調になるが、その瞬間がなんか魔法にかかったような風景が変わったようなそういういろんな世界を表現している。

1783年6月、妻コンスタンツェとの間に生まれた長男はすくすくと育っていた。貴族の子女にピアノを教えるなど、暮らしぶりも落ち着いてきた。故郷の父とは2年余り会っていなかった。父からの手紙が来て、モーツァルトは帰郷を決意する。

1783年7月5日。
「多くの人がぼくを不安に陥れるのです。二度と逃げられないよ。あのずるがしこい大司教がどんなことをしでかすか。」
1783年7月12日。
ぼくが大司教と再会することをまったく喜んでいないことは、おわかりでしょう。もしあなたとお姉さんがザルツブルクに住んでいなければ、自分からわざわざそんなところへ旅をしようとは思いつかないでしょう。」

「妻は綺麗じゃないので、あなたに気に入られないのではないかといつもちょっと気にしています。ぼくの最愛のお父さんは内面の美しさを大事に考える人だと、出来るだけ彼女を慰めています。」

1783年7月19日。コンスタンツェも姉、ナンネルへ手紙を書く。
「この上なく、親愛なるお姉さま。今からあなたを抱擁する喜びでいっぱいです。あなたの忠実なる義妹コンスタンツェ・モーツァルト。」コンスタンツェがモーツァルト姓を名乗ったはじめての手紙だった。モーツァルトは長男を乳母に預けて、コンスタンツェと共にザルツブルクへと旅立った・・・。

手紙に書かれていたような悩みがあるモーツァルトは舅と嫁の間に入って、いろいろ大変そうだ。その背景に流れていたこの曲は、考え考えピアノを演奏しているモーツァルトが目に浮かぶ。転がすように音がはじけるメロディというのではなく、かなしみと静けさが感じられて、今までのモーツァルトとちょっと違うなと言う印象だ。何回も聞けば、飾りが取れたようなこういう曲をもっと聴きたいと思うのだろう。

大司教コロレドはモーツァルトにかかると悪の権化か、悪代官の代表みたいに書かれているが、モーツァルトの本を読むと、実はこの人は今でいう改革派で、宮廷にかかる費用をなんとかけずりたいということだったらしい。そこで働く職人たちにしてみれば、なにかと締め付けが厳しく感じられたのだろう。

この頃は今の時代の芸術家と違って、社会的に一目おかれるという立場ではなかった。あくまで大司教の使用人に過ぎない身分で、「注文どおりに曲を作る職人」程度だったようだ。だから大司教がウィーンに来たときには、当地の貴族たちに披露するためだけで、コロレド主宰の演奏会しかモーツァルトが出演するのを許可しなかった。

しかし、モーツァルトはまだ旅が一般的でない時代にあって、イギリスやフランスやイタリアへも行って、最先端の音楽を吸収していた。従来の手法をさらに発展させて、注文した以上のものを作る自信と誇りがあった。それが宮廷の側にとっては、不気味で不穏な動きに見えたのだろう。




子供の誕生

2006年06月08日 | Weblog
エレベーターの扉が開いているのに動いてしまう、というのは恐ろしいことだ。子供たちが住んでいるところは大丈夫だろうかと心配になる。今日の毎日モーツァルトは、弦楽四重奏曲第15番、ニ短調。K.421.その中の第2,3楽章。最初の子供が誕生するとき、妻を傍らで励ます合間に!作曲してしまうという、天才にしか出来ない離れ業をやって作られた曲ー。

「人生のハイライト」
国際基督教大学大学院教授の村上陽一郎さんが登場した。1781年に定住という形でウィーンに住まいを移して、しかもコンスタンツェと結婚。(しあわせな)人生のハイライトに当る時期。1782年~1785年までの間に、作品番号としては並んでいないが、6曲の弦楽四重奏曲をひとまとめに書いた。

6曲のうちのただ1曲が短調の作品。その中の第3楽章がメヌエット。コンスタンツェがお産をしているかたわらで、奥さんが苦しんでいるのを時々見に行く。そのさなかに書いたのがメヌエットといわれているんです。

全体にやっぱり暗い短調で書かれていて、メヌエットのトリオ(通常3つの部分からなるメヌエットの中間部)は非常に明るい。もしかするとトリオの部分にモーツァルトの喜びがあって、不協和音は父親になる不安というのがもういっぽうにあるのかしらと。

1783年、6月。27歳。
妻コンスタンツェの出産が迫っていたとき、故郷ザルツブルクにいる父に子供が生まれたら、是非レオポルトの名前をもらいたいと手紙を書いていた。コンスタンツェは無事長男を産んだ。

父への手紙。
深夜1時過ぎにコンスタンツェの陣痛が始まった。その晩は二人とも休むことも眠ることも出来ませんでした。4時にぼくは義母を迎えにやり、それから産婆さんを呼びにやりました。

ぼうやは僕にそっくりなので、みんなすぐにそういいます。目鼻立ちがまったく僕に瓜二つなんですよ。それは愛しい妻も望んでいたことなので、彼女も大喜びです。

一年前、ふたりの結婚の最後まで承諾を与えなかった故郷の父も出産の無事を祈ってくれたことがわかり、モーツァルトは喜ぶ。ライムント・レオポルト。最初の子供には父と同じ名前をつけた。この曲は村上さんが言っていたトリオの部分が耳に心地よかった。モーツァルトの幸せな気分が表れているからだろう。

音楽と共に映像に映るウィーンの公園や町並みで見かける木々は、この辺でよく見かけるものとさほど変わらないなあと不思議な感じがする。何の違和感もないのだ。おそらく雪が降る寒さや梅雨もないことなど、緯度が近いのだろうか。よく似た気候なのかもしれない。











生涯の親友

2006年06月07日 | Weblog
今朝からまぶしいような明るい日差しの中で、バタバタと忙しかった。一息ついてから、楽しみにしている毎日モーツァルトを見る。第88回、ホルン奏者。ホルン協奏曲第2番。第2,3楽章。ほー、そんな曲があったのかと思って聞いてみると、なんだこの曲かーと。モーツァルトと知らないで聞いている曲が、随分あるんだなあということがわかった。

今日は俳優の斉藤晴彦さんが登場した。なんどもなんども聞いてみたくなるような、聞きこむ曲というのではないですね。たとえば、毎日イワシの焼き魚じゃいやで、サケを食いたいと思うでしょ。そういう感じの曲ですね。

ホルンを使った協奏曲というのがすごい。ホルン奏者にものすごく入れ込んだんじゃないんですかね。アルプスの山が目に浮かぶような自然の中の音ではなく、室内楽のように聞こえますね。という話だった。

1783年春、親愛の情を込めて”ロバのロイトゲープを憐れんで作曲”と自筆譜にある。故郷ザルツブルクで宮廷楽団の同僚だった古い友人のロイトゲープとウィーンで再会した。ロイトゲープにとって故郷だったウィーンに戻り、チーズ店を営むかたわら、演奏会もアウエルスペルク公爵邸などで開いていた。

モーツァルトは自分より年上だったロイトゲープとは仲がよく、いつも”ロバのロイトゲープ”とからかっていた。モーツァルトは言葉遊びが好きだったそうだ。二人のユーモアと遊び心が、ホルンの後を追っかけるようなヴァイオリンとの演奏の中にも発揮されている。親友の為に、ホルンの名手ロイトゲープの見せ場がたっぷり盛り込まれた曲を用意したのだ。この友情は生涯に渡って続いた。

狩の合図に用いられた角笛を持つホルンが管楽器として発達し、18世紀のオースケストラの中では重要な役割を担うようになった。管楽器でありながら、金属的な響きがなく、柔らかい音色を奏でるホルンは、人間の声の音域を出ることなく作曲したといわれるモーツァルトの曲調に、合っている楽器だったのかもしれない。

室内楽のように聞こえるという曲でも、どこか牧歌的は風景の残像を残しているような響きかたをする楽器だなあというのが印象だ。モーツァルトも父親のレオポルトも軍隊が大嫌いだった。後半生に向って、次第に過酷な流れになっていくモーツァルトの人生で、こんな親友とのふれあいがあったのかと、エピソードを聞いてなにかしらホッとする思いを感じた。






誕生を待ちながら

2006年06月06日 | Weblog
1200億円が儲かりましたという話も巨額すぎてぴんと来ないなあと、さしあたっては新しく始まった分別の区分けを間違わないで出すことが大事と、ゴミステーションへ走ることから一日が始まった。今日の毎日モーツアルトは87回、妻の妊娠。ピアノ・ソナタ12番の第3楽章。

モーツァルトの魅力というコーナーで、作家の平野啓一郎さんが登場した。この第3楽章はちょっと異様なというか、不思議な感じ。ネガティブな言い方をすると気持ち悪い。そのちょっとヘンなところに自分の意識が引っかかるようになってから、少し興味を持つようになってモーツァルトを聞くようになったそうだ。

1783年、1月、モーツァルトとコンスタンツェがステファン大聖堂で結婚式を挙げてから半年がたった。コンスタンツェは妊娠し、モーツァルトは故郷ザルツブルクで暮らす父親の承諾を得ないで結婚したことで、父レオポルトとのわだかまりがあったが、これを機会になんとかそれが解けないかと思っていた。

1782年12月21日の手紙。
妻はあなたの小さなシルエットの肖像をいつも持ち歩るき、日に20回は少なくともキスをしています。と父へ書いた。

1783年、6月7日の手紙。
僕はひざまずき手を合わせて、最愛のお父さん、あなたに名付け親になってほしいと伏してお願いをしたいのです。

モーツァルトとの10年にも満たない結婚生活で6人の子供を産み、育ったのはそのうち二人だけ。もう聞いただけで気が遠くなるような壮絶なドラマだ。コンスタンツェの悪妻は有名で、葬儀にも行かなかったというのが極めつきになっている。

モーツァルトの晩年は(といっても30代)、コンスタンツェの転地療養にかかる費用が捻出できなくて、借金を重ねる毎日となった。子供を産む側からするとどうなんだろうねえ、という気がしないでもない。彼女にも後世のモーツァルト研究家に対して、もっと言い分があったかもしれない。

厳格な父レオポルトの英才教育でモーツァルトの天分は花開いたが、旅から旅へ正規の教育を受けない生活で育った天才には父親の現実感覚が受け継がれなかった。レオポルトは常に楽観的な予測や将来を考えるモーツァルトにそうじゃないといい続けたかったのだろう。

軽やかな音楽を好むというウィーンの人々に合わせた音楽を作曲していたモーツァルトも、晩年秘密結社のフリーメイスンに入ってから、突然人生に目覚めたように曲調が変わり、内面を吐露する音楽を作るようになった。平野さんがオヤッと思った不思議な感じはモーツアルトの中で、いつも心の奥底にずっとあったものかもしれないと、この音楽を聴きながらふと思った。