FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

群青(ぐんじょう)

2011年04月19日 | 絵画

定年退職後に夫婦で外国旅行三昧の生活をしている親戚からのお土産。オランダ一週間の旅だって。ゴッホのヒマワリの複製はどうかと言ってきたけど、これは子どもが贈ってくれてすでに飾ってある。

それじゃあとフェルメールの「真珠の首飾りの少女」の複製が送られてきた。フェルメールは「デルフトの眺望」が一番好き。この「…少女」はフェルメールが描いた中では最も清潔感があり、ほかの女性たちと違う雰囲気を醸し出している。青いターバンが魅力的。

フェルメールブルーと言われ、古くはアフガニスタンから運ばれてきたという、ラピス・ラズリを原料とする青色顔料の天然ウルトラマリンがフェルメールの特徴。子どもの頃、絵を描くとき、クレヨンやクレパスの箱に入っていた「群青」の色に似ている。ラピス・ラズリはとんでもなく高価だったようだ。

画家としてはゴッホのほうが数段格上?のような気がするが、なんといっても深い精神性が、ミレーなどと同じように感銘を受けるところ。思想家のように、苦悩しながら新しい境地を探求していく過程が素晴らしい絵になっている。ヒマワリだけでなく、全体が一つの大河小説のような作品の連なり。激しい筆致。どれもいいなあ。

ゴッホ以外で好きな画家はブリューゲル。もっと歴史をさかのぼった近世のころ、宗教改革の時代。旧教スペインの新教に対する弾圧が厳しい中、まだオランダ・ベルギーとして独立できないネーデルラントでは重税が課され、密告が奨励され、死がすぐ隣にあるような恐怖政治の時代、ストレートに表現できない状況で描かれた絵の数々。しかしどこかユーモアがある。「バベルの塔」、晩年の大らかな農民の絵もいいし、好きなのは「雪中の狩人」。

転勤族の末に選んだ終の棲家、しかし狭い考えの田舎の人とは付き合わないことにしましたという文面…、なるほどねえ。その上、十数時間のフライトをものともせず。こっちは札幌まで行くのもおっくうだというのに。次は北欧3か国の旅!!いやはや目が回る…。


ゴッホ~黄色い夢の町~6

2008年11月01日 | 絵画
12月22日、ゴッホはゴーギャンにグラスを投げつけてしまった。共同生活に嫌気が差していたゴーギャンは家を出て行き、翌日、有名な「耳きり事件」が起こる。

ゴッホは悲しみのあまり、自分の耳たぶを切り落としてしまったのだ。3日後、ゴッホは荷物をまとめてパリへ帰った。芸術家のユートピアにするという夢はあっけなく終わった。

「耳きり事件」の後、ゴッホはパリ近郊のオーヴェール・シュル・オワーズに移り住む。ゴッホの絵はいつまで経っても認められなかった。1890年7月29日、ゴッホは銃弾によって自ら命を絶った。

死の直前に描いた【カラスの群れ飛ぶ麦畑】麦畑の上を群れ飛ぶ黒いカラス。畑に伸びた道は途中で消えている。ゴッホはこの黄色い麦畑でピストルの引き金を引いたと言われている。

黄色い色を手に夢を追い続けたアルルの一年。黄色で世界の芸術を変えたいという大きな夢。この年、200枚近くの作品を描いている。晩年にゴッホはアルルの日々を思い出して言った。「あの頃の僕の黄色は最高に輝いていた!!」(おわり)

(ゴッホが好きなのでこの番組を録画してあった。一通り見ればそれでいいかと思っていたのが、見た後にはこれはとても消してしまえないものだということがわかった。

悩み苦しむ中から不死鳥のように素晴らしい芸術が生まれる。生きているときには報われなかったゴッホがこうしてこんなにも後世の人々に感銘を与えている。しかしそれを支えた弟テオはゴッホの後を追うように亡くなってしまう。テオの人生はなんだったのだろう。)







ゴッホ~黄色い夢の町~5

2008年11月01日 | 絵画
1888年10月23日、ゴーギャンがゴッホの熱心な呼びかけに応じてアルルにやって来た。ポール・ゴーギャン(1848~1903年)はゴッホより5歳年上。黄色い家では二人でカンバスを並べて同じモデルを描いた。

【アルルの女、ジヌー夫人】ゴッホはキャンバスの前面に一人ジヌー夫人を大きく描き、背景は黄色一色。気がはやるゴッホは1時間足らずで描き上げたが、ゴーギャンが描いた絵にはまったく違う背景が描かれてあった。

タバコの煙が流れる下で、何人ものお客たちが椅子に座っていると言う、頭の中で空想したものを加えていた。モデル一人しかいないアトリエでゴーギャンは想像力を働かせて描いていた。

ゴッホはその才能に圧倒されるばかり。しかもゴーギャンをもてなそうとスープを作ったが、これはゴーギャンが後にとても食えるような代物ではなかったといっていたような料理。

お金の使い方もゴッホが金遣いが荒いのを見かねて、二人のお金をきちんと分けて使うようにしたが、ゴッホはほしいものがあれば我慢できずに勝手に使ってしまった。ゴッホは私生活ではまったく駄目な男だったのだ。

最近二人の共同生活についてシカゴ美術館の研究によって、新たな事実が明らかになった。アルルの時代、二人は全く同じ麻布に絵を描いていた。カンバスのエックス写真を見ると、長さ20mもある麻布を手にいれ、10mづつ均等に切り分けて使っていた。

この研究で絵を描いた順番も明らかになった。ゴッホが描いたのは13点。ゴーギャンは10点。最後から2番目は夏に描いた【ヒマワリ】を自らが模写した作品だった。

そして一番最後は小さな肖像画が描かれていた。ゴーギャンの後姿を描いたものだった。【ゴーギャンの肖像】。二人で買った麻布を使い切ったとき二人の関係は破局に向かっていた。

自分の椅子を描いた絵では椅子は黄色で描かれ、その上には愛用のタバコが乗っていた。ただ一脚の黄色い椅子。【ゴーギャンの椅子】には背景は深い緑色。椅子の上にはローソクと本が置かれていた。ゴーギャンはいつも夜遅くまでこの本を読んでいた。

(【アルルの女】の二人の絵は確かにゴーギャンの想像力は素晴らしいが、やはりゴッホの絵のインパクトには比べ物にならない。しかしそれをゴッホに伝え、評価してくれる買い手が付かなかったというのがどうにも悲しい。

ゴッホはゴーギャンが好きで尊敬していながら、なかなかそれがうまくゴーギャンには伝わらず、個性の赴くままに破局へと向かってしまう。ゴッホが憧れた日本の浮世絵師たちの助け合う生活というのは、“長屋”のことを言っているだろうか。長屋だとすれば、そこには芸術家だけではなく世話好きでおせっかいな人々がいて、けんかの仲裁もしてくれたのだろう。)











ゴッホ~黄色い夢の町~4

2008年11月01日 | 絵画
アルルの秋、人恋しくなったゴッホは夜の街を彷徨うになった。町の中心に行ってみればいつも見とれてしまう場所。それを絵にしたのが【夜のカフェテラス】だった。

黄色いガス燈の下で人々が楽しそうに語り合っているカフェ。満天の星の下でカフェが温かな黄色に輝いている。夜の闇を青い色で描いている。これまで夜空をこんな青で表現した画家はいなかった。

東京で(2005年)3月にゴッホの色についての研究が行われた。東京国立近代美術館に展示してあるゴッホの絵を電気通信大学教授の小林光夫さんがコンピューターを使って分析した。

【カフェテラス】の黄色と青は黄色が35.3%、青34.9%。その差は僅か0.4%。ゴッホは計算したかのような正確さで黄色と青という補色を均等に用いていたと言うことがわかった。

ゴッホの黄色は青を加えることでますます輝きを増し、色は一色では本当の美しさを発揮できない。ゴッホは夜のカフェでそれを学んでいた。夜の黄色に目覚めたゴッホはある日、川岸ですばらしい夜景に出会った。

川面に映える美しい街の灯り。そこでローソクに光を点し、それを頭につけてカンバスに向かっていた。翌日アルルの町はその噂で持ちきりだったという。そうして描いた作品が【ローヌ川の星月夜】

黄色は3,2%しかないが、川面に浮かぶ灯りと夜の星に目を奪われるように印象的に使われている。ゴッホは星を描きながらまだ来ない仲間たちのことを思い出していた。

(それまで夜の闇を青い色で表現した画家はいなかったと言われていたが、たしかにこの青の透明な美しさが素晴らしく、それと対比して黄色い灯りがさらに印象的。二色の使い方が鮮やかで現代にも通用するようなモダンな感じがするが、当時は昼間の光と影を描くことが中心だったのだろう。時代より早く生まれすぎた天才!!)







ゴッホ~黄色い夢の町~3

2008年10月31日 | 絵画
ゴッホの夢はとてつもなく大きかった。この家の仲間を集め、世界の芸術を変えようとしていたのだから。ゴッホにとって黄色い家はその夢の象徴だった。

夏~ヒマワリ~、6月、アルルではいっせいに麦が黄色に色付く。毎日麦畑で新しい表現に挑んでいた。1ヵ月麦畑を描き続け、独特のあの激しい筆使いがはじめて生まれた。

その記念すべき作品は【種まく人】黄色28.9%。畑に種をまく農民の姿はゴッホ自身の姿だと言われている。この夏、ゴッホの黄色はドンドン深みを増し、暗い黄色や緑を加えた。

遺品の中には編み物に使う毛糸玉があった。二色の色を組み合わせて色の効果を試していた。この頃から絵の具そのものも工夫し、金属を材料とする【クロームイエロー】を使うために頻繁にパリから取り寄せていた。

友人に宛てた手紙のなかで【種まく人】では【クロームイエロー】を自分なりに工夫して用いたと書いている。太陽の内側には明るい【クローム1号】、外側の放射する光の部分には色の濃い【クローム2号】を使った。

そこに黄緑が重ねられ、最後には全体を黄土色で引き締めた。ゴッホはさまざまな色を混ぜることなく塗り重ねることで、アルルの輝く太陽を表現しようとした。8月、アルルの夏が輝き、ヒマワリがいっせいに太陽のほうを向き、大輪の花を咲かせる。

この姿を見て同じような仲間と共にし、同じ夢を追いたいという気持ちが高まってきた。しかし仲間からの手紙を待ったが、アルルに来るように誘った仲間はほとんど、金がないからいけないというような返事ばかりだったが、ゴッホは絵を描き続けた。

【ヒマワリ】黄色69.8%。花びんに書かれたヒマワリの数は全部で14本。この数にはゴッホの願いが託されていた。13人の仲間を呼ぼうと考えていたからだ。仲間たちの顔を思い描きながら一輪一輪描いていった。

(【ヒマワリ】は子どもからのプレゼントで、複製の絵が我が家の壁にかけられている。かなわなかったゴッホの夢がここに描かれているのかと思うと切ないが、描かれているヒマワリは14本も納まっているとは思えないほど、ノビノビとした動きがあって、いかにもゴッホの絵だなあという感じがする。実際の絵は写真の黄色の色よりはるかに明るい。)











ゴッホ~黄色い夢の町~2

2008年10月31日 | 絵画
南フランスのアルル、ゴッホがこの町に求めたのは南国の光が照らすまばゆい黄色。アルルは古代ローマ帝国の武将シーザーが築いた古い街。ゴッホの時代には暖かい保養地となっていた。

アルルには北のパリより一足先に春が訪れていた。ゴッホは早速戸外へ出て絵を描き始める。その頃、弟テオ(1857~1891年)宛ての手紙では「色が綺麗な自然のとりこになっている」と書かれていた。

さらにほかの手紙では「アルルはまるで日本のようだ。僕は今、日本にいる」とも書かれているのは日本人から見れば勘違い?日本の浮世絵師たちの暮らしに憧れていたゴッホはここにパリの画家仲間を集めて芸術家のユートピアを作ろうと夢見た。

その手始めに北のはずれのある壁が黄色い家を借りた。住み始めたらさらに鮮やかな黄色に塗りなおしさえした。こんな夢のような暮らしを支えるお金はどこから?

2002年、テオの家の家計簿が公開された。画材屋などへの支払い197フランは今のお金で30万円ほど。そのほか画家組合や医者への支払いなど、1年間にかかったお金は1904フラン。今にしておよそ300万円にもなった。

ゴッホ美術館の学芸員クリス・ストルウェイクさんは「ゴッホは月々の生活費を弟から仕送りしてもらった上に、絵の具、洋服、家具など。買い物をするたびにお金をねだっていた。

ゴッホは自分ではまったく稼ぎがなかったのに、なにか欲しいと我慢できない性分で金遣いが荒かった。幼いころから仲の良かった兄だからやりくりして仕送りを続けていたが、こんな兄を持つ弟は大変だったと思う」

(いや、まったく・・・。運命の巡りあわせとはいえ、なんでこうなるの?)

この時期の【アルルの跳ね橋】は黄色23.1%。
【黄色い家】は黄色29.7%。
【寝室】は黄色57.1%にもなる。
【寝室】の絵は東京で開催されたオルセー美術館展でじかに見ることが出来たので印象深い。

















ゴッホ~黄色い夢の町~1

2008年10月31日 | 絵画
NHKアーカイブス、2005年に放送された番組を10月18日に再放送したもの。1888年、南フランスのアルルに移り住んだゴッホ(1853~1890年)はここに芸術家たちが共に住む理想郷を作ろうという夢を抱いた。

南フランスの明るい太陽の光を浴びたこの時期、【ひまわり】【黄色い家】【種撒く人】【夜のカフェテラス】など黄色い色を使った数々の傑作が生まれている。アルルにいる間の一年間を中心に理想と現実に揺れたゴッホの苦悩、ゴッホの絵とそれが生まれるまでを検証した番組。

ゴッホは27歳のときに画家を志し、このときには35歳になっていた。黄色い色が好きになったきっかけは日本の浮世絵との出会いから。鮮やかな色を大胆に置く浮世絵独特の表現は西洋の絵画の常識をくつがえすものだった。

歌川広重【名所江戸百景大はしあたけの夕立】では夕立が降る中、川にかけられた橋の上を蓑や笠を被って走りながら渡っていく人々が描かれている。ゴッホの部屋の壁は浮世絵だらけになっていた。ゴッホはこうした絵を何枚も模写して勉強を続けるうちに、その中から見つけた色が“黄色い色”だった。

34歳のとき、1887年に描いた【白い葡萄、りんご、なし、レモン】の絵は背景もテーブルも果物もまっ黄色。よく見ると緑など他の色も使っているがほとんどが黄色で覆われている。

1888年2月20日、ゴッホは南フランスの小さな駅、アルルに降り立った。友達からここが光溢れる太陽の国と聞かされ、いてもたってもいられなかったからだ。

(以前に札幌で【ゴッホ展】があったときに見に行った。大変な人出で絵の前は押すな押すなの盛況ぶりだった。そのときの【図録】をみないとはっきりしないが、かなりの絵の枚数だったのではないかと思う。その中では【自画像】が印象的だった。同時に展示してあった直筆の【テオの手紙】もいくつかあって、ゴッホを影のように支えた生涯には深く胸を打たれたものだ。)












コンスタブル

2008年04月04日 | 絵画
「名画への旅」は19世紀、イギリスを代表する風景画家ジョン・コンスタブル(1776~1837年)の代表作【干草車】。180年前に描かれたこの名作の舞台は、保存運動によってコンスタブルカントリーとなり、蘇っている。

ジョン・コンスタブルは1776年、製粉業者を営む家の次男として、サクソン語で森の多い丘を意味するイースト・バーゴルトに生まれた。ロンドンからおよそ北東に100キロのところにある。

20代にはほとんど注目されなかったコンスタブルが大きく変わったのは30歳を過ぎてから。33歳のとき、地元の裕福な家の娘と恋に落ちた。【マリア・ビクネル・ジョン・コンスタブル夫人】(1816年)

売れない画家に孫を嫁がせることを拒んでいた祖父の存在があって、7年の歳月が必要だったが、この肖像画を描いた1816年に二人は結婚。それからは意欲的に作品に取り組むようになった。

【フラットフォードの製粉所】(1817年)
父親の経営するフラットフォードの製粉所をモチーフにした作品は結婚の翌年、展覧会に出品された。

コンスタブルの風景画がそれまでと異なるのは、絵は科学的でなくてはならないと考え、木の緑を種類によって書き分け、雲も忠実なデッサンに基づいて描いていた。

【干草車】(1821年)は45歳のときに描かれた幅2メートル近い大作。
夏の真昼の日差しの中で、干草車が浅瀬を渡って草刈場へ向かっていく。細やかな雲の描写。丹念に塗り分けられた木の葉。

穏やかな農村の風景が輝きを見せる一瞬を捉えている。荒々しいタッチの水面のきらめき。この絵の従来にない革新的な表現は、保守的な画壇から不評だった。

しかし1824年【干草車】はパリのサロンに出品され、高く評価された。活力あふれる表現に刺激され、ドラクロワは自分の絵を書き直したといわれる。作品はフランスの画商に買い取られ、コンスタブルはパリへ招待された。しかし彼はその申し出を断ってしまった。

ロンドン市の北のはずれの町、ハムステッド。1819年、コンスタブルはこの町の家を借りた。病気がちだった妻や体の弱い子どもを静かな環境の中で過ごさせたかった。

家の周りにはハムステッドヒースという荒野が広がっていた。コンスタブルはその雄大な風景に魅せられ、刻々と姿が変わる「雲」に心を奪われ「雲」のデッサンに夢中になった。コンスタブルの絵に大きな位置を占める雲。それは雲が風景に時間を感じさせる大切な要素だったからだ。

【ハムステッドの荒野:遠景に「塩の家」と呼ばれる家】
この作品を見る人は日傘が欲しくなるだろうといわれるほど、強い夏の日差しに輝く荒野が生き生きと描かれている。【干草車】と共にパリのサロンに出品されたこの絵は人々の賞賛を浴びた。

家族をこよなく愛したコンスタブル。しかし1828年に妻、マリアが亡くなる。「太陽の輝きはすべて私から消え去った。嵐が絶えずほえ続けている。」

【ハドリー城、テームズの河口~嵐の夜の翌朝のための等寸大の習作】
マリアの死と前後して描きすすめられていたハドリーの城。嵐が去っても尚荒れ狂う海。その荒涼とした眺めに立つ廃墟となった城。

繁栄を誇った者もいつかは滅びる。廃墟には二度と戻れないしあわせな日々を思うコンスタブルの心情が重ねあわされている。晩年、コンスタブルの風景画は深い精神性をたたえて、より象徴的になっていった。

50歳の時の発表した【麦畑】
谷に沿って麦畑に続く小道。川の水をうつ伏せになって飲む少年。それは少年時代、学校に通った実在の場所を描いている。コンスタブルの作品には少年の日の思い出が込められている。

身近な風景に深い愛着を感じていたコンスタブル。その愛着を出来るだけ忠実に生き生きと表そうと一瞬のきらめきや鮮やかさを見逃すまいとした。19世紀の風景画に革命をもたらしたコンスタブルの絵は、現在ロンドン・ナショナル・ギャラリーに展示されている。

日本人の目から見てもどこか安らぎが感じられる絵。【麦畑】に登場する水を飲む少年はにかつての子ども時代へ戻ったような存在感となつかしさがある。【干草車】の絵に目立たないように、ひっそりと描かれた少女は水で遊んでいるのだろうか。

なにげないわが町のどこにでもある風景。それを見ている毎日に幸せがある。コンスタブルの絵はその大切さを、見る人に思い起こさせるものかもしれない。








ミレー

2008年03月11日 | 絵画
名画への旅。「晩鐘」~ミレー~。19世紀フランスの画家、ミレーの代表作。ミレーは当時注目されない題材だった農民や労働者、働く人々を主題に絵を描き続けた。

1814年、フランス北西部のノルマンディ地方に生まれたミレーは、23歳のとき、絵の修業のため、パリへやってきた。パリでの生活は苦しかったが、絵を描き続けた。26歳のとき、「自画像」(1840から1841年ごろ)をサロンに出品し、これが入選。ようやく画家としての一歩を踏み出す。

当初、ミレーは肖像画や裸婦を描いては生活していたが、次第に自分のルーツである農民の姿を描こうと考えるようになる。そのきっかけとなったのがパリで労働者が蜂起した1848年の2月革命。

その翌年、ミレーは家族を連れて、パリからおよそ80キロ離れたバルビゾンへと移り住んだ。このちにアトリエを構え、農民の絵を書きながら生涯をここですごした。村の背後に広がるフォンテーヌブローの森は、多くの画家たちが風景画に描いたが、ミレーは森の反対側にある農地やそこで働く人々に目を向けた。

ミレーの作品は農民や労働者たちから支持される一方、富裕な人々からは革命的で危険な絵だと批判を浴びた。しかしミレーは農民という主題を変えるつもりはなかった。バルビゾンの隣にあるシャイイの村。ミレーの絵に描かれたシャイイ教会が今も当時と同じ鐘の音を響かせている。

“結局、農民画は私の気質に合っている。誰になんと言われようと芸術でもっとも私の心を動かすのは、なによりも人間的な側面なのだ。”
             A・サンスィエ「ミレーの生涯」より

「刈り入れ人たちの休息」(1850年~1853年)
旧約聖書の中テーマを題材に、助け合う人々を描いた。地主のボアズが自分の土地へ来たルツに落穂ひろいを許し、使用人たちに彼女を紹介する一場面。

「種を蒔く人」(1850年)
夕暮れが近づいたとき、若い農夫が畑で力いっぱい小麦の種を蒔いている。大きく前に踏み出した足。画面いっぱいに力強い農夫が堂々と描かれている。この作品は大きな反響を呼んだが、保守的な人々からは酷評された。

「落穂拾い」(1857年)
バルビゾンに住むようになって8年後の作品。広大な農地の中で、収穫の後に残った落穂を拾う、貧しい農民たち。その背後には地主の指示に従って働く、大勢の人々が描かれている。豊かさと貧しさが隣り合う農村の姿がリアルに描き出されている。

「羊飼いの少女」(1862年~1864年)
夕暮れ時、羊の群れを連れて帰る少女。牧歌的な田園の日常風景を描く。赤い帽子を被った少女が夕日を背に、うつむき加減に立っている。後ろには羊の群れ。

「晩鐘」(1857年~1859年)
信仰を支えに厳しい労働に耐え、生きる農村の人々。その生き方に深く共感し、一枚の絵に描いた。ミレーは祖母の姿を思い出しながら描いたと言われる。遠くに見える教会から響く夕暮れの鐘の音。静かに実りに感謝し、頭を垂れる夫婦の姿。

この作品はアメリカで高く評価され、いったんは海を渡ったが、その後、フランスの一市民が私財を投じて買い戻した。このあたりにも、絵というものは国民的な財産であるという、ヨーロッパの人々の考え方がわかるような気がする。

画像は「落穂ひろい」。労働する女性を描いたことにも感心するが、前に描かれている女性たちばかりか、その後ろで働く人々の姿、彼らを使う地主の存在。当時の社会的な状況を、集団の絵として表現しているところが素晴らしいと思う。

















ロートレック

2008年02月10日 | 絵画
2月3日放送の新日曜美術館では、俳優のイッセー尾形さんの朗読で、~素顔のロートレック~「親友が語るモンマルトル青春期」。青春時代を一緒に過ごした2歳年上のフランソワ・ゴージが書いた本「わが友ロートレック」。

19世紀末を代表する画家、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864~1901)。貴族の家系に生まれながらパリモンマルトルの歓楽街で暮らし、ダンサーや芸人、娼婦など、そこに生きる人々を描いた。

伯爵の家柄に生まれたロートレックは、一族が血族結婚を繰り返したことで起こる遺伝的な病気があった。13歳のときに足を骨折し、14歳のとき、もう片方の足も骨折したことで、懸念されていた骨の病気が表面に表れてきた。ロートレックの身長はその後もそのときのまま。

「人をからかうような表情をしていたが、ロートレックは非常に感じやすく、友人以外は何も持っていなかった。友人の近くにいて、いつも助けようとしていた。虚弱であった彼は、レスラーやアクロバットの強さに感嘆した。彼は非常に素晴らしい教育を受けていた。美術のことになると、いつも真剣だった。」フランソワ・ゴージ。

ロートレックというと、ムーラン・ルージュで踊る踊り子たちの絵が思い浮かぶが、オヤッと思う絵もある。ゴッホを描いた絵だ。ロートレック23歳のとき。34歳になる仲間の画家。フィンセント・ファン・ゴッホの横顔を描いている。

数本のチョークで描いたという。ちょっと気難しそうで、口ひげとあごひげを生やし、特徴である鷲鼻、後年自らが切り落とす耳も描かれ、年の割には老けて見え、テーブルの上に両手をこぶしのようにして置いている。

全体が黄色い色彩を帯び、それに窓や椅子の背などにはこげ茶色。テーブルクロスだろうか。ブルーも使っている。さっさっと描いたように見えるが、いかにもゴッホの内面にまで踏み込んで描いたような、印象的な絵。

お互いにアウトサイダーであるということを嗅ぎ分け、ロートレックが話好きだったということもあって、親交を深めたということだ。「フィンセント・ファン・ゴッホの肖像、1887年」

ムーラン・ルージュに出演する踊り子たちや芸人たちは当時まだ多かったという、神話の絵とは違う、生き生きした生身の人間として描かれている。絵は一瞬の動きをとらえていて、そこに現代性があるのだろう。今にも見ている人間に向かって、身の上話を語りだしそうに見える。

「赤毛の女〈身づくろい〉、1889年」
「ムーラン・ルージュのラ・グーニュー、1891年」
「アンバサドゥール・アリスティド・ブリュアン、1892年」
「ムーラン・ルージュから出るジャヌ・アヴリル、1892年」
「ストッキングをはく女、1894年」など

「人物だけが存在します。風景はただあるだけで、添加物以上のものではありません。純粋な風景画家は、野蛮人です。風景は、人物の特徴をより深く理解するのに役立てばよいだけです。

コローが偉大なのはその人物画のためであり、ミレー、ルノアール、ホイッスラーもみな同じです。人物画の画家が風景を描くと、顔を描くように扱います。ドガの風景がすごいのは、風景が人間の仮面であるからです。モネは人物を放棄しましたが、彼は人物では成功しなかったでしょう。」トゥールーズ=ロートレック〈ベネディクト・タッシェン出版/アンリ・トゥールーズ=ロートレック/人生の劇場)

強烈な自負に満ちた言葉。印象派が人物さえも風景の一部のように描いた絵と異なり、徹底して人物を描くことにこだわったロートレックの描写力は、あのわずかな時間で描いたようにみえるゴッホの絵を見れば、この言葉にもうなずけるものがある。

尚、ロートレック展は~パリ、美しき時代を生きて~
3月9日までサントリー美術館〈東京・港区〉で開催されています。

(写真はカレンダーのティヴァン・ジャポネ、1892年~1893年ごろ)