FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

恐ろしいことだ

2011年09月29日 | 雑感

 26日、東京地裁で小沢元代表の秘書、石川さんら3人への政治資金規正法違反事件に対する判決が下された。この裁判では検察側の調書がいくつも証拠採用されなかったこともあり、3人は記載の期日がずれただけの形式犯だから有罪となっても微罪だろうという報道もあったが、結果は見事に!?検察側の全面勝利、石川さんは禁錮2年執行猶予3年(求刑・禁錮2年)、池田さんは禁錮1年執行猶予3年(求刑・禁錮1年)、大久保さんは禁錮3年執行猶予5年(求刑・禁錮3年6か月)となった。

しかも検察側の起訴内容にも書かれていない、水谷建設からの5千万の裏金受領まで認めるという内容。石川さんは会見で「大変不満で到底受け入れることが出来ない。事実でないことを基に判決が下された。控訴して、断固闘っていきたい。」

裁判の傍聴を続けてきたジャーナリストの江川紹子さんは27日朝日新聞で「司法に対する時代の要請は、プロセスを明らかにし、客観的な証拠を大事にして判断するというもの。今回の判決は、証拠ではなく推測や裁判官の価値観で事実認定していく手法で、非常に危ないと感じた。たとえば水谷建設が石川被告に渡したとされる裏金。渡した側は「渡した」と言っているが、裏付ける証拠は何もない。

何人かが「やった」と言えば事実になってしまう。時代に逆行した判決だ。昨年明らかになった証拠改ざん事件以来、検察改革の気運が高まってきたが、客観的な証拠が薄くても裁判所が認定するという、誤ったメッセージを送っている。裁判所こそ一番改革が必要ではないか」とコメントしている。

ほんとにひどい政治裁判だ。そもそも小沢さんの政治とカネの問題は民主党政権をつぶすためのもの。それのお先棒を担いだのが検察リークを連日、批判もなく垂れ流し、限りなくクロのイメージを植え付けた新聞、TV報道ではないか。今回の判決にも大喜びしている様子が記事からも伝わってくる。

折角村木さん事件で検察の先ずストーリーありきの悪しき捜査方法が批判を浴びたというのに、この判決でまた逆戻りしてしまった。証拠もないのに、示し合わせて複数の人間があの人がやったと証言すれば有罪になってしまう。恐ろしいことだ。


ダリアを掘る

2011年09月25日 | ガーデニング

 今日はいい天気だったので、早目に地植えにしているダリアを掘り上げることにした。霜が降りるころになると寒くなって、屋外の作業が身体にこたえるからだ。

掘ってみると、芋の子のような根っこがずるずるとくっついてくるので、それを茎のところで切って、土を割り箸でかき落とし、日に当てておく。乾いてきたら、どれがどれやらわからなくなるので、段ボール箱にするような厚紙に名前を書いて、穴をあけ、そこにビニタイを通し、茎に巻き付けておく。

目下も元気に咲いている樹高50cmくらいの小さな種類は黄色と赤。まだそのままにしている。大きなダリアは6本あって、2メートルほどにもなっていたので、作業も大仕事。切ったお花は家の中の花瓶に活け、残りはご近所さんへ、菊や薔薇やほかの宿根草も添えて。先日、山で採ってきたという貴重なキノコを頂いたので、お返しに大きな花束にして…。


作ってみた

2011年09月25日 | 雑感

 何でもおいしい季節到来。朝晩の気温が下がって、ちょっと料理らしい料理をしてもいいかなあという気になってきた。

この間は卯の花というのか、自己流【おからの炒め煮】を作った。スーパーでおからが袋詰めで売られている。ごぼうのささがき(笹のように、斜めにごぼうを回しながら薄く切ったごぼう)、ヒジキ、こんにゃく(厚さを半分に分け、それを1センチくらいに縦に切っていく)、シイタケの千切り、ニンジンの千切り、油げの千切りをだし入り醤油と水とみりんで柔らかくなるまで煮る。

量が少なければお鍋、多ければ中華鍋に油をたっぷり入れて、弱火でおからがしっとりするまで炒め、これに煮汁ごと煮た具を入れる。炒めながら水気を飛ばし、かき混ぜるときに重いなあと感ずる程度になれば、出来上がり。

もう一つは【イカの袋煮】。秋は身が厚くなって料理がしやすい。イカは一人いっぱいで皮は剥かなくてもよい。すり鉢とすりこ木を用意する。木綿豆腐一丁(二人分くらい)の水けをきったものを入れてすりこ木ですり、そこに生卵一個、塩、砂糖を入れ、さらにスル。その中にニンジンの千切り、生シイタケの千切り、三つ葉の茎を2,3センチに切ったものを生のまま加えて、混ぜる。

これを頭を取らず、胴体の中の骨を取って、よく洗って水気をふき取ったイカの中に詰める。イカを縦にしてトントンと下に落とすような動作をすると、詰め物が重さで隙間なく入る。

最後に端を爪楊枝で、縫うようにして閉じる。平たい鍋を用意し、お酒とお醤油とみりんと入れ、お水で味を調節し、いったん煮立てて、この中に袋詰めを並べ、袋が破れないように様子を見ながら、10分ほど煮る。

イカが縮んでパンパンになったら、いったんお鍋から取り出す。残り汁をざるでこして、小さな豆腐を取り除く。それに水どき片栗粉を入れて、とろみをつければ出来上がり。イカは食べやすいように胴体を5~6くらいに輪切りにし、その上にとろみの付いたたれをかけて、お皿に盛る。切ったイカの断面が綺麗で見栄えがする。


朝露

2011年09月20日 | ガーデニング

 朝晩めっきり冷え込んできた。早朝のゴミだしに玄関ドアを開けると、ひんやりした空気に触れ、ちょっと身震いする。ゴミステーションから帰ると、そのまま家に入らず、いつも庭の様子を見まわるのが習慣。

芝桜のボーダーに紛れ込んだ雑草を引っこ抜いたり、薔薇の黄色くなった葉っぱを取り除いたり、地面に落ちた花びらを拾ったり。人気のない道路を背に、静かな時間を楽しむ。

さて終わったから家に入ろうかとふと見たら、赤いダリアのつぼみに今にも落ちてきそうな”しずく”が付いていた。ああ、そうか、もう”朝露”が降りてきたんだなあと、季節の移ろいを実感。そういえば今は収穫の時期、稲穂の頭が垂れ、道すがら稲刈りを見てきたんだった。


原発はいらない

2011年09月19日 | 雑感

作家の大江健三郎さんらが呼びかけ人となった「さようなら原発1000万人アクション」は、東京では19日の今日、明治公園で数万人の参加者を集めて行われたようだ。

北海道では昨日の18日、生憎の雨模様だったが、札幌市のさっぽろ芸術文化の森3Fロイヤルホールにて集会が行われ、そのあと、会場から大通公園周辺などを、傘をさしてデモ行進した。集会が行われた会場の三方の壁には椅子に座りきれない、立ち見の人々で溢れていた。(1500人くらい、デモのみ参加者500人が後に加わる)

厚生年金会館の時代にはこの建物の中まで入ったことがあるが、最近は外から見るだけになっていた。この日は早起きし、JRに乗って札幌へ向かった。カッパと傘と帽子とサングラスを用意して。警官に取り囲まれたり、右翼が挑発に来るかもしれないと一応用心の上。こうした類のデモに参加するのはイラク戦争に反対した時以来。一大決心し、重い腰を上げていよいよ行動する以外ないと考えたからだ。

檀上での発言者は原水禁の川野さんが長崎の被爆者であるという立場から、三度被爆者を作ってはならない。福島の事故の原因は津波と言っているが、地震ですでに配管が壊れていた。再稼働を容認すべきではない。安全というなら東京の真ん中に原発、廃棄物処理場を作れ。

福島から札幌に避難してきた宍戸さんという女性は、父親が原発で働いていたからその危険性は知っていた。原発事故は人との絆を奪い、非国民や裏切り者と言われる。富岡の桜をもう一度見たい。原発事故を自分のこととして考えてほしい。


幌延の酪農家の久世さんは道北でもう25年も反対運動を続けてこられた方。幌延最終処分場のこれまでの経過を詳しく説明されたうえで、今は2000年から2020年まで地層処分の研究をやらせてほしいということで、今年は丁度折り返し地点に立っている。これが成功すれば地層処分が可能であるということを狙っている。各原発では使用済み燃料が積まれているから何が何でも最終処分場を決めたい。

宗谷地方の人口は全部合わせても6万人しかいない。反対しても民主主義では押し切られてしまう。絶対北海道には引き受けないという決議を各自治体でしてほしい。ガレキは東電本社にもっていけばいい。

函館からは大間原発訴訟団の中森さんが、大間原発の近くには活断層があり、(函館の近くの)駒ケ岳は1640年噴火し、同じ年に岩木山も噴火したという歴史がある火山帯である。事故が起きたら4時間で函館に広まり、8000人死亡と予想されている。脱原発ではなく反原発で。

最後に岩内町から斉藤さんが、泊原発の問題を紙芝居を使ってわかりやすく、絵でその危険性を伝えようとしていた。

今日になって、東京での「さようなら原発」の集会が、早くもインターネットの「田中龍作ジャーナル」で伝えられ、夕方6時台の民放のニュースでは、上空から撮った大勢の人たちが集まっている映像があった。その時は台所でバタバタしていたので、7時からNHKニュースをゆっくり見ようとTVの前に座った。

ところが…、いつまでたってもデモも集会も何にも出てこない。NHKニュースだけ見た人は、原発をいらないと訴える人々が首都東京に何万人も集まっている、という現実を知らされないでいる。これじゃあ、中国や北朝鮮の情報統制を見下したり、批判なんて出来る?


後始末

2011年09月14日 | ガーデニング

始めるときは出来上がった時が目に浮かんで楽しいが、何事かが終わって片づけるときは興味も半減。出来ればやりたくないけど、誰かがやらなくてはいけないというのが後始末。

清涼感を楽しんだ緑のカーテンや朝顔の壁を作ったプランターの土を整理して片づけなければ、ということでひっくり返し見ると、底のほうで根っこがぐるぐる回って、一筋縄でいきそうもない。

そこで一番大きいブルーシートを物置から出してきて広げ、そこにプランターを逆さまにして、土を放り込む。(夜には四隅を重ねて包むようにしてから、”安眠”する。)これがまた重い!!次に何とか根っこと土を分離し、土に絡まって外れそうもない部分は別にして段ボールに並べる。日の光でしんなりするのを待つほかない。

干からびた根っこのほうは燃えるゴミになるし、シートの上の使い古しの土には消毒用の石灰やら、野良猫対策に強烈な硫黄の臭いがする石灰硫黄合剤をまき散らしておいた。

最後の作業はプランターや植木鉢をたわしで水洗いしてから、重ねて物置に置いておくこと。これで一丁上がり!!

 


人間の條件

2011年09月10日 | 映画

8月に放送された小林正樹監督、仲代達矢主演の映画「人間の條件」(白黒映画)は6部からなる上映時間、実に9時間31分の日本映画史上に残る大作であり、よくぞ時間をかけてここまでつくり上げたという、日本映画界の良心ともいえる反戦映画。五味川純平さんの原作は1300万部を超える大ベストセラーになり、一躍人気作家になったそうだ。

原作を読んだことはないが、決して軽い内容ではないこういう本が多くの日本人に読まれていたことに驚く。今では考えられないような出来事。本を読むことが生活の中で日常だったんだねえとつくづく。

先の大戦に対する反省がまだ日本人の中に残っている時期だからこそ、こういう難解で(赤軍の背後にスターリンが飾られているのに)社会主義に対する、いささか教条的な!?生の言葉がそのまま出てくる本が読まれたのだろう。

上映された1959年から61年の間には60年安保闘争があり、若者も知識人も左翼が当たり前の時代であったようだ。(安保闘争の最前線で亡くなった女子大生、樺美智子さんの「人知れず微笑まん」という本を読んだことがあるよ。)

地下運動する活動家でもなんでもない一市民が、その生活の場でヒューマニズムから旧満州での中国人支配や軍隊の理不尽さを告発するうちに、その存在が反戦へとつながっていく。

戦地で玉砕が続き、敗色が近づいてくる昭和18年から始まるこの物語では、南満州鉄鋼会社に務める一市民が新婚の妻との生活を望み、兵役免除として選んだ新しい職場の炭鉱だったが、そこでは戦時体勢への協力として中国人捕虜を使い、さらなる増産体制へ抵抗する彼らに対して見せしめの処刑。それに対する怒りを抑えられず、とうとう抗議の声を上げると、待っていたのは憲兵の壮絶な尋問。その後すぐ、邪魔者のように軍隊へと召集される。軍隊生活でも古参兵の初年兵への理不尽ないじめが横行し、仲間をかばいながらもそれへも抵抗するうちに…。

第1部純愛編、第2部激怒編、第3部望郷編、第4部戦雲編、第5部死の脱出編、第6部曠野の彷徨編。当時の大スターの佐田啓二や高嶺秀子も出演し、もちろん、この映画の主役梶役の仲代達矢さんや美千子役の新珠美千代が渾身で演じている。

仲代さんは特に最後のほうの追いつめられていく過程での形相がすさまじく、日常とは違う哲学的な演技とでもいうのか、そういうものを表現するときにはいかにも舞台役者の素顔が現れ、それを表現できる役者だから、この作品は成功したのだろうと思わせるほど。

新珠さん演ずる美千子は、切ない声で初々しい新婚の妻がかわいいが、どうも戦後教育?を受けた戦後生まれからすれば、純愛と性愛ばかりの女性像で、梶のレポを読んでもよくわからなかったというように、梶が何と懸命に闘っているのかという、同志的な視点がなさすぎるような気もするが。

それにしてもこの長丁場な映画を様々なエピソードをつなぎ合わせて、最後までもっていくのだから、見応え十分。是非見ていただきたい映画。

(同じ時期に放送されたNHKBSアーカイブス「~日中、知られざる戦後史~『留用』された日本人」と同じくアーカイブス「『認罪』~中国撫順戦犯管理所の6年~」、さらに少し前に放送されたが「家族と側近が語る周恩来」(4回)なども、日本と中国の歴史を知る上で参考になった。周恩来のような政治家が今の日本にもいたらと…)


やってくる

2011年09月10日 | 雑感

北上する台風の被害情報のさなかにも北海道新聞では連日、北電のプルサーマル計画についてのシンポジウムで起きた「やらせ」問題を大きく報じていた。「安全神話」の神輿があるからと、問題があっても隠ぺいしながら、国と立地自治体と電力会社が一体となって推し進めてきた原発行政。調べてみれば全国どこでもありそうな話だ。

道議会特別委員会では北電副社長らを参考人招致しているが、陳謝の一方で北電が設置した「第3者委員会」の調査結果を待ちたいなどという言葉。「北電が設置する」ということ自体、どこまで公平公正な判断があるのだろうかと。

8日には函館市民ら170人が青森県大間原発の建設差し止めと損害賠償を求めた訴訟の第3回口頭弁論が、函館地裁であったという記事。「長時間の電源喪失を考慮しなくてもよいとされた現行の安全審査指針は明らかに誤っており、(大間原発の)国の設置許可は無効だ」などと主張した…と小さく載っていた。

こちらはMOX燃料を使い、はじめからプルトニウムを燃やすための原発なのだから、こんなことを許したら大変だ。函館は30キロ圏内の位置にあり、隔てるものが海峡しかないということで市民の危機感も大きく、原発反対のデモ行進の映像がよく報道されている。

こういうとき、民主党議員の発言もさっぱり出てこない。脱原発はどこへやらだ。高橋はるみ知事も北電とは後援会を通じて、ずぶずぶの関係にあり、この問題に対する道民の見る目が厳しくなったというだけ。

泊原発の営業運転を福島第一原発事故後、全国でいち早く、さっさと承認してしまったということへの自覚もないようだ。原発事故以後、日本人はどこに暮らそうと食べ物などを通じ、放射能の危険と一緒に暮らすしかなくなった。もう後戻り出来ないという現実。原発を止めても生きていける社会にならなければ、と考えるのは当たり前のことではないか。

広瀬隆さんのコラムが掲載されるようになってから、毎号「週刊朝日」を購読している。9月2日号には広瀬さんが全国へ出かけて講演するという予定の場所と日程が載っていた。こんなに全国を飛び回って訴えているのかと、その過密スケジュールにはびっくり。北海道には泊原発のほかに幌延最終処分場というこわいこわい施設を抱えているので、是非お話を伺いたい。遠くまで行くのは難しいが、近くまできてくれるんだから有難い。

また9月18日には、大江健三郎さん、澤地久枝さん、坂本龍一さん、鎌田慧(さとし)さんらが全国集会の呼びかけ人となっている、「さようなら原発1000万人アクションin 北海道」の、集会とデモ行進があるそうだ。場所:札幌文化の館(旧厚生年金会館)ロイヤルホールにて~ 午前10時からの集会の後デモ行進に出発。デモのみ参加の方は午前11時に大通公園12丁目に集合!~ 


明日は

2011年09月09日 | 雑感

 

夕方の地方ニュースを見ていたら、明日はどうやら秋晴れの天気が期待できるとのこと。石狩川の増水があったりしたが、北上してきた台風12号もようやく出て行ってくれるらしい。

番組の中では、集中豪雨による水害の様子が連日報道されている奈良県十津川村を”母村”と呼んでいるという、道内の新十津川町の様子が伝えられていた。

3代目になるというおじいさんが今回の水害は”じいじ”が言っていたこととおんなじだと話していた。明治22年の十津川水害によって約2400人がこの地に移住し、その時義援金やお見舞いをいただいたので、十津川村に何か事があったら、お返しをしてくれと言われていたそうだ。

小中学生の交流もあり、十津川村と新十津川町では白地に黒い色で彩ったひし形模様に真ん中には十字が入っているという、村と町の”旗”は今でも同じものを使っているそうだ。100年以上経っても、強い結びつきがあるんだねえ。

夏の間がんばって水遣りを欠かさなかった緑のカーテンも、秋が来ればいよいよ店じまい。台風も去ったし、これで一区切り。窓を開けると葉っぱが影を落として、ぜいたくな気分を味わったもんだ。

風船かずらはカサカサと乾いた音がする茶色い風船の中に3個の種をつけ、白と黒のツートンカラーがかわいい。緑の花が咲いているホップの苗も越冬できるので、伸びたつるは来年も使うつもり。といっても土の中で根っこが絡み付き、鉢に移し替えるときには大作業になった。

脚立に乗ってネットのつるを外したり、巻いている針金を取り除くのにペンチを使ったり。土の入った重いプランターも運んだ。汗をかきかきなんとか終えた。張り切って、こんな大仕掛けをよくやったもんだよねえ。


大丈夫だよ

2011年09月06日 | 雑感

 昨夜は心配した三鷹の親戚から早速電話が来た。雨が少ない北海道で明日には大雨が降り、水害が警戒されるという予報に、札幌市住宅街一帯が水に浸かった映像が流されたからだ。

今日になると激しい雨は峠を越えたというニュースに少しほっとした。明日になってみないとわからないけど、この辺りは大丈夫だよと電話口で答えておいた。その後の電話のほうが長くて大変!?だったが…。

TVニュースを見ていたら、奈良県十津川村という地名が何回も出てきて、おやっと思った。かなり前、新十津川町というあたりを車で通ったことがある。その十津川村から来ているんだろうかと調べてみたら…。

やはり、1889年の十津川水害の被災から、1890年600戸が移住してきたと書かれてあった。道内では開拓史を記した記念碑を見かける。どこそこの県のどの地からこうして入植し、開拓してきましたということが書かれている。東西南北知らないところがいっぱいあるこの大地には、そういう人々が厳しい寒さと戦って、切り開いてきたところなんだなあと改めて実感した。

今のところ、風はなく静かに雨が降っている。大丈夫だからね。