FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

日めくり万葉集(240)〈終〉

2008年12月26日 | 万葉集
日めくり万葉集(240)は最終回。この番組の語りで声の出演を続けてきた女優の壇ふみさんが選んだ、大伴旅人(おおとものたびと)の傍に仕えていた余明軍(よのみょうぐん)の歌。

【訳】
このようにはかなく亡くなられるお命(いのち)でしたのに、萩(はぎ)の花は咲いているかとお尋(たず)ねになった君は。

【選者の言葉】
色々な万葉人と知り合う感じがしたが、一番いい男だなあと思ったのは大伴旅人。萩の花が咲いているかと訊(き)いて死んだという歌があると知って、なんていい男だろうと思った。

父【作家の檀一雄さん】の残した蔵書があるので、その中から父がなくなってからはじめて、しらべものをしていたら、(万葉集の本の中に)汚い紙がいっぱい挟んであった。父の原稿用紙だった。

どういうところに(原稿用紙の切れ端の)、付箋をつけていたのかというと、大伴旅人のところだった。ずっと見ていくと、その先に旅人への挽歌のこの歌があった。そこにも(作家の太宰の名前が書いている)付箋があった。

それで思い出したことがあった。父が亡くなる前の年くらいに東京は自分の身体に合わないのでここに住むと言って九州に移り住んだ。ボロボロの家を買い、自分で手直しして家の周りに萩の花を植えた。

植えてすぐに入院してしまった。入院中の気がかりは「萩の花はもう根付いたか?」。私たちが訪ねると必ず訊いていた。旅人と父が重なるような感じがした。万葉集の番組をやらなければ、私がこの本を開かなかったろうし、父が亡くなって30数年ぶりに父と会話したような感じがした。

万葉人たちはストレートなので、声に出して読んでいくと近い感じがして、読んでいくうちにドンドンどの人の気持ちがうーん、そうだったの。見たいな気持ちになっておもしろい体験だった。

【檀さんの語り】
天平3年、大伴旅人が亡くなったときに傍について仕えていた余明軍の歌。

【感想】
ついに最終回になったかと思うと長かったような、あっという間だったような。その中で檀さんがしっかり《いい男探し》をしていたというのはさすが花の独身女性だなあと。お父様のいい思い出を大切にされていたからこそ、旅人の歌に出会われたのだろう。

父が他界してやはり長い年月が経った。以前に音楽評論家・吉田秀和さんの番組を父の姿を思い出しながら拝見した。吉田さんは父より3歳お若い年齢で、現在でも新聞記事を書いておられるほど元気な方だ。

父はクラシックが好きだったが、時代の影響を受けてマルクス主義の洗礼も受けていた。若かりし頃に父と話しているとき「資本論を読んだことがありますか?」と訊かれてドッキリしたものだ。ソ連邦が解体したときには、それをどう思うかと手紙に書いてきた。

今、格差社会に疑問を抱く若者が小林多喜二の「蟹工船」を読むようになって、再び時代は巡ってきたと、天上から地上を眺めているのかもしれない。娘に対してはいつも丁寧な言葉で話してくれた。乱暴な言葉遣いを好きになれないのは父の影響だろうと思う。

亡くなる少し前の病院のベッドで孫たちを前にして、「憲法の前文を読んでくださいね」といったことが、今でも昨日のことのように目に浮かぶ。丁度、村山内閣が誕生したとき。あれが孫たちとのお別れの挨拶、辞世の言葉でもあった。







日めくり万葉集(239)

2008年12月26日 | 万葉集
日めくり万葉集(239)は万葉集の最後の歌、巻20・4516、大伴家持(おおとものやかもち)の歌。選者は映画監督の篠田正浩さん。

【訳】
新しい年の始めに立春が重なった今日降る雪のように、ますます重なれ良いことよ。

【選者の言葉】
実に皮肉なことになった。因幡(いなば)の国、鳥取県に赴任しているとき、大伴家持は中央政府に受け入れられなくて辺境へ辺境へと国の守(かみ)として派遣された。

これだけ天皇家に対して忠誠を尽くして見事な歌を書き上げながら、彼の最期は無残なものだった。彼が死んで埋葬された直後に、藤原種継(ふじわらたねつぐ)の暗殺事件が起きた。

時の【桓武天皇(かんむてんのう)第50代天皇、737~806年】の世を覆(くつがえ)そうとする皇位継承権も絡んで、大伴一族は罰せられる。埋葬された大伴家持は冠位を剥奪される。

息子の大伴永主(おおとものながぬし)は隠岐島(おきのしま)へ流された。そのときに大伴家持の遺骨も、隠岐島へ家族と一緒に【流刑】になった。それくらい、大伴氏は罪人として葬り去られた。

古代は万葉集の言葉が美しいからといっても、実は血まみれの骨肉相食(は)む政治闘争の怨霊(おんりょう)の都として、奈良の都は出来上がり、そこから逃れるように平安遷都(せんと)をしたのだ。

生前の家持は知っていた。だから万葉集を彼はそういう痛烈な権力の裏切り、自分たちがいくら奉仕しても受け入れられない権力の非情さ、というものに対するアンチテーゼとして、プライベートセレクションの万葉集を作ったのではないか。

歌の調べで行くと権力が何を考えようと自分たちは御祖(みおや)から伝えられた大伴氏の真情を守り抜くという気持ちで詠っている。それだけに家持と大伴氏一族が受けた悲惨な運命というのは一層、この歌によってあぶりだされて来ていると思う。

【檀さんの語り】
西暦759年の元旦。今の鳥取県東部に当たる因幡の国に国司として赴任した大伴家持が詠んだ歌。篠田さんは大友家の運命と家持の万葉集の編纂を重ねて考えた。

【感想】
桓武天皇の時代には遷都が繰り返されたらしい。本来皇位を継ぐべき皇太子が殺され、担ぎ出されるようにしてなった天皇だったということらしいのだ。それだけにそれを不当なものと思う不満が漂い燻っていたのだろう。

大伴一族はその権力闘争に巻き込まれて、流刑にあったというのだからたまったものではない。こんな新春を寿ぐ歌を載せているというのに。篠田さんのお話を聞いて、梅原猛さんの柿本人麻呂論の仮説が頭に浮かんだ。お二人のお話しには共通の認識があるように思えた。

《奈良は骨肉相食む政治闘争の怨霊の都》という言葉にそれが込められている。万葉集は美しい歌によって彩られてはいるが、よく読むと実はそういうものではない、といったことのほうが現代人の実感としてピンと来る。

柿本人麻呂も大津皇子も大伴家持一族も権力闘争に翻弄され、最後には歴史の怨霊となった。篠田さんが古代に対して、梅原さんと同じような認識を示したということがわかっただけでも、この番組をずっと見てきた甲斐があった。




日めくり万葉集(231)

2008年12月24日 | 万葉集
日めくり万葉集の放送はすでに終了したが、ここでは!あともう少し。まだ最後の歌に向かって続行中。231は巻18・4109、大伴家持の歌。選者は染色家の吉岡幸雄さん。

【訳】
鮮やかで目立つが紅花(べにばな)で染めたものは色が褪(さ)めるものだぞ。ドングリで染めた着慣れた衣に及ぶだろうか。かないはしない。

【選者の言葉】
《紅》(くれない)というのは高貴な人の衣装の色。《つるはみ》というのはドングリなどの木の実。庶民的な人の衣類。この歌は染色の技術と庶民的な色、高貴な人のための色とをうまくうたの中で表現している。

浮かれて調子に乗るな、つるばみ(古代はつるはみ)の衣を着ていたような普通の生活というものを考えようと言っているのではないか。それがまさに普段着のつるばみの衣。

(染めるときに)よく洗うので花粉が一緒に流れる。流れていく排水溝に花粉がいっぱい溜(た)まるというのは、そういう技術を物語っている。花粉が流れていたと思うと自分の仕事と重なり合って、非常にいい心地がする。

こういう技術は古代エジプトから中国、そして日本。これは寸分狂いなく同じような技術。華やかなものというのは難しい。高貴な色であり、高価な色でもある。染める側からすると、紫、紅(くれない)というのは職人の腕の見せ所。

不思議と茶色、黒といった沈んだ色は出しやすい。だから歌の中のつるばみと紅というのは見事にそういう対比を詠っている。

【檀さんの語り】
この歌は大伴家持(おおとものやかもち)が越中の国司を務めていたときに単身赴任中の部下の浮気が目に余り、それをいさめるために詠んだ歌。浮気相手の女性と妻を色に例えた。

つるばみの茶色に比べ、うつろいやすい紅。古くから紅花で染められてきた。奈良県明日香村にある7世紀の遺跡(酒船石遺跡)から紅花の花粉が大量に発見された。

湧き水を導く施設のあるここで、紅花染めも行われていたと吉岡さんは考える。紅花は冴(さ)えた色を出すために気温の低い真冬に行われる。冷水で何度も洗い、もみを繰り返す手間ひまのかかる作業。この万葉の時代と同じ技術を試行錯誤を重ねて、吉岡さんは蘇(よみがえ)らせた。

【感想】
何度もこの番組に登場した吉岡さんは最後を意識してか、自ら織り上げた布地をデザインしたようなジャケットやマントを着てカメラの前に立った。この歌の中にあるような茶色の布地ということは、やはり万葉時代と同じようにドングリなどの木の実から染めたのだろうか。

吉岡さんを拝見して毎回思うのは、技術というのは嘘をつかないということだ。誰が見ていなくても工程を手抜きすれば、それはすぐさま作品に表れる。そのことは言われるまでもなく自分自身が一番よくわかること。

数分間のマネーゲームで巨万の富を稼げる現代にあって、これは対極にある根気の要る時間のかかる手仕事。そしていつの時代にも変わらない職人さんの誠実さは疑いのないものだ。

日本でもすべてがお金で価値を表すようになり、いつしかこういう手仕事の大切さを忘れたような風潮になった。しかし、このところアメリカの金融危機から世界中を巻き込んでいる不況の波。

ほんの一握りの誠実さを失った人間たちに富が集中する、というこの体制で果たしていいのか。これからは疑いを持ってそう考える人間も増えていくのではないだろうか。







日めくり万葉集(222)

2008年12月22日 | 万葉集
日めくり万葉集(222)は巻7・1233の作者未詳の歌。選者は大学院留学生の金偉さん。

【訳】
おとめたちが布を織る織機の上の糸を櫛(くし)を使ってかき上げる【栲】(束ねる)という栲島(たくしま)が見える。

【金さんの中国語訳】
 少女的織布机上
 透過細密的梳歯
 能看見浪間的栲島

【選者の言葉】
この歌はやさしいだけではない、さびしいと恋しいという気持ちを感ずる。昔の日本人の自然に対してのやさしい心を感ずる。万葉集を読んで感動し、昔の日本人の感情を今の中国人に伝えたい。

この序詞(じょことば)の部分は【栲島】を引き出すだけではなく、少女、織機、櫛、島、波間など、一連のイメージが読者に豊かな想像空間を作り上げている。少女、織機などの言葉は部屋で織物を織っている少女の姿を連想させる。

部屋の空間は薄暗く部屋の窓や扉を透き通って、まぶしい光に照らされて見える波間の栲島があらわれる。少女の織物を織っている姿とこの部屋の2階から見える海の景色。

この暗と明の二つの空間から孤独感を感じる。そういう感情を残してまた旅を続ける旅人は旅の寂しさ・・・。

【檀さんの語り】
中国出身の金さんは大谷大学大学院で日本の古典文学を学ぶ留学生。11年という年月をかけて万葉集、全4516首を中国語に翻訳し、北京で出版した。子供のころから詩を作ってきた金さんは万葉集に出会い、強く惹かれたと言う。

旅の途中で【栲島】という島を詠んだこの歌は「娘子らからかかげ」まで序詞の栲島(たくしま)の【栲】を導いている。【栲】とは機を織るときに糸をかき上げ束ねる動作を言う。

【感想】
金さんのやさしい声と口調は中国人のイメージとはかなりかけ離れていて、まずそれに驚いた。子供のころから詩を作ってきたという檀さんの説明でなるほどと納得。11年もかけて中国語に翻訳したという【万葉集】を中国の人々はどういう風に受け止めて読んでいるのだろうか。この歌は序詞というのが難しい感じでなかなか感情移入が出来ないが、是非感想を聞いてみたい気がする。











日めくり万葉集(220)

2008年12月13日 | 万葉集
日めくり万葉集(220)は巻20・4332.大伴家持(おおとものやかもち)が防人(さきもり)とその妻のことを詠った歌。選者は映画監督の篠田正浩さん。

【訳】
雄々(おお)しい男が、矢を入れる靫(ゆき)を手に取り背負い、旅に出て行くというとき、さぞ別れを惜しんで嘆いたであろう その妻は

【選者の言葉】
家持は防人と同じ目線に立って、自分たちの置かれた状況を詠っている。防人に対する同情と悲しみがあった。武装して弓矢を持って家を出るとしたら、妻は嘆くだろう。これは家持一人ではなく、彼が徴集した部下たちも同じ悩み。それを目の当たりにしている。

自分の心情も「大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ」という美辞麗句で書きながら、天皇の賞賛に応えたが(【177】で篠田さんが選者の言葉を語った家持の歌のこと。)実際、防人の先頭に立って行けば、私の妻を悲しませるだけだと実に率直。こんなことを昭和の軍人が言えば「重塀送」。リンチに合う。

【檀さんの語り】
防人の監督に当たっていた家持は防人が詠んだ歌を数多く万葉集に載せた。その1首。

【歌】
防人(さきもり)に 行(ゆ)くは誰(た)が背(せ)と 問(と)ふ人を 見るがともしさ 物思ひもせず   巻20・4425

【選者の言葉】
防人に行くのは誰?誰が選ばれたの?実に屈託なくいう声を聞いて、その人の顔を見たときに、その悲しみを全然気にかけない呑気(のんき)さがうらやましいと。

別れをしなければならない妻が夫と向き合っていると、誰が選ばれたの?言う声がして、パッと振り返るという、一種のストップモーションがかかっている。感情がフリーズしてパーッと。万葉時代と思えない生々しい、そして普遍的な悲しみがこの歌にはある。

これは【大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)】という、恋愛主義者で素晴らしい歌人でもあり、お父様の叔母様で自分が孤児のようになった時に育ててくださったという、その「芸術的指導」!の影響ではないかと思う。

実に率直に、男だけの世界じゃなくて女にも世界があるよ、というのが万葉集の特徴でもある。儒教や仏教の道徳律が言葉を邪魔していない。自分の中にある情動を言葉に置き換える。その中に邪魔者が入らない伸びやかさがこういう歌を生ませたのではないかと思う。

【感想】
映画監督の篠田正浩さんは太平洋戦争へと向かう昭和史を再現した【スパイゾルゲ】を最後の映画として監督された。これは明るくて軽い映画ではなく、およそ大ヒット御礼など望めそうもないような重い内容。それにあえて挑み、渾身の力で映像に時代への思いを込めた。胸に迫る素晴らしい映画だった。

篠田さんは、まるで目の前に映画の場面が動いているかのように、映像的に万葉の時代の歌のことを語っている。さらに戦争体験に裏打ちされて、防人の歌を取り上げ、その妻の心情を汲むような歌に驚嘆する。

篠田さんが少年時代だった太平洋戦争の時には窮乏生活に対し、《欲しがりません勝つまでは》なんていうスローガンがあったらしいし、《銃後》の妻が徴兵に対して何かしらの気持ちを訴えるなんて言うことは即、《非国民》。とても出来るような時代ではなかったのだろう。

そうしたことを考えると万葉集の中で《率直に男だけの世界じゃなくて女にも世界があるよ》ということを歌に詠うというのは驚きを通り越す。フェミニストの篠田さんを感心させるような、はるかな万葉時代にすでに《先輩》がいた!!







日めくり万葉集(215)

2008年12月05日 | 万葉集
日めくり万葉集は巻2・165、謀反の罪で処刑された大津皇子(おおつのみこ)の姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が亡き弟のことを詠んだ歌。選者は漫画家の里中満智子さん。

【訳】
現世(うつしよ)の人である私は明日から二上山(ふたがみやま)を弟としてみるでしょうか。

【選者の言葉】
さみしい人生を感じさせると同時に、亡き弟のことだけ想って生きるという強い気持ちを感じる歌。

《世の中を見てみれば弟を犠牲にして現勢力は安定を保とうとしている。こんな世の中で私は弟を葬られたあの山をずっと見続けて生きていく。それが私の生き方》という。現世の幸福を求めているという感じがしない。

6年前から大阪芸術大学で教授をしているが、実はその場所から二上山が見え、大伯の気持ちをいたいほど感じる。そこへ葬られたときの大津の魂・・・。大津あなたはどうだったのか、私の描き方で良かったのか。大伯はどんな想いで見ていたのかと問いかけたい気持ちになる。

大伯皇女が亡くなるところを今描きかけている。想いを込めて描きたい。さみしい人生だが悲しいことも一杯いっぱいあって、うれしいことは何もなかったんじゃないかと思いながら、大伯皇女なりに生きたという実感を抱かせて、あの世に送ってやりたいと思っている。

【檀さんの語り】
この歌の作者大伯皇女には大津皇子という弟があった。二人は天武天皇の子どもだが、幼くして母を亡くし、姉の大伯は13歳で伊勢の斎宮〈さいくう)となり都を離れる。

それから13年後、父の天武天皇が亡くなるとまもなく、弟の大津が謀反の罪で処刑されてしまう。この歌は斎宮の任を解かれて都へ戻った大伯が弟が二上山へ埋葬しなおされるときに詠んだ歌。

大伯皇女は弟亡き後、独り身のまま暮らし、41歳でその生涯を終えた。

【感想】
山上憶良は九州に赴任してから、地方には都にいれば想像もできないほどの貧しさがあるとそれを目の当たりにしてから、貧しい農民の生活の苦しさを歌にして詠んだ。その食うや食わずの次元とは違うが、ここにも光が当たらずにひっそりと亡くなった人間がいる。

弟の大津は殺され、一人残された姉の大伯はこんな悲しい歌を残して生涯を閉じたのだと。編纂する側はこの歌を取り上げることでその存在を歴史の中に残そうとした、という意思が読む方にも伝わってくる。












日めくり万葉集(214)

2008年11月30日 | 万葉集
日めくり万葉集(214)は巻3・416、大津皇子(おおつのみこ)の歌。選者は作家の浅田次郎さん。

【訳】
磐余(いわれ)の池に鳴いている鴨(かも)を今日を限りに見て、私は雲に隠れ去って死んでゆくのか。

【選者の言葉】
万葉集を通して読む機会があり、これは僕らが考えていた歌集ではなく、歴史を背景にした壮大な叙事詩であるということに気が付いた。その中で大津皇子はスーパーヒーロー。いい男で身体も立派、文章も良くできて、武道にも巧(たく)みである。

この歌は無念さとはちょっと違うような気がする。無念という《念》を残していない。死を命ぜられたのだから、これは死ぬ他はないという《いさぎよさ》を感じる。この《いさぎよさ》がいかにも大津皇子のスーパーヒーロー像と重なる。この瞬間に大津皇子のキャラクターというのがパッと出来上がる。

小説を書いているとそういう瞬間を模索しながら書いている。どんな美辞麗句を並べても主人公の性格をピッタリ出来ない。でもある1行、あるセリフの一つで主人公のキャラクターがピッタリ確定する。そのときに小説家としてやった!と思うが、そういう感じの1首だろうと思う。

最後のところの《雲隠りなむ》という客観的ないい方が、本人が詠った歌としては適当な表現ではないのではないかとよく言われる。誰かの代作で大津皇子の立場に立って後世に大作されたのではないかとも言われる。万葉集の文学作品の性格を考えるとどちらでもいい。

壮大な叙事詩の中の1首というように考えれば、それはどうでもいいことで、むしろ、この1首によって大津皇子という人の人格が綺麗に表現されたということの方に大きな意味がある。

【檀さんの語り】
この歌の作者、大津皇子(おおつのみこ)は天武天皇の3番目の皇子(おうじ)。人望が厚く、次の天皇にと期待する声も多かったという。しかし天武天皇が亡くなるとまもなく、大津は謀反の疑いで逮捕、処刑された。この歌はその直前に読まれた歌。

【感想】
大津皇子が処刑される前に詠んだ辞世の歌。天武天皇の妻と大津皇子の母親とは姉妹の関係。姉が大津皇子とその姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)の母親だが子どもを残して亡くなった。つまり天武天皇という夫を挟んで姉妹が妻だったというのだから、この時代はややこしい。

さらに天武天皇の死後、次ぎの天皇を誰にするかという問題が出て来ると、天武天皇の后で後の持統天皇は自分の息子、草壁皇子をどうしても次ぎの天皇にしたいということで、いかにも人望もあり、能力もある姉の子ども、大津皇子を謀反の罪で殺してしまうというのだから。まるでシェイクスピアの劇のようだ。

そうした権力争いの政争の渦の中に巻き込まれて泡のように消えていった人物。そういう人間もいたことをなんとか形として残したいという、編纂する側の意志が壮大な叙事詩という形になったのだろうと思う。










日めくり万葉集(209)

2008年11月19日 | 万葉集
日めくり万葉集(209)は巻18・4111の大伴家持(おおとものやかもち)の長歌。選者は菓子の始まりを探求しているという京菓子の店の五代目、太田達さん。
 
【歌】【前半】
かけまくも あやに畏(かしこ)し 天皇(すめろき)の神の 大御世(おおみよ)に 田道間守(たじまもり) 常世(とこよ)に渡り 八桙(やほこ)持ち 参(ま)ゐ出来し時 時じくの 香(かく)の菓実(このみ)を 畏(かしこ)くも 残(のこ)したまへれ
 
 巻18・4111  作者は大伴家持(おおとものやかもち)

【前半の訳】
口にかけていうのも誠に恐れ多いが、天皇のご先祖の神の時代に 田道間守が常世の国に渡っていき、多くの苗木を持って帰ってきた時に、その“時じくの香の木(こ)の実”をかしこくも後の世にお残しになった。

【後半の訳】
雪の降る冬ともなると 霜は置くけれども その葉も枯れないで いつまでも変わることのない岩のように、いよいよ栄輝く。 だからこそはるか神の時代から まことにふさわしく この橘(たちばな)を“時じくの香の木(こ)の実”、すなわち時ならず、香りの良い菓実(このみ)と名づけたのであろうよ。

【選者の言葉】
“時じくの香(かく)の菓実(このみ)”とは時を越えた香りの良い木の実を意味し、【橘(たちばな)】を指すといわれる。【橘】はみかんのルーツといわれる木。菓子という字の草冠(くさかんむり)を外すと“果物”という字になる。

菓子の始まりは何だったのだろうか。狩猟時代に「何も捕れない、ああ、しんど」と座ったときに森を見ると赤いもの、オレンジの色が目立つ。これを手にし、口にすると甘酸っぱい。これはビタミンがあるので元気になる。これが本来の菓子の概念ではないかと思う。

和歌山県には門前町がたくさんある。当然門前の菓子が発達しそうなものだが、あまり発達していない。いっぱい売られているのは“みかん”。菓子とみかん、もともとこの国では”みかんが菓子”だったんだなあと思える歌。

実は京都の丹後(たんご)に橘小学校があり、ここは田道間守が持ち帰って上陸したところ。ここには浦島伝説や羽衣伝説もある。海から来るという【常世(とこよ)】思想、常に変わらぬものとして、葉の青さ、次ぎの実がなるまで実が落ちない、代々実がなっていくという思想が入っている。

【感想】
菓子の起源、そのルーツは橘にあり、古代の頃には菓子は“みかん”だったという。どうしてそうなのかという大事な意味はむしろ長歌の後半にあったので、写真は後半の部分。【訳】のほうも前後半と長くなるが、意味を理解するのはやはり必要と思ったので。

橘が常緑樹で雪が降っても、緑の葉っぱは変わらない色を保ち、実のほうも落ちないでいつもなっているというのが代々栄る、おめでたいことに通じるということだった。

3月に祝う【桃の節句】の【お雛様】にはいつも【橘】が飾られてあるが、これでようやく!どうしてそんなに大切にされ、お祝いにふさわしいかという理由がわかった。








日めくり万葉集(204)

2008年11月15日 | 万葉集
日めくり万葉集は巻8・1512、織物を詠った大津皇子(おおつのみこ)の歌。選者は植物染めで古来の色を追究している染織家の吉岡幸男さん。

【歌】
経(たて)もなく
緯(ぬき)も定(さだ)めず
娘子(をとめ)らが
織(お)るもみち葉(ば)に
霜(しも)な降(ふ)りそね

   巻8・1512  作者は大津皇子(おおつのみこ)

【訳】
縦糸もなく、横糸も定めないで、色もとりどりに娘たちが織る美しい紅葉(もみじ)の葉に、霜よ降らないでおくれ。

【選者の言葉】
この歌はまず縦の糸を張って、横の糸を打ち込んでいくという織物の行程をよく観察した上で、紅葉(もみじ)の美しいときに、自然と言うのは縦糸を定めたり、横糸を打ち込まなくても、こんなに美しい情景を作ってくれたんだよ、という自然に対する賛美がある。

中国で始まった絹の糸は細くてしなやかで光沢があって、植物染料が見事に浸透していくことで美しい色が織れる。それによって染められた細い糸は機にかけられ、縦糸をピンと張り、横糸を打ち込みながら《錦》を作っていく。

《錦》というのは金という金へんを書くが、まさに金に輝くような金に等しいような《帛(はく)》つまり《布》であるということをいっている。すべての人が憧れるものであった。

物を作るというのは、すべて人間の精神が込められている。見えないようだけど、自然にそういうものは人の目に映る。織るとか染めるというのはきちっとした方法、順番、あるいは決められたことがいくつもある。

基本をきちっと守りながら、しかもそこに心を込めて物を作らないと、人々の心を打たない。万葉の時代の特徴というのは自然の産物もあり、華やかな人間の知恵が集積されたような素晴らしい衣装もある。両方を享受できた大らかないい時代であった。

【檀さんの語り】
今から1300年前に人々を魅了した錦が法隆寺に伝えられている。【法隆寺、国宝、~四騎獅子狩文錦】。吉岡さんが中心になってこの退色した錦の復元に挑戦した。

《蚕(かいこ)》からこだわって細い絹糸を作り、当時の《空引き機》も復元した。3人がかりで織っても一日9ミリ。気が遠くなるような作業を経て、鮮やかな錦が完成した。

吉岡さんはこの復元を通して、当時の染織技術がすでに最高の水準に達していたことを実感したという。

【感想】
吉岡さんが中心になって再現した古代の織物のなんと鮮やかなこと。素晴らしい赤い色が復元された。中国で生まれた画期的な絹。それがシルクロードを生み、交易の道が出来て、点だった地域を線にしてつないだ。

日本に渡ってきた絹がこんな風に現代に生まれ変わったとは。吉岡さんは手仕事の大切さをいつも語っている。大量生産大量消費という時代ではなくなってきて、もう一度作り手の誠実さが認められる時代になってきたのだと思う。











日めくり万葉集(203)

2008年11月14日 | 万葉集
日めくり万葉集は秋の七草を詠った巻8・1537の山上憶良(やまのうえのおくら)の歌。選者は東京都世田谷区の船橋小学校・2年1組の生徒さんたち。

【訳】
秋の野原に咲いている花をこうやって指に折り数えてみると、ほら七草の花。

【檀さんの語り】
山上憶良が子どもたちのために詠んだといわれている歌。東京都世田谷区にある船橋小学校。世田谷区は日本語の教育特区に指定され、小学校で日本語の古典を学んでいる。

秋の七草は山上憶良のこの歌によって定着したと言われている。この歌に詠まれている【および】とは【指】の俗語。やさしい言葉を使って、子どもたちと秋の七草を数える憶良の姿が浮かぶ。

七草は・・・萩(はぎ)、尾花(すすき)、葛(くず)、撫し子(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、藤袴(ふじばかま)、桔梗(ききょう)。

【感想】
子煩悩な山上憶良の歌はわかりやすく、現代の人間にもその温かさが伝わってくる。胸を打たれる普遍性を持っている。小学校の教室ではこの歌をテーマにした授業が行われ、教壇の前には七草の花が花びんに活けられて、それがこの番組の映像となった。

授業風景を見ているうちに、我が家の子どもたちの姿と重なって見えた。背中のランドセルが大きく見えたようなころがあったんだなあと、なつかしい。

七草の中ではハギやキキョウ、ススキ、ナデシコ、オミナエシはすぐ目に浮かぶが、クズやフジバカマといった花はよくわからなかった。この辺で見かけないせいだろう。

クズというのはどんな花なんだろうと思ったら、教室に飾られてある花びんの中で、一番手前、大きな葉が垂れ下がったものが葛ということだった。マメ科の花なので、花の後に実がつくというお話だった。