日めくり万葉集(166)は“あなたを待つ”という大津皇子の歌。選者は画家の安野光雅(あんのみつまさ)さん。
【訳】
山のしずくに あなたを待って わたしは立ち濡れてしまった。 山のしずくに
【選者の言葉】
今は待って濡れているというのは余りないし、木の陰で雨のしずくに濡れながら待つというはないのでは。それがまた、風情があって、昔の人はおおらかで良かったなあと感心する。
本当に濡れながら待っていたかどうかというのは歌なので、本当のところはわからない。でもそれぐらい、あなたのことを考えているんだよということかもわからない。
そこのところが歌のいいところで、それが本当に待っていたとしてもおかしくない。表現の一種として雨に濡れながら待っていたんだよという言い方がなかなか迫力がある。
木のしずくに濡れて待ってるのと違う。戦争中の女の人が男の人が帰ってくるかどうかわからないのを待つわけだから。待っているほうも大変だった。戦いに出て行くとき、出征するときは別れに一番いいとき。戦争に行くのだから。
今までのことはなかったとまるで調子いい。ところが女から見ると男がいなくなるとき。女はどういしていたかというと、わたしは誰某を待っている、先に唾付けるという感じで、わたしは誰某を待っていると先に言われてしまうと、後の人は私もその人を待っているというわけにはいかなくなる。
今度は誰でもいいから仮想の人を見つけてきて、相手は関係なく、わたしはあの人を待っているという言葉で言っていた。
【檀さんの語り】
大津皇子が石川郎女(いしかわのいらつめ)に贈った歌。古代、恋人を待つのはもっぱら女性。皇子(おうじ)という身分でありながら、山で女性を待つというのは人目をはばかる事情があったのではないかとも言われている。
この歌に対して石川郎女はこんな歌を返した。
我(あ)を待(ま)つと 君(きみ)が濡(ぬ)れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを
【訳】
わたしを待ってあなたが 濡れたという そのやまのしずくにならたらよいな
恋愛には古代から付き物だった“待つ”という行為。安野さんが思い出すのは戦争中に出征していった男たちを待つ女たちのこと。出征する男たちを待つしかない女たち。それは男と女の機微があらわになる場面でもあった。
【感想】
万葉集の中の待つ行為を歌った男女の歌が、戦争中の話に飛ぶと、一気に現実味を帯びてくる。一番最初に頭に浮かんだのはアメリカの南北戦争を題材に取った映画【風と共に去りぬ】のシーン。
戦死者の名簿が発表されるとスカーレットは、まっ先に親友メラニーの夫であるアシュレイの名前がそこにないかと必死に探し、名前がなかったことでメラニーが横にいながらも思わず喜ぶシーン。
もう一つはスカーレットが心の中でいつも恋焦がれていたアシュレイが戦争から帰ってくるシーン。アシュレイには妻がいて、それはスカーレットをいつも擁護してくれる賢いメラニー。
しかし実際には夫がいるスカーレット(すでに戦死した?)はそんなことはおかまいなしに一方的にアシュレイを恋焦がれていた。アシュレイはそんなスカーレットの強さに引っ張られるがかといって、妻を裏切れない。
カメラは引いて、遠くまで見通せる赤土の一本道をこちらの屋敷に向かって、誰かが歩いて帰ってくる。小さい点のような姿が次第に大きくなり、それは疲れきった兵隊でアシュレイだとわかったとき、妻のメラニーは狂ったように飛び出していく。
スカーレットも思わず飛び出していこうとしたとき、その様子をじっと見ていた子供のころからの使用人、黒人の婆やに止められるといったシーンで、これはいまでも強く印象に残っている。
人の生死が頻繁に起こるような絶えられない日常の中で、アシュレイを恋焦がれていることが唯一、現実であって夢のような気持ち。スカーレットにはこれがあるから行き抜くことが出来たとも言える。
もう一つは現代の映画、80歳を過ぎているポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の最新作の映画【カティン】の中の1シーン。(この映画を見たというのではなく、紹介する番組の中で見たシーン。)
実際にワイダ監督の父親はソ連に行き、カティンの森でソ連軍に殺された一人だった。この映画の中では実の母親の取った行動を主役の女優に演じさせている。夫が戦死していないかとやはり【風と共に去りぬ】のスカーレットとおなじように食い入るように戦死者の名簿を見る。
似ている名前はあったが夫の名前ではなかった。それを待っている夫の母親である姑のところへ行って報告する。姑は夫も亡くなり、息子まで亡くなる筈がないというような意味のことを言う。二人はほっとする。この姑のセリフはなんと残酷なんだろう。見ていてもたまらなくなった!!
【訳】
山のしずくに あなたを待って わたしは立ち濡れてしまった。 山のしずくに
【選者の言葉】
今は待って濡れているというのは余りないし、木の陰で雨のしずくに濡れながら待つというはないのでは。それがまた、風情があって、昔の人はおおらかで良かったなあと感心する。
本当に濡れながら待っていたかどうかというのは歌なので、本当のところはわからない。でもそれぐらい、あなたのことを考えているんだよということかもわからない。
そこのところが歌のいいところで、それが本当に待っていたとしてもおかしくない。表現の一種として雨に濡れながら待っていたんだよという言い方がなかなか迫力がある。
木のしずくに濡れて待ってるのと違う。戦争中の女の人が男の人が帰ってくるかどうかわからないのを待つわけだから。待っているほうも大変だった。戦いに出て行くとき、出征するときは別れに一番いいとき。戦争に行くのだから。
今までのことはなかったとまるで調子いい。ところが女から見ると男がいなくなるとき。女はどういしていたかというと、わたしは誰某を待っている、先に唾付けるという感じで、わたしは誰某を待っていると先に言われてしまうと、後の人は私もその人を待っているというわけにはいかなくなる。
今度は誰でもいいから仮想の人を見つけてきて、相手は関係なく、わたしはあの人を待っているという言葉で言っていた。
【檀さんの語り】
大津皇子が石川郎女(いしかわのいらつめ)に贈った歌。古代、恋人を待つのはもっぱら女性。皇子(おうじ)という身分でありながら、山で女性を待つというのは人目をはばかる事情があったのではないかとも言われている。
この歌に対して石川郎女はこんな歌を返した。
我(あ)を待(ま)つと 君(きみ)が濡(ぬ)れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを
【訳】
わたしを待ってあなたが 濡れたという そのやまのしずくにならたらよいな
恋愛には古代から付き物だった“待つ”という行為。安野さんが思い出すのは戦争中に出征していった男たちを待つ女たちのこと。出征する男たちを待つしかない女たち。それは男と女の機微があらわになる場面でもあった。
【感想】
万葉集の中の待つ行為を歌った男女の歌が、戦争中の話に飛ぶと、一気に現実味を帯びてくる。一番最初に頭に浮かんだのはアメリカの南北戦争を題材に取った映画【風と共に去りぬ】のシーン。
戦死者の名簿が発表されるとスカーレットは、まっ先に親友メラニーの夫であるアシュレイの名前がそこにないかと必死に探し、名前がなかったことでメラニーが横にいながらも思わず喜ぶシーン。
もう一つはスカーレットが心の中でいつも恋焦がれていたアシュレイが戦争から帰ってくるシーン。アシュレイには妻がいて、それはスカーレットをいつも擁護してくれる賢いメラニー。
しかし実際には夫がいるスカーレット(すでに戦死した?)はそんなことはおかまいなしに一方的にアシュレイを恋焦がれていた。アシュレイはそんなスカーレットの強さに引っ張られるがかといって、妻を裏切れない。
カメラは引いて、遠くまで見通せる赤土の一本道をこちらの屋敷に向かって、誰かが歩いて帰ってくる。小さい点のような姿が次第に大きくなり、それは疲れきった兵隊でアシュレイだとわかったとき、妻のメラニーは狂ったように飛び出していく。
スカーレットも思わず飛び出していこうとしたとき、その様子をじっと見ていた子供のころからの使用人、黒人の婆やに止められるといったシーンで、これはいまでも強く印象に残っている。
人の生死が頻繁に起こるような絶えられない日常の中で、アシュレイを恋焦がれていることが唯一、現実であって夢のような気持ち。スカーレットにはこれがあるから行き抜くことが出来たとも言える。
もう一つは現代の映画、80歳を過ぎているポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の最新作の映画【カティン】の中の1シーン。(この映画を見たというのではなく、紹介する番組の中で見たシーン。)
実際にワイダ監督の父親はソ連に行き、カティンの森でソ連軍に殺された一人だった。この映画の中では実の母親の取った行動を主役の女優に演じさせている。夫が戦死していないかとやはり【風と共に去りぬ】のスカーレットとおなじように食い入るように戦死者の名簿を見る。
似ている名前はあったが夫の名前ではなかった。それを待っている夫の母親である姑のところへ行って報告する。姑は夫も亡くなり、息子まで亡くなる筈がないというような意味のことを言う。二人はほっとする。この姑のセリフはなんと残酷なんだろう。見ていてもたまらなくなった!!