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コンスタブル

2008年04月04日 | 絵画
「名画への旅」は19世紀、イギリスを代表する風景画家ジョン・コンスタブル(1776~1837年)の代表作【干草車】。180年前に描かれたこの名作の舞台は、保存運動によってコンスタブルカントリーとなり、蘇っている。

ジョン・コンスタブルは1776年、製粉業者を営む家の次男として、サクソン語で森の多い丘を意味するイースト・バーゴルトに生まれた。ロンドンからおよそ北東に100キロのところにある。

20代にはほとんど注目されなかったコンスタブルが大きく変わったのは30歳を過ぎてから。33歳のとき、地元の裕福な家の娘と恋に落ちた。【マリア・ビクネル・ジョン・コンスタブル夫人】(1816年)

売れない画家に孫を嫁がせることを拒んでいた祖父の存在があって、7年の歳月が必要だったが、この肖像画を描いた1816年に二人は結婚。それからは意欲的に作品に取り組むようになった。

【フラットフォードの製粉所】(1817年)
父親の経営するフラットフォードの製粉所をモチーフにした作品は結婚の翌年、展覧会に出品された。

コンスタブルの風景画がそれまでと異なるのは、絵は科学的でなくてはならないと考え、木の緑を種類によって書き分け、雲も忠実なデッサンに基づいて描いていた。

【干草車】(1821年)は45歳のときに描かれた幅2メートル近い大作。
夏の真昼の日差しの中で、干草車が浅瀬を渡って草刈場へ向かっていく。細やかな雲の描写。丹念に塗り分けられた木の葉。

穏やかな農村の風景が輝きを見せる一瞬を捉えている。荒々しいタッチの水面のきらめき。この絵の従来にない革新的な表現は、保守的な画壇から不評だった。

しかし1824年【干草車】はパリのサロンに出品され、高く評価された。活力あふれる表現に刺激され、ドラクロワは自分の絵を書き直したといわれる。作品はフランスの画商に買い取られ、コンスタブルはパリへ招待された。しかし彼はその申し出を断ってしまった。

ロンドン市の北のはずれの町、ハムステッド。1819年、コンスタブルはこの町の家を借りた。病気がちだった妻や体の弱い子どもを静かな環境の中で過ごさせたかった。

家の周りにはハムステッドヒースという荒野が広がっていた。コンスタブルはその雄大な風景に魅せられ、刻々と姿が変わる「雲」に心を奪われ「雲」のデッサンに夢中になった。コンスタブルの絵に大きな位置を占める雲。それは雲が風景に時間を感じさせる大切な要素だったからだ。

【ハムステッドの荒野:遠景に「塩の家」と呼ばれる家】
この作品を見る人は日傘が欲しくなるだろうといわれるほど、強い夏の日差しに輝く荒野が生き生きと描かれている。【干草車】と共にパリのサロンに出品されたこの絵は人々の賞賛を浴びた。

家族をこよなく愛したコンスタブル。しかし1828年に妻、マリアが亡くなる。「太陽の輝きはすべて私から消え去った。嵐が絶えずほえ続けている。」

【ハドリー城、テームズの河口~嵐の夜の翌朝のための等寸大の習作】
マリアの死と前後して描きすすめられていたハドリーの城。嵐が去っても尚荒れ狂う海。その荒涼とした眺めに立つ廃墟となった城。

繁栄を誇った者もいつかは滅びる。廃墟には二度と戻れないしあわせな日々を思うコンスタブルの心情が重ねあわされている。晩年、コンスタブルの風景画は深い精神性をたたえて、より象徴的になっていった。

50歳の時の発表した【麦畑】
谷に沿って麦畑に続く小道。川の水をうつ伏せになって飲む少年。それは少年時代、学校に通った実在の場所を描いている。コンスタブルの作品には少年の日の思い出が込められている。

身近な風景に深い愛着を感じていたコンスタブル。その愛着を出来るだけ忠実に生き生きと表そうと一瞬のきらめきや鮮やかさを見逃すまいとした。19世紀の風景画に革命をもたらしたコンスタブルの絵は、現在ロンドン・ナショナル・ギャラリーに展示されている。

日本人の目から見てもどこか安らぎが感じられる絵。【麦畑】に登場する水を飲む少年はにかつての子ども時代へ戻ったような存在感となつかしさがある。【干草車】の絵に目立たないように、ひっそりと描かれた少女は水で遊んでいるのだろうか。

なにげないわが町のどこにでもある風景。それを見ている毎日に幸せがある。コンスタブルの絵はその大切さを、見る人に思い起こさせるものかもしれない。









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