FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

変わらなければ

2011年03月30日 | 雑感

福島第一原発の事故はいつまでも収拾がつかず、一人暮らしの子供には、とうとうペットボトルの水やらなんやら送ることになった。荷物が届いたという電話口の声にはホッとする。

今日のニュースでは、核燃料を冷やし続けなければならない水がどこかから漏れて下に溜まり、それにも汚染された測定値が出ていることが発表された。

政府・東電側も延々と時間を浪費するわけにはいかないと、ようやくフランスから汚染水除去の専門家を呼んだようだ。こんなことなら、はじめから支援を要請すればよかったのにと腹立たしい。

インターネットを調べると、フリージャーナリスト田中龍作さんの記事には、27日に反原発のデモが銀座で行われ、1000人以上が参加。デモに参加するのははじめてという、都内在住という若い女性のプラカードには「私、原発に無関心だったことを反省しました」という文字が書かれていた。

大手新聞の記者クラブは大スポンサーの東電を批判する質問には及び腰だという話だ。新聞、TV局と電力会社と関係に横たわる長年の癒着。おまけにそのスポンサー料!?は東京大学をはじめ、いくつもの大学の原子力関連講座に寄付金として流れているというのだから、学者さんたちが東電に遠慮するのは当然の成り行きか。女性記者たちの糾弾の声もさっぱり聞こえてこない。どうしたわけだろう

首都圏に住む人々の豊かな消費生活を支えていた電力が実は他県から送られていること、そこに住む人々が地震国にもかかわらず危険と隣り合わせでいくつもの原発のそばで暮らし、その方たちが津波や今度の事故で大変な被害に遭われ、しかも自分たちのところにも放射性物質が今後も飛来し続ける。このままでいいのかと、構造的な問題を考えざるを得ないところまで来たのだ。

新聞もTV局も石油からくるエネルギーと違って、二酸化炭素を出さない原子力発電、環境を汚さない、地球にやさしいオール電化生活…みたいな伝え方をしてきたはず。「朝日ジャーナル」緊急増刊号に「『第4の革命』で未来を切り開く」~地域分散型自然エネルギー開発の可能性~という、エネルギー革命を意欲的に語っている飯田哲也さんの記事冒頭でさえも、…地球温暖化とエネルギー危機はますます深刻になっている…という書き出しで始まる。

元副大統領ゴアさんが見せた「不都合な真実」の映像が広まったということもあり、二酸化炭素が環境破壊の源という”常識”を覆すのは容易ではない。それじゃあ、原子力でもなんでも、二酸化炭素さえ出さなければいいのか?

広瀬隆さんの「二酸化炭素温暖化説の崩壊」(集英社新書)を読めば、これがいかに政治的意図に操られたメッセージかということがわかる。温暖化というより、太陽の黒点活動を見れば、むしろ地球は寒冷化に向かっているのではないかという説。地球の気候はいくつもの要素が複雑に絡まり、二酸化炭素一人の責任を追及すれば解明されるというものではないという。ヒートアイランドという都市化現象の問題も大きい。

人間の歴史が始まって以来、IPCCが発表した21世紀まで右肩上がりに地球の気温が上がっているというのはまやかし。しかもこれは意図的な改ざんであり(クライメート・ゲート事件、ウォーターゲート事件をもじってつけられた)、欧米ではすでに報道済み。

日本のマスメディアは政府の国策であり、大スポンサー電力会社が唱える原発推進と歩調を合わせ、欧米ではよく知られたこうした報道さえしていない。ここでも(政治とカネと同じ)真実を書かない日本の大手新聞・TV局の腐敗堕落、ゆがんだ報道姿勢がはっきりと見える。

今になっても原子力発電はコストの面からほかのエネルギーには譲れない経済性があると唱えている先生方がいるのには唖然とする。巨額の補償金が必要とされる今起こっている事故、赤ちゃん、幼児、妊婦、若い女性にとってより脅威となる放射能汚染、排熱によって生態系を壊す環境破壊、必ずバックアップのために必要とされる火力、水力などの発電所、稼働とともに大量に生み出される核廃棄物の処理、それをどこに作るのか、しかも地震国で管理する危うさ。そうしたことを考えて尚、安い電力と言えるだろうか。


どこへ向かうのか

2011年03月23日 | 雑感

東日本大震災のニュースを見ていたら、雨が降っている被災地で、まだ通り道の周りは片付いていない中を、おじいちゃんと孫の関係に見える二人が、寄りそうにように歩いていく後姿が映し出されていた。

その時、たしかおじいちゃんは傘をさしているようだったが、小学生くらいに見えた孫のほうはコートに付いているフードを被ってはいなかった。まだ壊れた原子炉からは盛んに放射能が空気中に飛散している状態というのに。特に子供には放射能に汚染された雨に当たってはいけないと、厳重注意しなければならないのだ。

ああ、この子に雨の時は被りたくなくても帽子やコートのフードを必ず被りなさいと注意する人はいないのかと思う瞬間、もしかしたら、子どもを守るべきお母さんも被災したことで…という考えが浮かび、尚のこと、衝撃を受けた。

被災地では赤ちゃんの粉ミルクに使うお水が足りないという、それも放射能に汚染されない、安心してい使える水でなければならないはず。原子炉の修復作業が連日続行され、一定の成果が上がったと報道される一方で、恐れていた放射能汚染の現実が広がってきた。

近所のスーパーの売り場に並んでいる茨城産、群馬産のホーレン草、その中でも特に寒い時期にしか店頭に並ばない「縮みほうれん草」。甘みがありこの時期おいしい季節。それが出荷停止になった。

生産者の方が畑いっぱいに植えられたほうれん草を刈り取る映像。どんなに無念な思いだろう。さらに海洋汚染の問題が出てきた。壊れた原子炉に注がれた水が海へ流れ、魚も安心して食べられないことになる。

以前見た世界のドキュメンタリーで、核廃棄物最終処理場の問題を取り上げた番組があった。フィンランドだったか、ノルウェーだったか、北欧のどこかの国で地下1千メートルよりもっと深く掘り進み、最終的にはそこの出入り口に蓋をし、永久に閉じ込めてしまうという内容だった。

日本の原子炉の数は現在54基。狭い国土の中、このまま行けば次々に出てくる廃棄物で溢れてしまう。福島第一原発では建屋の最上階にあるプールで、使用済み燃料を冷やしていたが、そこも壊れてしまった。使えない今が引き返す転換点。今日も行われている原子炉修復作業は、どこへ向かっているのだろうか。


発想の転換

2011年03月19日 | 雑感

東日本大震災から一週間以上が過ぎ、今回は自然災害に加えて原発事故という人災も起こり、計画停電で首都圏に住む子供たちの生活が滞っている様子。これからどうなっていくのかと不安が募る。

現在でも建屋が壊れている発電所から、空中に放射性物質が放出されているというのに、TVのニュース番組ではすぐに人体に影響はない、と繰り返すばかり。しかも出てくる解説者や学者さんたちはいずれも原発推進派の人たち。早くから原発の危険性を指摘し何冊もの著作がある、広瀬隆さんのような方は一度も登場しない。

海外のほうが敏感に反応し、各国大使館が続々と東京から移転したり、家族が引き揚げたりしているそうだ。
そういう外国人の危機感からすると、どういった情況なのか、詳しい報道がないTV報道や日本政府の説明は不明瞭。不安が解消されるわけがないと腹が立つ。

朝日新聞夕刊では、福島第一原発の「電源きょうにも復旧」の見出し。とうとう「廃炉」を口にしたという東電側の姿勢もこれによってまた変わるのかと気にかかる。原発推進派は40年も経ち、老朽化した福島原発をまた再稼働させられると考えているのだろうか。

集中している東京都の機能や経済活動を支えるために、持参金付きで地方に原発を建設させるというやり方はまるで米軍普天間基地問題の構図とそっくり。これだけ問題があるのだから、電力を湯水のように使って、足りなければ原発を作ればいい、という発想を転換する時期に来たのではないか。

空中に漂ったりする放射性物質が微量でも体内に入れば体内被曝となるのだそうだ。これから妊娠・出産する可能性がある女性にとっては恐ろしい話。水や土壌が汚染されれば、食べるものにも影響が出てくるという。やっぱり原発がなければ、東京都民の生活も経済活動も成り立たないという結論に誘導されるとしたら、あまりにも情けない。


生きていれば

2011年03月13日 | 雑感

東日本大震災に見舞われた3月11日。出先から戻ったのは夕方。家から遠く離れて暮らす子供たちはどうしているのかと、だんだん不安が大きくなる。TVを見ると東京では帰宅できない大勢の人々が、まるで何かの集会のように駅前に集結し、動かないでいる。

電車もバスも使えないとなると、歩いて帰るか、会社に泊まるしかないのだろう。連れ合いがいる二人、東北の一人は地震の情報がわかった時点で素早く帰宅し無事合流。首都圏の一人は連れ合いが会社まで迎えに来てくれ、車で親戚のところへ向かったことがわかった。

一人で暮らす子供が一番心配。あの駅前に群がる大勢の中にいるはず。帰ることもできず、身動きが取れないのだろうと。親戚からも大丈夫かと電話が来る。ところが深夜になってようやく携帯からメールの返信が帰ってきた。その日はたまたま休みで家にいたということだから、運が良かった。こういうちょっとしたことが、意外と運命を分けたりする。返信には2時間半くらい、遅れて返ってきた。電気、水道もなく、一人で暗闇の中にいるようだが、所在が分かってホッとする。

新しい建物ではないので、窓の開閉が出来るか、玄関ドアは使えるかとメールと打つと、だいぶ経ってから、大丈夫という返事が来た。ローソクや懐中電灯などないようだ。翌日、いつごろか、ようやく電気、水道が復旧したといい報告。また停電になったら困るからと、ごはんを炊いておいたとのこと。今日になって電話すると、トイレの水が止まらなくなって夜通し、インターネットを見ながら修理した!?と疲れた様子。夜の水音でアパートの近隣に迷惑がかかると、気になって仕様がなかったようだ。

「ヤフー!知恵袋」を使った受験生の気持ちがちょっとわかったなんていう。以前にもお風呂の水が溢れてきて、これもインターネットを利用して直したということだ。誰かの助けを待っている時間もない。一人で暮らす都会の若者にとっては、緊急の解決策を示す場所なのだろう。

庭に積もっていた雪を取り除くと、頼りなげに小さな白い花をつけたスノードロップが顔を出した。余震が続く被災地の様子、家や生活の糧を一瞬にして奪われ、家族の無事を懸命に探す人々。なんとか立ち上がって欲しいと祈りつつ。生きていればこそ、生き続けることできっと…。 


違和感

2011年03月06日 | 雑感

前原外相辞任を示唆と新聞も一面トップの見出し。暴力団とつながりがある企業からの献金問題、それに加えて国会でも追及された在日韓国人女性からの献金問題が浮上。政治資金規正法では外国人や外国法人からの政治献金を受けてはならないとしているのだそうだ。

政権交代時のマニフェストを裏切り続ける菅政権をなんとか倒せないものかと願ってきたのだから、ここで閣僚辞任が引き金となって、菅内閣総辞職ということにでもなれば目的は達成されたことにはなるが。在日外国人というのはだれのことかと思っていたら、それが日本に長く住む在日韓国人のことだとわかった。ひどく差別的な言い方に聞こえて違和感がある。

国会の予算委員会で前原さんを追及した自民党議員が、何世代にもわたって日本に住む彼らを平気で「外国人」と呼ぶ、その神経はどうなっているんだろうかと腹が立つ。人権意識があるのかと疑いたくなる。
こういう時、弱者の味方である社民党や共産党がそう言い方は差別ではないかという発言はないのだろうか。

福島さんも、カメラの前でTVコメンテーターのように振る舞うばかりでなく、彼らがどういう立場に置かれてきたか、ここは一つ、正論を吐いてみたら。共産党も党勢拡大に貢献しなくても、そういう言い方はないだろうと、参政権も与えられず、沈黙を強いられてきた人々のために言ってみたら。


なつかしい映画

2011年03月05日 | 映画

今年の米アカデミー賞では、作品賞など主要4部門を獲得した「英国王のスピーチ」という映画が新聞でも記事になっていた。これは見てのお楽しみとして、この時期になると、過去のアカデミー賞受賞作品というのがTV放送されて、なかなか放送されないような映画が”おまけ”としてついてくる。

一番の驚きは5時間以上にもなるイングマール・ベルイマン監督・脚本の「ファニーとアレクサンデル」(1982年/スウェーデン・フランス・西ドイツ)今の鮮明な映像で見たいとずっと待ち望みつつ、NHKでも!?放送されないのだから、うれしいなんてもんじゃない。WOWOWがよくぞ!!ついに!!という感じだ。

ベルイマン監督は劇場用の3時間版とTV放送用の5時間版を作ったらしいが、見るほうとしてはもちろん長いほうを見たい。アレクサンデルが亡霊を見るという不思議な力、幻視だ念力だという部分は好きではないが、長丁場の物語を面白くさせている。

この作品はキャストがピッタリ、アレクサンデル(バッティル・ギューヴェ)とその母エミリー(エヴァ・フレーリング)の大きな瞳はなんと魅力的なんだろう。冬の雪景色が捉えるクリスマスから始まる季節感、やがて街は華やいで緑と花が溢れ、バックに流れる重厚な音楽、小道具として配置されている室内の花…、どれもいいなあ。

20世紀初頭のスウェーデン、3階建の大邸宅、多くの使用人がいる富裕なエクダール家、窓から見える街並みには彼らとは違う人々の生活が見える。かつて女優をしていた祖母ヘレナ(グン・ヴォールグレーン)、長男、次男、三男夫婦の生き様。突然劇場を経営していた俳優の長男が亡くなり、その妻で女優のエミリーとその子供たち、ファニーとアレクサンデルの物語になっていく。

やがて再婚するヴェルゲルス主教(ヤン・マルムシュー)と共に主教館での生活が始まる。”悩むより楽しめ”のエクダール家でのびのび暮らしていた子どもたちは、この生活に溶け込めず破たん。ヘレナに何とか脱出したいと相談するエミリー。次男と三男、それにヘレナの元愛人イサク(エルランド・ヨセフソン)の尽力で子どもたちは助けだされ…。

この物語はベルイマン監督の自伝的要素が強いという話らしいが、牧師だった父親への反発か、質素で規律正しく厳格な生活を子どもたちに強いる主教に対しては一番厳しい。しかしそれも考え方の違いで、日本では明治に当たるこの時代、子どもが小さな大人ではないという考え方もなかったのでは?と思われる時代。

体罰も教育には必要というのが主流だったろうと考えると、むしろ、使用人もお客も子どもも大人も、一緒にテーブルを囲んでクリスマスを祝う、という民主的な!?エクダール家のやり方のほうが当時、珍しいという気がする。

そうしてみるとこの映画は悪人というのが一人も登場しない。主教も無邪気ではないアレクサンデルの反撃に翻弄されたともいえる。女たちも男たちもさざ波はあっても相手を認め合う。夫を失っている祖母ヘレナ、さっさと亡くなってしまう長男の妻エメリー、だらしない大学教授の次男を何とか支えるけなげな妻ドイツ人のリディア、若い使用人の愛人に子どもを産ませるという、菓子店を営む三男を寛容に認める妻アルマ…。

主教を含め、男たちに対してはその弱い部分、建前と実際の生活という、矛盾する部分を容赦なく暴き出すが、まだ時代性から受動的に生きざるを得ない彼女らに対しては、あたたかい目が注がれている。

雪国の人間にとっては冬があってこそ春が巡ってくる。北欧の監督のこういう描き方はうれしい。祖母ヘレナが朗読する「想像力は色あせた現実を美しい織布に変える」という内容の言葉は、すべての映画ファンへ贈られるメッセージ…。