FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

冬囲い

2007年10月28日 | ガーデニング
昨夜東京の子どもに電話したら、今日は台風が来るという予報で、外出したら雨に濡れて大変だったという話。こちらは晴れ渡って朝からいい天気だよとこの辺りはまだ台風の気配もないので、のんきな返事。

先週までは土日には悪天候が続いて、ちょっと気持ちが焦り気味だったところにまた週末の降り止まない雨。ずっと窓から見ているうちに、とうとう雨の中、薔薇の越冬準備を強行した。

その挙句、時間と共に体が冷え切って、家に入っても寒気に襲われるという事態に。それからはあせっても仕様がないと反省し(ほんとに?)、冬囲いネットを使うことにした。今までに少しづつ必要に迫られて買い足した支柱が随分あり、新たに買う必要もなかった。

ポリの緑の棒のほかにも竹製のものもある。緑色のネットをクルクル巻きにして、同じような色の細い紐を巻きつける。ネットの端は、文房具店で売っているファイルを閉じるときに使う紐を使って、支柱に固定する。

というのは、紐の端がしっかり固められていて、ネットの小さい穴に通りやすいからだ。これは我ながらいいアイデアだったと自画自賛!!ネットを巻く前には石灰硫黄合剤の10倍液を薔薇の枝や株元にかける。

少し硫黄の臭いが立ち込めるが、ご近所に迷惑がかかるほどではない。季節の終わりと来春の季節の始めには消毒作業として必要。こういう作業をぼちぼちとすれば、寒気には縁遠いはず、などと・・・。

ラベンダーや菖蒲、牡丹、芍薬なども剪定したり、ロープで巻いたり、竹の支柱で補強したり。なにしろこの上に雪がどっさりかぶさるからね。後は家の周りに置いてある鉢物の整理かなあ。鉢で育てている挿し木を土の中に埋める作業と家の中に取り込む作業が残されている。

ガーデニングなどと英語で言うと軽やかに聞こえるが、一輪車を使って、砂利や庭土を運ぶ作業もある。スコップを使うと汗もかくし、力も要る。お陰で規則的な生活になり、体力が付いた。何よりも、心安らぐ楽しい時間だ。

庭に出ているとたいてい、家の前を通っていく女性たちに声をかけられる。冬囲いの作業中には、綺麗な薔薇を楽しませてもらってありがとうございました、というように丁寧に挨拶されるので、いつも恐縮している。











越冬準備

2007年10月23日 | ガーデニング
ガソリンが高くなり、暖房に必要な灯油まで値上げになる。先週の土日にかけて薔薇の越冬準備をした。雨が降り止まないのを見て、これなら土を掘り起こすにもやわらかくていいか。などと考えて、講習会のプリントを引っ張り出し、雨に打たれながらもついつい決行。

しかし作業を始めてみると昨年より相当数も増えて、とても数日では終わらないと実感する。葉っぱをむしる作業だけでも一苦労。比較的丈の低い株はロープでぐるぐる巻きにして横倒しにし、消毒用に石灰硫黄合剤を薄めた液を株元、枝にかける。

株元と枝の先端は違う色のビニールテープを縛り、ひらひらするくらい長くつける。どちらが枝先か、根の部分かわかるために。どの方向へ倒すか、目安をつけてから株元の周りにスコップを入れて穴を掘り、先ほどのひらひらテープの端っこを土の上に出しながら、土中に埋める。

時間の経過と共に、薄いウインドブレーカーを着た身体が冷えてきた。家に入ったら、今度は寒気がしてぞくぞく仕出す。あわててお風呂を沸かし、お湯に浸かってようやく人心地という有様。

今は年齢にあわせて!作業は毎日数本ずつ。背丈の高いものは倒さずに新聞紙、ネットを巻く。牡丹や芍薬、裏庭のラベンダーは来月の始めごろまでになんとか。

来春にはまた注文したものがトラックで運ばれてくる。年々砂利の部分が少なくなって、庭の面積が増えてきた。来年当たり、物干し竿を置いているところが庭になっているかもしれない。

写真は剪定した薔薇の花々。



ユトリロ

2007年10月15日 | 絵画
今日はユトリロ展の最終日ということで、見逃したら大変と道立旭川美術館へ慌しく見に行った。駐車場ももう一杯になるほどの盛況。80点ほどの展示があり、よくこれだけ集めたなあ、二度とこういう展示は出来ないのではと感心した。

モーリス・ユトリロ(1883~1955)はパリの町並みの白い壁を印象的に描いた画家、ということくらいしか知識もなく見に行った。20代後半に描いたという白の時代の絵は、静かで真っ白でないところにどこか温かみのある白い壁。これは見てよかったと思わせる印象深いものがあった。

雪のある風景画が結構あり、パリも寒い町なのかとこれから冬の季節になる時期に何かしら親しみを覚えたが、その後の母と再婚相手の義父に幽閉されるようにして絵を描いた時期のものは、明るい青空や黒い線で縁取りした建物が目に付き、あまりいいとは思えない。

それもそのはずで、17歳でアルコール依存症で入院して以来、入退院を繰り返し、さまざまな奇行を重ね、精神不安定の末、外出も出来なくなってからの絵画で、絵葉書にデッサン用の方眼を引き、それをキャンバスに写し取って描いていたというものらしい。

母親のシュザンヌ・ヴァラドンはルノアールやロートレックのモデルにもなったという女性で画家だったが、18歳の時に産んだユトリロは祖母に養育をゆだねた。ユトリロの絵の中に描いている女性の腰の部分が膨らんでいるのは、女性に対するなにかの気持ちの表れではないかといわれている。

ユトリロが7歳のときにスペイン人ジャーナリストのミゲル・ユトリロの養子となったが、法律上のこの父に生涯会うことはなかったという。10代でアルコール中毒になり、医師の勧めで治療のために絵が描き始めたというのが画家誕生のいきさつだった。

25歳のころ、母はユトリロの幼馴染である画家アンドレ・ユッテルと恋に落ち、ユトリロは居場所がなくなっていた。しかし酒におぼれたそのころに描いた絵が白の時代として一番後世に評価されている。もっとも不幸な時代に高い芸術性が見られるというのも、芸術の奥深い真実を表すものなのだろう。

ユトリロの白は何度も絵の具を重ねて描いたもので、絵の具に砂や漆喰も混ぜ合わせるという、触感までこだわったものだった。パリのモンマルトルのありふれた風景を描いた絵は、第1次大戦後にパリの人々がそのすばらしさに気付き、作品は高騰していったということだ。晩年には勲章まで授与されている。

白い色に対するこだわりと工夫して編み出したというその過程は、どこか藤田嗣治が研究して作り出した東洋的な白い肌の白色を思い起こす。20代後半はお酒に溺れながらも多感な時期。それだけに、次から次と創作の意欲が溢れ出たもののようだ。

1918年、ユトリロは35歳のとき療養所を脱走して、同じような酒乱を繰り返す、イタリアから来た33歳のモジリアニと知り合った。その後モジリアニは亡くなり、妻も後を追って死亡。1935年には12歳年上の妻を迎え、母親とユッテルと同じようにユトリロの絵画を取り仕切った生活らしかったが、ユトリロはこれを受け入れ、多くの作品を描きながら71歳まで生きた。

作品の名前を一つ一つ記憶することは出来なかったが、一番心に残ったことは西洋絵画の中でも雪を描かれることが少ないという中で、あえて雪の白い色に挑戦したこと。アルコールに溺れながらも、新しい白い色を編み出した若きユトリロの努力の日々を想像しながら・・・。