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夷酋列像(いしゅうれつぞう)②

2007年12月09日 | 絵画
今日は昨日よりずっと温かいので夷酋列像探しに、とうとう図書館まで行って来た。朝日新聞・道内版「蠣崎波響(かきざきはきょう)と『夷酋列像』の世界」②から。~高い表現力、特異さ目立つ~筆者は井上研一郎・宮城学院女子大学教授。

1979年、北海道近代美術館で行われた企画展「松前の明星ー蠣崎波響展」が、私にとって波響との出会いだった。・・・『列像』に見られるきわめて精緻な表現力は師の宋紫石(そうしせき)をしのぐほど素晴らしい。

だが、その後の波響は当時京都で流行していた円山四条派の作風を身につけていく。息詰まるような克明な写実表現は、次第に穏やかな性格を帯びる。

問題は、主題としてのアイヌをなぜ波響がその後描かなかったかのかという点にある。それは結局『列像』とはなんだったのか、という問いかけにほかならない。

波響の作品研究を続けながら『列像』から逃げられなくなったきっかけは、1984年の『夷酋列像』ブザンソン本発見のニュースである。原本の一部とされる函館図書館本2点(『御味方蝦夷之図』)とはあきらかに異なる真作の存在が明らかになり、道内外の大きな話題となった。

・・・こうなると、ひとり美術史だけが立ち遅れてしまった感は否めない。・・・1991年から92年にかけて全国4会場で開催された「蠣崎波響とその時代」展は、波響の美術史的評価を世に問う最初の大規模な展観であった。

それに先立つ松前町での調査のとき、『列像』の最初に描かれたマウラタケのポーズが中国の仙人、廣成子(こうせいし)の図像に酷似していることが確かめられた。『列像』の成立にかかわる重要な出来事である。

また、各地に残る『列像』の模写作品の比較検討を通して、2組の原本の関係や所在の変遷(へんせん)を跡付ける努力も行われた。今回の松前フォーラムでは、ブザンソン本『夷酋列像』の現地調査に基づく高度精密画像が紹介され、波響の表現能力の高さが十分に証明された。

これを一歩進め、作品を近代絵画史の中にしっかりと位置づけることが美術史研究者に求められている。(おわり)


(写真は北海道近代美術館発行の『波響』~松前の明星~という蠣崎波響展図録から。文中にあるマウラタケのポーズというのは、今でいう体育座りという格好にあたり、絵の中では正面を向いている。しかし、これは図録にはなかった。他の絵にしたのは、浮世絵とは違う、波響の絵の素晴らしさという点でも是非、色彩のあるものにしたかったからだ。)







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