もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

150510日本人はなぜ戦争へと向かったのか第3回「“熱狂”はこうして作られた」感想5 桐生悠々と無恥曽我豪

2015年05月10日 15時33分57秒 | 映画・映像
5月10日(日):

 NHKスペシャル 日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第3回「“熱狂”はこうして作られた」(初回放送:2011年2月27日放送 49分)を観た。現在のNHKでは政策不可能な内容だ。これを放送したのはNHK内にまだ良識が残っている証拠だろう。この番組で、信濃毎日新聞主筆桐生悠々の存在をを再認識できた。

 放送の中で松平定知アナウンサーが「メディアがおかしくなれば、国家は直ぐにおかしくなる」と言っていた。安倍晋三の幇間(たいこもち)、宦官・去勢豚の曽我豪朝日新聞編集委員はぜひこの番組を観て、桐生悠々の姿と格好の悪い汚れた自分を見比べて恥を知れ!そして、朝日新聞を辞めろ!おまえがいるだけで、朝日新聞の読者はどんどん減っていくぞ!

番組HP紹介文:NHKアーカイブスでは、戦後70年のことし、「平和」をテーマにした様々な番組を振り返っている。5月は、2011年放送のNHKスペシャルのシリーズ「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」から、メディアと民衆を見つめた第三回を見る。戦後、「太平洋戦争開戦は日本陸軍の暴走だった」という側面が強調されていたが、日中戦争から対米戦争へ向かった背景には、「世論」が大きく影響を及ぼしていた。満州事変後、「守れ満蒙」と関東軍支持へと舵を切った新聞。戦意高揚の役割を大いに担ったラジオ。メディアが世論を作り、その世論がまたメディアの論調を作っていった。その連鎖を見つめる。//日本が戦争に向かう中、新聞やラジオなどのメディアが果たした役割を徹底解剖。軍とメディアと民衆のトライアングルが、時の政策判断に大きな影響を与えていた。熱狂した「世論」の実体に迫った。
   
※【ウィキペディア】桐生 悠々(きりゅう ゆうゆう、1873年5月20日 - 1941年9月10日)は、石川県出身のジャーナリスト、評論家。本名は政次(まさじ)。明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論(広い意味でのファシズム批判)をくりひろげ、特に信濃毎日新聞主筆時代に書いた社説「関東防空大演習を嗤(わら)ふは、当時にあって日本の都市防空の脆弱性を正確に指摘したことで知られる。

「関東防空大演習を嗤ふ」
1933年(昭和8年)8月11日、折から東京市を中心とした関東一帯で行われた防空演習を批判して、悠々は社説「関東防空大演習を嗤ふ」を執筆する。同文中で悠々は、敵機の空襲があったならば木造家屋の多い東京は焦土化すること、被害規模は関東大震災に及ぶであろうこと、空襲は何度も繰り返されるであろうこと、灯火管制は近代技術の前に意味がないばかりか、パニックを惹起し有害であること等、12年後の日本各都市の惨状をかなり正確に予言した上で、「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」「要するに、航空戦は...空撃したものの勝であり空撃されたものの負である」と喝破した。この言説は陸軍の怒りを買い、長野県の在郷軍人で構成された信州郷軍同志会が信濃毎日新聞の不買運動を展開したため、悠々は同9月に再び信濃毎日の退社を強いられた。

【青空文庫】関東防空大演習を嗤う  桐生悠々

 防空演習は、曾て大阪に於ても、行われたことがあるけれども、一昨九日から行われつつある関東防空大演習は、その名の如く、東京付近一帯に亘る関東の空に於て行われ、これに参加した航空機の数も、非常に多く、実に大規模のものであった。そしてこの演習は、AKを通して、全国に放送されたから、東京市民は固よりのこと、国民は挙げて、若しもこれが実戦であったならば、その損害の甚大にして、しかもその惨状の言語に絶したことを、予想し、痛感したであろう。というよりも、こうした実戦が、将来決してあってはならないこと、またあらしめてはならないことを痛感したであろう。と同時に、私たちは、将来かかる実戦のあり得ないこと、従ってかかる架空的なる演習を行っても、実際には、さほど役立たないだろうことを想像するものである。

 将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ人心阻喪の結果、我は或は、敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか。何ぜなら、此時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落すこと能わず、その中の二、三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焼土たらしめるだろうからである。如何に冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、また平生如何に訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすること能わず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く、投下された爆弾が火災を起す以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである。しかも、こうした空撃は幾たびも繰返えされる可能性がある。

 だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである。この危険以前に於て、我機は、途中これを迎え撃って、これを射落すか、またはこれを撃退しなければならない。戦時通信の、そして無電の、しかく発達したる今日、敵機の襲来は、早くも我軍の探知し得るところだろう。これを探知し得れば、その機を逸せず、我機は途中に、或は日本海岸に、或は太平洋沿岸に、これを迎え撃って、断じて敵を我領土の上空に出現せしめてはならない。与えられた敵国の機の航路は、既に定まっている。従ってこれに対する防禦も、また既に定められていなければならない。この場合、たとい幾つかの航路があるにしても、その航路も略予定されているから、これに対して水を漏らさぬ防禦方法を講じ、敵機をして、断じて我領土に入らしめてはならない。

 こうした作戦計画の下に行われるべき防空演習でなければ、如何にそれが大規模のものであり、また如何に屡しばしばそれが行われても、実戦には、何等の役にも立たないだろう。帝都の上空に於て、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一のパッペット・ショーに過ぎない。特にそれが夜襲であるならば、消灯しこれに備うるが如きは、却って、人をして狼狽せしむるのみである。科学の進歩は、これを滑稽化せねばやまないだろう。何ぜなら、今日の科学は、機の翔空速度と風向と風速とを計算し、如何なる方向に向って出発すれば、幾時間にして、如何なる緯度の上空に達し得るかを精知し得るが故に、ロボットがこれを操縦していても、予定の空点に於て寧ろ精確に爆弾を投下し得るだろうからである。この場合、徒らに消灯して、却って市民の狼狽を増大するが如きは、滑稽でなくて何であろう。

 特に、曾ても私たちが、本紙「夢の国」欄に於て紹介したるが如く、近代的科学の驚異は、赤外線をも戦争に利用しなければやまないだろう。この赤外線を利用すれば、如何に暗きところに、また如何なるところに隠れていようとも、明に敵軍隊の所在地を知り得るが故に、これを撃破することは容易であるだろう。こうした観点からも、市民の、市街の消灯は、完全に一の滑稽である。要するに、航空戦は、ヨーロッパ戦争に於て、ツェペリンのロンドン空撃が示した如く、空撃したものの勝であり空撃されたものの敗である。だから、この空撃に先だって、これを撃退すること、これが防空戦の第一義でなくてはならない。

↓現在の幇間・去勢豚メディアの恥知らずども↓ 絶対に赦さない!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

150509 38万PV超え:琉球新報 知事冒頭発言全文&【社説】知事・中谷会談 辺野古断念こそ解決策

2015年05月10日 13時22分23秒 | 閲覧数 記録
5月9日(土):記録ですm(_ _)m。ブログの開設から1309日。

アクセス:閲覧 507PV/訪問者 111IP

トータル:閲覧 380,163PV/訪問者 130,227IP

ランキング:日別 6,822位 / 2,178,203ブログ中 /週別 7,736位

琉球新報 辺野古新基地建設 知事冒頭発言全文 2015年5月10日
沖縄はあえぎ苦しんでいる/自民国会議員の発言に絶望/今後70年も基地預かるのか/かたくなな固定観念脱して
 中谷大臣においては大変お忙しい中、意見交換をさせていただくことを感謝申し上げる。4月には菅官房長官、安倍総理とお会いさせていただき、いろんな話し合いをさせていただいた。本土の方々も注目していただき、ほとんどの中央メディアの世論調査で、国民の皆さんが平均して10%ほど多く新辺野古基地建設に反対だという世論調査が出た。本土と沖縄の理解が深まったことに、大変意を強くしている。中谷大臣とは私が那覇市長時代に自民党県連内で1時間ほど、これまでの普天間基地の県内移設、それからオスプレイ配備について議論したことを覚えている。平行線とはいえ、お互いの主張を確認して今後の議論の約束をしたことをよく覚えている。
 昨年暮れに中谷さんが防衛大臣に就任し、私が沖縄県知事に就任した。それぞれ、国と県の責任者として、またお会いできることを期待していたが、国会答弁やマスコミ報道等によると、大臣の方からは「今、話し合っても溝が深くなるだけだ」「日本の安全保障はどう考えているのか」「沖縄県のことは考えているのか」という私の方から見ると高飛車な発言が聞こえてきた。沖縄県民に寄り添ってご理解いただけるよう努力したいという政府の方針とは程遠く、会えなかったことがさらに政府と沖縄の溝を深くしたのではないかなと思っている。
 普天間基地の5年以内運用停止の定義について、大臣は3月の安全保障委員会で「飛行機が飛ばないこと」と答弁した。しかし、4月24日には「幻想を振りまいてはいけない」とあっさり撤回して「仲井真知事とは運航停止について、政府がやりとりした言葉であって、これが合意されたわけではありません」とも答弁している。5年以内の運用停止は前知事の埋め立て承認の大変大きな柱であり、前知事は官房長官も総理も約束したことが最高の担保だと言っている。空手形にならないようにぜひともしっかりと対応していただきたいと思っている。
 このようなことの積み重ねが、今日の日本国民全体で日本の安全保障を考え、負担すべきだという努力を怠って、戦後70年がたっても沖縄に負担させる。あるいは辺野古が唯一の解決策ということでしか日本の安全保障を語れない。そういった日本の政治の中で、沖縄があえぎ、苦しみ、そして自己決定権を強く主張するゆえんとなっている。
 2年前、参議院の予算委員会が超党派メンバーで来県して、基地所在市町村の首長と意見交換した。その席上、普天間基地の県外移設に話が及び、自由民主党の議員が大きな声でこう言った。「本土が嫌だと言っているのだから、沖縄が受けるのは当たり前だろう。不毛な議論はやめようや」。こういう国会議員と私はどうやって日本の安全保障を議論できるのかと、大変絶望を感じた。
 あらためて申し上げるが、沖縄は自ら基地を提供したことは一度もない。全部、戦後、米国に銃剣とブルドーザーで強制的に接収をされて今日に至っている。海兵隊ももともと沖縄にいたわけではない。本土にあったものが60年、70年代に沖縄に移ってきたわけであり、これも私たちからすると経緯について大変不信感もある。自ら奪っておいて「普天間基地が老朽化したから、世界一危険になったから、新辺野古基地に移設をさせる」「嫌なら代替案を沖縄が出せ」というこの考え方のどこに、私から言わせれば、自由と民主主義、人権という価値観を共有する国々との約束を実現する資格があるのかどうか。沖縄の視点から見ると、大変強く感じる。日米の安保体制、日米同盟は私はもっと品格がある、世界に冠たる、誇れるものであってほしいと心から願っている。
 沖縄県は昨年一連の選挙、名護市長選挙、そして県知事選挙、衆議院全選挙区で新辺野古基地建設反対の候補者を当選させた。これが沖縄県の民意だ。その中で中谷大臣に具体的なお願いが二つある。
 一つは沖縄県から見ると、どんなに米軍が事件・事故を起こして、その都度沖縄県や各市町村長、議会等が防衛局に出向き、意見や抗議をしても残念ながら防衛局に当事者能力がない。能面のように「この件は米軍に伝えたいと思います」と言うことがほとんどだ。日米地位協定の最前線にいるということはそういうことであり、沖縄だからこそこれが現実に見えてくる状況だ。
 私たちも他の都道府県の首長同様、子どものことやお年寄りのこと、そしてまたまちづくりのために全力を尽くして頑張りたいが、いかんせん基地に時間が割かれ過ぎる。私が知事に就任して約5カ月。8割、9割は基地だ。それ以外に経済も福祉も教育も触る時間がない。基地問題だけで私は今日まで知事職を全うしているのかなと思うぐらいだ。
 せめて事件が起きたら、防衛局長はじめ職員が県や市町村に出向いて説明をし、私たちの意見も聞いてもらいたい。これは軍転協の首長さんがそろったときの席上で多くの方が言っていたので、ぜひこれはご検討いただきたい。
 それから二つ目は辺野古の岩礁破砕許可の関係で、コンクリート製構造物の設置状況に関する調査について、外務省北米局に速やかに立ち入り許可が得られるよう依頼しているところだ。沖縄防衛局においても適切に対応していただくようお願いする。
 今日まで海上保安庁の船や防衛局の調査船、工事作業船が出入りできて、沖縄県の調査船が入れない。こういう状況が続いている。これはまさしく理不尽であり、見えないところで現状が変更されているのではないかという疑義さえ私たちに生じさせている。
 私は日米安保体制を理解している。私の政治の流れもそういうものであった。しかしながら、新辺野古基地が唯一の解決策だという考え方に日米両政府が固執すると、日米安保体制に大きな禍根を残すのではないかなと思っている。
 先ほど来、沖縄がいかに日本の安全保障のために重要かという話があった。しかし、考えてみると70年間、冷戦構造時代も今日に至るまでも、いつも沖縄は重要な要だということで何ら変化はない。今、強調されたことも冷戦構造時代より本当にそれが脅威になっているのかどうか。安全保障に重大な危険性を持っているのかどうか。
 あるいはまたグローバルなこれからの安全保障、積極的平和主義ということで、中東まで視野に入れての日米同盟、日米安保体制だが、その中でも沖縄が位置付けられるということになると、沖縄は一体いつまで世界中のそういったもので用立てなければ私たちは住んでいけないのか。この辺のところが先ほどの説明でも現状はよく分かるが、過去はどうだったのか、先々はどうなるのか。70年間は預かってきたが、これから以降の70年間も預かれと言っているのかどうか。この辺のところが明確でないので、先ほどの説明をなかなか納得するわけにはいかない。
 私は辺野古に基地を建設するのは不可能であって、私どもも沖縄県としてこれは絶対に反対していきたい。このように思っている。このまま日本政府が地元の理解を得ることなしに辺野古の基地建設が途中で頓挫することが起きることは、そういう事態は全て政府の責任だと思っている。防衛大臣のご尽力により、政府の新たな英断を心から期待している。かたくなな固定観念から脱して辺野古への建設工事等を中止することを決断し、そして私たちと話し合いを継続していただきたいと思う。
 私も(大臣が)言ったアジアの中における沖縄の在り方、そして日本の安全保障は日本国民全体で考えるべき、負担すべきだ。その努力を本土の政治家は本当に地元の方々に自分の命を懸けて、自分らで守ろうよとそういう話をしたことがあるのかどうか。参議院の予算委員会のメンバーの一人が「嫌だと言ってるのだから沖縄が受けるのは当たり前だろう」と言う中で、日本の安全保障を語ったら、私たち沖縄県民はそういった大きな命題の中で生きていかなければならないのか。大変切ない、寂しい思いがある。ぜひ、この気持ちをご理解いただいて今後に生かしていければありがたいと思う。よろしくお願いします。

琉球新報【社説】知事・中谷会談 辺野古断念こそ解決策  2015年5月10日
 傷が付いて同じ音を繰り返すレコードのようだ。
 「辺野古移設が唯一の解決策」。菅義偉官房長官、安倍晋三首相が相次いで会談して翁長雄志知事に発したせりふだ。9日、知事と会談した中谷元・防衛相も「どう考えても」と前置きして同じせりふを使った。
 政治とは意見や利害の対立を調整する場であるはずだ。「唯一」という言葉を使って思考停止する態度は「政治の堕落」でしかない。
 会談の中で知事は、2年前に来県した参院予算委員会の自民党議員の発言を披露した。「本土が嫌だと言っているのだから、沖縄が受けるのは当たり前だろう。不毛な議論はやめよう」という内容だ。
 この発言は中谷氏自身に突き付けたとも受け取れる。中谷氏は昨年「沖縄の基地を分散しようと思えば九州でも分散できるが、抵抗が大きくてできない」「理解してくれる自治体があれば移転できるが『米軍反対』という所が多くて進まないことが、沖縄に(基地が)集中している現実だ」などと語っているからだ。
 知事は、沖縄以外の反対意見には耳を傾けるが、沖縄の声にはまったく聞く耳を持たない「構造的差別」を批判しているのだ。さらに中谷氏が知事となかなか会おうとせず「今話し合っても溝が深くなるだけ」という発言をしたことに「高飛車」だと批判した。
 中谷氏は知事と会談する前に、名護市辺野古周辺の辺野古、豊原、久志の3区長と会談している。条件付き移設容認の区長らと秘密裏に面談したことは、民意の分断を狙ったとみられても仕方ない。
 知事は中谷氏に沖縄の民意について説明し「辺野古に基地を建設するのは不可能」「絶対に反対」と明言した。だが、会談後に中谷氏は移設作業について記者団に「手続きに従い実施していきたい」と述べ、夏から埋め立て工事に着手する方針を重ねて示した。沖縄の民意に寄り添わないなら、一体何のために来県したのだろう。
 安倍政権は、かたくなな固定観念から脱して辺野古への新基地建設を断念すべきだ。日本政府が自由と民主主義、人権という価値を共有するなら、当然の帰結である。自己決定権の行使を求める沖縄の主張を封じることは、国連の自由権規約第1条違反であり、国際的にも認められない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4 075 増田奏「住まいの解剖図鑑 心地よい住宅を設計する仕組み」(エクスナレッジ:2009)感想5 テキスト

2015年05月10日 00時32分59秒 | 一日一冊読書開始
5月9日(土):

207ページ   所要時間 2:00   図書館

著者58歳(1951生まれ)。一級建築士。関東学院大学人間環境学部客員教授。

 テキスト。素人には、どこから手を付けてよいのか分からない「家づくり」のポイントを建築のプロが背景にある理屈まで含めて、とても洒落の効いた喩え話で噛んでふくめるように分かりやすく説明、語りかけてくれる。さらに、この「わかりやすく」を実現するために本書では、ユーモアに富んだイラストがふんだんに使われていて、ともすれば文字面(づら)だけの難解さに終わる書物の弱点が見事に解消されている。

 最先端の技術を紹介するプロの仕事もいいが、本書のようにその道のプロの目から見れば基本中の基本といえる常識でも、部外者の素人から見れば皆目見当のつかないことが沢山あるという事実を踏まえて、基礎知識の無い素人にも分かりやすくプロの常識を普及させてくれる本は貴重なのである。著者は「家づくり」の池上彰と言えるかもしれない。

 俺は、本書によって、「家づくり」についての見る目・考え方を随分と開かせられた。目から鱗が落ちるとはこのことだ。著者の代表作は、本書だけのようだが、立派な仕事を残されたと敬意を表したい。また、以下を書くと俺自身の首を絞めることになるが、実は俺はずっとアマゾンで本書の中古を狙ってきた。読了後もテキストとして手元に置いておきたい。しかし、定価1944円(税込)で、1557円(1300円+257円)よりも安くならないのだ。もう少し安くなったら買いたいのだが、良い本はなかなか値が下がらない。

 1000円を下回ったら買うつもりだ。嗚呼、自分の貧乏症が悲しい…。誰か安く売ってくれ!

紹介文:住宅設計の現場には、家づくりの先人たちが積み重ねてきた知恵や工夫、心憎いまでの「ふつう」があります。それらのエッセンスを550点超のイラストと洒脱な文章で分解・抽出した『住宅版・解体新書』です。

【目次】はじめに
1 気持ちよさにはワケがある: 家づくりとは?=住宅の設計は、お弁当づくりに似ています。/ポーチ=ソトとウチのあいだで、誰でも気持ちのギアを入れ換えている。/玄関=入口で靴を脱ぐのは、なぜ?/階段=その部屋が狭いのは、階段の演出をミスしたせいかもしれません。/ドア=人は滑らかに移動したい。ドアはそれに従います。/リビング=翻訳するなら「座る部屋」。/和室=畳が敷いてあれば、和室でしょうか?/ダイニング=ダイニングテーブルは、見かけよりずっと大きい。/キッチン=設計のプロでも、機器の配列はアヤシイ。/キッチン+ダイニング(平面)=冷蔵庫は八方美人。誰かれかまわず呼び寄せる。/キッチン+ダイニング(断面)=「アイランド役」を、演じきるのは難しい。/ベッドルーム=ベッドの置き方を間違えると、真夜中にダイビングするはめになる。/収納=モノは生きている。とても出たがり・夜行性。/トイレ=手洗いは、お手洗いの中で。/浴室=日本のお湯は、みんなのものです。/洗面室と水廻り=洗濯機の居場所が決まらないと、洗面室の中身も決まらない。/給水・給湯・排水=握手するのなら、行き先くらい聞いてやれ。
2 箱のかたちにはイミがある: 屋根・軒=雨の日に傘を差すように。レインコートを着るように。/軒下=日傘のありがたさを知っているのは、ご婦人だけではありません。/庇=窓の上には、どんな帽子をかぶらせますか。/壁と開口=壁に穴をあけるのか、穴を壁でふさぐのか。/開口部=あなたの前には、七つの窓があいています。/断熱・通気=行くべきか、とどまるべきか、空気はいつも迷っている。/風通し=野暮だねぇ、エアコンで風鈴を鳴らすのかい。/音=吸ったり、遮ったり、響かせたり。/
敷地と道路=敷地は道路にぶら下がっている。/敷地の方位=敷地の向きを決めていたのは、道路でした。/建物の配置=「ルビンの壺」の気になる二人。/駐車スペース=クルマは見かけよりずっと大きい。
3 人にも寸法にもクセがある: 動線=いちいち降りなくても、両手を使えば枝づたいに渡れます。/共有と専有(プライバシー)=あなた、家族、たくさんのあなた。/共有と専有(装置)=私のモノは私のモノ、みんなのモノも私のモノ。/尺と坪=「三センチの虫にも十五ミリの魂」とは言いません。/グリッドとモジュール=パズルのルールは、簡単がいい。/基準線と壁厚=厚みがない本は立たない。壁厚がない家も建たない。/断面=バンズのないハンバーガーなんて、うまくない。
column: 畳の五カ条/家族のタイムテーブル/平凡な案から/方針・決心・変心/「ふつうじゃダメなのかい?」/平面のトポロジー/無目的という目的
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)