もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

141122 「原発再稼働」の考え方:「内田樹の研究室」より

2014年11月22日 16時12分28秒 | 考える資料
11月22日(土): アベノミクス解散ではない! 原発再稼働、特定秘密保護法、集団的自衛権、消費税増税、辺野古移設「白紙委任要求」解散だ!

11月14日(金)の朝日新聞朝刊(大阪 朝刊 1社会)掲載の【(考・民主主義はいま)原発再稼働、内田樹さんと考える】記事を「内田樹の研究室」にたどって読んだ。「目から鱗の内容」とは思わない。当り前のことが書かれている。むしろ、なぜ、この当然の論理が、今の日本で政治に反映されないかの方が非常に気になる。残念過ぎる。それほどに今の日本の政治状況は行き詰まっているのだ、という指標になる論だと思う。

そもそも安倍晋三首相(!)や麻生太郎財務相(!)という家業政治屋どもの児戯に等しい幼稚さ、知的能力の低さは、瞠目すべきレベルだ。「反知性主義」という表現も恥ずかしくなる。この連中には知性も哲学もない。小学生に1億2千万人、世界第3位の経済大国の国家運営を任せていると言ってもおかしくないのだ。洒落にもならないし、笑い事じゃないが、後世のお笑い草だ!

日本社会に「馬鹿が権力を握る階級社会出現」の弊を痛感せざるを得ない。今の日本は、完全に倒立状態だ。いつ倒れても不思議じゃない。改善すべき答えが明瞭に見えているのに、変えられないこのもどかしさ。我々は、2011/3/11以来、ずっと侮辱を受け続けているのだ。我々を侮辱しているのは、自民党だけではない。自民党最大の補完勢力日本共産党もまた、日本の現状を見て見ぬふりをして今回もまた全選挙区に泡沫候補を出した。

共産党の選挙手法を、政治闘争の多様性だと言って受忍できるほど今の日本の政治状況はよくないのだ。
公明党という宗教政党が、自民党と連立している以上、リベラル票を分けもつ共産党の票がどぶに捨てられることがどれほど日本の政治バランスを崩していることか。安倍晋三という愚かなファシストが現れて日本を破滅に追い込んでいるまさに今も、共産党は中道リベラル勢力結集の足を引き続けるのか。

中道リベラル勢力と協力して、少しでも共産党の主張を政治に反映させて、厳しい生活を送る低所得者層の人々の生活を守ることが本当に大事なことだろう。それをできない硬直した日本共産党という勇気の無い政党も、組織として腐り果てている。今の日本の異常な政治状況を象徴していると言わざるを得ない。

今回の総選挙でもまた、共産党は我々国民を侮辱し続けるのか

*(ここから)東日本大震災による東京電力福島第一原発の事故で運転を止めていた各地の原発を、政府や電力会社は次々と再稼働させようとしている。再び重大事故が起きればその影響は計り知れない。誰もがそう思うのに、なぜそのリスクをとるのか。現代思想家の内田樹さんに聞いた。国にこのまま「いのち」と「暮らし」を預けていいのでしょうか――。(ここまで、朝日新聞)

「川内原発再稼働について」(内田樹)

13日の朝日新聞に掲載された「川内原発再稼働について」の寄稿のロングヴァージョンです(紙面では行数が少し減りました)。九州電力川内原発の再稼働に同意した鹿児島県の伊藤祐一郎知事は7日の記者会見で自信ありげに再稼働の必要性を論じていました。私は「事態は『3・11』以前より悪くなってしまった」と感じました。

原発で万が一の事故があれば、電力会社も国の原子力行政も根底から崩れてしまう。「福島以前」には原子力を推進している当の政府と電力会社の側にもそのような一抹の「おびえ」がありました。でも、東京電力福島第一原発の事故は、その「おびえ」が不要だったということを彼らに教えました。

●福島の責任不問

これまでのところ、原発事故について関係者の誰ひとり刑事責任を問われていません。事故処理に要する天文学的コストは一民間企業が負担するには大きすぎるという理由で税金でまかなわれている。政府と東電が事故がもたらした損失や健康被害や汚染状況をどれほど過小評価しても、それに反証できるだけのエビデンス(根拠)を国民の側には示すことができない。
彼らは原発事故でそのことを「学習」しました。
鹿児島県知事は「たとえこのあと川内原発で事故が起きても、前例にかんがみて、「何が起きても自分が政治責任を問われることはない」ということを確信した上で政治決定を下したのです。

僕も彼らが利己心や邪悪な念によって原発再稼働を進めているとは思いません。彼らは彼らなりに「善意」で行動している。主観的には首尾一貫しているんです。それは、せいぜい五年程度のスパンの中での経済的利益を確かなものにすることです。経営者としては当然のことです。しかし、1億人以上の人が、限られた国土で、限られた国民資源を分かち合いながら暮らし続けることを運命づけられた国民国家を運営するには、百年単位でものごとを考えなければならない。株式会社なら、四半期の収支が悪化すれば、株価が下がり、倒産のリスクに瀕します。だから、「百年先」のことなんか考えていられないし、考えることを求められてもいない。目先の利益確保があらゆることに最優先する。でも、国民国家の最優先課題は「いま」収益を上げることじゃない。これから何百年も安定的に継続することです。株式会社の経営と国家経営はまったく別のことです。原発推進派はそれを混同してしまっている。

社会が成熟すれば経済活動は必ず停滞する。生身の身体の欲求に基づいて経済活動がある限り、「衣食足り」れば消費は頭打ちになる。成熟社会では人口が減り、消費活動は不活発になる。成長しない社会において、どうやって国民資源をフェアに分配するか、この問いに答えるためにはそのための知恵が要ります。でも、わが国の政治家も官僚も財界人も学者もメディアも、誰一人「経済成長が終ったあとに健康で文化的な国民生活を維持する戦略」については考えてこなかった。
「パイ」が増え続けている限り、分配の不公平に人はあまり文句を言いません。でも、「パイ」が縮み出すと、人々は分配が公正かどうか血眼になる。そういうものです。資源の公正な再分配にはそのための知恵が要ります。しかし、今の日本にはその知恵を持っている人も、そのような知恵が必要だと思っている人もいない。
相変わらず「パイが膨らんでいる限り、パイの分配方法に国民は文句をつけない」という経験則にしがみついている。
原発再稼働は「パイのフェアな分配」については何のアイディアもなく、ただ「パイを増やすこと」以外に国家戦略を持たない人たちの必至の結論です。

◆汚染、国土失うリスクに無関心

福島の事故は、放射能汚染で国土の一部を半永久的に失う事態を招きました。でも、尖閣諸島では「国土を守れ!」と熱する人々も原発事故で国土が失われるリスクにまったく関心を示さない。それはナショナリストたちも「パイが大きくなる」こと以外に何の目標も持っていないからです。
領土問題で隣国と競り合うのは、彼らの眼には領土もまた「パイ」に見えているからです。
中国や韓国の「取り分」が増える分だけ、日本の「割り前」は減る。そういうゼロサムゲームで彼らは国際関係を捉えている。だから、国内における国土の喪失には特段の意味を感じないのです。

原発を稼働すれば経済戦争で隣国に対するアドバンテージが得られると訊けば、この「ナショナリスト」たちは国土の汚染や国民の健康被害など「無視していい」と平然と結論するでしょうし、現にそうしている。

●目先の金求める

日本が誇れる国民資源は何よりも豊かなこの「山河」です。国破れて山河あり。戦争に負けても、恐慌が来ても、天変地異やパンデミックで傷ついても、この山河がある限り、国民は再生できます。日本の森林率は67%で世界トップクラス。温帯モンスーンの肥沃な土壌のおかげで主食のコメはなんとか自給できます。豊富な水、清浄な大気。これらがほとんど無償で享受できる。こんな豊かな山河に恵まれた国は世界でも例外的です。国民が知恵を出し合ってフェアに分配し、活用すれば何世紀も生きているだけの「ストック」がある。なぜ、国土を汚染し、人間が住めない土地を作るリスクを冒してまで目先の金を欲しがるのか。それは原発推進派の人たちには「長いスパンで国益を考える」という習慣がないということでしか説明できません。
     
原子力発電から手を引くのは文明の退化だ。そんな主張をなす人もいます。でも、原子力発電と人類の文明の成熟の間に相関はありません。
20世紀初頭に米・テキサスで大油田が見つかり、「ただ同然」のエネルギー源を利用した内燃機関文明と今日に至るアメリカの覇権体制が基礎づけられました。でももしあのときテキサスで油田が見つかっていなければ、20世紀のテクノロジーはおそらくまったく別のかたちを取っていたでしょう。石油エネルギーは人類がある時点で「たまたま」選んだ選択肢の一つに過ぎません。
原子力もそれと同じです。原子力がなければ、それに代わる何かを私たちは見出す。文明というのは人間の知性のそのような可塑性と自由度のことです。原子力がなければ滅んでしまうような文明は文明の名に値しません。

●経済成長よりも

多くの国民は国土の汚染や健康被害のリスクを受け入れてまで経済成長することよりも、あるいはテクノロジーの劇的な進化よりも、日本列島が長期的に居住可能であり、安定した生活ができることを望んでいます。
成長なき社会では、「顔の見える共同体」が基礎単位となることでしょう。地域に根を下ろした中間共同体、目的も機能もサイズも異なるさまざまな集団が幾重にも重なり合い、市民たちは複数の共同体に同時に帰属する。生きてゆくためにほんとうに必要なもの(医療や教育や介護やモラルサポート)は市場で商品として購入するのではなく、むしろ共同体内部で貨幣を媒介させずに交換される。そのような相互支援・相互扶助の共同体がポスト・グローバル資本主義の基本的な集団のかたちになるだろう
と私は予測しています。百年単位の経済合理性を考えれば、それが最も賢いソリューションだからです。         (日時: 2014年11月15日 08:57)

うちだ・たつる 1950年生まれ。東京大文学部卒。神戸女学院大名誉教授。専門はフランス現代思想。著書に「日本辺境論」「街場の共同体論」「街場の戦争論」など。武道と哲学のための学塾「凱風館(がいふうかん)」館長を務める。

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