もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

141127 「従軍慰安婦」問題を考える。高橋源一郎さん論壇時評&朴裕河(パクユハ)氏フェイスブック記事

2014年11月28日 00時16分11秒 | 考える資料
11月28日(木):

よい内容なので紹介する。朝日の良い記事は、ほとんどが外注の記事だ。朝日新聞社は恥を知るべきだろう。まあ、読売・産経、NHKより100倍マシだけどね。

(論壇時評)孤独な本 記憶の主人になるために 作家・高橋源一郎
朝日新聞デジタル 2014年11月27日05時00分

 去年、韓国で出版され、「元慰安婦の方たちの名誉を毀損(きそん)した」として、提訴・告訴された、朴裕河(パクユハ)の『帝国の慰安婦』の日本語版が、ようやく公刊された〈1〉。感銘を受けた、と書くのもためらわれるほど、峻厳(しゅんげん)さに満ちたこの本は、これから書かれる、すべての「慰安婦」に関することばにとって、共感するにせよ反発するにせよ、不動の恒星のように、揺れることのない基軸となるだろう、と思われた。そして、同時に、わたしは、これほどまでに孤独な本を読んだことがない、と感じた。いや、これほどまでに孤独な本を書かざるを得なかった著者の心中を思い、ことばを失う他なかった。
 「朝鮮人慰安婦」問題は、日本と韓国の間に深刻な、修復不可能と思えるほどの亀裂を生み出した。片方に、「慰安婦は、単なる売春婦に過ぎない」という人たちが、一方に、「慰安婦たちは、強制されて連れて来られた性奴隷だ」とする人たちがいて、国家の責任をめぐって激しい論争を繰り広げてきた。
 朴裕河はこういう。
 「これまで慰安婦たちは経験を淡々と話してきた。しかしそれを聞く者たちは、それぞれ聞きたいことだけを選びとってきた。それは、慰安婦問題を否定してきたひとでも、慰安婦たちを支援してきたひとたちでも、基本的には変わらない。さまざまな状況を語っていた証言の中から、それぞれ持っていた大日本帝国のイメージに合わせて、慰安婦たちの〈記憶〉を取捨選択してきたのである」
 朴がやろうとしたのは、慰安婦たちひとりひとりの、様々な、異なった声に耳をかたむけることだった。そこで、朴が聞きとった物語は、わたしたちがいままで聞いたことがないものだったのだ。
     *
 朴は、「朝鮮人慰安婦」たちを戦場に連れ出した「責任」と「罪」の主体は、帝国日本であるとしながら、同時に、実際に彼女たちを連れ出した朝鮮人同胞の業者と、そのことを許した「女子の人生を支配下に置く家父長制」(日本人の場合も同じだ)を厳しく批判する。
 「謝罪」すべきなのは、帝国日本だけではない、「韓国(および北朝鮮)の中にも慰安婦たちに『謝罪』すべき人たちはいる」のだ。だが、そのことは忘れ去られた。なぜだろうか。植民地に生きる者は、時には本国民よりも熱く、その宗主国に愛と忠誠と協力を誓った。それが仮に真意ではなかったとしても。そして、そのことは、忘れるべき「記憶」だったからだ。
 「日本人慰安婦」の代替物として戦場に送られた「朝鮮人慰安婦」にとって、日本人兵士は、時に(身体と心を蹂躙(じゅうりん)する)激しく憎むべき存在であり、時に(同じように、戦場で「もの」として扱われる)同志でもありえた。その矛盾を生きねばならなかった彼女たちの真実の声は、日本と韓国、どちらの公的な「記憶」にとっても不都合な存在だったのだ。
 「何よりも、『性奴隷』とは、性的酷使以外の経験と記憶を隠蔽(いんぺい)してしまう言葉である。慰安婦たちが総体的な被害者であることは確かでも、そのような側面のみに注目して、『被害者』としての記憶以外を隠蔽するのは、慰安婦の全人格を受け入れないことになる。それは、慰安婦たちから、自らの記憶の〈主人〉になる権利を奪うことでもある。他者が望む記憶だけを持たせれば、それはある意味、従属を強いることになる」
 かつて、自分の身体と心の「主人」であることを許されなかった慰安婦たちは、いまは自分自身の「記憶」の主人であることを拒まれている。その悲哀が、朴の本を深い孤独の色に染めている。
 木村幹の『日韓歴史認識問題とは何か』は、朴が提起した問題への、日本の側からの誠実な応答の一つであるように、思えた〈2〉。
 「日韓歴史共同研究」に参加した著者は、朝鮮半島に関わる研究者たちが巻きこまれざるをえない、歴史認識問題をめぐる争いの中で、疲れ果て、アメリカへ赴いた。そこでの「リハビリのためのトレーニング」として、この本は書かれた。
     *
 木村は考える。
 なぜ、歴史認識をめぐって、不毛とも思える激しい争いが繰り広げられるのか。あるいは、なぜ、かつては問題でなかったことが、突然、問題として浮上するのか。そして、なぜ、その問題は、いまもわたしたちを苦しめるのか。
 それは、「過去」というものが、決して終わったものではなく、その「過去」と向き合う、その時代を生きる「現在」のわたしたちにとっての問題だからだ。
 では、「過去」が「現在」の問題であるなら、わたしたちはどう立ち向かえばいいのか。
 「わたしたちの生は過去の暴力行為の上に築かれた抑圧的な制度によって今もかたちづくられ、それを変えるためにわたしたちが行動を起こさないかぎり、将来もかたちづくられつづける。過去の侵略行為を支えた偏見も現在に生きつづけており、それを排除するために積極的な行動にでないかぎり、現在の世代の心のなかにしっかりと居すわりつづける」(テッサ・モーリス=スズキ〈3〉)
 遥(はる)か昔に、植民地支配と戦争は終わった。だが、それは、ほんとうに、遠い「過去」の話だろうか。違う。戦争を招いた、偏見や頑迷さが、いまもわたしたちの中で生きているのなら、その「過去」もまた生きているのである。
     ◇
 〈1〉朴裕河『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』(今月刊=日本語版)
 〈2〉木村幹『日韓歴史認識問題とは何か』(今年10月刊)
 〈3〉テッサ・モーリス=スズキ『過去は死なない』(文庫版が今年6月刊行。単行本は2004年刊)
     ◇
 たかはし・げんいちろう 1951年生まれ。明治学院大学教授。小説作品に『さよならクリストファー・ロビン』(谷崎潤一郎賞)、『優雅で感傷的な日本野球』(三島由紀夫賞)など。評論集『「あの戦争」から「この戦争」へ』が近日刊行予定。



◎さらに、朴裕河(パク・ユハ)さん(勤務先: 世宗大学校)自身のフェイスブック記事も載せます。こちらは、まだ読めてません。折を見てゆっくり目を通します。この記事の掲載は、俺自身の高橋源一郎さんへの信頼に依拠してなされたものです。現時点では、この記事の内容が、俺自身の見解と同じとは言えません(為念)。

韓国で慰安婦問題に関する新しい本を出しました。ちょうど先日日本で講演の機会があったとき、この問題をめぐる日本での議論に添って本の内容の一部をまとめたのでアップしておきます。.

2013年7月29日 19:37

慰安婦問題をどのように考えるべきなのかー秦郁彦・吉見議論(2013・6)を踏まえて(2013・7・15、明治学院大学)

 慰安婦問題はどのように考えるべきなのだろうか。わたしは昨年からこの問題について考えてきてこの夏に韓国で本を出すことになっている。日本語版も出ることになっているけれど、まだ先のことになるので、昨今大きな混乱を呼んでいるこの問題について、とりあえず日本で「慰安婦問題の第一人者」とみなされている二人の歴史家のお話に議論を添わせる形で今日はお話させていただこうと思う。

 ここで議論の土台にするのは、去る6月にラジオで放送された「秦郁彦 吉見義昭 第一人者と考える慰安婦問題の論点」である。安倍首相は「歴史家に任せたい」としていたが、歴史家の「第一人者」の議論がなかなか接点を見いだせていないことから分かるように、慰安婦問題はもはや単に「歴史家」だけの考えだけでは日韓の合意どころか「日本内」の合意さえ見いだせない難しい問題となっている。

 それはなぜか。それはこの問題がすでに長い間解決されないまま長引く間に両国の国民の多くがこの問題に対してのかなり詳しい「情報」を持つようになってひとつの政治問題となり、さらに昔の「慰安婦」をめぐる情報や考え方のみならず、現在身を置いている政治的立場やそれに伴う感情までが入り込んでしまっている問題となっているからだ。さらに、この問題に直接・間接にかかわってきている人の数が多く、そのほとんどの人たちが間接的な「当事者」にもなっていて、かかわった期間が長かっただけにそれぞれ自分の主張が自分の人生や生き方を示すものにさえなっているせいで、既存の考え方や立場をなかなか崩せないところにまで来ていることも対立を深めた大きな原因である。

 そしてこの問題について考える時もっとも必要と思われるのは次のことである。

1、できるだけ早い解決
2、そのためにこの問題を「慰安婦」という存在自体をめぐる状況はむろんのこと、ここ20年の運動や葛藤の様相についても知る。
3、この問題にかかわることが自分の生活や政治的立場と直接には関係のない人たちもこの問題について多くの情報を持ち、それをもとに「解決」をもたらす方法を「関係者とともに」考える。

この問題を考えるためには、いわゆる「慰安婦」問題が発生した時期よりもさかのぼった近代初期や、さらに現代の状況についてまで考えなければならない。しかも先に触れたように、ここ二十年の葛藤についても考えて始めて問題の全体が見えてくるような問題なのでとても限られた時間で話しきれる問題ではない。それでもこの問題の「解決」を考えるためにはおおまかにでも全体のことを見ておくことがどうしても必要なので,今日はおおまかな形を取りたいと思う。時間があればあとで細かいことについては質問を受けて御応えしたいと思うのでこの点ご了承願いたい。

1、「慰安婦」とは誰か

 近代以降、交通の発達や国家の勢力拡張の欲望を内面化する形で、海外へ単身で移動する男性たちは多かった。そしてそのような男たちを支えるために女性たちの「移動」も多くなった。日本の場合、最初は日本に入ってきた外国軍人のためにそういう女性たちが提供されていたのが、同じ頃から海外へでかけることになっていた。いわゆる「からゆきさん」がそれで、彼女たちの殆どは貧しい家庭出身で親に売られたり家のために自分を犠牲したような女性たちだった。

 そして彼女たちは朝鮮に駐屯した軍隊や国家の移住奨励政策に従って移住していった男たちのために朝鮮にも移住して行った。やがて朝鮮半島にも公娼制がしかれ、朝鮮人女性もそこで働くようになる。すでに日露戦争の時から軍人たちを「慰める」女性たちはいたのであり,軍隊を支えるという意味で彼女たちは「娘子軍」と言われていた。

 つまり、「慰安婦」とは基本的には<国家の政治的・経済的勢力拡張政策に合わせて戦場や占領地や植民地となった地に「移動」していった女性たち>のことである。そして商人や軍人が利用した「慰安所」のようなものは早くから存在していた。「慰安所」や「慰安婦」という名前は1930年代に定着したようだが、その機能は近代以降の西洋を含む帝国主義とともに始まったと見るべきである。

2、「慰安婦」と「朝鮮人慰安婦」

 当然ながら、日本の場合は遠い海外へ「国家のために」でかけている男性のために「慰安婦」が用意されるのでその対象は「日本人女性」だった。それが、朝鮮が植民地となったがために「朝鮮人女性」もその仕組みに組み込まれることになる。そして、1920年代にはすでに中国や台湾には朝鮮人女性も海外にいる「日本人」や「日本人となった朝鮮人」を相手するためにでかけていった。のちに「慰安婦」と意識されるようになる「朝鮮人慰安婦」の前身と見るべき存在である。

3、「からゆきさん」の「娘子軍」化

 からゆきさんの中には、たとえ売られてきていわゆる「売春」施設で働いても、拠点を築いた女性たちは「国家のために」来ている「壮士」たちのためにお金や密談のために場所を貸すような立場になっていた女性たちもいた。彼女たちが「娘子軍」と呼ばれるようになったのはそのためで、そのようにして彼女たちは蔑まれる一方で「格上げ」されることになる。一方彼女たちも、間接的に「国家のために」働く男たちを支えることでそれなりの誇りを見いだすことができる(もちろんそれは戦争に突き進む国家の帝国主義の言説にだまされたことでもある)ようになっていた。「慰安婦」とはそのような仕組みが支える名称でもあった。

4、様々な「慰安所」

 したがって、日本軍が1930年代に入って突然「慰安婦制度」を発想して<「慰安所」を作った>と考えるべきではない。日本軍は、満州国と日中戦争のために駐屯軍のために、それまで衛生など(内地なら警察が管理していた)の「管理」をしてきた売春施設のうち(料理屋、カフェなどにはその役割をしたところもあった)、基準を満たすところを「指定」して「軍専用の慰安所」にしていた。しかしやがて軍隊の数が増えるにつれて、それだけでは間に合わなくなったので、そのような施設をさらに増やすことを考えた。そして業者を使って「募集」するにいたったのである。

 つまり今日「慰安所」と考えられているところには、軍が新たに作ったところだけでなく、日清・日露戦争以降の既存の施設も含まれていると考えられる。「業者」にしても中には移動や経営に関する便宜を与えるために「軍属」(あるいは軍属扱い)にする場合もあった。

 しかし、それはあくまでも「軍が作った」慰安所に限る。したがって「慰安所」の形が様々であるだけに、「業者」のあり方も様々だった。島などの場合、営業許可を得たか否か確かでない業者が進んで自分で粗末な「慰安所」を作り、「臨時営業」(一種の派遣業務)を始める場合もあった。もちろん、軍隊が「慰安所」を建設する場合もある。将校などは指定慰安所を使わずに、普通の料理屋などを利用する事も多かった。

 軍が慰安所を作った(指定した)理由は、言われているように性病防止やスパイ防止以外にも、利用軍人が多くなるにつれて、「安く」利用できるようにするため、の理由もあったと思われる。その場合の料金は<公>と言われた。給料の少ない兵士たちに利用しやすくしたと考えられる。

以上のように、「慰安所」は、時期や場所によって様々な形があった。

5、様々な「慰安婦」

 したがって、本来の意味でなら、日本が戦争した地域にあった性欲処理施設を全て本来の意味での「慰安所」と呼ぶことはできない。たとえば「現地の女性」がほとんどだった売春施設は本来の意味でなら「慰安所」と呼ぶべきではない。つまり、そのような場所にいた女性たちは単に性的はけ口でしかなく、「自国の軍人を支える」という意味での「娘子軍」とは言えないのである。さらに、戦場で提供されて、半分継続強姦の形で働かされた女性たちや、戦場での一回性の強姦の被害者も厳密な意味では「慰安婦」ではない。

 したがって、アジア太平洋戦争で日本軍の性の相手をした全ての女性を「慰安婦」と呼ぶべきではなく、本来の「慰安婦」の名前にふさわしいのは、「日本人」や「日本人」になっていた「朝鮮人」「台湾人」「沖縄人」だけと考えるべきである。そして彼女たちこそ「娘子軍」に近い存在だった。

 しかし、普通の売春施設にいた女性たちも「慰安婦」と同じように軍を対象にした性労働に従事し、「愛国食堂」のような看板を掲げて軍人を受け入れてもいたので(もちろん指定業所になっていたはずだ)、事態はややこしい。

 何よりも、90年代に「慰安婦」という存在が問題となったとき、まだ「慰安婦」がどういう存在なのか共通理解がない中、日本軍の相手をした全ての女性に名乗り出るように呼びかけたことが問題を混乱に陥れたと言えるだろう。そして,当時の軍人たちでさえ、その区別に厳格ではなかった。しかし、すくなくとも、戦場での一回、あるいは継続的強姦をさせられた女性たちと、日本人を含む「慰安婦」たちの、軍人との関係の違いは歴然としている。

「慰安婦」は、このように国籍や時期によって、そして場所(最前線か後方か)によって、さらに個人のキャラクターによってもその体験は異なっている。

 にもかかわらず、そのすべてを「「慰安婦」と考えて、問題の対応に当たったことから、大きな混乱が始まったのである。

 しかし、そのどのケースであっても性的労働に従事させられる経験は、社会における弱者に押し付けられるもので、彼女たちの多くが病気にかかりやすく、死が隣り合わせの悲惨な境遇にいたことを認識することは、慰安婦問題を考えるための大前提とならなければならない。

6、「強制連行」について

 したがって、軍人を相手に性労働をするまでになった経緯も当然ながら一つではない。中には本格的な募集が始まる前から現地にいた女性もいたはずである。

 韓国で最初にこの問題を提起した人は、自分が経験した「挺身隊」のことを「慰安婦」のことと勘違いした。彼女が経験した「挺身隊」は「学校」で「判子」を押すような形だったので彼女はその募集を「強制」と思ったのである。しかし「挺身隊」の募集が「学校」単位での「国民動員令」によるものだったことから分かるように「教育」のある人が対象だったのに対して「慰安婦」はほとんど低いレベルの教育か教育を受けていない人がその対象だった。韓国で慰安婦が「強制連行」されていったと考えるようになったのは、日本の否定者たちが言うように「嘘」を言ったからではなく、まずはこの90年代の勘違いによる。

 しかしさかのぼれば植民地時代にすでに「挺身隊に行くと慰安婦になる」との風聞はあった。「慰安婦」は「挺身」して「兵隊さんのためのこと」をすると言われたのであり実際のところ看護補助や洗濯など「性的慰安」以外のことをさせられる場合もあったので、まったくの誤解とも言えない側面もある(兵士の墓を清掃することも、朝鮮人慰安婦たちはやっていた)。

 「軍人」がつれていったと証言する慰安婦の割合はすくなくとも証言集を見る限りむしろ小さい。そしてその場合も、「軍属」扱いを受けた業者が「軍服」を着て現れた可能性が大きいと私は考える(もちろんこれは植民地朝鮮でのことであって、中国などの戦場でそうだったというのではない)。また、業者が、集めやすいように、当時日本で始まっていた国民動員としての「挺身隊」へ行くのだと言った可能性も排除できない。業者は、日本人と朝鮮人がペアで現れたことが多かったようである。

 しかし、慰安婦の募集は、一人や少人数でいるところを「工場」へ行くなどの言葉でだまして連れて行かれたことが証言でも圧倒的に多い。そういう意味では、「軍につれていかれた」という意味での「強制連行」はなかったか、たとえあったとしても「例外的」なこと—つまり「個人」としての行為と見るべきであって、「軍が組織として(立案と一貫した指示体系を通して)やらせた」ことと見るのには無理がある。

 オランダや中国の場合、軍が直接集めたり隔離して性労働に従事させたのでそれは文字通りの「強制連行」に間違いない。ただその場合は上記の意味での「慰安婦」とは言えない。日本人・朝鮮人・台湾人が「日本帝国内の女性」として軍を支え励ます役割をしたのとは違って、彼女たちへの日本軍の行為は、「征服」した「敵の女」に対する「継続的強姦」の意味を持つからである。このような日本軍との「関係の違い」が無視されて同じ「被害者」としてのみ理解されたために、「強制連行」や「慰安婦」に対する理解が、否定者と支援者間に接点を見いだせずに慰安婦問題をめぐる混乱が深まったのである。

 大まかに分ければ、問題発生以来、「慰安婦」としてみなされてきた人の中には,もとの意味での「慰安婦」(これは挺身隊よりゆるやかな「国民動員」の一種と見るべきである)、民間運営の施設(占領地や戦地に早くから存在した場所を含む)を軍が「指定」し衛生などを「管理」した所で働いた人たち、戦場で捕まって継続的強姦の対象になっていた「敵の女」の三種類の女性たちが入っていることになる。

 このうち文字通りの「強制」はオランダや中国のケースであるが、(軍属扱いされた)「軍服を着た業者」が集めた朝鮮の場合、業者が「挺身隊」(強制的、しかし「法律を作っての」国民動員。しかし「志願」の形となる)に行くとだましたがために、「強制連行」だったと当事者たちが認識した可能性も高い。

 つまりもと慰安婦たちが「嘘」をついているというより(まったくないわけではないとしても)、今はいないはずの「業者」たちが嘘をついた可能性が大きいのである。

7.日本軍と朝鮮人慰安婦

 朝鮮人慰安婦は着物を着て日本名をつけられて働いた。つまり「日本人」女性に代わる存在だった。慰安婦たちには料金の区別がつけられていて、「日本人」が一番高く,その次が朝鮮人だった。本来なら巻き込まれないでいいはずの(日本を対象とした)「愛国」に朝鮮人も動員されたのである。そういう意味では朝鮮人慰安婦は「植民地支配」が生んだ存在であり,その点で日本の「植民地支配」の責任が生じる。そして、慰安所に着くと最初に将校や軍医による強姦も多く、部隊移動中にも朝鮮人たちは「朝鮮人」であるゆえに、決まった性労働以外に強姦されやすかった。

 同時に、「国家のために」集められた「軍慰安所」に居た場合は、基本的には敵を相手に「ともに闘う同志」の関係でもあった。なので兵士の暴行などを上官が取りしまることも多く、業者の搾取を軍が介入して管理することもあった。

圧倒的多数を相手しなければならない過酷な体験をしたのは確かだが、上官が兵士や業者の横暴から慰安婦たちを守るような役割をしたのも事実である。朝鮮人慰安婦と日本軍人との恋愛が可能だったのも、そういう構造の中でのことである。

 しかし同時に,最前線においても行動を共にしながら、銃弾の飛び交うような戦場の中で兵士のあくなき欲望の対象になり、銃撃や爆弾の犠牲になるような過酷な体験をしたことも事実である。つまり、たとえ契約を経てお金を稼いだとしても、そのような境遇を作ったのが「植民地化」であることも確かで、朝鮮人慰安婦に対する日本の責任は、「戦争」責任ではなく、「植民地支配」責任として問われるべきである。

8、業者

 軍が必要として集められたのは確かだが、拉致や嘘を軍が公式に許可したとする証言や資料は今のところ存在しないようである。そして、嘘までついて強制的につれていったのも、病気などの時も「強制的に」働かせたのも、逃げないように監視したのも、中絶させたのも、多くはその主体は「業者」である。
 慰安婦たちが多くのお金を稼いだと言う人もいるが、それはむしろ少数で、多くは業者の搾取に遭って貧しかったし、借金状態を抜け出せなかった。

 もと慰安婦たちの身体に残っている傷跡も業者によってつけられたものが多い。軍が暴行する場合ももちろん多かったようだが、それは公式には禁じられていた。つまりそのような「軍の暴行」があり、それを糾弾するとしても、それは「例外」であって「軍」としての犯罪ではなく「個人」としての犯罪と捉えるべきなのである。

 吉見教授は慰安婦に「居住」「廃業」などの自由がなかったというが、それは基本的には「業者」による拘束で、居住の自由がなかったのは「慰安婦」として「軍」とともに行動する限り、「軍人」にそれがないのと同じようなケースと考えるべきであろう。

 つまり、「慰安婦」を巡っての「犯罪」——当時の法律に抵触する行為は、拉致・誘拐や人身売買であって、「慰安所利用」を「道徳的に」問題のある「罪」と捉えることは可能でも,当時の

(法律に抵触する)「犯罪」ではないことになる。それにくらべて、オランダや中国のケースは明らかな「犯罪」であり、彼らは「個人」として処罰された。

9.20万の少女

「20万」という数字は、日韓を合わせた、「国民動員」された「挺身隊」の数である。日本人女性が15万,朝鮮人が5—6万、と言及した1970年の韓国新聞の記事が、上記の誤解も手伝ってその後そのまま「慰安婦」の数と理解させたと考えられる。しかもその「慰安婦」の全てが必ずしも「軍が作った」「軍慰安所」にいたわけではないことはさっき述べた通りである.

 慰安婦になった人には実際は「少女」はむしろ少数で、まだ十代前半のケースはむしろ少なく、当時の軍人たちにも「例外」な状況として受け止められていた。「慰安婦」と名乗り出た人の多くがまだ幼かった「少女」であったことを強調するのは、彼女たちこそその「例外」のケースにいた人々であり、だからこそ訴え出たのだとも考えられる。実際に証言者のほとんどが、「他の人は自分より年上だった」と語っている。つまり「少女」たちは判断力の足りない「少女」だったがゆえにだまされていくことが多かったとも考えられるのである。実際の平均年齢は、証言や資料による限り20才以上だった。

 そして、そのような「少女」までを「慰安婦」にするべくつれていった主体が「業者」だったことが注目されなかったのも混乱を呼んだのである。

10、敗戦後の帰還

慰安婦が敗戦後に帰国できなかったのは、戦場での爆撃の犠牲になった場合や玉砕に巻き込まれた場合である。中国にいた慰安婦たちは、いわゆる「引揚げ者」たちの受難を同じく経験していて,その道のりで犠牲になった場合もあると考えられる。そのほかは帰ってきたかその地に残ったと考えるべきである。敗戦後に「置き去り」にしたことに、動員した軍に責任があるのは言うまでもないが、それでも第一の責任者は直接管理をした「業者」と言うべきである。軍と行動を共にした場合、負ける戦闘のなかでのことであって、その状況は様々で、軍が帰国を助けた場合もあった。

11、1990年代の謝罪と補償

1990年代に日本が「慰安婦」と名乗り出た人々に「謝罪と補償」をすべく作った「アジア女性基金」は、被害者たちが要求した「国家立法」を経たものではなかったが、当時の閣僚たちの合意に基づいて作られたものだった。国会では立法を進めた議員たちもいたが、韓国の場合、1965年の日韓条約で国家間賠償が終わったことと「強制連行」の有無が議論の焦点となって法案を通すにはいたらなかった。「基金」は「国会」は通さなかったが、「政府」閣僚たちが合意してやった「謝罪と補償」である。それは「国家立法」を主張する人たちに「責任回避」の手段と非難されたが、1965年の国家間条約で個人補償は終わっているので国家賠償はできないと思った日本政府が、「法的責任」は存在しないと考えながらもなお、「道義的責任」を取るとして行った、いわば「責任を取るための手段」だったのである。国民の募金でまかなうと言われていたが、300万円に当たる医療福祉補助費も出されていて名前こそ「補償金」でないが、初めから決まった補償金の半分以上が国庫金から出されている。しかも、最終的には事業費の89パーセントが国庫金からまかなわれていた。そういう意味では「基金」は心を込めた「謝罪と補償」に限りなく近いものだった。

12、1965年の過去清算について

 1965年の日韓条約は1952年のサンフランシスコ講和条約に基づいての条約だったので、「戦争」の事後処理をめぐる条約だった。「植民地支配」という過去清算に関する条約ではなかったのである。条約の文面にひとことも「植民地支配」に対する謝罪の言葉が入ってないのはそのためのことである。実際徴用などに関しての「補償」も、中日戦争後のことに限っていた。しかし朝鮮は日本の戦争相手国ではなく、むしろいっしょに闘った立場だったので、この補償は、恩給などに当たる、いわばもと「日本国民」としてのものだった。突然両国が引き離されることになったための、貯金やその他を含む金銭的事後処理が中心だったのである。

 そして日本は「個人の請求権」は個別に請求できるようにしたほうがいいと言っていた。しかし韓国側は、北朝鮮を意識して、韓半島唯一の「国家」としての韓国が代わりにもらおうとしてその提案を拒否した。つまり「韓国」だけが補償を請求できる正統性を認めてもらおうとしたのには(チャン・バクチン)、厳しい冷戦時代のさ中にいたという歴史的経緯がある。

 当初韓国側は「植民地支配」による被害について(人命損失など)も請求しようとした。最終的にそれが削除された理由は明らかでないが,おそらく今でも続いている論争——「植民地支配は合法」、つまり韓国の意志でやったことだというような議論があってのことかもしれない。確かに当時においてはほかの元帝国も「植民地支配」に関して謝罪したことはなく、それは時代的思考の限界だった。つまり、1965年の条約は植民地支配についての謝罪にはなっていないが、それは冷戦下にあって元帝国諸国がそのような事に関して謝罪するような発想をするような時代に至っていなかったこと、そして元植民地側も冷戦時代のあおりを受けて、自ら「過去清算」を急いでしまったためのことだった。したがって、慰安婦問題に関して、「個人請求権」が残っているとする支援側の要求は無理がある。

13、1910年の合併条約について

さらにさかのぼって1910年の合併条約自体が「強制的」なもので「不法」だったとする議論もある。そしてこの時の条約が「不法」だとすると当然日本に「植民地支配」についての「法的責任」が生じることになる。しかし、たとえ少数が率いてやった事が明らかでも、それが「条約」という(当時における)「法的手続き」を通してのものだった以上、このことを「不法」とするのは倫理的には正しくても現実的には無理がある。それはアメリカやイギリスなどやはり植民地を作った大国の承認を得てやったことであって、彼らだけの「法」に基づくものだったという意味でなら「不法」と言えても、ともかくも「合併」を韓国が承認した文面が存在する限り、残念ながらそのことを「不法」とは言えなくなるという現実もある。

 もっとも、国民のほとんどに意見が聞かれたわけでも知らされていたわけでもない「合併」は、「ほとんどの朝鮮人」の了解や承認を得ていないという点ではほんとうの意味では「了承」したとは言えない。しかし国の代表がそうしてしまった時点で、不服でも、「不法」ではないことは時代的限界と考えるべきであろう。そのような「法」に問題があったことを後世の人々が認めるのなら(すでに90年代の日本の謝罪はそれを間接的に認めたことにはなる)、法を犯していない点で「不法」ではないが、道義的に問題があったとすることは可能である。つまりすでに決められていた規則に悖る行為だったという意味で「不法」ならば「犯罪」になるが、当時においてその行為(植民地支配)に対しての価値判断がなされなかった時代である以上、「不法」=犯罪とへ言えないにしても,植民地支配を、ひとつの民族に対する「罪」とみなすことはできるはずだ。

14,「罪」と「犯罪」

 韓国が求めているのは慰安婦募集と慰安所使用に関わることを「犯罪」と認めて「賠償」せよとするものである(日本の支援者の多くもそれを主張している)。しかし、当時において日本内で「売春」が「罪」と認められていなかった以上、そのことを「犯罪」とみなすことは無理がある。たとえ国際的に不法と見なし始めていた時期だったとしても、である。当時は性暴力さえもまだ「罪」と認められていなかった時代だったのであり、だからこそ男たちは罪の意識もなく強姦を繰り返したのである。

 しかし「人身売買」は当時においても「罪」と認められていて、「犯罪」だった。そういう意味では、植民地支配も、強姦も、強制動員も(軍人や挺身隊),当時において「他民族」や「女性」の立場を考えなかった「罪」であったことが確かでも、当時における「犯罪」ではなかったのは仕方のないことと言えるだろう。1965年に日韓が、個人の請求権を、連合国のように「戦争賠償」ではなく、あくまでも「元日本国民」として未処理部分を処理したことに過ぎないのはそのためでもある。そしてこのように考えるのは、植民地支配やその後の思考の「罪」—時代的限界をよりよく見るためでもある。

15、再び「アジア女性基金」について

 そういう意味では90年代の「道義的責任」は、そうは意識しなかったにしても、まさにそこを突いての「謝罪と補償」だった。最初に声をあげた朝鮮人慰安婦が「植民地支配」による存在ということも認識されていて、それに対する補償だったからである。そして「植民地支配」に対しての「法的責任」を求めることがいささか無理であるのはさきに述べた通りである。

 すでにイタリアやイギリスも植民地支配に関して謝罪をしたことがある。もっとも、日本も,細川首相や村山首相が行った。しかし、最初は「慰安婦問題」を「植民地支配」と捉えていたのが、のちに別の国の人たちが現れることになったことが影響して、普遍的な「女性の問題」と捉えられることになったために、そのような捉え方はやがて消えてしまった。

 しかし、現在この問題で、ほかの国・地域は「アジア女性基金」を受け入れて一応解決されてことになっている。そして現在補償を求めているのは「韓国慰安婦」だけなので、「韓国問題」として捉え直す必要がある。そして、あらためて「植民地支配」に対する謝罪として「基金」を拒否した人を対象に追加措置を行うことだけが解決のための唯一の道となるだろう。それは、亡くなった兵士たちに遺族年金を払うのと同じ発想——つまり、「自発的に」「国民動員」されていった「日本人慰安婦」が現れるのなら、どのように補償するのかーで考えるべきことでもある。オランダや中国などほかの国といっしょに考える「女性の人権」問題との捉え方では、朝鮮人慰安婦の特殊性が見えてこない。

  橋下市長が「戦争ではどこでもやったこと」として他の国々を名指ししても当該国家から無視されているのは、それらの国がその「戦争」で日本と闘った国々だからともいえる。「女性の人権」問題とするなら、敗戦前後に多くの日本人女性を強姦したソ連もこの問題を避けて通ることはできなくなる。もちろんそのことも問題視しなければならないが、とりあえず「韓国人慰安婦問題」を解決するためには、まずは「植民地支配」問題と捉えるべきである。ほかの国々に「反省」を求めるのなら、オランダを始め世界の「元帝国」に「植民地支配」が起こした問題として、反省を呼びかけて始めて、アメリカもイギリスもオランダもこの問題を「自国」の問題として向き合うことができるだろう。それらの国の欲望のために自国や他国の女性たちが動員されて、軍人や商人に継続的な「慰安」を与えさせられていたことについて。

16、「性奴隷」について

 朝鮮人慰安婦たちは基本は「売春婦」であるが,同時に「準軍人」のようなものだった。従って,彼女たちの境遇が悲惨だったのはまぎれもない事実であるが、強制労働をさせた主体は主に業者だったのだから(もちろんそのような状況を作った日本軍に責任がないというのではない)彼女たちの「奴隷性」はまずは業者との関係で言われるべきである。「性奴隷」に関してもしかり、である。彼女たちの自由を拘束したのは直接には業者だったのである。

 そして彼女たちは、国家の必要によって間接的に動員されて命さえも(戦場、病気、過労働)担保にしたという意味では「国家の奴隷」でもある。それは、移動の自由も廃業の自由もさらに命を守る自由もないという意味で軍人もまた「奴隷」、という意味と同じ意味での奴隷である。軍人は「法」によって、慰安婦たちは「契約」によって構造的な奴隷となっていた。

 17、河野談話

 河野談話は「自分の意志に反して」慰安婦になったことを認めているのであって「強制連行」を認めているわけではない。つまり,連れていった過程が自分の意志ではなかったことと慰安所での性労働が彼女たちの選択ではなかったことに触れていて、物理的な強制性ではなく構造的な強制性を認めたことになる。それは、朝鮮人の場合、たとえ自発的に行ったように見えてもそれが植民地支配によってもたらされたことであることを正確に認めている言葉でもある。つまり、河野談話見直し派が主張しているような、いわゆる「強制性」を認めたわけではなく、しかも管理をしたという意味では「官憲が関与」したのは事実なので、そうである限り河野談話を見直す必要もないはずである。

18、解決をめぐる葛藤

 日本政府が作った「基金」が「民間」のものと認識されたのは、まずは、マスコミなどの報道にもよるが、新たな補償が1965年の条約に抵触することを気にした政府が、基金に深く関与していることを十分に説明しなかったことに第一の原因がある。しかし、「仕方のない次善策」として受け止める人たちもいる中で「責任を回避するもの」と強く非難し,以後今日に至るまでこの問題で日本政府を非難している人たちは、国会立法だけが「日本社会の改革」につながると考えていた。しかし前述したように「強制連行」が焦点になっていることと1965年の条約がある限り慰安婦をめぐる被害を「国家犯罪」と見ることはできない。したがってそれを「国家犯罪」と認めて「賠償」することを求める「立法」は不可能であるほかないだろう。

 にもかかわらず20年以上も基金批判者たちが「立法解決」を主張してきたのは朝鮮人慰安婦問題解決を通して「日本社会改革」を見ようとする転倒した構想があってのことでもあった。そしてその意図はなかったとしても、そのような主張は、慰安婦を結果的に日本国家のための人質にしていた主張とさえ言える。基金に反対した中心部にいた人たちは、現代政治を変えるのに過去のことを利用したことにもなるのである。 

 問題は、そのような主張が韓国の支援団体の主張を支え、この二十年の間(特にこの十年)、慰安婦問題をめぐる議論や主張に反発するひとたちを日本内にたくさん増やしてしまったことである。逆に、20年前に比べても今の日本にはこの問題に感情移入できる人は減ったはずで、たとえば改めて募金をするとしてもあの時のようには応えてもらえないのが現状であろう。慰安婦問題を解決してアジアの平和を構築するはずが結果的に葛藤を呼んでしまったことについても考えるべきことがあるはずである。

 支援者たちの一部は、慰安婦を日本固有のファシズムが作った問題とみなし、一方的な被害者とのみ捉えた。韓国側の誤解だった挺身隊との勘違いも感情移入しやすい原因だったはずだが、慰安婦問題は、国家間問題となってしまった以上はともかくも「国民の合意」が必要だった問題だった。

 支援者たちは、天皇を犯罪者にするような国際裁判をしたが、そのような「運動」が、広く「日本国民の合意」を得られるわけもなかった。そして実際にその後2000年代の「嫌韓流」、2010年代のヘイトスピーチに見られるようなこの問題への嫌悪が広まることになるのである。

19、世界の意見

運動家たちは2000年代以降に日本政府を説得することよりも世界に訴えて日本を圧迫するやり方に出た。しかしKumarawasumi報告書をはじめ、数々の国連報告書のほとんどは韓国側の資料をそのまま鵜呑みにして作られたものだったと考えられる。そこでその多くは「20万の少女が強制的に連れて行かれ性奴隷として働かされ、敗戦後もほとんど虐殺された」と考えている。欧米の議会の決議もそれらの報告書を参考にしていているが、これまで見てきたように、世界の日本非難は、必ずしも正しいとばかりは言えない。 

 国連ではオランダの女性も証言していて、オランダのケースは確かに「レイプセンター」の言葉にふさわしいものだった。しかし朝鮮人もまったく同じ状況と考えられていて、日本人慰安婦もたくさんいて、彼女たちに比べて報酬は低くても基本的には同じような状況にいたことが知られていないようである。オランダの女性が被害を受けたのは(先に述べたように、厳密な意味では「慰安婦」と言うべきではない)、彼女たちがオランダが植民地にしていたインドネシアに暮らしていたところを日本が占領したからである。したがって、オランダにしてみれば、敵だった日本に自国の女性を強姦されたことになるので、そのようなことが「世界の厳しい視線」に介入した可能性も排除できない。

20、帝国と慰安婦

 橋下市長が図らずも触れたように、沖縄基地をはじめ米軍が基地をおいているところでは今でも遠い地に送られた兵士たちを「慰安」すべきとされている女性たちがいる。つまり、戦後直後の日本や韓国戦争での朝鮮戦争当時やその後の韓国がそうだったように、「軍隊」は今でも「慰安婦」を作り続けている。日本軍の慰安婦と違うのは、「国家のため」と意識させられているかどうか、そして平時(しかし戦争に待機している)か戦時かの違いだけである。

 それらの「基地」は、かつて戦争や冷戦のためにおかれ、その状態を維持し続けた。そして今やアメリカこそが日本や韓国に慰安婦を作り続けているのである。もちろん日本や韓国がそれを提供し黙認している構造である。(橋下首相の「風俗業を利用せよ」との言葉は、図らずもそのことを顕すものだった)

 かつて国家が政治経済的に勢力範囲を広げるべく「帝国」を作ったように、現在でも特定国家の世界掌握勢力は存在する。その中心にあるアメリカが、慰安婦問題に関して日本を非難する決議を出し続けているのはオランダの女性が入ってることや不十分な報告書によるものとはいえアイロニーと言うほかない。

 弱者のために闘ってきたはずのリベラル勢力は、そうは意図しなかったはずだが、日韓の葛藤を作ることで韓国の軍事化や保守化を進めた。北朝鮮と連携して日本を批判するのも、現実には冷戦的思考を維持するのに組みしている。

 したがって、支援者たちは冷戦的思考から抜け出し、否定者は慰安婦が単なる売春婦ではないことを知ることでその悲惨さに(朝鮮人日本軍を靖国に祭るのなら彼女たちは蔑むのは矛盾)気がつく必要がある。そして日本内の国民的「合意」を見いだして解決に臨むべきだ。具体的な方法は、韓国慰安婦問題の捉え直し(植民地支配問題として捉え、ほかの西洋帝国もまたこの問題と無関係であり得ないことを指摘する)、それを「罪」と認めて「道義的責任」を負うことの表明であろう。そしてかつての「基金」の思考—植民地支配を「罪」と認めての、謝罪と国庫金での補償が望ましい。

<秦・吉見議論について>

——秦郁彦教授の意見について

1)売春婦としてのみ見なしているー愛国した存在、特に軍が運営した場合は「準軍人」として支えたことが看過されている。売春婦としても悲惨さはいっしょだった。お金を稼ぎ、楽しかったのは、「軍のために働く存在だったから」。そして様々な境遇の一部でしかないのにそれだけに注目する傾向。たとえば運動会で楽しかったのはそれだけつらい生活をなんとかしのぐためのもの。

2)業者を朝鮮人だけと考えている—実際にはペアが多かった。

3)朝鮮人だけの責任にしたがっている—慰安婦たちが売られていったと言わないというが、証言集では言っている。

4)業者が軍に働きかけた境遇だけではない。業者は軍属の地位を与えられることもあった。

5)女性たちをチェックしたのはそういう商品を利用しないようにしたことと考えられるが、契約書があれば問題がないということになる。本人が認知せずに軍を手伝うことと考えた場合もあるのだから、契約書があれば問題がないとはいえない。

6)運動が政治活動になった動きがないわけではないが、それは参加者の一部。ほとんどは単に善意で動いたと考えるべきだ。

——吉見義昭教授の意見について

1)`強制連行`を、構造的な強制性と捉えるのは正しいが、それを官憲がつれていったことと理解する人が多い以上、その違いは正確に語るべき。

2)性奴隷?
自由を拘束したのは業者であり国家。売春婦にも奴隷性はある。

3)世界が慰安婦問題で韓国の主張を認めたのは、問題のある資料を提供してきた運動や欧米の思惑によるもの可能性が多い。

4)慰安婦の生活困難は業者によるもの。インフレだけではない。

5)オランダとの関係における違いを看過。

6)業者には純粋に民間も存在。軍属のみではない。前線に行くひとのみ。様々な慰安所があるのに軍運営のものに限定して語っている。

7)責任—人身売買は業者であるのに業者の責任は語られない。国家が加担したのは事実だが、知っていて指示し、助けた(船を使っただけで人身売買を助けたと言っていいかどうか)のと、知って黙認したのと知らずに利用したのは違う。時期によって場所によって違っていたはず。それを全て軍の責任としている。

8)構造的強制性の中にある自発性を看過。人身売買だから性奴隷というが,そうでないケースもあるし、何よりも慰安婦の「主人」は業者だった。

*どちらも見たいところだけを見ていて結論が先だっているようだ。そうである限り「歴史学者」の議論であっても接点を見いだせないだろう。

*「被害」かそうでないかだけを強調しているが、「植民地」はその両方を持つ存在だった。

*考えるべきは、国家(帝国)欲望に動員された人々の不幸を誰が償うかのこと。兵士もその一人。慰安婦も。そこに加担した民間の責任(定住者たち、大人たち)もまた大きい。

*この問題が難しいのは様々なケースがあるのに、「補償」は一つの形になったこと。

*慰安婦は「売春婦」も無垢な「少女」の面も併せ持っていて、そのような矛盾こそが「植民地の矛盾」だった。今では変わって来ている側面もあるが、売春婦は基本的に社会の弱者に担わされる役割という点で階級問題であり、社会構造が作るもの。彼女たちは自分の身体と命の「主人」ではありえなかった。そのことを知ることこそが、慰安婦問題を考えることの意味にならなければならない。


150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)