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為になるかも知れない本(その15)

2007-03-01 07:26:11 | Weblog
(平成19年3月1日追加記載)

 私が大学受験した昭和43年~45年頃は、学園紛争も激しかったが、(ベビ一ブ一ムの影響もあり)受験戦争も激しかった。今は、学園紛争は、完全に下火になってしまったが、受験戦争は、続いている、いや、質を変えて、それ以上に続いているのかも知れない。

 大学受験の時は、受験に関しては、中高一貫教育の学校程、優位である。当たり前だ、中学2年間で中学3年間の内容を終え、最後の1年半近くを、浪人と同じ感じで、大学入試の為の勉強をしっかりとしているから。

 しかし、そんな学校に行くには、それまでに塾通いを強いられる。特に、中学の段階で、そんな学校に入るとなると、大脳性理学的に大切な小学校高学年で、それに合わせての生活となり、長い人生から見ると、本当にいいことかどうか、疑問が残る(その時には、親も教師も気が付かないだろうが)。

 ちょっと前に、ラ・サ一ル中学を受ける為の受験生の模様が、○研の主催でテレビで放映されていたが、正に、闘う戦士って感じだった(競争率約5倍)。

 世間一般やマスコミが、受験校に関して大きく誤解していることがある。それは、6カ年一貫教育の名門校では、予想に反して、意外とゆったりとした学生生活が送られていると言うことである。それだからこそ、その後の大学での留年なども、少ない。問題の多くは、3年間で大学に合格出来るまでに成績を上げなければいけない進学高校である。そこでは、正に、成績でふるい分けされ、予備校と同じ感じで、成績が最優先されている。

 土台、受験は、競争。自分との闘いではなくて、入れる数が決まっているからして、どう見ても、実際は、他との競争となっている。そんなことを小学校の時から子どもに強いていたら、まともな人間が育つはずがない。人生なんて、勝つよりも負けることの方が多いはず。負けた時に、それからどうしたら這い上がれるかを小さい時から経験しておいた方が、長い目で見ると、いいはず。そんな試行錯誤の中で、人を思いやる優しい気持ちを育くむことが大切だと思う。人間の愚かさ、自然の偉大さ、この世は、他人の力のお陰で生きられると言うことを、出来るだけ低年齢で、その年齢に見合った感じで、体験的に教え込んでおくことが、子どもを育てる上で、何よりも大切なことだと思う。人間を育てる方法としては、勉強の成績を上げる以外にも、沢山あるはず。それを、成績にだけに比重をかる傾向にある今の日本の多くの進学学校の姿に、私は、どうしも納得できない。

 受験では、その多くが、決められた時間でどれだけ解けるかが問われる。それだけで、その人の能力が充分に測れるとは、誰が考えても不自然なのだけれども、他に手っ取り早いいい方法がないのだ(本当にないかどうか疑問だが)。ややもすると、そんな世界に長くいると、学歴や肩書きだけで人を見てしまう傾向になってしまう。そんな変な見方で人を見てしまっている人を、自分の周りにしばしば見ているが・・・(私がかってそうであった様に)。

 人生は、今は、80年。長いスパンで考えるゆとりが、今の日本には、まだまだないのかも知れない(今は、昔程、学歴偏重でなくなっている様な感じがしてはいるが・・・)。



*デ一タ:鹿児島大学医学部45年入学99名中、鹿児島県内高校出身者が、28名いました。その28名中、留年もせずに、医師国家試験にそのままストレ一トに合格したのは、16名でした。その内訳は、ラ・サ一ル6名中5名、鶴丸11名中6名、甲南・中央・玉龍9名中3名、その他2名中2名でした。その後、じっくりと私なりに観察していますと、留年した人、学生の時に成績が良かった人、悪かった人、ホント、全く関係ない感じで、今は、どの方も、皆さん、職業人として立派な(開業医や勤務医や大学の先生などで)お医者さんになられて、社会に貢献しておられます。受験って、一体、何なんでしょうネ?

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