西都モノクローム

西都大好きな市議会議員が、徒然なるままに街のこと、写真のこと、空手のこと語ります。

下りのエスカレータを昇るおじさん(私のことです)

2013-02-28 23:25:07 | 日記
子ども達の気持ちに寄り添いたいと思い、年甲斐もなくある試合に出ることにしました。

稽古でいつも子ども達に口やかましく言うだけでなく、指導者として後ろ姿を見せることも子ども達の「気づき」につながるのでは思ったのです。

勿論、私自身30代半ばまで現役として試合(パワーリフティングの選手でした)に出ていたあのドキドキ感、そして試合前の練習内容がもろに結果として表れる現実感が懐かしくなったせいもあります。

先日のブログで豊丸先生が70過ぎて試合に出て、その高揚感を語る姿を見て「うらやましい」とも思いました。

勝ち負けも大事ですが(こうみえて、私は結構負けず嫌いなのです)、それより参加すると言う意義に重きを置きました。

で、稽古をしているのですが、最近気づいたことがあります。

若い頃は稽古をすると、それが必ず身に付く感覚がありました。強くなっていくハッキリとした自覚の元に稽古していました。

50の半ばで思ったことは、稽古の結果はよほど注意しないと身に付かないという感覚です。
丁度下りエスカレーターを昇る感じです。下りの速度より昇る早さはまだ早いです、下りと相殺しながらでも、少しずつ登っていきます。

ですが立ち止まったら、・・・ス~ッと下がっていきます、悲しいほどに。

流祖船越先生は「空手は湯のごとし」という言葉を残しましたが、全くその通りだなと思っています。

熱を加えなければ、お湯は水に戻ってしまいます。

若い頃もそうですが、歳をとった今は更に水に戻るスピードが早くなった気がします。

腰の痛み、膝の悪さを乗り越えながらやらねばと思っているところです。(試合に出るというのは、正直楽しいことも事実です)

さて明日は妻高校の卒業式です。いつもなら3/1は議会開会日で出席出来ないのですが、今年は市長選の年なので開会日がずれました。

有り難いことです、出席できます。私の子どもは3人とも妻高校に出しました。その最後の子どもの卒業式です。

また有り難いことにPTA会長をさせていただいていますので、卒業生の皆さんに送る言葉を言えます。

おじさんの思いをしつこく(イヤ~と言う子ども達の声が聞こえる)、話したいと思っています。
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平成25年 第一回定例会迫る

2013-02-27 22:11:16 | 日記
今年初めての定例会が迫ってきました。それで本日文教厚生常任委員会、議会運営委員会、全員協議会が行われたので報告致します。

今宮日新聞、朝日新聞等で報道された「西都児湯医療センター」の常勤医退職が西都にとって大きな問題となっています。

常任委員会において、その経緯が報告され、全員協議会において市長より説明がありました。

内容は報道にあったとおりです、ザックリ言うと4人いた常勤医の内3人が退職の意向を示した(と言うか退職したいという決意を示した)ものです。

これは西都児湯11万人の住民の安心安全にとって由々しき問題です。
只この発端となった理事会(元々の問題はそれ以前から有りましたが)が非公開となったので、詳しい内容は分かりません。

非公開になった理由は自由闊達な議論ができない、また理事会のあと評議員会において理事会での決議の内容が議論される手はずだが、その前に報道されたら評議員会の意味(存在理由)がなくなるという物でした。

担当課、市長の説明はおおむね報道の通りでした(と言うか、それ以上のことは立場としてできない・・理由は上記)。

報告を受けて議員から色々と質問が出ました、ですがやはり詳しくつっこんだ回答は出ませんでした。

ということで客観的な報告はできません、でも救急医療に携わってきた(また市民の皆さんもそう思っている)私です、今の主観的な考えを述べてみたいと思います。

私はこの救急医療に市民段階から携わってきました、「西都児湯の救急医療を考える会」を立ち上げ、市民の立場から応援してきたつもりです。

5.6年前の危機の時、市長や時の救急病院の院長相沢先生達の医師集めの苦労を知っています、私も時の知事や県の医療薬務課に単身で話しに行きました。その後運良く(これはほんと運良くです)優秀な医師が集まり、そしてここ最近のセンターの充実ぶりはうれしく思っていました。

新病院への道筋も出来つつありました、ですがその一方私はある危惧を感じ続けていたのも事実です。

それは救急医療の理念を追求する事以外の雑音が有ったことです。

例えは違うかもしれませんが、「正義」と言う言葉があります。これはこれで個人は深く心に持つべき物ですが、それを他人に向ける事に使うと、生じるのは「争い」です。

戦争はすべからく、そのような結果で起こるものだと私は思っています。

戦いあう国は、それぞれその国にとっての「正義」で戦いを始めます。どちらも正義なのです、どちらの国にとって戦争は正しさのために始めたものです。

でもその結果は一般市民にとって、決して幸せを生むことはありません。

ならばどうすべきか、それは立場を度外視した大局を持つこと、そして視点を多く持つ、視野を広げることだと思います。

一つの固まった視点で対立する物事を見ては、そこには憎しみしか生じません。

これが争いの最大の原因です、前に何回も書いたと思いますが「宗教」が表に出すぎると
争いを収めるのが難しいのはこのことなのです。

宗教という一つの価値観だけで相手を見るのは、怖いことなのです。
ちょっと話が飛びましたが、「自分は絶対正しい」という考えは、短期的には成功するけど、長期的視野で見ると長続きしません。

それは歴史が示しています(長期政権が成功した政権、短期的に終わってしまった政権を学べば理解できます)。

「自分はこれが正しいと思う」、でももしかすると「相手が正しい」と言っていることも一考しようかな、という視野の広い考えが大切だったのです。

そしてスタンスとして、「市民の安心安全を守る」と言うことを根本において、ある程度柔軟的な考えをしていれば・・・と私は思っています。

そして、私はこうも思っています。

タイムマシンが有ればあのときに戻って修正できるかもしれない、でも現実は無理です。

ならば今から出来ることを一所懸命することが大切だと。
それは一市五町一村の住民の安心安全を守るという、ただそれ一点を目標とすることです、そしてそれのために一所懸命がんばることです。

不謹慎な考えかもしれませんが、後戻りできない時期にこのような問題が起こったら、もっと不幸でした(たとえば、数十億円をつぎこんで新病院を作った後におこったらと思うと。それこそ西都にとって取り返すことが真に難しい状況です)。今なら、何とかなります、何とかできると信じています。

そしてこのことは、その段階になったら必ず報告致します。

今の状況は断腸の思いです、でも何年か後、あのときは大変だったねと思い出として語れるような将来のため、出来うることはやっていこうと思っています。
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学びの21世紀塾

2013-02-26 17:41:31 | 日記

ちょっと遅れましたが、行政調査2日目豊後高田の報告です

/19(火)  大分県豊後高田市・・・学びの21世紀塾
 
  豊後高田と言ったら、一般には「昭和の町」で有名です。私は研修の合間(ホテルの着き夕食までの時間・朝食前、昼休み)に町並みを見ました。
私はたぶん3回目だと思いますが、何時来ても子どもの頃の事を思い出します。
特に豊後高田の駅前(今は廃線となりましたが)の商店街は妻駅前を思い出しました。
また新町一丁目や中央通りは西都における平助通り、本町の様相です、あ~っ、懐かしいです。
 さて豊後高田の調査は市役所でなく、教育委員会の建物で行いました。
教育委員会にはいると、職員の皆さんが立ち上がってあいさつして頂きました。これは我々が議員で行政調査だからということでなく、そのような良き習慣になっていると思われました。
武道は「礼に始まり、礼に終わる」と言います、武道は人格完成を目的にしているからですが、教育も同じです、豊後高田では教育は「礼に始まり礼に終わる」を職員自ら実践しているのでしょう。
 
 我々のお相手をして頂いたのは河野教育長、瀬口課長、担当職員の皆さんです
会議室にはいると、最初に豊後高田の教育体系を番組にしたNHKの「先取り」の番組を見ました。副題は「お金をかけずに学力向上に成功した町!」というものです。(お金をかけずに・・・なんてすてきな言葉でしょう)


その後教育長、担当課の皆さんの説明を受けました。
 それではいつものように、調査内容を箇条書きで要点筆記します
*トップに2万4千人の豊後高田を教育の町にしたいという強い願望があった「昭和の町は教育の町」
*豊後高田市の子ども達の学力は10年ちょっと前、大分で下から2番目だった
*これはイカンと市民講師による苦手学科の徹底対策を行った(いきいき土曜日授業)
*市民講師は教育委員会がそれぞれの手づるで引っ張ってきた
*学校5日制が始まったことで、文科省は良い顔をしなかった
*保護者に対しても説明しアンケートをとった、すると「学力の低下」や「土曜日の使い方」に大きな不安を持っていた
*「学びの21世紀塾」を設立した
*教職員の多忙につながるのは理解していた、ただ「見守ってくれ」、批難しないで欲しい、只見守って欲しい、協力する人のあしを引っ張らない
*生徒が集まるか心配したが、まず部活の先生に協力願い部員を来させた
*子ども達は学ぶ楽しさを知った、そして総合力のある子に育ち始めた
*廊下で自習できる用に机を置いたり、学校が変わっていった、
*予算は年間1400万円(半分は国県の補助金)
*学科は学校教育の学科だけでなく、例えば「そば打ち」「地引き網引き」なども行った
(教育長の説明)
*14年前から教育のまちづくりを始めた
*豊後高田にとって最も大切なのは「教育」と共通理解を図った
*幼稚園改革からはじめ、小中高と行っていった
*最初は逆風だった、土曜日を使うので反発が多かった
*子ども達の成長など見てやっと認知された
*市の中央部だけでなく、周辺部へもTVを使って勉強できるようになった
*市は学力を公表している、それは競争するためでなく、市民に実態を知ってもらうため
*市民の評価(成績を見て)が大切、なぜならちゃんとした評価がないと改善や改良が出来ない
*一貫した教育ビジョンで、教職員・保護者に豊後高田の教育はこのようなものだと認知してもらう
*市の職員それも管理職に地域で何かすること(ボランテイア・市民講師・指導者など)を勧めた、管理職は理解し、行動に移した(市民の目が変わる)
*学校も努力している、国や県の指定学校制度を有効に使っている

これが21世紀塾をまとめた文章です

西都もがんばらなくっちゃ!と思った次第です

さて帰りはつい先日開通した東九州道路を縫うように走ってきました。全線開通ももう間もなくです、長い長い時間かかりました

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生涯武道

2013-02-25 16:03:58 | 日記

豊丸先生は72歳だったかと思います。まだ現役バリバリで昨年はマスターズで全国3位となりました。

組手も形もバリバリです。

来月行われる生涯武道大会のパンフレットの表紙は豊丸先生です。

その写真の撮影を本日してきました。

西都原で待ち合わせをして、まず三宅神社に行きました。

剛柔流の形「セーパイ」です。キレがあって素晴らしいです

次は御陵墓前で

西都原に季節早めの菜の花が咲いているところがあったので

(菜の花は踏んでいませんからご安心を)

そして最後は石貫階段です

素晴らしい蹴りの抱え足です

そのあと豊丸先生に「本部ウナギ」でお昼ご飯をおごっていただきました。お昼ご飯をいただきながら、豊丸先生と空手談義を楽しみました。

学ぶことが多かったです。豊丸先生お疲れ様でした。

 

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ただいま帰ってきました・・・ってこればっかり言ってますね

2013-02-24 21:32:57 | 日記

九州地区審判審査から帰ってきました。結果は後日連絡があると言うことです。

私としては人事を尽くした気持ちでいます、後は天命を待つばかりです(ホント~人事尽くしたの?国際通りで飲んでたんじゃないの~ドキッ)。

写真はデジタルではなるだけ撮らないようにしているので(何枚も撮れるので、自分のまなこへの記憶が薄くなるから・・但しモノクロフイルムではそこそこ撮っています)、あまりブログに載せる写真がないのですが、いくつか載せながら、「沖縄の旅」を紹介します。

宮崎から沖縄はずっと雲の上でした。

なにげに雲を見ていると、雲の上に日輪が見えます(解りますか?)

出発の時宮崎8度、那覇20度でした、その変化にびっくりです。今の宮崎では寒いけど、沖縄なら丁度良いかなと思い、バラクーターG9(スイングトップのことです)を持参したんですが、暑い!直ぐ脱いじゃいました。

沖縄は4回目だと思いますが、モノレールがあるのにびっくりです。ちょっとした大都会の様相です。那覇空港駅です

私は最近旅をする時は「宮崎交通西都支店」に丸投げです。西都出身の菊池さんが社長ですし、また友人のmayumiちゃんがカウンターで業務しているからです。嫁さんもどこかに行くときとかにmayumiちゃんに頼んでいるみたいです。

今回も日時と試験会場を伝え、なるだけ安いプランと言うことで手配してもらいました。(ついてみると、ドンぴしゃのホテルでした、感謝です)

さて何事にも慎重な私は(どこが・・と言う声が)明日バタバタしないように試験会場まで行くことにしました。

那覇空港からモノレールで「おもろまち」そこで降りて徒歩4分で宿泊ホテルに、チェックインの時間前だったので、荷物を預け会場の「国際高校」まで道を確認です。

でも・・お腹がすいてきました・・、ということで近くにあった沖縄そば初代チャンピョンの店に行きました

これです、凄く美味しかった(後ろのオリオンビールは何だよ!・・と言う声が)。で、午後予定のない時の1本の冷えたビールに勝るごちそうはないですね~(幸せ)。

国際高校までは歩いて10分ぐらいなのを確認して安心して、戻りました。途中に美術館があります

美術館好きの私は早速見学しました

野外モニュメントです

さて歩いていると「橋口先生」と呼ぶ声がします、宮崎市連のM先生です

今回は地区審新規受験・更新・4段5段審査が一緒にあります。それを受けにきたみたいです。

聞いてみると(M先生は県連役員)宮崎から何人か来ているという情報を聞きました。

それでその晩は今日来ているメンバーで夕食を食べました

このお店美味しかったです。

いよいよ当日です

緊張感が漂う会場です

お知り合い方達が話しをしています「久しぶり、何回目?」「う~ん3回目」・・・そんな会話がどこそこで聞けます。 

へっ?そんなに難しいの~とM先生に聞くと、「試験を受け続けて、九州一周回った先生がいますよ」と答えました・

持ってきたテキストを引き出して、もう一度ルールを見直しました

試験は学科と実地です。皆真剣です(これは試験前の練習です、試験中は対象者以外全てシャットアウト、持ち論写真なんか撮れません)

ふ~、試験終了しました(持っているモノ全て出し尽くしました・・アレでと言う声が)。

時間がちょっとあったので首里城周辺を観光しました

モノレールの首里駅に行き、そこから首里城をぐるっと回りました、残念ながら守礼門は改装中でしたが、一人でゆっくりと回りました。首里城・玉陵・首里金城石畳道などです

夜は日曜日試験の組が那覇に来ているという情報を聞いたので、M先生に「せっかくなので、みんなで一緒に夕食を食べましょう」と話し、楽しい夕餉となりました

試合とかで会うことはあっても、なかなかこのように話すことがないので有意義でした

宮崎行きは多分1便しかありません、帰りの飛行機まで時間があるので観光をしました。

那覇の南側、沖縄の方々が多く亡くなっ

 

た所です。タクシーの運転手さんに色々と話を聞き、そして戦場の悲劇を目の当たりにして、戦争の悲惨さ理不尽さ恐ろしさを再認識しました。

今生きている我々は、この惨劇を絶対に風化させてはならないし、次世代に引き継いでいかねばならないですね。

うれしかったのは、若い人たちがこの南部を沢山訪れていたことです。そして一応に口を固く閉ざし、まっすぐ見つめていました。

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