9時半から議会運営委員会が行われました
内容は新田原基地に米軍の施設整備をすることの説明を全員協議会で行いたいというものでした
委員会は協議内容を了として、全員協議会を行うことになりました
全協では市長と担当課が九州防衛局から受けた説明を聞きました
説明を受け
・再編の実施のための日米ロードマップを合意しており、それに沿ったものであること
・また沖縄の負担軽減のためでもある
・防音工事の充実と地域振興を図ること、そして騒音の軽減、住民の安心安全を図ること
これが説明を聞いた後の私の考えです、その後会派でも話し合いました
また産業建設常任委員会を開き、ある団体との意見交換会を行うことを決定しました
そのあとは保護司会の研修(対象者を持っている者同士で意見を交換)を行いました
さて今日の新聞に私の大好きな木村伊兵衛さんの未発表作が発見されたという記事が載っていました
スナップこそ写真の本質であると信じている私にとって、日本の木村伊兵衛さんは世界に誇るスナップの名手だと思います
そんな木村伊兵衛さんの作品が出たのはうれしいことです
ただ・・・記事の中の一文に???というところを感じました
それは北井一夫さんが語ったという「木村は自身を報道写真家ととらえ、雑誌などの印刷物を作品発表の場と考えていた。プリントへのこだわりはなく、掲載後はネガを焼却し、出版社にもプリントの返却は求めなかった・・」というところです
なぜ疑問に思ったかですが(最初に言っておきますが、私は木村さんと会ったことはありません。ですが先に述べたようにファンだったので写真集や著作評論等は読ませていただいています、その範囲で???と感じたもの)
・まず木村さんはカメラをとっても大切にした(ライカをこよなく愛していました)
・ライカの描写を愛していた
・引き伸ばし器(プリントを作る機械)もフォコマートという今でも名機といわれるものを使っていた(ちなみに私もすごくほしかった引き延ばし機です)
・つまり美しいプリントを求めていた(撮ってネガを出版社や新聞社に渡して終わりじゃなかった)、プリントへのこだわりは強くあったと思う(原稿として提出した原稿としてのプリントにはこだわりがなかったというなら、考えられる)
・べた焼きを丁寧に作っていた(べた焼きとはコンタクトとも言い、フイルムをそのままプリントしたもので、ネガをセレクトするときや、整理するときのために作る)、ネガを焼却したらべた焼きの意味がなくなる
・木村さんがネガを焼いたなんて言う情報聞いたたことがなかった(ネガを焼くというのは写真家にとっては考えられない行為なので、もしそんなことがあればニュースとして残っているはず、有名なところでは病に倒れた中平卓馬さんがそれまでのプリントとネガを焼いたということがあった・・結構有名な出来事です)
・平成23年に(公)日本写真家協会が「文化関係資料のアーカイブの構築に関する調査研究」を行った際に、その趣旨として木村伊兵衛さんの奥様から膨大なネガをいただき、その保存状態が危険な状態だったので、この研究を行った・・といったようなことが書いてあった覚えがあります。つまりネガは保存してあった
こういった思いからこの記事の一文に疑問を持ったわけです
ただ確かに昔の出版社は写真を原稿の材料としか価値を判断せず、ネガを提出させる会社もありました(実際私もある会社にネガを渡し、そのまま返ってきていないネガがあります)、そういったことがあったかもしれないけど、木村さんという写真家がネガをわざわざ焼くことは(出版社との取り決めがあれば別でしょうが)考えられないのです
ちなみに北井さんとは会ったことがあります(向こうは覚えていないかもしれませんが)、木村さんと写真撮影に同行したりしてたようです
また私は北井さんの写真大好き(北井さんもライカ使い)で、特にフナバシストーリーは傑作だと思っています(東京での写真展に行ったこともあります)
北井さんが話したことをこの記事を書いた記者が拡大解釈したんじゃないかなという気がしています、つまり雑誌社への写真原稿は返ってこなかったりネガを提出しても出版社で焼却されることなどもあり印刷物に使われた(木村さんの作品の一部)写真は残っていないことが多いんだよね~といった話をです
(雑誌のアーカイブ版で倉庫にあった写真を処理(焼こう)しようと思ったら、こんな作品だったので今回掲載しました・・なんて後記に書いてあることがありますよね、つまり作者に返さず出版社の所有とみなしているんですね)
もしかすると私の推測が間違ってるかもしれませんが
でもとにかく木村伊兵衛の未見の作品が日の目を見ることはうれしいですね