西都モノクローム

西都大好きな市議会議員が、徒然なるままに街のこと、写真のこと、空手のこと語ります。

今日の活動、倫理法人会モーニングセミナー、上田会長おめでとう、臨時議会(委員会編成)

2022-04-28 21:39:48 | 日記

木曜日はちょっと眠たいけど(朝4時半ぐらいに起きるから)

今日はどんな話が聞けるかなと思う、楽しい一日です

今日は青年会議所の先輩で、倫理のチャーターメンバー、そして教え子のおじいちゃん

阿万先輩の話でした(このブログに出すことは阿万さんに許可を得ました)

高鍋農高で強豪ラグビー時代

紆余曲折しながら、今の企業を立ち上げた話

とっても楽しく、ためになる話でした

そして何より話しながらの笑顔がいいですね

右側にあります「今日一日朗らかに安らかに喜んで進んで働きます」

そのままでした

阿万先輩ありがとうございました

 

さて家に帰って宮日を見ると、なんとなんと!!

西都倫理法人会の上田会長が黄綬褒章を受章されています

驚いたのは、今朝も会長の話があったのですが、この事をおくびにも出さなかったのです

私なら、誰に聞かれてもいないのに「いや~、大したことないんですよ(と鼻を天まで伸ばしているはずです)」

奥ゆかしいというか、とにかく素晴らしいです(コロナじゃなかったら、会長!飲みに行きましょう!)

 

こんな素敵なスタートを切った4月28日でした

議会の話です

今日は第二回定例会(臨時会)でした、ざっくりと紹介します

まず改選後初めての議会だったので、課長さんたちの自己紹介

→議長選挙があり、投票の結果 太田11票 米良4票で太田議員が議長となりました

→副議長選挙です、投票の結果 岩切10票 米良5票で岩切議員が副議長となりました

→議会運営委員会の構成(今回は5名)と委員長副委員長決めが行われ、私が委員長、米良議員が副委員長となりました

→常任委員会の構成です 総務委員会 委員長黒木議員 副委員長森議員 太田議員 村上議員 井上久昭議員 

文教厚生委員会 委員長荒川議員 副委員長壱岐議員 米良議員 狩野議員 岩切議員

産業建設委員会 委員長井上司議員 副委員長浦田議員 田爪議員 中武議員 そして私橋口

となりました

本日特別委員会が一つ決まりました、新田原基地対策調査特別委員会 委員長中武議員 副委員長井上司議員 森議員 浦田議員 岩切議員

議会報編集委員会 委員長橋口 副委員長村上議員 森議員 壱岐議員 浦田議員 荒川議員 黒木議員 狩野議員

議員提要委員会 委員長橋口 壱岐議員 浦田議員 米良議員 田爪議員 荒川議員 黒木議員 狩野議員

選挙で選ばれるのが二つあります 西都児湯環境整備事務組合 太田議員 米良議員 一つ瀬川営農飲雑用水広域水道企業団議会議員 太田議員

議案が4つ出されました

質疑と反対があり3つは全員一致 一つは賛成多数で決しました

議会監査が市長から出されました、市長は田爪議員を選任し、賛成8 反対5(議長と田爪議員は裁決に参加しないので13名)で田爪議員が監査となりました

以上が本会議です

 

その後各委員会が行われました

いよいよスタートです、新人議員はすべて副委員長となり、しっかりと議会の仕組み、そして議員の仕事を学んで頂ければと思います

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今日の活動、会派室引っ越し、明日臨時議会、写真の話(好きな写真集・・昭和)

2022-04-27 20:47:45 | 日記

代表者会によって明日の臨時議会の確認が行われました

私の所属する新緑会は岩切議員に出席していただきました

明日、議長副議長をはじめ常任委員会委員構成及び委員長等が決定します

そして、いよいよ新たな議会が船出をすることになります

 

女性が2人増え3人にそして新人議員は皆若く、議会が活性化することになるでしょう

楽しみですし、新人議員に負けないよう頑張っていきます

 

午後は会派室の引っ越しをしました、今回議長室の隣が会派室になりました

資料等を動かしました

新たな部屋です、やる気が出てきます

明日臨時議会です、決定事項についてはこのブログで報告していきます

 

さて写真の話ですが、好きな写真集がいっぱいあります

折を見て紹介していきたいと思いますが

今日は沢渡朔さんの「昭和」です

 

沢渡さんの写真、特にポートレートは被写体との空気感が好きで、結構集めていました

その中でもベスト(私にとってです)が「昭和」です

グラビア写真に出るような、決してスタイルが抜群に良いわけでも、また超美人というわけでもない

伊佐山ひろ子さんという女優がモデルです

 

オールモノクロ写真でそして生々しいエロチズムが香ります

ブログでは紹介できない写真ばっかり(でも見てもらいたい)です

本屋さんではもう手に入りませんが(古書店では結構高額で販売されていることもあるようです)

機会があれば、是非見てください

作り物でない、女のエロスを女優伊佐山ひろ子さんが演じています

 

どうしても見たいという方は私の写真部屋でお見せいたします

 

実は生のプリント見たいと、東京新宿で写真展があった時、行こうと思ったことがありましたが

残念ながらかないませんでした・・・

オリジナルプリントを見てみたい、今でも強く願っています

 

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今日の活動、写真の話(森山大道さん)

2022-04-26 23:59:05 | 日記

交通安全挨拶運動を終え、宮崎市に向かいました

昨日出来なかった決裁書類が

机の上に3つ山で存在していました

ひとつづつ目を通し、確認し、お昼過ぎに終わりました

西都に戻ったら、妻のアッシー君役目が待っていました

 

最近写真の話を続けていますが・・・評判イイんだろうか?

書きながら、心配していますが・・・でももう少し紹介したい写真家が

いるので、議会活動が始まるまで書いてみたいと思います

 

今日は森山大道さんです

モノクロでハイコントラストなスナップ写真で人気があります

その人気は海外まで広がっているようです

ドキュフォトで森山さんの写真展を宮崎で開きました

芥川さんたちと一緒に東京でお会いしました

あのハイコントラストな写真では想像できないくらい、相手の事を思いやる方でした

 

森山さんと会うことになって、待ち合わせ場所を新宿に決めました

指定された場所は紀伊国屋書店の4階でした

それはもし待ち時間が長くなっても退屈しないようにという、森山さんの優しさでした

待ち合わせの時間より少し早く来られ、森山さんの行きつけの喫茶店でお話をしました

 

帰り際、写真を撮らせてくださいと頼むと

その時やっていた荒木経惟さんと森山大道さんの共催写真展「新宿」のポスターの前で

ポーズを取ってくれました

わたしの「東京巡礼」の最後のページは森山さんのこの写真です

実はその時ドキュフォトの宣伝に使えたらと、オリジナルプリントを預かりました

写真ファンなら誰もが知っている、

森山さんが焼き付けた、4号紙にコントラスト高めにプリントされたオリジナルプリントでした

預かるとき手が震えました、素晴らしい焼き技術でした(そして、なんせ彼のオリジナルプリントは超高額です)

 

宮崎の写真展は「ブエノスアイレス」でした

森山ファンなら知っての通り、彼はコンパクトカメラでスナップします

それを全倍以上にプリントされた作品がずらっと並びました

これは当時エプソンが森山さんの写真のために開発された印画紙で表面がすごく繊細なものでした

それで飾りつけは東京から専門業者(フレームマンだったと思うけど)が来て、いまだかつてないほど緊張した展示作業でした

 

出来上がった「ブエノスアイレス」を見たとき、この写真展に携わった事ったことを

写真の神様に感謝しました

 

 

 

 

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今日の活動、写真の話(写真家 東松照明さん)

2022-04-25 20:59:17 | 日記

妻萬公園前交差点(妻北小前)での交通安全、挨拶運動から今週もはじまりました

新学期から変わった集団登校班編成にも慣れてきたようです

子供たちの笑顔に余裕を感じます

 

終了したら市役所に行きました

先日会派届が終わり、新たな会派の代表者が集まり代表者会議を行いました

内容は常任委員会の希望等会派の考えを聞くことです

お昼前にほぼ決まりました

この案を持って4月28日に予定されている臨時議会に臨みます

決定次第皆さんにお伝えします

 

代表者会議が終了したらすぐ宮崎へ

県宅連の第1回理事会が行われました

5月の予定される総会の準備等です

 

終了したらすぐ西都に戻り、選挙事務所の片付けです

選挙の書類は、妻がまとめてくれて提出したとの報告を受けました、

妻には頭が上がりません

 

さて写真の話の続きですが、東松照明さんという写真家知っておられるでしょうか?

写真を少し齧った方なら神様のような存在に思うはずです

東松さんの写真集は何冊も持っているのですが

この写真集は有名です

「太陽の鉛筆」という写真集です

なかなか手にはいらない写真集ですが、偶然私のもとに来ました

 

沖縄から東南アジアまで撮った写真集ですが

私はモノクロで撮った沖縄が好きです

「・・・宮古では、一層頻繁に使われる慣用句が他にある。それは「さびしくないか」だ。僕は、宮古に移住してまだひと月にしかならない。が、この言葉を何度耳にしたことか。~略~ ・・・だから「さびしくないか」と問う事は、相手への思いやりと同時に共生感の自己確認でもある。しかしこの問いが、後に続く行為を内包しているからには、単に挨拶言語にとどめてはならぬ。要するに寂しさを思想化することだ。」

(太陽の鉛筆の中の波照間島の写真に続いて書かれた文章の一部)

太平洋にぽっかりと浮かぶ一群の雲の写真を見ていると

写真家(東松さん)の覚悟と寂しさを感じます

東松さんは引っ越しをものすごくされている方で、その場に移住し一時定着して写真活動をしていました

 

私がお会いしたのは長崎在住の時でした

(芥川仁さんと東松照明さん・・・キャビネに焼いたプリントを部屋のロッカーに磁石で貼っています。バライタ紙ですからカールしています)

 

30数年前名古屋にいたとき、ある地主さんと知り合いました

私が写真に夢中であることを知ると、その方「東松照明って写真家知っている?」

私「はい、何とか・・・(この時はそこまで詳しくは知らなかったけど、有名な写真家であることはわかった)」

「東松は同級生でね・・・・」とお話を聞かせていただきました

東松さんは中部地方出身です、大学は愛知大学だったと思います

 

その後ドキュメンタリーフォトフェステイバル宮崎の招待作家としてお呼びすることになり

芥川さんたちと長崎を訪れました(その時のことは長崎という写真展にまとめました)

東松さんの事務所の前で撮った写真が上の写真です

 

写真展の話はスムーズに進み(東松さんはドキュメンタリーの発起人でもあります)

東松さん行きつけのカレー屋さんで一緒にカレーをいただき

写真の話をするという夢のような時間を過ごしました

 

宮崎に来た時は、私が運転して綾を案内しました

2005年の表彰式でもお会いしました

(東京巡礼の中の一枚)

東松さんの写真は結構難解です、が写真家(例えば森山大道さんとか)があこがれる写真家という存在でした

日本の写真界のレベルは高いと言われますが、その礎を作った方だと私は思います

 

 

 

 

 

 

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今日の活動、写真の話(普通の日々)

2022-04-22 20:31:59 | 日記

いつものように交通安全挨拶運動をしていると

南の方角から、品のある方が歩いてきます

川井田教育長でした

私の顔を見るなり、「朝ここに来ると会えると思って」

今年度、将来の教育についていろいろお話しさせていただきました

教育は私の議員活動のテーマなのでとてもありがたいです

 

終了後は市役所に行き、今月末に行われる臨時議会について会派で話し合い

お昼ご飯を食べて、宮崎に向かい担当者会議

今年度初めての会議でした

会議終了後自分のパソコンで少し仕事をして、西都に戻りました

 

さて議会が本格的に始まったら、いつものようにこのブログで紹介していきますが

今は少し趣味、つまり写真の話を続けます

 

昨日のブログで3人の写真家に影響を受けたことはお判りでしょうが

一年に数回やっている写真展でも色濃ゆく表れています

 

写真展には、必ずこの写真展に向けての思いを書いています

今日は「普通の日々」と題した、妻の写真だけの写真展での文章を載せます

それでは

 

         普通の日々      写真展モノローグ                                      

 突然カメラが好きになってしまった。それはもっぱら精密感のあるメカとしてのカメラに対する物欲と、すいこまれるような深いコーティングの色をしたレンズに対する物欲であった。

 ある時、古本屋で一冊の写真集を買った。それは11PMやトゥナイトという深夜番組によく出ていたアラーキー(荒木経惟)の本だった。「わが愛陽子」というのがその本だった。その中にある、なに気ない日常の中の陽子さんにひかれ、そしてそれを撮ったアラーキーにあこがれた。愛を撮るってこういうものだと思った。この時から私の指向はカメラから写真そのものへシフトしていった。
 カメラ、写真は昔から興味はあった、実際初任給を使いペンタックスのKMというカメラを買った(10回ローンを組んで)、自分の家族のアルバムをよく見ていた、そこには写っているそのもの以外の空気感、それに関連する出来事(音楽が聞こえる錯覚さえする)を思い起こさせた。アルバムを見て記憶の中の時間を彷徨い楽しんだ。                       

 中学、高校は男子校だった。爆発するかのような思春期に回りは男ばっかり、かろうじて話す異性は母と妹と図書館の職員さんぐらい。こんな環境にいると女性への見方は変わってくる。つまり、女性を異性だと必要以上に強く認識してしまう、性差を超えた友人関係を作れず、無関係か一気にガールフレンドといった両極端に走るのだ(僕だけ?)。                  

 学院生は女性の見方が汚れを知らない聖女か、性の天使(極端ですが)の2方向しか見られないから、相手の女の子に呆れられ、たいていダメになる。普通の異性の友人関係を作りにくい人種なのだ。(女子校はどうだったんだろう、聞いてみたい)                             

 そんな不幸な青春だったが、入った大学がミッション系の文化系大学。当然女子学生は多いし(半分以上、その上女の子は真面目に学校に来るけど、男は余りこないからキャンパスは女の子ばっかし・・・うーんパラダイス)やっと春がきた、spring has come。                      

 僕と同世代はブル-ス・リ-と空手バカ一代の洗礼を受けていると思う。当然ミーハーな僕はもろにその波をかぶっていた。                      

大学の体育会所属の部はどの大学でも厳しい練習をしている。理屈が通る練習ならまだ良いが、通らない(通っていても、理解できない)部がある。応援団と空手部である。                           

 入学式が終わり、一通りのガイダンスが終わるとそこら中、新入部員確保する為、先輩達がうようよいた。バカな僕は空手着を着ている人を見つけ、入部したい旨を告げた。練習は毎日だが練習時間はそう長くなく、先輩もいい人みたいだし、何より経済学部の教授が顧問でほぼ毎日練習に来る(部は松涛館流だったが、先生は流派が違い細部の技が異なっていた)達人という噂があったし、何より温厚そうに見えた、で幸せな2週間が過ぎた。          

 通称洗礼(ミッション系なので)という行事が4月の後半にある。それまでお客様扱いされた新入部員が、身を清めなさい、神(先輩、OBの事)の子になるんですと洗礼をうけるものだが、本当の洗礼なら聖水とパンとで行うだろうが、空手部の場合、聖水が突きで、パンが蹴りなのだ。 

 有り難いことに2時間それを浴び続けた。あまりのことに助けを求めようとして教授を見たが、優しい目をして、うなずいて・・・・新入部員の半数以上が退部した。    

 もう一つ重大なことに気が付いた、空手部には女の子が一人もいないのだ。女子の多い大学で女子部員がいない・・同じ武道系でも柔道、剣道、少林寺にはいるのに、なんてこった。結局男だけの部は空手部とメールクワイヤー(男声合唱団)だった。                           

 大学一年の時、栄(名古屋の繁華街)に、応援団の木村と一緒にいた、前のほうから同じ大学の少林寺の女子部員らしい2人が歩いてきた。どこの大学でもそうだと思うが、武道系の部は、タテのつながりが強い(異なる部でも先輩には礼をかかさない)僕達は彼女たちを先輩だと思いアイサツをした。彼女を初めて認識したのはこの時であった。                   

 中学、高校、そして大学まで飢餓状態にあった僕とずっーと男女共学の彼女、戦いの結果は火を見るよりあきらかである。                     そんなこんなで大学時代付き合い続け、付き合ったら結婚しなくちゃと思っていた僕は、それを彼女に言い続け、大学を卒業して2年後の1981年3月に結婚した。                              

 結婚して住んだマンションはメゾンカリという所であった。新婚旅行を終えてマンションに帰ってはじめて、2人でむかえた朝のことを妙に覚えている。朝起きてみると、今から住み続ける部屋に彼女がいる。この状態が今からずーっと続くんだと不思議な感覚にひたっていた。                

 ゆっくり流れ、またなんて事のない日常の中にこそ、大切でかけがえのないものはあるんじゃないかと思う。    

 義父と酒を飲みながら話をした。彼女が5才か6才の時、今池(名古屋の繁華街)のパチンコ店に一緒につれていったことがあったそうだ。パチンコに夢中になり彼女がいなくなっているのに気付かなかった。あわてて、いろいろ探したけど、なかなか見つからなかった。夕方も近くになり、家の近くの公園に行ってみると、ペタッと座り込んで猫とじゃれている彼女を見たそうである。夕日を浴びて、あきもせずにずっと猫と遊んでいたそうである。私は言葉で聞いただけであるが、まるで自ら見たようにその情景を感じることができた。                                        

笑顔の写真は後でみると切なく感じてしまうのは何故なのだろう
名古屋で生まれ育ち、子供の頃は宮崎に住むことなど想像もしていなかったに違いない。何の因果か僕と知り合い今一緒にいる。            

村上春樹さんの「パン屋再襲撃」の中に次のような文章がある。 
「僕は彼女がひどく気の毒に思えた。彼女は間違った場所に置き去りにされたのだ。もっと別の場所にいれば、あるいは彼女はもっと幸せになれたかもしれないのだ。」
 
 あのとき栄で会わなかったら、彼女は別の人生を歩き今よりもっと幸せになっていたかもしれない。時々そんなことを考えることがある。 考えても仕方がないことなんだけど・・・                              

 永遠に続くことなんてありゃしない、別れ、死は訪れる。         
 古来多くの人が「死を忘れるな」という警告を発してきた。ヨーロッパ中世の絵画には、通常の絵の隅にどくろを描いて死を思い起こさせる趣向のものがある。
 このように警告が鳴らされるには理由がある。死を忘れていると、生きていることのありがたさを忘れてしまう。死に直面するとき、はじめて人間は生きることの大切さを知る。それまで、異性に恵まれていない、脚が短い、金が自由にならない、病気ばかりしている、と不平ばかりいい、目先の利害に一喜一憂している人が、死を意識すると一時的に真人間にもどり、それまでの生活を悔い改め、自然の美を見出し、人類愛に目覚め、脚が短いことにも感謝するのである。人間が愚かな行為をするのは死を忘れているからだ。死と向かい合って生きるのが人間のあるべき姿である。こう考えられるのだ。            

                                        哲学者の土屋賢二氏の言葉より。・・・メメントモリ                                         長いようで、あっという間に30年たってしまった。
 色々あったけど、普通の日々こそが、かけがえなく、大切なものだと思っている                                                                                          橋口登志郎          
                        2011年3月15日

 

結婚して30周年を記念した写真展

 

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