西都モノクローム

西都大好きな市議会議員が、徒然なるままに街のこと、写真のこと、空手のこと語ります。

究さん

2011-03-31 22:52:59 | 日記
ブログを初めて、ほとんど毎日更新しています(えらいでしょう、エッヘン!)
只、困ったことが生じ始めました。
私は凡人です、そんなに私の周りでおもしろおかしく書けることなんぞ、そうそう起こりません。
いきおい、昔話とか記憶に頼った話になります。

20歳を過ぎると、脳細胞がとんでもない勢いで消失するとか言われています。
何が言いたいかというと、前に書いたことを、スコーーツと忘れて、初めてみたいに書いてしまわないかと言うことです。
これは怖いし、またどっかで書いたな・・と思っていても、改めて自分のブログを確認する律儀さなんぞ、さらさらありません。
と言うことで、「あれ?どっかで見たぞ(怒)」などの批難に耐えうる精神力なんてございませんから、「初奴よ(ういやつよ)」という、大様な気持ちでこれからも読んで頂くと幸いです。

昨日は平和台の池辺さんのお店で講演会があったので、妻と一緒に行きました。
講演者は黒木究さんです、西都出身です、癖があります、でも天才です。
「潜空服職人は語る」でファンタジーあふれる話を聞いてきました。
究さんは一言で言うと、「自分に正直な人」です。
彼の「潜空服シリーズ」はNHKの熱中人という番組で何度も紹介されていました。
この「潜空服」の発想、ディテール、物語性は正直凄いの一言です。

アルテデシンコというさいとの美術集団があり、私は毎回展覧会を楽しみにしていました(毎年宮崎県立美術館でおこなっています)。
ある年、究さんは「潜空服」を出品しました、それを見た私は「ガ~ン!・・」です。
凄い表現者だなと、刮目しました。

その後、夢たまごの運営や、「39枚の年賀状」(究さんは美術監督、私はステール)で親しくさせてもらっています。
西都という、地方都市では息苦しいだろうなと、彼を見て思っていました。
幸い「映画」というステージが与えられたので、これからの活躍が楽しみです。

講演会ではMRTのクルーが来ていたので、何らかの番組になる模様です(楽しみ)

このブログを見ている皆さん、もし機会があったら「潜空服」という作品展があったら是非足を運んでください。
何かを感じるはずです
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非常勤の国家公務員

2011-03-30 22:57:20 | 日記
題名はかっこいいでしょう、何か秘密諜報員ジェームス・ボンド、殺しの番号007を持つ男を連想しませんでしたか。

これは保護司の身分を表しています、給与は勿論無く、ボランティアでの活動です。
保護司については、いつか機会を見つけてお話ししようと思っていますが、なかなか大変な仕事(無給だから仕事?)です。

私は街中にいるものだから、常に複数の対象者を抱えています。
西都西米良で30名ほどの保護司がいますが、対象者が西都西米良全部で14.5人のとき私が5人ぐらい持っていたことがありました・・・なんてこった。
でも、対象者とのふれあいの中で私自身が成長することもあるし、勿論悔しい事もいくつかありましたが、それより感動したことの方が多いと思っています。

保護司に誘ってくれたのは、今は亡き高橋順海先輩でした。
順海さんが西都JCシニア会の会長だったとき、私は事務局でいつも一緒に行動していました。
延岡で大会があった帰りに「toshiro君にしか、頼めないことがある・・・考えてくれ」と言い方は優しいけれど、有無を言わさぬ頼まれ方をしました。
JC(青年会議所)はある種、体育会系みたいな部分があり(そこが私が、好きな要因ですが)、先輩の命令は断れない(いまは、そうじゃないかもしれないけど、私たちの頃はそんな雰囲気が・・)環境なのです。

順海さんは大好きな先輩で、尊敬もしていました。
その先輩がわざわざ、頼むのだから、私にとって悪い話じゃないはず、と信じ「保護司」がなんたるか知らないうちに、「わかりました」と返事してしまいました。
返事をしたら、即OKと思ったんですが、その後前科を聞かれたり(幸いなことに前科はなかったです)、交通違反した?なんて聞かれたり・・「いったい、保護司て何?」てな感じでした。

この3月で、あれから10年になりました。
時の経つのは早いものです、「天国の順海さん何とかがんばってますよ」てな感じです。

さて今日の話は、保護司の研修が結構役に立つという(おーい、当たり前じゃないか!・・という声が)話です。
昨日は面接の技法という研修でした。
その中でこのような文に出会いました。
「本当の権威とは、支配・服従や一方的な指示にはない。相手が納得してこそ本当の指導・指示」というものです。
これには反省です、実は空手を指導していて思ったのですが、子供たちがだらだらしている時、やかましく怒ると、私の目の前では直るのですが、見ていないとまた、だらだらします。
稽古していると、目で私の目線を追っている子もいます、目線が合えば「うりゃー!」と力を入れますが、目線がはずれれば力を抜いています。
私は今気づきました、彼らが悪いのでない、悪いのは「君たちを納得させれなかった、私の指導不足」だと・・。

私が見ていようが、見ていまいが、自らの稽古を必死でやる子供たちを育てきれる指導をしようと、誓った私なのです。

そこで先の文章でした。
そういえば山本五十六さんも
「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ。
話し合い、耳をかたむけ承認し、まかせてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」
と言っていました。
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鬼ごっこ

2011-03-29 18:09:54 | 日記
男の子なら、誰でも一度は夢中になる「鬼ごっこ」という遊びがあります。
私の道場でも試合の次の日はレクレーションとして、子供たちにリクエストさせて行っています。
その中で人気はドッジボールと鬼ごっこ(こおり鬼という奴ですが)です。
幼稚園生から小学校の小さな教え子が夢中になって遊ぶ姿はほほえましいものです。

今、保護司研修と市議会報の委員会を終えて、家に帰ると、でっかい影が家の周りを走りまっわています。
「キャオキャオ」言って、ものすごいスピードで走り回っているのは、ご存じターボとその同級生たちです。
高校2年になろう彼らが、ハアハア言いながら鬼っごこしている姿は、一種異様です。
おっと、今PCを打っている部屋の窓の横を走り去った男はサッカー部のS君です。
やはり良い走りをしています・・・、おっ続けて興奮した3人がドタドタと・・。

遙か38年前、父は鬼ごっこなんて子供っぽい遊びなんかしてなかったぞ。
いつも女の子のことしか考えていなかったぞ・・・うーむこれも問題か・・。

「普通の日々」の一コマでした
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想像することでつながる

2011-03-28 15:38:18 | 日記
日本は東西にも南北に細長い国土です、東日本大震災で被災された東北と宮崎ではあまりに距離があります。
新聞やネット、TVで被害状況を知るにつけ、動けない自分にいらだちがあります。

混乱している現地、燃料や食料の不足している現場に、やることが明確に決まっていない状況で入るのは、さらなる混乱を招くだけです。
神戸の時は、ボランティア団体からどこどこの地区のこの作業が必要とされていると、青年会議所を通じて連絡が来たし(神戸までは公共交通機関でいけました、範囲が割と限定的でした)、昨日ブログに書いた、平成17年の台風被害はダンプを持っている方が、被災地で後かたづけというものでしたし(一週間近く、走り回ってました)、昨年の口蹄疫では殺処理される牛を柵につなぐ役目が有りました(殺される運命の牛のつぶらな瞳が忘れられません)。

今回は遠いということ、議会人ということ(議会中は動けないし、議員としての援助方法がある)、何を必要とされているかわからない、そして何より私に特技(医療、介護など)がないのが残念です。

気持ちばかりが焦っていますが、そんな中で有る記事を見ました。
3月19日付けの朝日新聞で、映画監督山田洋次さんの「想像することでつながる」というものです。

特に書き出しの部分が腑に落ちたので、書きます。

「東日本大震災で、大きな悲劇の中にいる人たちに、僕が何を伝えたらいいのか分かりません。
家を失い寒風にさらされている人に、海に襲われて水の中で果てた人に、東京の家の中から何かを言う事なんて・・・・とてもできませんよ。
こんな時、自分たちに何が出来るのかという声をよく聞きます。
それも大事だけど、被災した人たちの悲しみや苦しみを、僕たちはどれくらい想像できるのか。
そのことがとても大事だと思うのです。
現地の人たちの心の中をどれくらいイメージできるのか、自分に問いかけ、悩む。
そこから学び取れるではないでしょうか。

ー(中略)政府へ問題が有れば抗議の声を上げる、との内容や阪神大震災の後、寅さんの映画を地元に人々の希望で、被災地で撮ったことが書かれています。そして最後は次のように・・・ー

被災地とは全く比較にならない苦労ですが、関東地方では今停電が起き、通勤電車には長蛇の列ができています。大勢の人が、愚痴も文句も胸に納めて、整然と、黙々と行動しています。
遠くで厳しい現実に耐えているたくさんの人たちのことが、頭の中にあるからではないでしょうか。
貧弱な想像力を懸命に働かせて、被災地の人たちを思い続けたい。
そうすることでつながっていたい。
いまはただ、そう思っています。」

というコラムでした、読んでズンと胸に来たし、救われた部分もありました。
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写真展終了

2011-03-27 23:03:18 | 日記
おかげさまで、写真展無事終了しました。
たくさんの方に来て頂きました、写真をやるものとしてホントに幸せな2週間でした。

期間中、東北地方関東大地震があり、一市民としてまた一議会人として何ができるか考え続けた期間でもありました。

「写真の力」について考えることがあります。
これはドキュメンタリーを中心に置く私の考え方なので、そのように思って読んでください。
写真は一言で言うと「記憶」だと思っています。
「記憶」だからこそ、真の意味で力を持った写真は時間の積み重ねが、さらなる力を持ちます。

ダムで沈むことが決まった村で、今までカメラなど持ったことのないおばあさんが、生まれ育った村を何かの形で残したいと思い、自分の身の回り、近くの人を撮った写真集を見たことがあります。
それは、勿論私が行ったことのない村でしたが、その写真は私に「郷愁」という思いを持たせてくれ、その何ともいえない感傷は私の中で私の記憶と同化し、感動をさせてくれました。

アジェの写真集を見ていても、そのような感情が起こりますし、エルスケンの写真の中の若者の姿は、私にやはり若かった頃の無軌道さ(と言ってもたいしたこと無いけど、無軌道さという言葉に惹かれていると思ってください)を思い起こさせてくれ、鼻の奥が「ツーン」とします。
最近では大西みつぐさんの写真集がそのような思いをさせてくれました。

写真というのは、表現の媒体としてわかりにくいなと、やっていながら思ってしまいます。
もっともわかりやすいのは「音楽」でしょう、そして「映画」「小説」などと続いていきます(これはあくまで、私がという事です)。
何故なんだろうと考えていくと、写真だけはその場にいないと存在しきれないものだからです。
自分の頭で作り上げることの困難な表現です、それはカメラを持っている自分の前で起こったことしか、自分の表現として利用できないからです。
だからまともな(?)フォトグラファー(カメラマンという言葉はムービーを示す)は自分の写真に他人がキャプションをつけて出すのを嫌います(ユージン・スミスとライフの葛藤は有名です)、他人の頭の中のシナリオに(そのシナリオが自分と違っていたらなおのこと)自分の写真を使われるのが我慢できないのです。

私は写真集が好きで集めてもいますが、好きなのは写した写真家が構成編集したものです。
そこには血が通っています。
勿論、この考え方には異を唱える人が結構いて、構成はその道のプロ、編集もプロにまかせた方がよい写真集できる言われましたし、ひょっとすると写真家自身が気づいていない魅力を見つけることがあるかもしれないと言うものです。

それを聞くとすぐに納得してしまいます(根が単純と言う事もありますが)、でもライフの潤沢なマネーを断って自分の道を行こうとしたユージン・スミスに惹かれるのです。

写真の力は記憶だと言いました、写真が無くなると、思い出が消えてしまう気がするのも事実だと思っています。
平成17年に西都市は大洪水に見舞われ、ある地域はほとんど全滅状態になったところもありました。
私は建築業のボランティアで被災された方の家の片づけをしました、その時被災された方が何より一生懸命探されていたのは写真アルバムでした。

家財はいや家だってがんばれば、買い直すこと、立て直すことができる、でも写真は撮り直すことができない、「写真が無くなってしまって、今はね、まだ思い出せるのよ・・、でも時間が経つとどんな顔だったか忘れてしまうのが怖い」そんなことを聞きました。

今回の大震災でもそうです、水に濡れたり、傷ついたにしろ写真が残っていることは、勇気を与えてくれるのじゃないかなと思っています。
写真をやっているものとして、なるたけ多くの写真が持ち主の元に戻ることを願ってます。

数年前「相模原写真フェスティバル」にパネラーとして参加したとき、パネラーの一人が「デジタルが中心となってくるでしょうが、写真は紙焼きで残してください。PCに入れっぱなしとかCD(思ったより早い時間で、消えてしまう可能性大)のみだとかじゃなく、アナログですがプリントして残して欲しい・・・」と強く言っていたのが記憶に残っています。

今日写真展の写真を片づけしながら、いろんな事を考えました。
「写真とは何か?」をいつまでも思索していきます。

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